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日本男道記

ある日本男子の生き様

15:市川鰕蔵の竹村定之進

2012年08月19日 | 東洲斎写楽撰 全40点
15:市川鰕蔵の竹村定之進

この絵は写楽の代表的傑作である。寛政六年五月の河原崎座上演の「恋女房染分手綱」に登場する役で、この役は乳人重の井の父であるが、重の井と伊達の与作との不義のため主君から暇を賜り、お能師であった彼はそのお別れに「道成寺」の鐘入の奥義を伝授することになり、妻桜木に舞わせ、自分は鐘の中で切腹して死ぬ役である。つまりこの芝居の発端となるべき場面に登場する。しかしこの役は、つねに大立者が演じ、この切腹の場はいつも評判になった場面である(現在はこの場は上演されることがなく、後の「重の井の子別れの場」の方が上演されている)。

ここに描かれた蝦蔵の顔は、いかにも印象的であるが、奇怪とみる人もある。しかし奇怪とみる人は写楽の真の芸術を理解しない人といっていい。吊上がった眉の下の眼は生きている。引きゆがめられた口もとからは今にも声がもれそうである。顔面の屈線はえぐったように鋭く、物すさまじいまでに、当時役者の王者であった蝦蔵の偉大な芸格、風貌が精一杯にとらえられている。まことに写楽の芸術の大きさ、高さを感ぜしめる。被写物の真をとらえないではいられない写楽の芸術の究極の意欲がここに結晶された思いがする。

市川蝦蔵は、五代目市川団十郎が、寛政三年に改名した名である。四代目団十郎の実子で、三世松本幸四郎から明和七年十一月に五世を襲った。ある評判記に「この上はよき薬を以て、もちっと太りを付けたいもの」とあるが、その評語にあてはまる風貌を写楽は如実に描ききっている。天明、寛政時代の江戸歌舞伎界の大御所であり、その芸風は、大場にして、唯一筋に狂言の道を立てることを主としたという。文章にも長じ、反古庵といって俳句を、花道のつらねと称して狂歌を能くした。寛政八年には向島に隠退して成田屋七左衛門と改名したが、その後四回、求められて舞台に立った。そして文化三年十月、六十六歳で没した。

東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

Daily Vocabulary(2012/08/19)

2012年08月19日 | Daily Vocabulary
13431.please don't hesitate(遠慮せずに)
If you have any questions at all, please don't hesitate to ask during the presentation.
13432.take off(出発する)
We are ready to take off now.
13433.settle for(満足する)
Don't settle for second best.
13434.measure up to(理想、標準に達する)
We are very sorry that we have not been able to measure up to our sales quota for this year.
13435.approximately(約)
I think there must be approximately 1200 people working over there.
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