不良おやじの小言

思いのまま、自分で考え 人の生きる人生を認めた上で 

自由に、のびのびと、たった一度の人生

企業の倫理とは

2006年11月16日 | 日記・エッセイ・コラム
企業の倫理とは



Mホームに在籍の頃、社長室(総合企画・情報管理等)というセクションが2部上場から1部上場を目標に作られ、
そこに私は配属になりました、広い部屋の中に役員室がなく役員と社員が皆同居の状態でした。
やがて証券会社から来たKと言う役員が東北より自分のグループを引き連れてやってきました、
ほとんどそのグループが社長室(情報管理室、総合企画室、秘書室)の主要なセクションを占めていました。
しかしその後すぐに、資金繰り的にグループが厳しくなり、T銀行から来たTと言う役員が、
Kを追い出した形で再建という名目で銀行より数10名呼び寄せ会社全体の主要部門に配属し進駐しました。
どちらの派閥にも所属してない私は、浮いてしまい、
しばらくして結果的に出向ということになったようです(一匹狼でなく一匹子羊?)。
そのKという役員とは、又女性セールスというところでめぐり合い、
次に直販セールスと言うところでめぐり合いました。いずれも会社において、
良い思い出は一つもありませんでした。



女性セールスの件
不動産の女性セールスが米国で成功しているということで、町田にTという人間を使い、
営業企画部の管轄で家つくりのお店を作り、女性を大量に採用し販売を始めました。
このTと言う人間は証券会社の出身で、以前よりMホームとは総会屋対策やM&Aなどでつながりがあったようです。
わたしが出向している頃、一例で言うとトップと宅建主任者Sが頻繁に訪れていましたが、
このSと言う人がすぐに上場企業のMG園の社長に納まっていました。
営業統括のK役員も証券出身ですからM&Aかと推察されます(あくまで推察ですが)。
このMG園はいま大手結婚式場の子会社になっているようです。
ともあれ私は昭和50年後半ころからこの会社にトップが依頼した
3000坪の分譲地開発の開発許可取得のため業務を行っていました。
さて女性セールスの件ですが私はほとんどタッチしていませんでしたが、
この町田の会社Wがディラーとして女性セールスを行うことになりました。経過は下記のごとくです。



1、やり方はくわしくは知りませんが家作りのお店(佐賀の源衛門の陶器などを置いている)に来店した 
お客に家を売るという様な発想でした。

2、Mホームより営業が出向し、女性を30名くらい雇い給料を30万前後払い、資金関係は営業推進部が担当していました。

3、金は出て行く一方で資金的には苦しいようでした。
4、一方私は昭和50年後半より3000坪の開発分譲を行っていましたので
開発申請業務として毎月500万ずつこの女性セールスを行っているW会社に払い込み開発の為の資金管理をしていました。
5、そこで、余計な知恵のまわる、
営業推進担当のK役員は今W会社が資金不足をきたしているのは、私の担当している開発のせいだから、
そちらで資金手配をしろと言って来ました。上司は反対したほうがいいと言いましたが、
力の強い営業担当役員に私たちがかなうはずもありません。W会社はだんだんどんぶり勘定になり、
資金的に行き詰まってしまいました。

6、そして、当時のY専務の指示で開発地をW会社(運転資金込み)で売ることになりました。
そのとき実質20億ぐらいの利益をM ホームがとりました(これには開発の問題点がありますのであとに述べます)。
問題を抱えた土地でしたので土地の原価は5億位(実際の売買価格は立会っていないので、
謄本の抵当権から推察すれば)で したので正確には忘れましたが25億くらいで売買契約を締結(MホームがM銀行に保証し、
W会社がその銀行から借入する)したと思います。

①Mホーム→W会社=土地売買契約(Mホーム売上高25億---粗利益20億)
②W会社→Mホーム=土地代金25億支払(M銀行に対しMホーム債務保証)
③Mホーム回収した代金の中から、W会社の必要資金を査定し供給
という方法でその後のW会社の資金管理はMホームで行われました。


7、そして最終的にはお客に対する販売は総額50億位で販売していますから、
差額のお金25億はどうなったのかは専務が亡くなってしまって、担当を外されてしまいましたのでよくわかりません。
※次に先ほどお話した開発の問題ですが


1)開発申請には、申請者の資力及び信用に関する申告書、工事施行者の能力に関する申告書 、
設計者 の資格に関する申告書 、資金計画書等ありますので、
資産も建設業許可関係もないW会社に申請途中 で地位承継し、土地を売ることは無理でした。
 
開発申請
2)その旨稟議書に書き、代表取締役の決済を仰ぎましたが、それでも
代表取締役・各役員の印鑑がずらりと並び稟議書は決裁され、売れと言うことでした。

3)そこで資産も建設業許可関係もないW会社に申請途中で売ることは無理なことを弁護士に説明し相談したところ、
では申請者はMホームのままとし、所有権移転仮登記という方法で売買すればいいということになり、
開発申請者はMホームのまま開発申請を続行し、
土地の売買契約は所有権移転仮登記という形で行い銀行よりの融資資金もMホームが吸い上げ回収しました。

4)専務の死後、私もW会社に出向することになりその時、
W会社のT社長は帳簿をすべてみても言いといわれましたが断り切お金の関係は触らず
(なんとなくきな臭い感じを持ちましたので)、分譲開発申請業務だけを行いました。出向目的もはっきりせず、
K役員には出向を1回断ったのですがほれ辞令が出たぞというので、
仕方なく(サラリーマンの悲しさ)出向し、開発の国土法の一括承認等の手続きに携わっていました

5)開発申請が許可になり、販売開始準備に入り、重要事項説明などの段階に入り、
木の所有が共有(分譲地内の緑被率のため)や、区画の変更は無理な旨等色々原案は作りましたが、
W会社の社長が私の仕事はここまでで良いと言う事になりました。

6)開発申請業務では色々のことがありました。開発分譲のT大での一級建築士の設計担当は
私にもっと金をくれないと申請業務が進まないといい、途中でやめていき、
現地社長が雇った造成業者はまだ確認も降りていないのに、造成地をいきなり段々畑の造成地にしてしまいました。

造成地は傾斜地を利用して造成することで川崎市と開発許可の申請を行っていましたので、
その旨社長に抗議したら、ただ土を埋め戻して、元の傾斜地に戻していました。
これは一旦切土で段々畑にしたら、戻すためには盛土でしかできませんから、
当然盛土部分の地盤はいくら突き固めても弱くなってしまいます。
その上に単純に家を建てることは難しいはずです。そんな業務を行っている私との引継ぎもなく、
その後の販売工事関係は進んでいきました。同じメーカーの人間なのに何故私とちゃんと引継ぎをせず、
現地社長と買い戻す契約をしてしまうのでしょう、オーナーと仲の良い現地社長に頭が上がらないのか、
自分の出世の為でしょうか?その他にもいろいろ理不尽なことは山ほどありました。
権限のない上意下達に従わなければならない、サラリーマンって、とっても弱い立場という事を痛感しました。

7)その後の販売工事関係は悲惨なものでした。開発許可条件はほとんど無視、当然工事完了届け、
検査済証の取得等できるはずもありませんし、
許可申請と違った造成地ができたようでした。現在の東横インどころではない分譲でした。

8)資金の面で考えますと。
おおまかな試算では女性セールス源衛門陶器で12億、開発費用8億、
土地5億とすれば最終ユーザーに50億で販売していますから
(国土法許可と家では40億くらいで十分採算が取れたはず市場より高めで販売)差額25億について見当すると、
この開発には、従来の分譲開発の設計のほかに住民の反対運動や環境アセスメントの調査などで、
許可取得まで10年以上の期間を要していますので、
その他の目に見えない経費も千万単位でかかっていると思いますが、
造成費、家の建築費等を多めにのぞいても15億くらいはわかりません、
そのほか女性セールスの収入が全然ないわけではありませんから、
それらの資金が当時M&Aを盛んに行っていましたので、
その資金に回ったのは容易に想像が付きますがこれも推察です。いずれにせよM&Aは多額の資金を必要とし、
普通の会社は表の金だけでは無理なようです。

次にそのK役員とはMホーム直営店(多機能事業部)でまた出会いましたその内容は下記のごとくです。

※Mホーム直営店(多機能事業部)

販売の強化の為、東京都内に直営店(アンテナショップ)を何箇所か作ることになりました。

営業推進部が主体でK氏がトップで行うことなりましたが、東京には他のディーラーがあり、
新卒採用者が出向から戻ってくるという人事対策が先行し、
どうせちゃんと検討してないで思いつきであろうと思いました。理由としては、

1、Mホーム本社は部材販売と、研究開発、広報活動等が中心で、
実際の顧客に対する販売や、理論だけで、運営は行っていないので、下記のような仕組みを理解して、
直接の販売建築現場を運営することは経験もないでしょうし難しい思っていましたので。


2、上記のような仕組みの中でMホーム販売会社の部分を直接行うのですが、
設立の内容を聞くと肝心なところに全然触れていないのです。

イ、 建設業許可取得はだれがするのかという問題と各営業店の運営の問題、
※もしMホームが許可取得するとすれば、
各営業店は法務局へ支店登記しても、しなくても国土交通省
(2都道府県にまたがる大臣免許)都庁(都内のみ)に届出をしなければなりません。

建設産業・不動産業:許可申請の手続き - 国土交通省


ロ、 宅建業許可取得はだれがするのかという問題と各営業店の運営の問題、
※上記イと同じ。

宅地建物取引業免許申請等の手引/東京都都市整備局

ハ、建築士事務所許可取得はだれがするのかという問題と各営業店の運営の 問題、

※登録は、建築士事務所の所在地の都道府県知事ごとになります。

法人等で事務所を支店、営業所等を設け、そこにおいて設計などの業務を行う場合には、
それぞれ建築士事務所の登録が必要です。

建築士事務所登録と変更等の手引き


ニ、お客(施主)との売買契約の問題他

※もし上記Mホームがすべての許可を取得するとすれば、代表との契約。

例)建築請負契約 請負者 株式会社Mホーム 代表取締役×× 

もし法務局に支店長登記しているのであれば

例)建築請負契約 請負者 株式会社Mホーム 支店長×× 

となります。

3、しかしその基本的なことが決まっていないまま、
プロジェクトがスタートしてしまいました。意見は言ったのですが、消極的?にとられたようで、
以上の事が見事に解決されないまま各アンテナショップ店が、出来上がってしまいました。
多分コンビニとか、ラーメンチェーン店とか、比較的すぐにできる店を営業企画は想定したのだと思います。

資本規制や免許や登録、数十に上る国家資格者の確保と、配置の問題を全然考えていないのです。
金融関係のトップや、証券会社のトップではその方面の知識は皆無といっていいでしょうから
最初から無理だったのかもしれんせん。

4、Mホーム社員ということで社員が採用され、私も業務として店に配属されまし
た。しかしそういう状況ですから、新入社員に会社内容を聞かれても恥ずかしくて
説明の仕様がなく、いつもオドオドと口を濁していました。もともと口下手で、言
語障害気味でしたから、それがさらにひどくなったような気がしました。

5、そのうち営業社員が契約を取ってきました。店長は当然店の名前で契約するぞと
 意気込みます。しかし私は本社に伺いを立てたほうがよいと水を差すようにいってしまいました。

なぜなら、契約主体としては建設業も宅建業の免許も、
都庁(建設大臣免許も都庁経由)に届け出ておらず契約のしようがないからです。
店長と話しても多分理解してもらえないでしょうから言うのも問題だし、本社に聞いてほしい旨伝えたら、
非協力的で消極的と思われたようです。

6、案の定、とりあえず本社契約で店舗はその下につける契約となりました。店舗で
は建設業を店として行える体制(建設業、宅建業、建築士事務所の看板が店に掲げ
られない)がないのです。退社するまで3年ほどいたが店舗の前記問題は改善されませんでした。

7、このように建設業、宅建業、建築士事務所の看板が店に掲げられない会社でしたので本部はあわてて、
M販売建設株式会社という別会社を設立し、今の多機能事業部の社員をすべて移籍させました。
それは当然Mホームというメーカにリスク負担が来ないようにという経営陣が考えたからだと思います。


8、その後、Mホームの直営店に勤めた人に、出会いましたが、「自分が大きなアパートを営業してきて、
契約しようとしたら、お店の契約ではなく、本社契約と いうことで、憤慨した。」と
いっていたのでまだ改善されていないのかとびっくりしました。
なんとも上記の理由をいえないので、また口を濁したままでした。

9、都庁も大手がやっていると、甘いのか私の在籍中の3年ほどは一度も店舗調査はありませんでした
(Mホーム得意の政治力を使ったか、当時-都庁はS学会が色々なセクションで幅を利かせていて、
そこと仲の良かったMホームでしたのでMホーム得意の政治力を使ったのかもしれません?)
政治力のない中小企業が無免許経営を行ったら、即座に営業停止です。
私もひとがいいので企業の秘密とかで、自主的に沈黙。シロウトの仲間入りで、かなしいかぎりでした。

※ 問題点を列挙すると下記のごとくです。

1、本部の建設業はどこが取得し、店舗は支店扱いなのか、営業所なのか、
そしてそこの責任者に契約や発注権限などどこまで任せるのか?

2、本部の宅建業はどこが取得し、店舗は支店扱いなのか、営業所なのか、
そしてそこの責任者に契約や発注権限などどこまで任せるのか?

3、本部の建築士事務所はどこが取得し、店舗は支店扱いなのか、営業所なのか、
そしてそこの責任者は契約や発注権限などどこまで任せるのか?

4、上記と行政関連の届出はどこが行い、店舗はどういう位置づけでどこまでやるか?

5、上記と関連して店舗の免許表示はどうするか。

6、店舗は法的に登記するのか、登記して支配人を店長とするのか。

※以上6点の問題点が解決されないまま、無免許店舗が出来上がってしまいました。
※そのことにより各店の運営の面で下記の問題が発生しました。
イ)売買契約書を顧客と締結する際の、責任者名の捺印の問題、
つまりその店の免許や法的登記がなされていないために店長では契約ができない問題。
以下同じように免許や法的登記がなされていないために店長の権限が明確でなく
下記問題が起きました。

ロ)施工業者と発注工事契約を締結する際の、責任者の捺印の問題(施工責任者は誰か?)。

ハ)お客のアフターサービス契約と、捺印の問題(発注責任者は誰か?)。

ニ)お客とローン契約と窓口担当、捺印の問題、店長権限の問題(ローン契約
責任者は誰か?)。

ホ)銀行と融資の問題、捺印の問題、店長権限の問題(融資契約責任者は誰か?)。

へ)お客の建築代金の入金方法、捺印の問題、店長権限の問題(お客様の振込先
名義人は誰か?)。

ト)確認申請の届出の建築業者は誰か?

チ)その他役所に届けでる名義人名は誰か?

リ)会社案内、パンフレット他の会社責任者名義人は誰か?

ヌ)会計上の店舗を独立採算にするのか、独立採算性にしたら決算における
本支店勘定はどうするのか?

オ)その他

以上のような事が解らず、いちいち、聞く状態で、どう前向きに業務処理が出来るのでしょうか?
(精神論のみで具体的実行がない—この会社のいつもの事ではあるのですが。)


そして退社するまで、免許関係は改善しないまま、都庁に届けないで、
営業していました。そしてその後も数年その状態のようでした。

また会社設立後すぐに、新規採用社員の身分はMホーム社員なのか、
社会保険、雇用、健康保険の会社はMホームかになった時、

営業推進部はMホーム販売建設株式会社を設立し、社員を移籍させました。
そして社員に対し「君たちはMホーム販売建設株式会社の社員であるが、
身分は直営店であるMホームの社員である。」などと人事総務の法的に納得のいかないことを、
私たちが、新規採用の社員に伝え、同意書を取れとのことである。
まったく何を考えているのだろうとおもいつつ、サラリーマン、はい承知しました(ちょっとは抵抗したかな?)。
そのほかに営業推進関係とは下記のような問題もありました。

※Mリゾートについて



当時30歳くらいのKRという人物がMホーム社長と懇意にしていました。
このKRはDo It Yourself(ドゥ イット ユアセルフ)の会社(名前は忘れました)が
運営していた別荘会社と提携し与論島に別荘を建設していました。

渋谷に占いの会社等資本金50万円位の会社を数社持っていたKRは、
その別荘会社(本業ドーイットユアセルフの本体会社)から、与論島別荘のための資金がどんどん出るため、
その資金管理のため本部の常務を送り込まれていました。

これに目を付けたM社長は与論島の別荘分譲の建物の計画の残りを
すべてMホームで建てるようにKRに持ちかけました。

KRはわたりに舟とM社長にすり寄りました、
そしてM社長を抱き込み新宿で派手なパフォーマンスイベントをしたり、
M社長が与論島までの双発機を与えたりしていました。

しかし結果的にKRは資金に窮し、尚且つ別荘計画が頓挫し、最終的に京王プラザに身を隠していました。
そのせいかどうかはわかりませんが(たぶん私個人的には与論島がかなり影響したのだと思います)、
Do It Yourself(ドゥ イット ユアセルフ)の会社は倒産してしまいました。

そしてこのKRのずるいところは債権として持っていた
倒産したDo It Yourself(ドゥ イット ユアセルフ)の会社の発行した手形を、
M社長に泣きつき手形を引き取ってくれと頼みました。社長は与論島全体の計画を飲み込むつもりで、
手形を引き取り、その後の建築はMホームと提携するようKRを負債もろとも抱き込んだわけです。

その手形がちゃんと決済されたかどうかは、私は経理に所属していませんでしたのでわかりませんが、
倒産した以上多分全部は決済されていないと思います。
KRが最初から別荘会社と仕組んだ手形かもしれません。だましだまされですかね?

後から経理の人間に私が関係しているとかなんとか言われたような記憶がありますが、

実際にKRの経理に携わっていないのですからわかりません。われ関せずで嫌われたかな?

そしてその後は与論島の開発地はM・プリシア与論リゾートとして開発、建築し、双発機を飛ばし、
次に一部上場の日本エタニットパイプをM&Aで買収し(資金は何処から出たのでしょう?)
一部上場のMリゾートを作りました。新百合ヶ丘営業責任者のO氏と社長室のH氏の明大コンビと
KRがエタニットパイプに乗り込みMリゾートになりました。

いまはMホームから切り離しM不動産傘下に入りRソリューション株式会社となっているようです。
ちなみにエタニットパイプは歴史のある、技術を持ったパイプ屋さんです。

※大津タウンハウスについて、


詳細には記憶が薄れているので、大まかな経過は次のようなことです。

1、滋賀県大津市の琵琶湖そばの建設省のタウンハウス計画用地を国と共同開発のため、Mホームが取得しました。

2、開発進入用地(道路予定地)を約一坪位地元やくざのT土建が取得し
そこにブル トーザーを置き開発が頓挫しました。

3、たびたびT土建は上京し、私どものところへ来てお金を要求してきましたが、
その都度貴方たちに支払うお金はないと京都へ追い返しました。

4、結局、T土建は直接社長のところまで行き、社長は京慈Mの社長に相談し、
最終的に京慈Mが買い取り、地元で解決するということになったようです。

5、この時の売買には私は携わっていませんが、会社のことですから、また数十
  億の利益を加算し、京滋Mと土地売買契約をしたことは容易に想像できます。

6、数年後に京慈Mは資金的に行き詰ってしまいました。

7、今は京慈Mや建設省のタウンハウスはどうなったのでしょう?

『生きがい村』


1、昭和59年ころ、ディーラーからの出向解除で、本社勤務となり、
生きがい村の計画に 携わりました。

1、社長、総合研究所の構想で、高齢化社会に向かっての、定年退職後の生きがい
として軽労働で収入が得られて、
健康で活動的な生活が送れる生きがい村構想を日刊新聞紙上に発表しました。

1、検討をいろいろ重ね候補地として、家族とのコミュニュケーションがとれ、
スープ の冷めない距離ということで、伊豆高原となりました。

1、販売スタッフとして、積水ハウスを退職した営業の
自衛隊出身のT、とSが担当ということで、社長直属でプロジェクトが進められました。

1、生きがい村構想のため、土地を購入するということで伊豆急の造成土地を
かなり高 い値段で購入する計画を私が担当しました。
私は土地保有税の問題、かなり市場より高い問題、
土地の瑕疵担保責任が条文にないので瑕疵担保責任を5年を要求な ど購入したくないということで、
伊豆急の担当販売役員とかなりもめましたが、当時のY専務が調整に入りやむなく購入することになりました。

1、しばらくしての正月、朝日、読売、毎日、日本経済新聞等に紙面一面広告で、
  水耕トマト栽培による生きがい村が上記の伊豆高原にMホームが分譲すると大々的に発表しました。

1、水耕栽培については総合研究所N氏、と販売のTが主体となって業者と打ち合わせしたようです。
  担当の環境設計部の人間は、部長から新入社員まで、その経過をあ まり知らされていなく、
  私も上記の報道など何も知らされていませんでした。
水耕栽培の業者すらあったことが最後までありませんでした
 (話によると、銀行のお荷物の水耕栽培業者を助ける為
  メイン銀行として生きがい村に採用したらしい?とのこと)。

1、新聞発表した為、生きがい村をスタートさせないわけには行かず。
  水耕栽培生きがい村がスタートしました。

1、社長、T部長が生きがい村構想として、
  希望購入者に対して講演をするということで高齢化社会に向かっての、
  定年退職後の生きがいとして軽労働で収入が得 られて、
  健康で活動的な生活が送れる生きがい村構想を日刊新聞紙上に発表し分譲地購入者を募集しました。

1、 大変な反響(当時昭和59年)で、多数の購入希望者が殺到しました。

1、第一期の木質パネル式建物が20棟建築されましたが、
  案の定造成で伊豆火山帯特有の大きな岩がたくさん出土し、建築は難航し、
  2次造成を余儀なくされ、トラブルが、頻出しました。

1、 第一期は予算をとっておこなったのですが、伊豆高原の2期以降分譲の建物は
  六角形のセラミック試行棟やセラミック連投式試行棟、セラミック管理棟など、
  さながら建物の実験現場の様相を呈していました。
  役所より確認等の問い合わせがあったのですが、社長によれ ば
  全体で許可をとっているからいいのだそうです?
  工法の認可のことでしょうか?開発申請の修正のことだと思ったのですが、
  施工にタッチしていませんのでよくわかりませんでした。
  それにすでに知らぬ間にどんどん建っていましたので止めようもありません。
  当時のセラミック事業の部材処理のためでしょうか?


1、第一期の販売を開始しました。

1、水耕栽培の採算性、生産後の販売方法等はっきりしないまま、
  当時のNHK出身S総合研究所長の顔で、-NHK特別番組『生きがい村』を
  Mホームが伊豆高原に分譲!-と大々的にテレビ宣伝されました。

1、購入者も水耕栽培を中心にした、NHK取材に陶酔し、
  これからの生きがい村に大変な期待をしていました(取材は最初だけで、
  最後までフォローしないのがテレビや新聞の報道と知らずに?)。

1、水耕栽培をいざ始めてみると、大変重労働らしく
  (私は経験していないのでよく分からないのですが)
  薬品の管理、状態のチェック等収入以前の問題が噴出しました。

1、購入者にも、二とおりの人間があり、
  老後のコミュニケーションに重きを置き、水耕栽培を中心に、
  コミュニケーションをはかりたい人と、収入を得たい人とにわかれているようでした。

1、会社を辞めて『生きがい村』の収入に依存し、生活をかけて、購入した人も多数いたようです
 (表面上はやせ我慢をし、収入ではないというが本音は収入という人も多数いた)。
  その人たちは完全に期待を裏切られた形になりました。

1、 結局水耕栽培は大手Mホームが、銀行傘下?の水耕栽培業者に騙された形で、
 軽労働の収入が実現しないことが判明し、トップが中止を決定しました。


1、 水耕栽培をやめることになり、生きがい村住人に、水耕栽培施設の撤去通告をするため、
  住民に知らせ(通告に近い)にいくことになり、
  業務命令で私が(販売のTやS行けばいいのに?)住民に説明に行くことにさせられてしまいました。

そして住民に説明に行ったところ、水耕栽培の施設内に住民から閉じ込められ、
矢のような抗議と罵声を浴びせられました。社長に言えばいいのにと思いました。
住民も権力には弱いようです。

1、それでは生きがいを、皆で研究しましょうということにしました。

それから毎日のように生きがい村の住民に管理棟に集まってもらい、
何が住民の生きがいになるか検討してもらいました。
麻雀、ゴルフ、テニス、健保組合の温泉の活用等いろいろ検討しましたが、
収入という部分がなくなってしまい、

①麻雀は煙草を吸う人が多いから健康を害する(主婦の問題提起)

②激しい運動は体が言うことを聞かない。

③温泉は健保組合のものであるから住民が勝手に入ってもらっては困る(健保組合より)

等々いろいろ問題が提起され、それじゃとビンゴゲームやバーベキュウ大会等、
担当の社員一同でイベントも行いましたが収入という部分がなくなってしまい
基本的な解決は無理であったようです。

ゴルフのコンペは、私が担当を外れてからも、平成4年まで毎回欠かさずに、
出席し5年ほど続きました。しかし住民の体力の衰えで足が痛いなど、
欠けるように参加者が少なくなっていきました。

1、M社長より何度か販売部隊が勝手な、ことをするので、よく管理しろとの話しあり、
  自分で指示をしておきながら都合が悪くなるとすぐこれだと思った。

1、積水販売のTとSはクレームを処理しないまま、無責任に退社してしまいました。

1、急きょ『生きがい村』販売を、普通の別荘分譲地と変更しパンフレットを作成しなおしました。

また、『生きがい村』の資料や広告関係の部署にある一切の『生きがい村』資料を全社的に処分しました。

1、水耕栽培業者からの謝りは一度もありませんでした。
  ま、業者名すらわたしには知らされていなかったのですから、どっちでもいいのですが。
  総合研究所は本当に水耕栽培を研究したのでしょうか?

1、その後、総務で生活をかけて『生きがい村』を購入した一部の住民に対しお金を支払っていたようです。

1、クレームの後、営業推進部K氏から、営業成績があがらないので、新百合ヶ丘分譲のように、
『生きがい村』を丸ごとディーラーに販売しろと話がありましたが、断り続けました。
基本的には上記のような状態で販売された先も困ると思いましたし、
その販売自体が合法的ではありますが中味は関連会社を利用した粉飾計上だからです。

その後Y専務が亡くなり私が担当をはずれ、ディーラー販売したようなのですが、
どうせ利益の前倒しということで、メーカーとして何十億かの利益を取ったのであろ うと思います。

私は粉飾会計のような仕組みの中で働いていたのかもしれません。
それを逃げ切れた、トップやT銀行のT役員や、東北出身のK役員は豪邸で優雅に過ごしていることでしょうね、
うらやましいですね!???ほど良く眠るですかね?(貧乏人のひがみ)
私も片棒担いだのでしょうから反省しています。

企業の倫理とはなんでしょう、企業改善をするためにはどうしたらいいのでしょうか?
弁護士など、資格制度全般に知りえた秘密を守るというのがありますが、
本当に秘密を守ることがいいのでしょうか?所詮資格者も企業から金をもらって仕事をしています。
姉歯問題のように生きていくために不正に目をつぶるというのは企業では日常茶飯
事で資本主義では、
改善は永久に無理なのではないでしょうか?企業は利益を追求するわけですから、
その意に沿わない会計士、弁護士等資格者は変えてしまえばいいのですから。

社外重役制度でも同じでしょう、独立性をどこが保障しているのですか?
金とリンクした社外取締役や資格制度など無意味なものだと思います。
法律を作っている政治家も企業から献金を受けています。
この全体の仕組みの中でどう政治家は現在起こっている問題を解決しようとしているのでしょう?
私自身企業にいた人生は何だったのでしょう、ただ食べるためだったのでしょうか?
残りの人生もっと前向きに明るく楽しく生きたいと願望しています。
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文明の衰亡

2006年11月15日 | 日記・エッセイ・コラム

高坂正暁の「文明が衰亡するとき」という本を37歳前後に 読んだ時、
なんともいえない印象深い思いを持ったことを 記憶しています。
その書物からの抜粋と感想です。

ローマ及びヴェネチィア文明の衰亡に対する考察を行っています。

1、ローマ文明の衰亡の説を下記の5つに分類して解説しています

①蛮族の侵入によって滅びた

②人間の変化ローマ建設時人間と衰亡時の人間がまったく異質のものだ

③自然の気候変化により生産が衰え衰退した

④共和制から専制政治に変化したために滅びた

⑤経済的破綻によって滅びた

⑤の経済説に面白い記述があります。

「ローマにおいてそれぞれ皇帝が「行政改革」を試みたがなかなか難しかったそうである。
例えば皇帝ユリアヌスは高官を4人に減らしたのであるが、彼の死後10年足らずの間に高官が2百人になり、彼が17人に減らした秘密情報官が3千人に増えたそうである。

こうした状況が官僚制を動かす為のコスト維持の担税能力を超えてしまった。
その犠牲者は中小の有産者であり、彼らは次第に大資産家に吸収されていった。
この大資産家たちは国家の圧力が耐えがたくなると、脱税や特例措置によって自らを守った----こうして危険な悪循環が現れる。
国家の支出の増大は耐え難い税の圧力を生み、そうした圧力は高官と大資産家の側の合法的あるいは非合法的な税の逃れの傾向を強める。

----この悪循環の帰結は一つであった。すなわち、巨大な国家の破産と、税を逃れ、巨大な資産を持つ少数の特権的な人々が政府から独立して、経済的小宇宙を作ることである。」

何か、日本の将来を暗示しているようではありませんか。

2、ヴェネツア色々と衰亡の原因が述べられていますが。

文明は滅びる時は新しい事業に乗り出す冒険の精神や活力の衰退と守旧的正確の増大、自由で開放的な体制から規制と保護の体制への変化、すなわち柔軟性の喪失と硬直化が滅ぼしてゆくといっています。

いろいろの話の中で政治手法の記述があります。

「直接選挙制というともっとも民主主義的であると誤解され易いが、それは大きな功績をあげたりして有名になった者が選ばれ易く、「大衆の支持」を得ているということで、強大な権力を持つ恐れがあるものである。
直接選挙に対するヴェネツア人の警戒心はまことに徹底していた、元首を選ぶ際まず共和国国会の議員のうちから、くじで30人を選ぶ。その30人をくじで9人に減らす9人は40人を選挙する。選挙された40人の中から、くじで12人を残す。その12人が25人を選挙する。

25人はくじで9人に減らされる。9人は又45人を選挙しくじで11人に減らされる。
残った11人が41人を選挙しようやく元首を選ぶ有権者になれるのである。
元首はこの41人のうち25票を獲得できて当選するのである。

なぜこのような複雑なことをしたのか、アトランダムな過程を作り、事前工作をほとんど不可能にした」

日本も政官癒着等を断ち切るため採用してはどうでしょうか。

昔の人は色々考えるものですね。また世襲制の貴族政治であったようですが、その仕組みは滅私奉公的な日本の武士のような性格を持っていたようです。

この本では特にヴェネツアの生き方が日本に似ており、
その文明の繁栄と衰退を検証し参考にしてほしいと呼びかけているようです。
ヴェネティアも資源がなく仲介交易による通商国家であり、
外交的には駆け引きがうまく、しかし嫌われることが多かったようです。

日本のことは下記のごとく述べています。

「日本は水資源と人的資源を除いて領土も狭く資源もほとんどない国であるが、1億以上の人口が良く教育され勤勉である。
しかし領土が狭く資源がないということは強大な国家となる基盤がないにもかかわらず広汎な通商をおこなって経済的に成功した。

(戦前には、日本品排斥運動や日本品に対する差別的輸入制限、日本への羊毛、スクラップ、石油の輸出制限と言うようなことが行われた。
要するに戦前の世界は、日本にとって狭い世間であった。
だからその狭い世間、息苦しい世界で、日本の生存権を確保するために、大東亜共栄圏と言うようなことを叫んでみたが、惨憺たる失敗に終わった。ところが皮肉なことに敗戦によって日本が得たものはGATT・IMF秩序への加入であり、
そこでは原則として、日本品は差別的制限を受けることなく、世界各国に輸出することができる。輸入の方は、お金さえあれば何でも買える。その結果、明治以来、初めてもっとも自由な世界が目の前に広がった。---他文章の引用)1960代池田首相の所得倍増計画等により、
戦後日本は高度成長した。」

最後に米国の衰退傾向についても述べています。

「戦争終結の際、日本の神風特攻隊や極度の愛国心に日本の再度軍事強国化を恐れた米国は、マッカサー・GHQを通じ日本の軍事的無力化を図りました。
戦勝国としては当然のことであると思います。

マッカサー・GHQは憲法の制定、天皇象徴制等矢継ぎ早におこないました。
しかし、その後ソ連や中国の共産圏の台頭が目立ち始め、
米国は日本を共産圏の防波堤にしなければならないと考えました。
従って日本に軍事力が必要と考えたのである。それが警察予備隊であり、いまの自衛隊です

(この時もっとも米国に抵抗したのは自民党の親分である
吉田茂と聞きます、彼は軍事の恐ろしさと軍事が財政を食いつぶすことを良く知っていたのではないかと思います。によって日本は軍事費に予算を食いつぶされることなく高度成長を成し遂げられたと私なりに思っています。)
----カッコ部部分は私個人の感想

しかし、その後60年経過し、結果としてよかったかは疑問なのです。
敗戦国であるが故に、米国の後を続けと、米国の政治・経済踏襲していき、日本の10年後が今の米国とよく言われました。
経済的には大量生産・消費社会を作りました。」

また米国に対等にものが言えて、立ち向かえる政治家は皆無
に近くなってしまったようなのです。

最近の民主党党首の訪米にみられる何でも米国賛成のような発言が目立ちます。
自民党も民主党の政治家も、米国参りは何か米国に睨まれたら政治家として生きていけないようなおぞましい行動がみられます。
政権をとるためには戦勝国参りが必要であるのかもしれないのですが。

このような状態で、日本で日本人が、どんなアイデンティティーを持てるというのでしょうか。
所詮敗戦国だから仕方ないことなのかも知れませんし、もちろん戦後の日本の経済発展と自由主義には米国に感謝しなければならないことも多数あります。

しかし、もっとも多くの米国国債を買わされ、日本としては800兆に近い国の借金を抱え、軍事費は増大傾向にあり(最新鋭機器と言われ、高額で中古兵器を米国から購入し)、
韓国・中国・アジア諸国からは米国の手先と言われ、なにか日本人の誇りまで売渡したような気になりませんか。

なんとか日本人がアイデンティティー取り戻せるよう政治家の皆さんがんばって。



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