2.品川(日の出)
日本橋から八粁。五十三次最初の宿場である。絵は八ツ山を右に、大名行列は街道を南へと進んでいく。そして左手に袖ヶ浦の海がひらけ、漸く明けそめる空の美しさの下、満帆の舟が数艘、泊り舟の帆柱も見える。海に沿っては水茶屋などが建ち並び、構図は変化があって面白い。ことに日の出の空が見事である。画題は「日の出」である。
品川は江戸の南の門戸として賑わい、ことにこの遊里は文人墨客の遊ぶものも多かったほど新吉原などとちがった情緒をもっていた。北本宿、南本宿、歩行新宿に分かれ、南北の宿の境川が即ち品川であった。袖ヶ浦の汐干、品川明神の祭、海晏寺の効用など風物にも富み、したがって風景画よりも美人がでここを描いた浮世絵の方がむしろ多いくらいである。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本橋から八粁。五十三次最初の宿場である。絵は八ツ山を右に、大名行列は街道を南へと進んでいく。そして左手に袖ヶ浦の海がひらけ、漸く明けそめる空の美しさの下、満帆の舟が数艘、泊り舟の帆柱も見える。海に沿っては水茶屋などが建ち並び、構図は変化があって面白い。ことに日の出の空が見事である。画題は「日の出」である。
品川は江戸の南の門戸として賑わい、ことにこの遊里は文人墨客の遊ぶものも多かったほど新吉原などとちがった情緒をもっていた。北本宿、南本宿、歩行新宿に分かれ、南北の宿の境川が即ち品川であった。袖ヶ浦の汐干、品川明神の祭、海晏寺の効用など風物にも富み、したがって風景画よりも美人がでここを描いた浮世絵の方がむしろ多いくらいである。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』