米どころ新潟。
米菓もそれなりに多い。
米菓といえば、真っ先にせんべいが連想されるが、ほかにも、あられやおかき、柿の種などもある。
米菓の会社だって、亀田製菓、三幸製菓、岩塚製菓、栗山米菓、浪花屋製菓と、なじみのある会社名がすぐに浮かぶ。
本書は、そのうちの一社、岩塚製菓の話。
その会社の創業からの歩みや大切にしてきたこと、台湾の大手企業とのつながりを丁寧に描いている。
岩塚製菓の本社は、その名の通り、長岡市、旧岩塚村にある。
そこは大合併で長岡市になる前は、三島郡越路町であった。
私は、20代の半ばの勤務先は、三島郡内の小学校に勤めていたから、越路町や岩塚の地名は聞くと懐かしさがある。
あの辺りを通っている鉄道はJR信越本線だが、冬になると豪雪でよく運休になったりしたのを知っている。
冬になると、郡内の男性たちは、酒造りなど雪の少ない地域に出稼ぎに出なければ、生活できないような生活を強いられていた。
「この地域出稼ぎに行かなくても生活ができるような産業をおこしたい」というのが、創業者たちの強い思いだった。
昭和22年(1947年)に「岩塚農産加工場」を創業した。
農産加工品を通じて、この地域と共に生きたいという決意から始まったのだった。
苦労を重ねて、売れる商品も作った岩塚製菓に注目して、台湾でもその商品を作りたいと技術提携、技術指導を願い出たのが、当時20代の台湾の3人の若者だった。
彼らが訪ねてきたのは、昭和56年、雪の降る2月だったという。
私が三島郡に勤め始めたのは奇しくも同年の4月だったし、その行動の中心となった人物の年齢も私と同じ24歳と知って、親近感を抱きながら読んだ。
その頃は、上越新幹線も通っていない時代だ。
特急を乗り継いだって、東京から4,5時間以上はかかっただろう。
そこからも、台湾からの訪問者たちの熱意が分かる。
その彼らに対して、2人の創業者が語った言葉。
「農産物の加工品は原料よりも良いものはできない。だから良い材料を使用しなくてはならない。」
「ただし、良い材料からまずい加工品もできる。だから加工技術はしっかり身につけなければならない。いくら加工技術を身につけても、悪い原料から良いものはできない。」
この言葉が、信念として本書で終始貫かれているのを目にした。
だからこそ窮地に陥ることもあったのだが、それでもその信念に基づく選択をしてきたからこそ、岩塚製菓も台湾の企業も、窮地を脱してその後の発展につなげたのは、あっぱれ!というほかはない。
タイトルの「米を洗う」については、エピローグでその大切さが語られる。
米から作られるから、米菓という。
だが、その最初の工程が「米を洗う」つまり洗米なのは岩塚製菓だけとのこと。
他メーカーは米粉を仕入れるところからスタートする。
岩塚製菓は、洗米によって、米の詳しい性質をつかむのだという。
そして、洗米すると当然とぎ汁が排水として出るのだが、これを循環的に処理する仕組みを作り、工場のある地域を大切にしているとも知った。
中越地震や東日本大震災があっても、地域に根差し、地域を大事にすることで発展してきた岩崎製菓の話に好感が持てた。
同じ新潟県人の話として、ちょっぴり誇らしく思えた私であった。
なお、当ブログ「ON MY WAY」は、次のところに引っ越し作業を終えました。
https://s50foxonmyway.hatenablog.com/
当分の間、ここと同じ記事を載せています。