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司法制度と刑罰制度の矛盾と日産問題について

2019年01月12日 | ブログ
司法制度と刑罰制度の矛盾について
過去英米で採用されていたコモン・ローの刑罰裁判では、成文化されていなくとも過去から積重ねられた判例、慣習の民意や良心という多義的要素(宗教等を含む)の倫理・道徳も取り入れ加味し、判決がおこなわれていました。その中では魔女裁判や人種差別等の一時的な感情論での裁判が行われることが多くありました。
そいうことからドイツから発展した大陸法という厳格な近代の制定法を適用する考えで、個人の意志と人権を守る事を土台にした、合理的、個人主義的な体制で、『罪は前もって法に定められていなければならない』という罪刑法定主義という思想が裁判に取り入れられるようになって行きました。
日本では今でも英から発展したコモン・ローの考え方は主に私法等では採用されていますが、刑罰法は「人権を守る」と「最低限の倫理道徳を守る」という事で、主に人権を守るということに重きを置いています。
日本を含めた先進国では刑罰法の殆どが成文法による罪刑法定主義に近くなっているようです。
罪刑法定主義には後述する色々な制約があります。またその罪を裁くにも訴える側に立証責任(訴えた側が犯罪の事実を証明する)があるという制度になっています。
人と人との争いは、ケースによって事情が違うことや、人の心は本来見ることは出来ないので、条文では表現できないところが多くあり、またすべての事を法律の条文で網羅することは現実的には難しいのではないかと思います。
しかし今の日本の刑罰法等公法の裁判制度は上記のように罪刑法定主義ですので、訴える側が被疑者の証拠隠滅や被疑者の証言者への脅しや買収などに会い、なかなか立証責任を果たす事が難しく、捜査側に自白の強要や長い勾留等の問題が起きているようです。
また罪刑法定主義により法が制定されていないと、明らかに倫理・道徳的行為が行き過ぎて、一般法に照らして反していると思われても、裁けない為、裁判が総合的判断より、制定法解釈の技術的な運用等によって戦われることが多いのが今の裁判の現実のようです。
そのため、次は失敗しないようにと法律で縛れない抜けた穴をふさぐためだけに、また法律を作る、そして色々な問題がかえって複雑になり、その法律の目的や精神がぼやけてしまい、法に血が通わなくなるのだと思います。
人間として万人が見ておかしいものはおかしいのですが、そうはならない色々な矛盾が起こっているのではないかと思います。
総合的判断が余り許容されないのが今の司法制度のようです。

その司法制度の矛盾のいい例が最近起こった高速道路危険運転致死傷罪です。
この事故は加害者がパーキングエリアで、駐車方法について非難されたことに腹を立て、高速道路であおり運転で停車させ、被害者(夫)に強迫・暴行を加え、その後、後続の車が被害者の車に衝突し夫婦二人を死亡させ娘二人が障害を負ったという事件です。そして厳密に罪刑法定主義に従えば危険運転致死傷罪は運転中の行為を取り締まる法律ですから危険運転致死傷罪には当たらないというのが弁護士の主張です。


しかし裁判では運転中の致死傷罪には当たらないが、2条4項の【人又は車の通行を妨害する目的で、走行中の自動車の直前に進入し、その他通行中の人又は車に著しく接近し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で自動車を運転する行為】を前後のあおり運転行為から、死との因果関係があるとして認め有罪としたようです。
弁護側は控訴しましたので今後どうなるか解りません。


私個人的には、加害者の前後の悪質なあおり運転行為や以前からも危険運転をしていたことから、一般常識で被害者の心情を思えば総合的判断で、判決は正しいと思います。しかし今の裁判制度の厳密な罪刑法定主義に従えば、加害者は運転はしていませんので法律専門家によれば、難しい判断になるのではないかと言っている人も多くいるようです。

①日本の法令数
総務省行政管理局が、旧法令データ提供システムで整備・提供していた法令の数は以下の通りだそうです。


日本の法令数は2017年現在8,307と膨大な数です。六法を詳しく知っている弁護士でも、それぞれ専門分野を知らなければ、簡単にはとても対応できません。このほかに議院規則、最高裁判所規則、法令に違反しない範囲での地方自治体が決める条例があります。
それほど日本では法律が細分化されています。そのあとに判例・慣習法等を含めた解釈の問題もかかわってきます。国際法が加わればもっと大変です。
法律の分野は只弁護士や検事だけにまかせっぱなしでは、とてもいられないと思います。事故保険などでは、保険会社同士の話し合いで、本人の預り知らぬところでそんなに落ち度がないのに多くの負担をさせられることがあるそうです。そんな事にも気を付ける必要があるようです。
自分の身の周りに法律問題が発生した時はその部分だけでも、ちゃんと自分で法律を勉強しておく必要があります。

➁日本の法の適用ルール
日本の法はその適用に当たって色々なこういう順位に適用しなさいとか、こういう解釈はいけませんとか、適用する為のルールがあります。
例えば法の優先順位というものがあります。日本の法令には、種類ごとに優劣関係があり、上位の法令が優先され、上位の法令に反する下位の法令は効力を持ちません。
優劣関係は、国連加盟国日本ではおおむね次のようになっています。
国連憲章>憲法 ≧ 条約 > 法律 > 命令 (政令) > 府省令
日本の地方行政における条例等については、地方自治法を根拠に効力の優劣関係は次のようになっています。
国の法令 > 条例 > 規則の順位で適用されます。

しかし憲法と諸外国と結んだ条約との関係、条約と法律との関係、法律と最高裁判所規則との関係については、優先関係につき争いがあります。また国連憲章も英・米・仏・露・中の中心国が拒否権を乱発し、余り重視されているとは思えません。
また国連憲章の基本的な理念を実現させるための刑法のような罰則規定もありません。
その為国際司法裁判所も強制力がなく余り機能しているとは言えません。


最近では国際司法裁判所は、南沙諸島に関する問題で、判決文は【九段線の海域内で中国が主張する主権や管轄権、歴史的権利に関して、根拠がないと指摘し、国連海洋法条約を超えて主権などを主張することはできないとし、また人工島の領有権も認めません】でしたが、国連憲章の中心であるはずの、拒否権を持つ五大国中国はこの国際司法裁判所の判決を守りませんでした。尚中国は1996年に国連海洋法条約を批准しています。



Ⅰ多数の法律には、適用する為の色々な制約がある。
※【特別法は一般法に優先する】という言葉があります。これは一般法とはその分野に対して一般的に適用される法ですが、特別法とは、ある特定の事項について、一般法よりも優先して適用される法律のことです。
例えば商人による取引については、民法の特別法として、商法が優先して適用されます(商法第1条)。また商取引でも宅地建物取引業法は特別法として、民法や商法に優先して適用されます。この関係を図にすると次の図のようになります。ですから絶対的な関係でなく相対的な関係で、特別法の方がより具体的になり、補完し合う関係ということが出来ます。


そんな細分化された法律ですから、時に私達は肝心なことを忘れてしまいます。
映画・テレビ・小説等では、この法律は何のための法律かという事を忘れてしまい、言葉 の争いにのめりこんでしまう、法の解釈技術の法定ドラマをよく見かけます。
それは国内法では憲法に違反する法律はいくら細分化しても無効だという事や、この法の精神や目的はなんだということを忘れているかのようです。
基本的には、法は人を単に罰するものではなく、犯罪をしないようにするためのものだと思います。
そのために「罪刑法定主義」は前もって「こういうことをしたら罰しますよ」という主旨から、法のルールを開示して置き、それでも守らなければ罰するというものだと思います。
だから条文だけの技術的な争いで法の網を潜る行為は余り好ましいものではないと私は思います。
そいう面では人間としての倫理・道徳の問題も考慮する必要があるのですが、人間の宗教的な問題や人の生きるという問題も絡み(例えばキリスト教が禁じる堕胎の問題、同性婚の問題、イスラム教一夫多妻制の問題、少年法の問題、人は生きものだから生き物の命を奪いそれを食する動物ですが、その問題と生物・動物保護の問題、その他環境や資源と生きる問題等)範囲が広がりすぎ、法として決めつけるには難しい問題が多いのが現状のようです。
ですがその中で、殺人や、テロや戦争による人の殺し合い等暴力は、明白な犯罪であると言えます。
それだけでも国連憲章に従い各国がやめることは、良識ある世界人民なら、誰も反対しないと思います。


法律には罪刑法定主義に付随して、一事不再理、類推解釈、拡大解釈、未遂罪、未必の故意等の難解な問題や証明が難しい問題があります。
罪刑法定主義は、どういう行為が犯罪とされ,これに対してどういう刑罰が科せられるかが,あらかじめ法律によって定められていなければならないという原則(法律なければ刑罰なし)です。また罪刑法定主義の原則を守るため、不遡及の原則,慣習法・行政命令による処罰の禁止,類推解釈の禁止,絶対的不定期刑の禁止などの制約ルールの考えがあります。
不遡及の原則は、実行のときに適法であった行為について,のちに制定された法律,すなわち事後立法 によってさかのぼって処罰することはできないという原則で,刑罰法の不遡及または遡及処罰の禁止とも呼ばれています。
類推解釈は、ある事項について法律が規定していることを、何ら規定のない他の類似する事項にあてはめて解釈することで、刑罰法令では許されないとされています。
拡大解釈は、文章の意味適用の範囲を、通常よりも広げて解釈することです。拡大解釈は特に禁止されているわけではありませんが類推解釈との区別が難しいところがあり、刑罰法令でケースによっては許容されるようです。
一事不再理というのは、刑事訴訟において一度判決が確定した事件については,同じ罪で再度裁判にはかけられないという事です。
未遂罪とは、狭義には、犯罪の実行への着手があったが、行為者本人の意思に基づかない外的な障害要因等によって犯罪が行われなかった場合(障害未遂)をいいます。また、広義には、自己の意思によって犯罪を中止した場合を含みます。
未必の故意というのは、相手が確実に死ぬ(犯罪事実の発生)という事を積極的に意図あるいは希望したわけではないが,死ぬかもしれないという可能性を認識し,しかもその結果が死んだ(発生)としてもかまわないと思うことで、故意の一種であり不確定故意の一つ。,判例上は自動車の乱暴な運転で人を殺傷した場合等に,過失犯でなく故意犯として処罰するためにこの概念がよく利用されるようです。
その他に裁く検察側には立証責任というものがあります。
立証責任というのは、「疑わしきは罰せず」とか「疑わしきは被告人の利益に」という事で,刑事裁判では,被告人の有罪を確実な証拠で,合理的な疑いを入れない程度にまで立証することについては,検察官がその責任を負うという事です。そして,検察官の方で立証を尽くしても,被告人を有罪とするために必要なある事実が存在するかどうかが立証できなかった場合には,その事実は存在しなかったものとして,被告人に有利な判断をしなければなりません。つまり,「疑わしきは罰せず」の原則により,無罪の判決を言い渡すことになります。
そしてこれらの問題を解決するためと、抜け穴を防ぐ為に、また法律の条文を作って、法がどんどん細分化されて行きます、その結果前記のように膨大な法律数になってしまい、
法律を難しく、複雑・難解にしてしまっているようです。
その他にも法の解釈方法等いろいろな制約ルールがあります。

Ⅱ法の色々な問題
色々法というものを人に適用する為には、罪刑法定主義の基本的考えや解釈は前記のようにいろいろ複雑なようです。

アメリカでは司法取引という制度が盛んにおこなわれています。
日本もこの司法制度を今後活用するようになったようです。
この方法は罪に問われる可能性がある人に罪を軽くするからと、罪の真実や全貌を告白させ、犯罪を明らかにするというものですから、共謀殺人罪等の判定には色々問題があるのだと思います。
しかし、株式会社制度では、今まで、ただ命令に従うという従業員が常に悩まされる、少数大株主とそこから委託された経営者達が自分たちの利益を求め、会社の業務のお金を、『政治献金目的流用や私的流用や私的投資等して会社の正常な運営を狂わせる行為』を実行する為、『俺の言う事を聞かなければ職を奪うぞ』という生殺与奪権を明白又は暗に乱用し従業員に強引に命令を実行させる行為が数限りなく行われてきました。

例えば下請けに払う前受で実行されたローン資金や色々な税務会計上認められた万一の為の費用として認められた貸倒引当金等使い道が決まっている積立金や退職給与引当金等従業員積立金等財務上余っているすぐに使わない資金を、一時的に余っているので使わないのはもったいないとして、経営者グループが会社のためと称し、財務部門に無理やりに、私的もしくは会社の別の資金に運用を認めさせる等の行為です。
最近私は、このような民主主義がない株式会社制度の世界では、経営者グループによる会社の私物化や、会社本来の業務に必要な資金を、経営者の私用や業務と関係のない投資等の資金に流用する企業運営の不正問題を解決するためには、司法取引もいいことかもしれないと思うようになっています。
例えば長期工事である大型リゾートや大型建設工事では、経営陣が私的もしくは会社の業務外の儲け話(特に金融機関が持ちかけることが多い)につられ一時的に先に流用して儲けようとする事が往々にしてありますが、それが失敗してしまうと、本来の業務の支払う資金がなくなったり、工事工程に従って業者に払う資金に詰まったりして、経営が困難になったり、倒産したりするケースが多くなります。
でも今までは表面化するのは大企業でも、国でも助けようがないぐらい、にっちもさっちもいかなくなり倒産したケースだけだと思うのです。
建設業に限らず、多くの大企業は表面化したら、資金流用を経営陣に進めた金融機関や大株主や政治的支援を受けていた政治家等困りますから、特に大企業では闇の中で、政・官・業トップグループの癒着で、ギリギリになるまで表面化しないことが多かったのだと思います。
そして大きくて潰せない状態になったところは、最近では産業再生機構等のように、国の税金で救済されるというのが今までではないでしょうか!?その仕組みを改革する為にも株式会社の早急な是正は必要な気がします。



経済犯罪では刑事事件と違って本人の自白は余り必要ないのではないかと思います。
というのも本来株式会社では業務に関し、従業員に対しては上意・下達で就業規則や会社の稟議制度等でルールが決まっているはずです。
その決裁は大株主や経営陣トップグループが、従業員が知ろうが知るまいが自由にできますし、株式会社システムでは形式的にはトップが指示していくらでも操作が可能です。
また会社は民営ですから法的にも社内的問題には余り歯止めがかかりません。
ですから経営陣トップの行為が法のルールに照らし違反していれば、責任を負うのは株式会社では代表権を持った役員や経営陣ですから、一部でも会社の資金を、私的流用や目的外の流用をしたら、行為そのものが本来の業務ではありませんから、トップ経営陣は罰せられるべきものだと思います。
何故なら民主主義的に言えば他人の積立金や他人に支払うべきお金を他に流用するわけですから、本来であれば情報開示し、株主と同様、従業員や支払いを受ける人達全員の了解がいるはずです。そんな事はしていないでしょうから、企業の利益が上がろうが、上がるまいが関係ないのです。


そして戦後昭和から今まで、株式会社システムでは命令に従わなければ「明智光秀の様な裏切り者になるぞ」と訳の解らないことをいわれ、株式会社トップグループ(大株主・経営陣)の命令に従い、それが表ざたになれば、いつも秘書や命令を実行した従業員が罪を被ったり、自殺したり、総会屋や権力者がやくざに依頼して、殺されたりしたことは表面化してない事件も含め数限りなくあったと思います。そんな事は政治の汚職の世界より、むしろ株式会社の組織の世界の方が多いのではないかと思います。明智光秀は思いを果たしたから幸せなのです。
それに歴史上の罪は裁判をしているわけでもなく勝てば官軍ですからどちらが悪いかはわからないし、明智光秀が天下を収めれば信長という悪人を倒したことになって英雄になっていたかもしれません。
多くの株式会社で罪を被って泣寝入りしたり、自殺したり、殺されたりした従業員達はなすすべもなく浮かばれません。そういう事をなくす為や、株式会社の民主化の為にも是非とも経済犯罪の司法取引を成功させてほしいものです。くれぐれも命令する権力者を助ける為でなく、また政治的判断や国際的圧力に屈することもない、司法取引であってほしいものです。
それに大株主や経営者より、違法・合法に拘わらず、その命令に奴隷のように従い、何も情報を知らされず職を失う危険性のある従業員の数が大株主・経営者の数より圧倒的に多いわけですから株式会社の民主化は是非とも必要だという事です。

「平成26年経済センサス-基礎調査」によれば、日本の大企業は1万1,000社、中小企業は380万9,000社で、そのうち中規模企業が55万7,000社、小規模事業者が325万2,000社となっています。
割合でいうと、大企業が0.3%、中小企業が99.7%と、世の中の企業はほとんどが中小企業であることがわかります。とりわけ、従業員が5名以下の小規模企業は日本の全企業数の9割弱を、また雇用の1/4をそれぞれ占めています。
中小企業の数は2009年には420万社だったものが、2012年には385万社、2014年は381万社と減少傾向が続いています。という事は益々大企業と5名以下の小企業に2極化していくのかも知れません。
5名以下の企業は個人企業として好きにやっていいと認めても、ある程度の規模以上になると株式会社制度は少数大株主とそこから委託された経営者の権限が強すぎ、従業員は奴隷のようになる人が多くなりますから、是非とも改革する必要があると思うのです。


株式会社の経済犯罪は、殺人罪という解り易い公法の裁判とは、私法の世界で全然別の世界の話です。
資本主義のどんな手段でも金儲けという大株主とそれから委託された経営者によって運営される株式会社制度では、まじめに働いている従業員が何も情報開示されないまま、いきなりリストラやコストカッターされ、職を奪われるという行為は、なかなかなくなりません。この行為はもっとも格差を作り、貧困の世界も作ります。
これがなくならないと、たとえ資本主義の世界で今後形式的三権分立・民主主義が完成したとしても、貧富の格差等で、また世界で戦争等争いごとがいつまでも続き、大量殺人に繋がっていくと感じています。

株式会社の経済犯罪のいい例は、たまたま今回外国の経営者になってしまいましたが、司法取引で問題になった日産の経営者の問題があります。この問題はゴーン氏に限らず、日本の株式会社経営者の殆どの人達に共通する問題だと思います。今までの日産問題の経過は次記の様な事が会社犯罪として報道されています。

①ゴーン氏の役員報酬の虚偽表示


②ゴーン氏はオランダの日産子会社から資金を孫会社に流し、購入した数個のマンションを無償で私的に使っていた。



③ゴーン氏が私用していたブラジルのマンションの3つの金庫のお金や書類を開示することもなく、ブラジルの司法制度により、私物として ゴーン氏の姉が持ち去った(証拠隠滅?)。姉に年10万ドルの報酬という経費を会社から支出していた。


④ゴーン氏の資産管理会社の損失穴埋めのために、サウジの富裕層の保証を取り付け、自己の資産管理会社の損失を回避し、日産子会社に費用を負担させた。



全体的にみれば、ゴーン氏は日産とその関連会社を使い資金の私的流用や自己の資産管理会社の私的損失隠し、マンションの購入と私的使用、姉や家族旅行など私的費用の支出、またブラジルのマンションの姉に対する多額の報酬支払、またそこにある3つの私的金庫の書類やお金をブラジルの司法制度で持ち出し開示しなかった証拠隠滅ともとれる行為等、余りにも日産の業務以外の資金流用行為が目立ちます。


経営トップがその大きな権限で、会社の資金を自由に流用し、大金持ち富裕層になっていく典型的な手法の様な気がします。
以上の法の問題と色々な日産関係のニュースの情報が真実であるとすると、証拠が不十分であるとしても、総合的状況などから判断すればだれが見ても、明らかに日産問題はトップも役員も経営としては有罪であると私は思います。
でも日本や世界のゴーン氏とお金で関わりのある政治力の有る富裕層の人々の思惑や国の政治的判断は、日本は敗戦国でありアメリカの占領国で、富裕層には弱い国ですし、日本の司法と言っても国の力関係によって左右されるいい加減なものですから今後どうなるか私には良く解りません。


Ⅲ公法と私法と刑罰法
公法とは、国家と市民との関係を規律する法をいい、私法とは、私人間の関係を規律する法をいいます。 具体的には、憲法や刑法等が公法、民法や商法等が私法です。
しかし、刑法では、【第一条 この法律は、日本国内において罪を犯したすべての者に適用する。】とありますから、私法でも罰則規定があれば刑事事件になるという事です。
但し詐欺罪の罰金刑等は罪を犯した者が罰金を収めれば済みます。告発者にお金が帰ってくるわけではありません。その場合は犯罪者は罪を償っていることになるわけですから難しいと思いますけど、民事事件として損害賠償を請求するということになるのですかね!?刑罰法は公法と私法との両方にまたがっておりそれがまた、罪刑法定主義を難しくしているのかもしれません。
私の知っているある営業マンでお金を返すぐらいなら牢屋に入ると言っていた人がいました。多分その営業マンは大きなお金をどこかに隠しているのでしょうね?
元々何度も述べているように株式会社は三権分立・民主主義とは全然異質のものです。基本的に金儲けの経済競争ですからモラルは余りないのです。スポーツも競争ですが、人間の個人やチームのスポーツ能力の戦いで、それを観客という集客によってお金に還元していると言えます。だから強い個人や強いチームが優遇されるということも皆が納得するわけです。しかしその他の世界では発明や発見を除き優遇される評価が一人の個人だけに集中することは難しいのです。
例えば大量生産工場の場合、発明や発見は特許を取ったとしても、それは所詮一時的なものです、それを実現する為機械を作ったり、生産工程を考えたり、極力人の手を省き大量に生産しコストダウンを計ったりして、常に生産工程を改善することは決して一人ではできません。大企業・大量生産工場になればなるほどその発明・発見を実現するための各セクションのアイデアや意見や実験等が必要不可欠であり、ただ一人の力では実現まではとても難しいのです。その上その開発資金に伴う資金の問題も絡んできます。
やはり基本的には一定規模以上の株式会社は社員の物で、業務をよく知っている人達が全員参加して、会社運営に関しオープンに論議し、全員がそれぞれの部署で責任を持ち民主的に運営するべきだと私は思います。
そうなれば株式会社の従業員たちも皆が決めて納得し、責任を持って経営に加わったのですから,今の大株主や株主から依頼された経営者が運営する一方通行よりうまく運営できるのではないかと思います。また経営がうまくいかず倒産し職を失ったとしても、株式会社従業員は過去の大株主から依頼された経営陣やヘッジファンドやコストカッターによる一方的首切りより納得がいくのではないでしょうか?労働組合・春闘等の対象者も一時雇用の人に限られ今よりも必要が薄れるのではないでしょうか?


Ⅳ国際連合とそれぞれの国の法の精神の矛盾と戦争
人類の戦争が何故なくならないかという疑問は、国際連合とその憲法である国際連合憲章、国際人権宣言、国際法等がいつも守られないことにあると思います。それは余りにも各国の憲法、各国の法律等の法の精神や国の体制自体に違いが多くあり、いろいろ問題が起こるのだと思います。
その中で日本の憲法は完成度が高く、国際連合憲章と基本理念は集団安全保障の問題を除けば、差異はありません。
その中の国連憲章の集団安全保障の解釈の問題ですがそもそも、国連憲章では武力威嚇、武力行使、平和の破壊、及び侵略を禁止しているわけです。ですからそれに違反した国があった時は国連加盟国が一致団結して違反国に対抗するという意味です。


ところが今日本が討論している集団的自衛権は、日米安保条約を基礎とした集団自衛権ですから、国際連合憲章に基づく連合軍の自衛かどうかは疑問なのです。
しかし、諸外国の現実問題を見ていくと、加盟国の政治体制がかなり違っており、同じような政治体制の国同士がまとまって自衛をするという事は現状では仕方のないことなのかもしれません?
という理由は私は国際連合憲章に照らせばいずれの国も違反だと思うからです。
多数ある宗教の中で一部の宗教だけを優遇する国、未だに王様が権限を持っている国、一人の人間が異常に多くの権限を持つ国、共産党一党が独裁する国、一応三権分立の民主主義の国の体裁を整えているが実際は株式会社制度に見るように少数大株主とそこから依頼された経営者が王様の権限を持ち会社を思い通りにし、そこの従業員は、経営者の命令通り従う業務を行う奴隷に過ぎず、お金を持った者が勝ちという資本主義の国などがあります。
これらの国は、殆ど人間が法の下に平等な権利を持っているという事に反する行為をしています、宗教独裁、個人の独裁、共産党の独裁、資本主義=お金を持った者の独裁等です。


全体が三権分立・民主主義で公共の福祉(全体の人間としてのモラル---難しい言葉で言えば、社会の構成員の権利,自由や利益の相互的衝突を調節し,その共存を可能とする公平の原理。)に反しない限り、能力に応じ皆平等にチャンスがあり、言論・表現の自由や職業選択の自由等があるという国など世界に一国もないのが現実なのです。
ですから今の段階では議院内閣制をとる日本は、政治体制が一緒である国民主権をモットーとしている国々との集団的自衛権か国際連合軍全体の軍としてしか、集団安全保障に参加出来ないという事になるのではないかと思います。
この二者択一はとても難しい判断だとは思うのですが、これからの日本を担っていく人達の考え次第という事になるのかと思います。
とりあえずの話であれば米国一国ではなく、米国を含めNATOやアジアの国民主権の国々との集団的自衛権という事になるのではないかと私は思います。
そうなってくれば憲法改正も考えなければならないのではないでしょうか?
しかし前に述べたように軍事に関して日米3悪協定という不平等協定が歴然と横たわっていますので、軍事について、今の日本には国民主権は形式的で殆どありません。
シビリアンコントロール(国民意思でコントロール)された日本政府と軍が、日本国の基地を動かせる状態ではありません。
今の日本の自衛隊は米軍のロボット兵器の代わりとして、下請けの機能しか持っていないのです。
そしてこのままの状態で自衛隊を軍として認め、どこかの国と戦闘状態に入れば、イラクやアフガニスタンのように大勢の若者がアメリカの先兵隊として戦死者を出すことになることは明白であると私は思います。
現実的な問題は別にして、いずれにせよ、今の世界193ヶ国の加盟国全体が国連憲章の【加盟国同士の戦争や争いの禁止】という条文を、ただただ守りさえすれば今のように全世界で戦争が起こることはないと思うのですが!?

とにかく今の状態では日本の憲法改正はとても難しいと私は考えます。
またどこの国でも三権分立・民主主義は、秘密があっては、国民が正しい判断ができません。
権力を持つ政府や軍や企業トップグループだけが秘密を持って、国民をマインドコントロールし、政治・社会を自分の優位に導くことは、民主主義とはとても言えないと私は思います。


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