不良おやじの小言

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自由に、のびのびと、たった一度の人生

不正融資事件(1)

2008年08月09日 | 国内不正・汚職事件
不正融資事件(1)

今回は戦後の不正金融事件を拾い出してみました。
不正金融事件(2)の最後には参考に泉井事件を掲載してみました。
皆さんはこれでも世の中まともだと思い、あきらめて、この人たちの中に入りたいですか?
もう赤、とか右翼とか、宗教とか、金融のグローバルとか、
言っていられない時代になっているように思いますが?
この中の事件は表面にでたものばかりです。
この日本の仕組みではまだいっぱい同様のことがあると思います
(例えば元K総理と広域暴力団稲川会)。これからも過去の亡霊のような事件が多発すると思います。
私もお金は欲しいのですが、金のことは不浄だと教わってきたのです、でもやっぱりお金?
この事件たちをみていると、金融破綻の時の税金投入は、国民や中小企業のためでなく、
税金を食い物にした人たちへの、また税金の穴埋めだったようですね。

1)政府高官とダグラス・グラマン事件-1979年(事件史探求より抜粋引用)
昭和54年3月14日、東京地検は、日商岩井・航空機部門の山岡正一部長、
今井雄二郎次長を外為法違反などの疑いで逮捕した。
更に4月2日、同社の海部八郎副社長を同容疑で逮捕。
この逮捕は、前年の昭和53年12月25日に米国の証券取引委員会で、
マクダネル・ダグラス社が自社の戦闘機(F4Eファントム)の売込みのため昭
和50年に1万5000ドルを日本の政府高官に渡したことを告発したことがきっかけだった。
更に昭和54年1月4日、今度はグラマン社が自社の早期警戒機(E2C)の売込みのため、
日本の政府高官(岸信介・福田赳夫・中曽根康弘・松野頼三)らに代理店の日商岩井を経由して、
不正資金を渡したことを告発した。東京地検は、
米国証券取引委員会の資料提供を要請し、捜査を開始した。捜査の中心は、
両社の代理店である日商岩井であったが、
2月1日、日商岩井・航空機部門の責任者であった
島田三敬常務が本社ビルから飛び降り自殺し、捜査は行き詰まった。

2月9日、衆議院予算委員会で、岸信介元首相、日商岩井の海部八郎副社長、
松野頼三元防衛庁長官を証人喚問した。岸、海部は「記憶に無い」の答弁を繰り返す。
松野は5億円の授受を認めるも、既に時効が成立しており刑事訴追は逃れた。
岸元首相は、ダグラス社に対して便宜を図るなどとしたメモ、
いわゆる「海部メモ」が発覚したのに、何故か東京地検は同氏に事情聴取すらしなかった。
結局、起訴されたのは日商岩井の上記3人だけで、政府高官へのメスは入らなかった。
その後の裁判で、海部副社長は懲役2年、執行猶予3年で確定した。
昭和33年の第一次防衛力整備計画から既に疑惑は存在していた。
当時、防衛庁は次期戦闘機をロッキードF104戦闘機に内定していた。
ところが急転直下、日本政府は、グラマンF11F戦闘機を採用決定した。
この時、30億円の不正資金が岸内閣に入ったとの疑惑があった。
第二次防衛整備計画では、ロッキード社とダグラス社の戦闘機が競合となったが、
結局ダグラス社のF4Eファントムが採用された。この時も、
膨大な不正資金が政界にばら撒かれたとされている。

2)田中首相の金脈事件-1974年(事件史探求より抜粋引用)
昭和49年10月10日発売の文藝春秋・11月号に、
作家・立花隆の「田中角栄の研究~その金脈と人脈」というレポートが掲載された。
このレポートは、田中首相が唱えた「日本列島改造論」の裏で、
田中ファミリー企業が土地転がしを繰り返し、金脈・人脈を形成していく過程を取り上げていた。
この中で、国有地払い下げ、実体の無い企業経営、
脱税など首相の政治資金に違法性の疑惑があるとした。
参議院決算委員会でも、この問題が取り上げられ4日間審議した。
が、田中首相は「いずれ明らかにする」と言明した後、12月9日に総理大臣を辞任してしまった。

田中は、佐藤内閣の後を受けて昭和47年7月に自民党総裁となり総理大臣のポストを得た。
今までの官僚上がりの歴代総理とは異なり、
新潟県で尋常小学校卒のいわゆる学歴・学閥を持たない宰相であった。
裸一貫で身を起こし、総理大臣に立身出世したことや、
家では背広に下駄履きという気さくな態度に国民の人気は高かった。
総理在任中は、「日中友好条約」を締結するなど役割貢献は大きかった。
その田中首相が、就任早々に掲げた持論が「日本列島改造論」であった。
この本は、爆発的に売れベストセラーになった。田中が言うところの日本列島改造論とは、
従来からの東京一極集中の政治・経済を見直し、
地方と東京を結ぶ高速道路網・新幹線網を全国網羅して
地方との経済格差を無くし、経済に勢いをつけるというものだった。
ある点では的を得ていたが、一国の元首が唱えたこの改造計画は性急過ぎた。
大企業を中心に、地方の土地買収が全国レベルで広がり、これによって土地の高騰、
強制立退き、自然破壊が一気に加速した。また、道路や鉄道建設に建設業界が群がり、
談合や利権で政界・官界・財界にモラルの欠如をもたらした。
田中金脈の原点と言われているのが「信濃川河川敷事件」である。
昭和39年から40年にかけて、田中ファミリー企業である「室町産業」(東京)が、
新潟県・長岡市蓮潟地区の信濃川河川敷の畑地73ヘクタールを301人から4億1000万円で買収した。
ところが、この直後に建設省の堤防工事や国道のバイパス工事などで、
二束三文の土地が時価数百億円の一等地になった。
これに対して、元地主が「土地売買は田中首相の地位利用による不法なもので無効」と訴えたが、
裁判ではついに田中の地位利用は明確にできなかった。
昭和50年3月26日、同じく田中ファミリー企業の「新星企業」を住宅建物取引業法違反で、
竹沢社長と社員の2人が書類送検されたが、裁判で田中首相への関連付けは一切無かった。
田中は、関越高速道路・上越新幹線建設など、このような錬金術で莫大な資金を得たとされ、
この資金で政治における人脈(派閥)を形成し、闇将軍と異名をとるまでになった。
立花氏のレポート掲載から2年後、「ロッキード事件」が発覚。
田中元首相の実体が更に暴露されることになる。

3)中曽根康弘と殖産住宅事件-1973年(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)
昭和48年(1973年)4月11日か4月12日、殖産住宅相互株式会社社長・東郷民安は、
流動社長・倉林公夫と会った。このとき、東郷民安は、倉林公夫に、
殖産住宅相互株式会社の株主総会を谷口経済研究所・谷口勝一所長に任せていることを話した。
倉林公夫は、株主総会のことを、児玉誉士夫(右翼の大物でA級戦犯生き残り)に相談するように進めた。
翌日、東郷民安は、児玉事務所を訪ねて、児玉誉士夫に会った。児玉誉士夫は、東郷民安に、
岡村吾一(右翼やくざで総会屋)を紹介すると、約束した。
同年4月20日、東郷民安は、岡村吾一と会い、100万円を渡した。
殖産住宅相互株式会社の株主総会を岡村吾一が取り仕切ることになった同年5月28日、
岡村吾一の仕切りによって、殖産住宅相互株式会社の株主総会は終了した。
東郷民安は、児玉誉士夫に挨拶に行き、殖産住宅相互株式会社の株2万株(時価2500万円)を渡した。
児玉誉士夫は、東郷民安から貰った株のうち、1千株を岡村吾一に渡した。
これに関連し、中曽根康弘元総理は1972年に、殖産住宅事件の株取得問題で国会証人喚問される。
翌年脱税容疑で逮捕された殖産住宅相互社長東郷民安は旧制静岡高校時代からの友人であった
。このため、親友も見殺しにすると囁かれた。

4)田中角栄とロッキード社事件-1976年(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)
この事件は、国内航空大手の全日空の新ワイドボディ旅客機導入選定に絡み、
自由民主党衆議院議員で(当時)前内閣総理大臣の田中角栄が、
1976年7月27日に受託収賄と外国為替・外国貿易管理法違反の疑いで逮捕された事件である。
政治家では田中以外に佐藤孝行運輸政務次官(逮捕当時)や
橋本登美三郎元運輸大臣が逮捕されたほか、
全日空の若狭得治社長やロッキードの販売代理店の丸紅の役員と社員、
行動派右翼の大物と呼ばれ、暴力団やCIAと深い関係にあった児玉誉士夫や、
児玉の友人で「政商」と呼ばれた国際興業社主の小佐野賢治と相次いで逮捕者を出し、
また、関係者の中から多数の不審死者が出るなど、
第二次世界大戦後の日本の疑獄を代表する大事件となった。
この事件は1976年2月にアメリカ合衆国上院で行われた
上院多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)における公聴会にて発覚しており、
アメリカとの間の外交問題にも発展した。

5)豊田商事事件-1985年(事件史探求より抜粋引用)
昭和60年6月18日午後4時30分頃、ペーパ商法で巨額の金を集金した
「豊田商事」の永野一男会長(当時32歳)が、大阪市北区の自宅マンションで
工場経営の飯田篤郎(当時56歳)と知人の建築作業員の矢野正計(当時30歳)に銃剣で刺された。
永野会長は病院に運ばれたが11ヶ所の傷を受け出血多量で死亡した。
犯行当時、永野の自宅マンションの玄関前には約30人の報道陣やガードマンが居た。
その人垣を掻き分けて飯田らは、「被害者6人(詐欺にあった)から、
もう金は要らんから永野をぶっ殺せと頼まれて来たんや」と言って
報道記者が使用していたパイプ椅子を取り上げて
玄関脇の小窓(50センチ四方)を破壊し室内に侵入した。
室内では争う罵声が聞こえたが、数分後に飯田らは返り血を浴びた格好で外に出てきた。
飯田は、報道陣に向かって「殺した。俺が犯人や、警察を呼べ。法律は手ぬるい。
わしらが、やらんかったら、他にやる者おらん」と叫んだ。
飯田らは駆け付けて来た天満署の警官に現行犯逮捕された。
白昼堂々と、しかも報道陣の前で《殺人を犯した》のは前代未聞である。
世論は犯行を未然に防ごうとしなかったばかりか、
犯行状況を取材しようとした報道陣に対して非難の声があがったが、
それ以上に「因果応報」だという感情論の方が大きかった。
それほど、豊田商事・永野会長の詐欺行為は許せない犯罪だった。
永野は岐阜県恵那市で昭和27年に出生した。中学を卒業後、
職を転々とした永野は昭和56年4月に「豊田商事」を設立した。
業務は、(純金ファミリー証券)の販売であった。
しかし、この商売は実体がまったく無いペーパ商法であった。
まず、一人暮らしの老人をターゲットに豊田商事の営業が執拗な勧誘を行う。
老人の家に上がり込み最低でも5時間居座る。中には、朝まで勧誘していたという例もあった。逆に、
食事の支度をしたり掃除をしたり「自分を孫だと思ってください」などと老人の情に訴える勧誘もした。
こうして老人に虎の子の金を捻出させて純金購入をさせた。
だが、実際はその資金で純金を購入する訳ではなく購入した老人には
「ファミリー契約証券」を渡すだけで永野会長らは私服を肥やしていった。
満期になると強引に継続契約を勧め途中の解約は一切応じなかった。
こうして老人を中心に約5万人から、2000億円を巻き上げていた。
昭和60年4月に豊田商事のグループ関連会社の社員が詐欺容疑で逮捕された。
6月15日には押収した書類から「外為法違反」の容疑で豊田商事が
強制捜索され17日は永野会長が事情聴取された。その翌日の18日、
前述の犯行により永野会長が死亡した。

その後、弁護士の中坊公平らが破産宣告した豊田商事の破産管財人となり
豊田商事の社員が納めた税金の返却を国税局に交渉したり、
様々な手法で120億円を取り戻し被害者に還元した。が、大部分の金は戻ることなく老人達は、
どん底に突き落とされた。この豊田商事の残党は様々な会社に散らばっていく。
今でも、執拗な電話・訪問勧誘は豊田商事をモデルにしている詐欺会社が無数にある。
懲りない連中である。

6)投資ジャーナル事件(1985年)(事件史探求より抜粋引用)
昭和60年6月19日東京地検は、海外に8ヶ月間逃亡し帰国した投資コンサルタント業の
投資ジャーナル会長の中江滋樹(当時31歳)と妻・加代子(当時31歳)、
社長のS(当時30歳)ら11人を詐欺容疑で逮捕した。
投資ジャーナルグループは無免許で株式を売買し「
絶対に儲かる」「値上がり中の株を安く分譲する」と言葉巧みに話を持ちかけ
7684人の客から総額580億円を騙し取っていた。
投資ジャーナルは昭和53年に設立。その後、東証信用代行、東京クレジット、
日本証券流通を設立。株コンサルタントと投資資金を融資する証券と金融を一体化させた。
その頃、中江は「兜町の風雲児」と言われ人気絶頂だった。
中江の手口は証券業界誌や自社発行の「月間投資家」などで派手な宣伝を繰り返した。
客の投機心を煽り、1人10万円から数百万円の会費を募り、
推奨銘柄を教えて融資は系列会社を紹介した。
また、保証金を積めば、その10倍の融資も可能と偽り、
殆どの客に「預かり証」の発行を交付しただけで実際の株現物の引渡しや提示を拒否していた。
グループが投資家から受けた株式売買注文は12億株、約7000億円相当。
だが、実際には4500億円相当は売買を行わず客には計算書だけを渡していた。
中江らは、逮捕されることを事前に察知。交際中の芸者とS社長、途中で加わった妻と4人で
香港、マニラ、シンガポールなどを転々として8ヶ月間、豪華な逃亡生活をおくっていた。
逮捕後の取り調べで、投資ジャーナルに便宜を図ってもらう目的で自民党の大物政治家や高級官僚、
高級警察官らに数千万円から数百万円の株投資の利益を渡していたことが判明した。
更に、芸能界でアイドル歌手だったK子さんが中江の愛人で
7000万円の家を貰ったと噂され芸能界を引退した経緯があった。
検察は被害届のあった大口の32人分に絞って起訴した。
平成元年4月、東京地裁は中江に懲役6年の実刑判決を言い渡して確定した。
尚、事件後騙し取られた580億円の内、約400億円は客に返還されている。

7)平和相互銀行不正融資事件(1986年)(事件史探求より抜粋引用)
昭和61年7月6日、関西の中堅地方銀行の平和相互銀行(以下、平和相銀)で
巨額不正融資事件が発覚。
会社に多大な損害を与えたとして同銀行の監査役・伊坂重昭ら役員幹部が特別背任罪で逮捕された。

平和相銀は、以前から創業者である小宮山一族と
監査役・伊坂、稲井田社長らを中心とする新経営陣との確執が続いていた。
不正融資の発端は、昭和57年11月にさかのぼる。
平和相銀の系列会社であるゴルフ場開発会社「太平洋クラブ」が昭和48年3月から
会員制レジャークラブの会員を募集し会員権預かり
保証金が昭和58年3月以降、順次その措置期間が経過することにより、
償還請求が殺到すると危惧していた状況であった。
このため太平洋クラブの資産を売却し償還資金とすることを計画した伊坂らは、
同クラブが所有している兵庫県神戸市内の山林196ha(評価担保額42億円)を売却することを決定。
不動産会社「新日興開発」を仲介料3億6000万円で
仲介させ不動産会社「広洋」と土木会社「サン・グリーン」に60億円で売却。
この時、土地購入資金として両社に総額116億2000万円の融資をした。
つまり、42億円の価値しかない土地を60億円で取引するという話に
平和相銀は116億円の融資をしたことになる(この資金の一部は暴力団に渡っている)。
当然のことながら、この融資は不良債権化し平和相銀の経営を圧迫した。
この土地購入融資の焦付きで平和相銀は、さらに泥沼に入っていく。
昭和58年、伊坂・稲井田コンビは鹿児島県の無人島である「馬毛島」を防衛庁のレーダ基地として
売却することを計画する。そこで、大物右翼のTに政界工作を依頼し総額20億円を提供した。
この資金が実際に20人近い自民党議員に渡ったとされている。
が、結局この馬毛島にはレーダ基地は建設することなく頓挫した。
昭和60年8月、伊坂らと対立する平和相銀創業一族が、
所有していた株(全株式の33.5%)を
フィクサーとして有名な旧川崎財閥系資産管理会社「川崎定徳」の
佐藤茂社長に80億円で売却してしまった。
株買戻しで焦る伊坂らに東京・有楽町の画廊「八重洲画廊」の真部俊生社長から
「金蒔絵時代行列」という金屏風を40億円で購入したら、株買戻しの取引が可能になると持ちかけられた。
この取引に竹下登の秘書・青木伊平の紹介もあったとされ、伊坂らは何の抵抗も無く取引を行う。
その後、金屏風の代金は政界に流されたという噂がたった。ちなみに金屏風を鑑定したところ、
多く見積もっても5億円、一説には8000万円の評価額でしかなかった。
これらの不正乱脈融資が決定的となり平和相銀は破綻。住友銀行に吸収され幕を閉じた。

8)リクルート事件(1988年)(事件史探求より抜粋引用)
昭和63年6月18日朝日新聞が神奈川県川崎市助役へ一億円利益供与疑惑」をスクープ報道した。
これによって、リクルート疑獄事件が始まる。リクルート社は
グループ企業であるリクルート・コスモス社の値上がり確実な未公開株を
店頭公開前に譲渡することで実質の利益を供与するものであった。
翌7月には自民党の中曽根康弘、竹下登、宮沢喜一など大物政治家に
コスモ株がばら撒かれていたことが発覚する。
9月5日、この疑獄事件追求の急先鋒であった社民連の楢崎弥之助代議士に
コスモス社の松原弘社長室長(当時)が500万円を持参し
「国会での追及を中止してほしい」と申し出る。この一連のやり取りは楢崎が隠し撮りをしており、
日本テレビで大々的に報道された。
リクルートの江副浩正会長(当時)は、急成長する自社に政治的・財界的に地位を高めようと、
有力政治家・官僚・通信関連でNTTの3つをターゲットに未公開株をばら撒く。
政治家の大口としては中曽根康弘が29000株、竹下登・宮沢喜一・渡辺美智雄・加藤紘一らが
10000株前後、官僚では高石邦男文部次官・加藤孝労働次官、
民間ではNTTの真藤会長・長谷川寿彦取締役ら100人前後に渡った。
10月30日の店頭公開では一株3000円に対して初値5270円が付いた。
中曽根の場合で言えば、労せず1日で6583万円の利益になる。
翌年の平成元年2月13日、リクルートの江副会長、NTTの真藤会長とその秘書らが逮捕。
3月8日加藤労働次官、同月28日高石文部次官がそれぞれ贈収賄で逮捕された。
竹下登は一連の責任を取り首相辞任を表明した。
だが、政治家は自民党の藤波孝生議員、公明党の池田克也議員が在宅起訴されただけで、
中曽根や竹下をはじめ大物政治家はついに逃げ切った

9)イトマン事件-1991年(事件史探求より抜粋引用)
平成3年7月23日、大阪の中堅商社「イトマン」が3000億円の巨額資金を流出した事件で
大阪地検は、イトマンの河村良彦社長(当時67歳)、伊藤寿永光常務(当時46歳)、
不動産管理会社代表の許永中(当時44歳)ら6人を特別背任容疑などで逮捕した。

昭和48年の石油ショックで、経営不振に陥る。メインバンクである住友銀行が動きだす。
住友銀行は、同行の常務であった河村良彦をイトマンの社長として送りだす。
河村は、住友銀行頭取の磯田一郎から平和相銀の内紛株買戻しの資金援助要請を受け泥沼に入り込む。
拡大路線の切り札として起用したのが、
協和綜合開発研究所(実体は地上げ会社)の伊藤寿永光であった。
伊藤はイトマン入社前に、仕手筋と知られていたコスモポリタン会長に
200億円の巨額資金を融資していたが焦付き、担保として残ったのが雅叙園観光だった。
雅叙園観光の債権者として他に名乗りをあげていたのが闇社会の超大物「許永中」であった。
ここで2人は意気投合しイトマンを食い物にしていく。
伊藤がイトマンに入社後、直ちに常務に昇格。
この頃、平成2年5月24日、日経新聞で「伊藤萬、土地・債務圧縮急ぐ/住銀、融資規制受け協力」
というスクープで、イトマンが不動産投資で借入金が1兆2000億円に膨れ上がっている
ことが発覚したという報道があった。経営再建に焦る河村社長に伊藤は許永中を紹介する。

そこで、許は河村社長に美術品・貴金属などの投機で儲かると話し掛け、
結局イトマンは、許の関連会社から総額528億円の仕入れを行った。
だが許が持ち込んだ絵画などの小売価格は265億円程度であり、
差額の263億円を許は儲けたことになる。逆に言えば、
許と伊藤はイトマンに263億円の損害を与えたとこになる。さ
らに許は、イトマンに様々なプロジェクト話を持ちかけ食い物にしていく。
一方、伊藤常務も資本金わずか1000万円の不動産業者「太平産業」に
伊藤常務の関連会社(実兄が代表者)を経由して1300億円余りを融資した。
伊藤常務は、この関連会社から200億円の利ざやを得たと言われている。
太平産業は平成3年に任意整理され、その結果イトマンは1000億円以上の損益を負った。
この影響は計り知れなく、イトマンから闇社会に流れた金は3000億円とも6000億円とも言われている。
この金はどこに消えたのか、今だに解明されていない
(警察庁OBの元建設省K大臣は許と大親友とのことである)。
経営破綻したイトマンは、平成5年4月に住金物産に吸収合併され、イトマンの歴史に幕を閉じた。

10)東洋信用金庫事件(尾上縫)1991年
数ある事件で、これくらいバカバカしいというか、笑いを誘うものはないかもしれません。
一介のミナミの料亭の主人の縫さんに銀行が群がって、2兆円の金を貸し込むのです。
バブルがはじけて株がパーになって追い込まれた東洋信用金庫が架空の預金証書を作る、
その額、4千億円を超える恐るべき金額です。東洋信用金庫は、
この事件を切欠に潰れはしませんでしたが吸収され消失するのです。

11)富士銀行赤坂支店を舞台にした巨額不正融資事件(1991年)(月刊基礎知識より抜粋)
富士銀行の赤坂支店で幹部行員が、銀行の信用を背景に取引先に架空の預金証書を発行、
それを担保に都内の不動産業者ら27社7個人が、
15のノンバンク(預金を受け入れないで融資をしている会社)から
総額約7000億円もの巨額を不正に引き出した詐欺事件。
5月中旬、ノンバンクからの問い合わせで発覚した。赤坂支店の中村稔元渉外課長(38)は、
1987年からコンピュータに架空預金額を打ち込んで預金証書を作り、
このあと入金ミスとしてこの記録を抹消。預金証書は廃棄せず、
偽造の質権設定承諾書(預金を担保にするのを銀行が認める書類)と共にノンバンクに持ち込み、
融資を引き出す。そのカネは同支店に開設した取引先口座に一旦預金。
1週間以内に解約するなどして融資金を騙し取るという手口。


これらの資金は、おもに地上げや不動産投資に流れており、
大手銀行の地価高騰元凶説が裏付けられた。この不正融資は、
地上げへの批判から融資が締めつけられた結果考え出された方法と言われている。
警視庁は知能犯を担当する捜査2課が、ロッキード事件以来15年ぶりという異例の特別捜査本部を設置、
91年9月12日、元課長と取引業者ら4人を逮捕。
元課長は融資の見返りに取引先から約2億円のリベートを受けていた。
橋本蔵相の秘書がこの事件で無担保融資に介入したり、
暴力団に融資金が流れるなど関係者の裾野は広がるばかりで金の流れも複雑。
全体像がつかめないが、金に群がる政界、官界をも巻き込んだ複雑な構図が見え隠れしている。
同行は他の4支店でも不正融資が発覚しており、このような不正を銀行の上部が知らぬはずはなく、
銀行の収益至上主義が犯行に走らせたとも言える。(月刊基礎知識より)

12)佐川急便事件-1992年(事件史探求より抜粋引用)
平成4年2月24日、東京地検は東京佐川急便の渡辺広康社長ら4人を特別背任容疑で逮捕した。
乱発した債務保証は数千億円といわれ、この内回収不能は950億円。
乱発した資金の大半は暴力団・右翼団体に流れ、20億円は政治家への闇献金としてばら撒かれた。
闇献金は、総理経験者や金丸信副総理など大物政治家12人に渡ったとされる。
同年9月22日の初公判で、渡辺社長は以下の証言をした。
昭和62年当時、自民党総裁後継でポスト中曽根の座を安倍晋太郎、
宮澤喜一らと激しく戦っていた竹下登に対して、
香川県の右翼団体・日本皇民党は「ほめ殺し」を街宣車で展開していた。
「金儲けの上手な竹下さんを総理にしよう」などと全国で展開された竹下は、
このピンチを乗り越えようと腹心で参謀の金丸真に相談。そこで金丸は、
東京佐川急便社長の渡辺に皇民党の活動を中止するよう依頼した。
この意を受けた渡辺は、広域暴力団の稲川会の石井進前会長に相談する。
そこで、昭和62年10月に石井前会長は皇民党の稲本虎翁総裁と会談した。
石井前会長の街宣活動中止要請に対して皇民党は、ほめ殺しの中止条件として、
田中元総理に対して謝罪(竹下は、田中元首相の派閥である田中派を乗っ取り
創政会を経て経世会‘を結成した)を要求したという。
確かに数日後、竹下は突然、田中元首相の私邸に訪問している(門前払いされたが)。
この結果、日本皇民党の竹下に対する「ほめ殺し」はピタっと止まる。
だが、稲川会は貸しができた東京佐川急便に対して以降様々な理由で資金援助を要請し前述の通り、
数千億単位で資金が闇社会に流れていく。東京地検も闇献金や不正融資などの追及を続けたが結局、
東京佐川急便からの政治献金の中で5億円の授受をしていた金丸信が
平成4年9月28日に政治資金規正法違反で略式起訴されただけで、
その他の大物政治家や闇資金ルートは解明されないまま事件は闇に葬らされた。

13)雅叙園事件-1987年(兜町事件簿より)
池田保次は、元山口組系暴力団の組長です。
1980年代、企業舎弟として地上げ屋で成功した後、コスモポリタンという企業で、
タクマ、雅叙園、日本ドリーム観光などの株を買い占め、仕手集団として、一世を風靡します。
1987年5月、雅叙園観光の過半数の株を支配して、同社会長に就任します。コ
スモポリタンが最も注目されたのは、タクマの買占めです。
タクマは、ボイラーを基盤にゴミ焼却施設などを造っている技術力の高い会社です。
1987年の1月、池田は、大阪の信用組合の理事長の紹介で、タクマを800万株、手に入れました。
その後、下値をこつこつ拾うのではなく、短期間に強引に買占めを進めたようです。
1987年1月に413円の安値だった株価は、5月には2,220円に達しています。
4ヶ月で、5.4倍の値上がり率です。 コスモポリタンは、役員派遣を求めます。
タクマとしては、企業舎弟から人を受け入れるわけにはいきません。
経営側との徹底抗戦になります。株を買い取る意思もなさそうです。こうなったら、
経営権を奪ってタクマを手に入れるしか道はありません。経営支配している雅叙園の手形を濫発します。
タクマの株を担保に、証券金融会社から借ります。関西の闇の資金も、高利で借りていました。
タクマの発行済株数は、6,446万株です。9月には、コスモポリタン・グループは、
そのうちの3,200万株を手に入れます。他の委任状分を含めると、過半数を超えます。
後は臨時株主総会を開き、子分を役員に据えればよいのです。莫大な金利の支払いは、
池田を苦しめました。しかし、あと一息です。経営権さえ握れば、タクマから資金を引き出せます。
大阪地裁は、臨時株主総会の開催を許可します。買占めに対して、
会社側が対抗すると、浮動株が少なくなり、株主数が基準値を割り込み、
やがて上場廃止に追い込まれます。
タクマは、野村証券、第一勧銀などの、銀行と相談します。そして、
乗っ取り防止の切り札、1600万株の第三者割り当て増資を行ないます。
銀行、生保の他、株主数対策として、関係する個人にも割り当てられました。
持株比率は、41.7%まで突き落とされます。価格は、僅か680円、法廷で争えば、問題のある増資です。
しかし、高利の借金を重ね、やっとの思いで過半数を制したコスモポリタンには、
決定的なダメージでした。
1987年10月20日(火)朝6時、池田はテレビをつけます。そこで、信じられない光景を、
目の当たりにします。19日のアメリカ市場の終了のベルが鳴ります。508ドル安!なんとたった一日で、
22.6%の値下がりです(ブラックマンデー)。9時、東京市場が、開きます。
証券金融会社が、担保に取っていたタクマ株を、慌てて証券会社に持ち込み、投げ売りを急ぎます。
この日多くの仕手筋が崩壊。コスモポリタン関連株も全銘柄暴落。
池田の野望は、消滅します。万事休す。
それからの池田は、1日1億円を越える金利を支払えなくなり、闇の世界から追われる身となります。
1988年8月12日の新大阪駅、東京行きの新幹線のホーム。運転手が、池田保次を見送ります。
そして、それ以後、彼を見かけた者はいません。金を返せずに殺された?
・・・・それから2ヵ月後・・・・・・兜町界隈の証券金融会社に、何人かの不審な男が、
かわるがわるタクマの株を持ち込んだそうです。いくらなら、買ってくれるかい?
証券金融会社は、足元をみて買い叩きます。今日は20万株。
明日は10万株・・・・ いったい誰が売ったのか? 永遠の謎です。
Mホームが一時買収しています。当時わけのわからない経済評論家が
池田氏のことを擁護していましたが、元暴力団組長がMホームに騙されるわけがないでしょう?
ましてやM社長は経済的には素人です。バックに金融機関(証券会社、銀行等)があると
見るのが妥当でしょう。

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