
道路元標は大正9年(1920)に国道の始まる地点を示すため当時の道路法に基づいて市町村単位に設置された標石です。
当時、全国で約1万2千あまり設置された道路元標ですが、時代と共に現存するものは少なくなってます。現存するものを歴史の証しとして記録に残していきたいと思います。なお、明治期に設置されたものについては、里程元標と呼ばれています。
・所在地 広島市中区大手町(元安橋東詰)
・建立年 明治22年(1889)
・建立者 広島市
・導(しるべ)広島市道路元標
・メモ 元標の右手前にある案内板に「このあたりは陸上交通の主要街道とし、また太田川の水運の利もあって、広島城下の中心となっていた。当時この地に高札場(※)があり、付近には馬継場や藩の公式の宿舎、御客屋などがあった。したがって、広島からの里程(みちのり)はすべてこの地から起こされていた。明治以降、県制施行にともないここに木柱で広島県里程元標が建てられたが、明治22年(1889)市制施行後は現在の石柱で広島市道路元標と改められた」と書かれています。植栽の中に埋もれるように建っていましたが、しっかり自己主張はしていました。正面に彫られた文字はかなり風化していますが読むことはできます。ちなみに英語表記はZero Mile Stoneとなっていました。
・位置図
※高札場(こうさつば)は今日でいう「官報掲示板」であり、幕府が庶民に対し、禁制や法度(はっと)等を示したものです。
当時、全国で約1万2千あまり設置された道路元標ですが、時代と共に現存するものは少なくなってます。現存するものを歴史の証しとして記録に残していきたいと思います。なお、明治期に設置されたものについては、里程元標と呼ばれています。
・所在地 広島市中区大手町(元安橋東詰)
・建立年 明治22年(1889)
・建立者 広島市
・導(しるべ)広島市道路元標
・メモ 元標の右手前にある案内板に「このあたりは陸上交通の主要街道とし、また太田川の水運の利もあって、広島城下の中心となっていた。当時この地に高札場(※)があり、付近には馬継場や藩の公式の宿舎、御客屋などがあった。したがって、広島からの里程(みちのり)はすべてこの地から起こされていた。明治以降、県制施行にともないここに木柱で広島県里程元標が建てられたが、明治22年(1889)市制施行後は現在の石柱で広島市道路元標と改められた」と書かれています。植栽の中に埋もれるように建っていましたが、しっかり自己主張はしていました。正面に彫られた文字はかなり風化していますが読むことはできます。ちなみに英語表記はZero Mile Stoneとなっていました。
・位置図
※高札場(こうさつば)は今日でいう「官報掲示板」であり、幕府が庶民に対し、禁制や法度(はっと)等を示したものです。
東京は本日も快晴。暑いくらいです。
寮にオバケ出た~って言ったらもっといい所へ移れるかしらん・・・なんちゃって。