◎親鸞は「造悪」を否定していない
昨日のコラムで、「親鸞の造悪論観は、もともと、きわめてラディカルなものであった」と述べた。このことについて、少し補足しておこう。
ただし、この補足は念のためにおこなうものであり、当コラムですでに述べた(七月二六日、および二八日)内容と、一部重複することをお断りしておく。
親鸞の「造悪論」観を捉えようとする場合、カギになるのは、やはり『歎異抄』第十三条の読み方である。
親鸞の存命中、悪人こそが往生できるという、いわゆる「悪人正機説」〈アクニンショウキセツ〉を知った者のなかに、極楽往生を望むあまり、わざと悪いことをする(造悪)ものがあらわれた。そうしたものは、「本願をほこって悪をおそれない者」であるとして、これを非難する「本願ぼこり」という言葉が生れた。
『歎異抄』第十三条のテーマは、この「本願ぼこり」である。第十三条は、『歎異抄』の中でも、特に難解なところであるが、その趣旨を一言でいえば、「本願ぼこり」を非難できるような人はいない、アミダ信仰の本質は、「本願ぼこり」にあるということなのである。あまりに大胆な主張であるが、何度読んでも、そういうことになるのである。親鸞の「造悪」=「本願ぼこり」に対する捉えかたは、最初から、きわめてラディカルなものであった。
たしかに親鸞は、極楽往生を望むあまり、わざと悪いことをする(造悪)人々に対し、「くすりあればとて毒をこのむべからず」(毒を消す薬があるからといって、わざわざ毒を飲む必要はない)と言ってたしなめている(同条第三節)。
しかし(ここが重要なところなのだが)、彼らのことを「本願ぼこり」という言葉で非難することはしなかった。むしろ、「願にほこりてつくらんつみも、宿業のもよほすゆへなり」(本願にほこってつくった罪にしても、やはり宿業によるものなのだ)と言ってのけたのである(同条第五節)。人間が故意に(主体的に)おこなった行為も、その当人の主体性を超えたものによって規定されている。それゆえに非難することはできないという考え方である。
それだけではない。親鸞は、『歎異抄』第十三条第六節において、「本願ぼこりといましめらるゝひとびとも煩悩不浄具足せられてこそさうらふげなれ。それは願にほこらるゝにあらずや」と語っている。梅原真隆の現代語訳によれば、これは、「本願にほこって悪いことをしてはいけないと警めなさる人にしたところが、煩悩〈ナヤミ〉も不浄〈ケガレ〉もみんな具えていて、現に悪いことをしていられるではないか。それがそもそもそも本願にほこって居られることにならないか」という意味だという。
すなわち、親鸞は、他人に対して、「本願ぼこり」というレッテルを貼って非難する人に対して、そういう人こそが「本願ぼこり」ではないかと非難したのである(ここも重要なところである)。これは、完全に「造悪」肯定論だという以外ない。
多羽田敏夫氏は、「吉本の造悪論に対する解釈は、オウム事件を契機に一層ラディカルに変容している」と捉えた(昨日のコラム参照)。私は、この捉えかたは違うと思う。親鸞の「造悪」=「本願ぼこり」に対する考え方は、もともと、きわめてラディカルなものだったのである。オウム事件以前の吉本は、そうした親鸞のラディカリズムを充分には捉えていなかったのではないか。【この話、もう少し続く】