◎吉本隆明における「戦争への加担」という問題意識
昨日は、吉本隆明のいう「関係の絶対性」は、「倫理」ではなく、むしろ、「脱倫理」ともいうべき論理ではないかということを述べた。
また、吉本のいう「秩序にたいする反逆、それへの加担」という言葉について、多羽田敏夫氏のように、これを「秩序にたいする反逆、その反逆への加担」と捉える解釈もあるが、一方でこれは、「秩序にたいする反逆、あるいは秩序への加担」とも解しうるのではないかということを述べた。
本日は、あとのほうの問題、すなわち吉本の「秩序にたいする反逆、それへの加担」という言葉を、どう解釈すべきかについて述べてみたい。
呉智英氏は、その著書『吉本隆明という「共同幻想」』(筑摩書房、二〇一二)の三一ページで、「マチウ書試論」における「秩序にたいする反逆、それへの加担というものを、倫理に結びつけ得るのは、ただ関係の絶対性という視点を導入することによってのみ可能である」などの文章を抜き出したのち、三一ページから次ページにかけて、それについて、次のようにコメントしている。
つまりは、吉本隆明は、政治や歴史への反抗や加担を倫理的に問いつめたり、倫理的評価の基準にすることはできない、ということを主張したいのである。なぜならば、加担にしろ反抗にしろ、人間が自由に選択しているように見えながら、人間と人間の関係が強く関わっているからである、と。これを吉本は「関係の絶対性」と呼ぶ。
まず、注意したいのは、呉氏が吉本の「秩序にたいする反逆、それへの加担」という言葉を、「秩序にたいする反逆、あるいは秩序への加担」と捉えていることである。このことは、呉氏が、「加担にしろ反抗にしろ」という言いかたをしていることでも明白である。
この捉えかたは、多羽田敏夫氏の捉えかたとは異なるものである(昨日のコラム参照)。私は、呉氏の本のほうを、多羽田論文よりも早く読んでいたせいもあって、どちらかといえば、呉氏の捉えかたのほうが妥当ではないかという印象を抱く。
しかし今、どちらの捉えかたが正しいのかという「国語」的な問題には立ち入らない。問題とすべきは、どちらの捉えかたをしたほうが、吉本の思想の本質に迫れるかということだと思う。
呉氏のように捉える場合、吉本がこの「関係の絶対性」という概念を持ち出す際に、「秩序への加担」という問題も意識していたと捉えることになる。吉本は、潜在的であったにせよ、「秩序への加担」という問題も意識していたのではないだろうか。その場合の「秩序への加担」とは、ハッキリ言えば、「戦争への加担」のことだったのではないか。すなわち、吉本の思想の本質に迫るためには、呉氏の捉えかたのほうを支持すべきではないだろうか。
ただし、呉氏は、「加担にしろ反抗にしろ、人間が自由に選択しているように見えながら、人間と人間の関係が強く関わっている」と述べるだけで、「戦争への加担」には言及していない。呉氏の『吉本隆明という「共同幻想」』を再読した際、私はそこに不徹底なものを感じた。
七月二四日のコラムで、私は、呉氏の本について、いくつかコメントしたが、そのうちのひとつを再掲する。
一 「関係の絶対性」という言葉を思いついた際、吉本は、「戦争協力」や「戦争責任」という問題を考えていた可能性がある。つまり、ここで吉本が問題にしたかった「加担」とは、「戦争への加担」だったのではないか。呉氏のコメントを読むと、そうした可能性を想定しているようには思えない。
ここでのコメントを、詳しく説明すれば、今日のような話になる。
一方で、多羽田論文においては、吉本のいう「秩序にたいする反逆、それへの加担」が、「秩序にたいする反逆、その反逆への加担」と理解されていた。そこには、「秩序への加担」という発想そのものが見られない。もちろん、「戦争への加担」という問題意識をうかがうこともできないのである。
*この話は、まだまだ続きますが、明日は、とりあえず、別の話題に振ります。