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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「偉人」野口英世から「異人」野口英世へ

2013-08-18 07:55:17 | 日記

◎「偉人」野口英世から「異人」野口英世へ

 昨日まで、三回にわたって、野口英世伝とそれにまつわる「神話」の問題を採り上げたが、本日はその補足である。
 昨日、尾崎光弘さんからいただいたメールによって、以下のような事実がわかった。
 雑誌『ながはま』第二二号(一九九六年一一月九日)に掲載された尾崎さんの論文「野口英世『物語』の発見」は、その後、『今ふたたび 野口英世』(愛文書林、二〇〇〇)に収録されたという。この本は、雑誌『ながはま』の終刊後に、その発行者である「野口英世博士ゆかりの細菌検査室保存をすすめる会」が自費出版したものという。
 さらに、この『今ふたたび 野口英世』は、その後、小暮葉満子・田崎公司編『野口英世 21世紀に活きる』(日本経済評論社、二〇〇四)という形で再刊されたという。
 すなわち尾崎論文は、このような形で、多くの読者・研究者に触れていたわけである。「週刊 日本の100人」『野口英世』の執筆者は、おそらく、『今ふたたび 野口英世』、あるいは『野口英世 21世紀に活きる』のいずれかを参照し、尾崎論文に目をとめたのであろう。ちなみに、今、書店の店頭におかれている「週刊 日本の100人」『野口英世』は、改訂版であって、初版は、二〇〇七年六月に出た「七〇号」である(未見)。
 さて、昨日のコラムで私は、尾崎論文を「野口神話を相対化し、解体する大胆な作業であった」と位置づけた。これでは、言葉が足りなかった。このことについては、尾崎論文から、以下の部分(一〇~一一ページ)を引用することで、説明に替える。特に、野口英世を「異人」として捉えている点、「母シカの語られ方」に再考を求めている点に注目されたい。

 野口復活のきっかけは、やはり筑波常治の『野口英世』(講談社現代新書)ではなかったろうか。広い読者層を維持するこのシリーズで再版〔増刷〕されたことの事実は小さくないと思われる。この本では、従来の世のため人のための立身、身を立てるための忍耐と努力という面は影をひそめ、かわりに名声のための忍耐や努力があらわになっている。読む側に伝わるのは、立身ではなく野心である。それゆえに彼の人間像も欠点の多い人物として提示されているが、反面、あたたかい援助者に生涯を通して恵まれる魅力的な人物と描かれている。一言でいえぱ、偉人ではなく、異人として描かれているのである。異人とは、世間からはみ出しているけれどもそれゆえにパワフルな人物たちの記号である。
 偉人から異人へ。礼讃型の野ロイメージから割に自由だった人たちは筑波の本から、こんなメッセージを受け取ったのではないだろうか。何のために忍耐し努力するか見えにくくなった世相のなかで、狭い世間や日本を顧みず一直線に突き進んでいった野口の生涯に人々が魅了されたとしても不思議はない。
 筑波の本のメッセージをうけとめ、より詳しい伝記小説に仕立てたのが渡辺淳一著『遠き落日』(角川書店、一九七九)だと思われる。これは文庫本化され九十年代に入り映画の原作にもなったために、たくさんの人びとに読まれたと予想できる。したがって異人・野口英世像はかなり世の中に広まったとかんがえていいのだが、ひとつ映画の問題がある。タイトルは同じでも内容から受ける印象は、渡辺の原作本とはずいぶんと隔たりがあったからだ。この映画の脚本を提供した新藤兼人は、脚本化のために『ノグチの母…野口英世物語』(小学館、一九九二)を子供向けに書いた。すなわち渡辺の原作における逞しい異人・野口像は、映画になってみると、すっかりどこかに押しやられ、ストーリーはたくましい母と情けない失恋男の物語にすり替わってしまっている。ちなみに映画『遠き落日』はその年の興業成績がトップだったと聞いているが、これではせっかくの異人像も牙を抜かれてしまう。
 母モノの得意な新藤兼人などに脚本を任せるからだろうが、どうしてこんなことになってしまうのか考えなければならない。一つは、母性が本能などではなく物語=神語に過ぎなかったことが、世相の上からもしだいに明かになってきたことに対する、反動を形成する層があったのではないかということ。もう一つは、野口英世物語における母の生き方に対しては、いまだかつて批判的な評価を下した者がいなかったこと。つまりこの母については、ほとんどの伝記作家が好意的なのである。言い換えると、野口の物語に含まれていた価値のおおかたが、七十年代以降相対化の危機にみまわれた。しかし母の価値=母性だけは無傷だったのである。ならば、これを母性神語の再編成に使わない手はない。しかし、母性を声高に主張することが、かつて兵士増産を理由に、難無く国家総動員体制にくみこまれてしまったことを知る者にとっては、これはアブナイ語なのである。母シカの語られ方も見直す必要があろう。

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