
6:八世森田勘弥の駕舁鶯の治郎作
寛政六年五月の桐座の「敵討乗合話」の内に上演された所作事「花菖蒲思笄」に登場する役である。
この絵で舞踊でよく見られる思いきった身体の動きからキマった時の姿があざやかに描かれている。所作事であるから衣裳も派手で、描線もなめらかである。
この派手な衣裳が画面の大部分を占めているのも所作事図としての効果を出している。
勘弥の顔が比較的小さく描かれているのも写楽の非凡な技巧といえよう。
その上背色の黒雲母がまた有効に画面に調和を与えている。
着物の藍地に貝絞りの柄、袖なしは鼠で模様があばれ熨斗(のし)の白抜き、そして頭巾は黄。
この配色も他の写楽の絵としては珍しく複雑であるが、さらに襟元と袖口に見える下着の紅が、これらと交錯して、しかも一分のすきもない。
つまりこれ以上の色も、これ以下の色も考えられないということである。
さらに勘弥のえぐられたような頬の線と眼と口許が印象的で迫るものが感じられるのは、まさに写楽の絵の特徴である
森田勘弥は、江戸三座、中村、市村、森田の森田座の座元として伝統の家柄である。
この勘弥は八代目で、宝暦九年に生まれ、五代目勘弥の息子である。
宝暦十二年から舞台に立ち、所作事に長じていて名をあげた。
勘弥の名は天明三年に坂東又三郎から八代目となった。座元と役者を兼ねた。森田座は寛政元年に子の又吉に座元を譲って坂東八十助と改め、文化十一年二月に没した。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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