もっと乗りた~い,自転車に!

自然の中をロードバイクで走るのが大好き。現在の愛車ははPINARELLO GAN-RS(2016)。

吉本隆明。

2006-10-18 | よもやま話

9月19日の朝日新聞に吉本隆明が『現代の老い』というテーマで長文を書いていた。僕は全文を読んで「吉本健在なり」と快哉を叫ぶ思いだった。吉本に関する文章を読むのは,彼が数年前にどこかの海岸で溺れそうになったというベタ記事を読んで以来。ある時期において在野左翼のスターであり,僕らも後追いで読んだ24年生まれの彼が,今は自己の老いに向き合い,その中で新たな境地を見いだし,今なお非常に力強い文章を書いていることに,驚くとともに自分自身も勇気付けられたからだ。
彼は目を悪くし,今では1m先の人の姿もほとんど見えないという。それでも晴れた日には150mくらいは歩くようにしているそうだ。「やめたら寝たきりになってしまうのでは」という不安を感じるから。前立線障害や結腸がんをも患い,1ヶ月に1回ほどの割合で病院に通う。そこで吉本が感じるのは,医者も看護師も「老人とは何か,どういう存在なのか」ということが本当に分かっていないということだ。千差万別の人生を生きてきた老人を,「年齢」という一つの基準でくくってしまう。患者の個人差を考えていないというのだ。
また彼は言う。歳をとると一番何が辛いか…。それは,自己の意思と,現実に体を動かすことのできる運動性の乖離が,健康な人には想像もできないくらいに大きいというのだ。自分の気持ちは少しも鈍くなっていない。それどころかある意味でより繊細になっているのに,そのことを表す体の動きは鈍くなっているという矛盾。そしてそれを理解されないジレンマを,医者や看護師らがどれほど理解しているのかと…。

そのジレンマの中で彼はM・フーコーの「配慮」という言葉に出会う。フーコーは自己への配慮は社会への配慮に転化できる。つまり「配慮」と言う言葉が社会意識や政治意識への配慮も含んでいるということを言いたいのだということに気付くのだ。
これ以下に続く,「下部構造と上部構造は相互に関係がなく,別に扱わなければならないとい」う『共同妄想論』に関しては僕は与しないけれども,それでも彼が言うところの「科学技術の発達に伴って何が起きるか」について最近しきりに考えるに,科学技術と結びつくものが権力として作用しはじめると「文化=権力」「文明=権力」となっていくのではないか…。つまり「テクノロジーの権力化」の問題については,頷ける部分もかなりあった。
文の終わりに吉本曰く…「こうした政治や社会の問題には自分なりに考えてきたつもりだったが,老人が直面する問題はやっぱり老人になるまで分からなかった。いい歳をして色々な目にあって,ようやくそれが見えてきた。『もう1個違う系列の問題があった』。そう新鮮に感じながら僕は日々を送っている」と。
検視鏡のようなルーペで文字を拡大しながら書物を読む吉本の姿に,僕はなお一層力づけられたような気がする。