ジョージ・いまさきもり の アンダンテ・カンタービレ

晴れた日は農業とウォーキングとライカ、雨なら読書と料理。
そして毎日ラジオがお伴です。

グローバル経済の今とこれから~浜 矩子さん

2011年10月29日 | 社会について独り言

浜さんの講演会に行って来ました。
同志社の静岡キャンパスが静岡市で開催されて、
浜さんの講演が無料で聴けるということで、
同級生の友人をさそって、JRででかけました。

素晴らしい秋晴れで、せっかくなので、
午前中は、東静岡~草薙で行われた、
JR東海のウォーキングに参加して、
県立美術館のロダンをみてまいりました。

講演会はインメッセという大きなホールで、午後2時から始まりました。、
約500人くらいの聴衆は、”浜さん節”にすっかり魅了されてしまって、
あっという間に1時間が過ぎてしまった、という感じでした。、



お話の題は
『グローバル経済の今とこれからー何がどうなる、何をどうする?-』
でした。

『何がどうなる』ということに関しては、
これから、2つの恐ろしいことと、
1つの本当は恐ろしくないことが起きるそうです。

恐ろしいことの一つは、『財政が恐慌を引き起こす』ということです。
国の財政というのは、
本来国民というか民間というか社会というか、
それらが窮したときに、レスキューをするものであって、
そのことを期待して、皆は税金を払っているわけです。

ですが、世界で多くの国の財政が破綻して
レスキューができるどころか、
反対に国民に犠牲を強いて、国をレスキューして欲しい、といっている状態です。
グローバルの時代は、
地球は一つとばかりにマネーは国境を越えて動くが、
国家は国境を越えられないから、こういう事がおきてしまいます。

恐ろしいことの2つ目は『どんぐりの背比べ』です。
米国はこれまで、世界のどの国の追従も許さない覇権国家であったが、
ここにきて、その力を失っています。
その米国に代わって覇権を取れる国がない。

中国の国力を評価して、次は中国が覇権を取るとする声がありますが、
中国は世界の工場ではなくて、
世界の国々が中国で工場を動かしているだけです。

抜きん出た大国がなくなって、
力が拮抗している国々がぶつかると
つまり『どんぐりが背比べをする』と...、怖いです。
摩擦が高まり、火を吹くかもしれない。
鉱物資源の奪い合い、鉄道などの大型プロジェクトの取り合いは始まっています。
TPPも、本質は『自由化』ではなくて、
特定のエリア内だけを自由化することで、自分の地域だけが有利になろうとしている。
国際的には『不自由化』であります。



本当は怖くないことの一つは『1ドル50円時代』です。
なぜ1ドル=50円が怖くないか。
ドルは今まで基軸通貨として、世界中がみんなドルを多用していたから
ドル高、ドル安に皆一喜一憂してきました。
しかし、今やドルの力は落ちてきました。

米国は政府も赤字、民間も赤字。
日本は政府は大赤字、しかし民間の黒字で、日本は大の黒字国。
そうなれば、ドルを使うのではなく、円を買って使うというのは、自然の流れです。
かつてのポンドが基軸通貨から落とされたように、
ドルも同じ運命をたどるということです。

かつて1ドルが360円の時代が長かった。それが今75円です。
1ドル360円の時、1ポンドは1008円でしたが、今は125円です。
1ドル=50円、何も怖くはなでしょう。

さて、このあと、浜さんは
『それでは、何をどうする』ということで、大胆な提言をされました。
ここで書いてもいいですが、
浜さんは同じ題で、他の会場でもお話をされるようですので、
手品の種明かしを先にしてしまうは、はばかれます。
それに、明後日の月曜日には、浜さんの『ビジネス展望』がありますね。

『何をどうする』か、どういう提言をされたかは、
また後日に書くようにいたします。

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ジュビロと歴史の町、磐田を歩く

2011年10月23日 | お出かけとウォーキング

好天気だった先週の午後、歴史の町、磐田を歩いた。
磐田は、古くは遠江国分寺が置かれ、
江戸時代には東海道の宿場町として栄えた所である。
今回は、JR磐田駅から歩き始めて、見付天神社を目指した。

JR磐田駅。



駅構内で。ジュビロ選手が影絵で歓迎してくれます。



駅前のロータリーで。お出迎えありがとう。



通りの両側で迎えてくれています。



はい、こんにちは。
ジュビロは、今節9位と低迷。
頑張ってください。



私がこちらの高校に短期間通った時は
『天平通り』ということでしたけど、
今は『ジュビロ通り』、まあ、いいでしょう。



この付近は中泉と呼ばれていて、
奈良時代頃の遺跡がたくさんあります。

遠江国分寺の跡です。



天平年間に勧請された(国)府八幡宮様。





10月2日に府八幡宮様の祭りがあったのですが、
ちらっと見にきていました。その時の様子です。
立派な屋台がたくさんでていました。









私が一時通った高校です。



こうして20分も歩くと、見付の宿に到着します。
続きは次回とさせて下さい。



復興と原発には『裁判員』制度を見習え

2011年10月15日 | 社会について独り言

一般国民が『裁判員』として刑事事件に加わっている裁判で、
死刑を含む判決が短い審理期間でスピーディーに行われている。

それに対して、
原発事故の後処理や対策は、やることがいっぱいあるのに遅々として進まない。
急がねばならない第3次補正予算も、財源を巡って、牛歩いや蝸牛歩のていたらくである。
こんなことなら、『裁判員』と同じく、
国民の中から委員を選んで、物事決めた方が良いのではないか。
日本の今の指導者達は、
膨大な利権や権力に目を奪われ、保身そして政局ばかりに囚われて、何も決められない。

原発については、健康・食料被害・補償・電力不足など速く進めなければ、国土と国民が亡ぶ。
それなのに、あの『原子力村』の諸先生達に再び、しかも慎重に(のんびり)あたらせるという。
『やらせ』と『お金』で欺いてきた腐ったあのリーダーも、これからも原発の指揮を執るという。

しかし、これだけは考えて欲しい。
裁判員制度を導入して、
人を無罪放免するか、牢屋に何年閉じ込めるか、死刑で命を奪うか、という
震えるほど重要な事を無作為抽出で選んだ一般国民に委ね、
順調に成果が出ているのである。
だから、国の重要な政策決定にも是非、一般国民を直接参加させて欲しい。

これには、4月に内橋さんが紹介してくれた、
『コンセンサス会議』が頭に残っている。
デンマークでは重要な政策決定に、十数人の一般国民を参加させている。

下に、その時のお話を再掲させて頂くので、是非お読みいただきたい。
 

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「合意なき国策」  内橋克人 さん
NHKラジオ『ビジネス展望』 4月26日

(少し長いですが、お話の総てを掲載してみました。)

々が生きる社会に例えば何か新しい技術が入って来ようとするとき 、
その新しい技術に対して市民はどのような不安を持つのか、
その不安の全体というものをきちんと掴かんだ上で
その技術を社会に受け入れるのか 否かこれを決定する 、と
つまり政治的な意思決定の中で、
市民の不安、例えば漠然としたものであっても、
その不安というものをきちんと反映させていく 、と
これが国民的合意がある国策つまり コンセンサスがある国策ということです 。
市民の不安を素人の戯言などと言って軽んじたりしないということです。

逆にそいういう合意形成のあり方でなくて、
政府権力が最初に結論ありきとばかりに一方的に強権的にまず結論を決めてきててしまう、と
そういう政治の進め方を指して、私は国民的合意、コンセンサスなき国策と言ってきたわけです。

国民的合意がないままに官僚が国策を決めてしまう、とこういうやり方ですね。
いくら「科学的に安全だ」と科学者・技術者が、あるいは政治家たちが声を合わせましても、
市民の不安を解消することはできない、と
そのような場合はその新しい技術を社会に受け入れない、と
これが新しいリスクソサエティー、リスク社会時代に対応する
正しい政治の在り方ということになっているわけです。

20世紀末以来、ヨーロッパ社会では
これがリスク社会における新しい思潮になっておりまして、
もともとリスクソサエティーという言葉は
ドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックさんというミュンヘン大学の教授が築かれた論理として有名です。

その正反対つまり国民的合意なき国策、これを相変わらず続けてきた典型が
日本の原子力エネルギー政策ではないだろうかと思います。
例えば政権交代で登場した民主党政権のもとで、
2010年6月、原子力重視のエネルギー基本計画が国策として決められてしまいました。
総選挙の際に掲げたマニュフェストは簡単に捨てられてしまったわけです。

その新しい国策の中身というのは、
まず第一に2030年に向けて原発依存率を約5割に上げる、
  つまり電力エネルギーの半分を原発でまかなおうというものでした、現在は3割ですね、それを5割にする。
第二にそのために新しい原発をさらに 14基も新増設する。
  現在 54基あるわけですが、これを合計68基にすると。原発過密列島といえると思います。
まさに原発エネルギーへの一極傾斜といえるのではないでしょうか。
そればかりでなくて、原発を戦略的輸出産業にするという重大な決定まで行っております。

自民政権時代もまさに合意なき国策で強権的に進めてきました。
いまその帰結が福島と言えるのではないでしょうか。
 (最近では”Tsunami”と同じように”Hukushima”と海外では呼ばれるようになっていますけれども。)

それでは合意ある国策を実行した具体例を海外の例であげてみたいと思います 。
1985年のことですけれども、
「原子力は、永遠にこれを放棄する」と議会で公式に決めたのがデンマークだったんですね。
この国では、コンセンサス会議というものが持たれておりまして、
これは『デンマーク技術協議会』と呼ばれるものですが
どういうものかといますと、ます
20人程度の市民を集めまして遺伝子操作とか原子力とか地球温暖化問題などですね、
そういうテーマを中心にして話し合いが行われます。
メンバーは男女の割合・学歴・地域、様々な条件をバランスさせて選ぶわけです、
そこに中立的な専門家・科学者、つまりエキスパートを入れまして
徹底的に専門的知識を与えながらとことん議論を尽くすわけです。

その結果、例えば市民の感覚として
「科学的にそう言えるかもしれないけれども、然し私は不安だ。」とか
「これだけ合理的に勉強したけれども、それでもなおこのように不安が残る」とかですね、
様々な意見が市民の側から出てきます。

そうしますと次にそれらの意見をすべて事細かに記録に残しまして、
議会始めメディアにすべて公開します。
最終的な意思決定は議会だとしましても、
このように誠実に行われた末の国民の議論というものは、
議会も科学者も誠実に聞かなければならないということになっています。
決してそれを無視したりあるいは軽視したりすることはできないわけです。

こうした対応がリスク社会時代、リスクソサエティー時代に
ふさわしいあり方だとそういう認識が徹底しているわけです。
こうしたことの結果、社会への流入が食い止められた技術などの例はたくさんあります
例えばデンマークでは今話しました
「原子力エネルギーは永久に使わない」ということにしたのを始めとして
例えば「動物に対する遺伝子操作の研究には国として研究費は出さない」と
そういう多くの国策が国民的合意を得てそのうえで決定されているわけです。

市民の不安をいかに少なくしていくか、小さくしていくか、
そのための政治システムを絶えず生み出していく、
それがリスクソサエティー時代の政治の在り方だということになります。

デンマークでは
消費するエネルギーを減らしながら豊かになるというあり方に向けて知恵を集めまして、
エネルギー消費の総量を増やすことなく、石油ショックの頃から現在までの間に GDPを
ほぼ2倍に成長させることができました。

デンマークに限りません。
前回この時間に紹介しましたように、
米国カリフォルニア州の州都サクラメントで住民投票が行われまして
サクラメント電力公社のランチョ・セコという原子力発電所の閉鎖が決まりました。

またイタリアでも
1987年に20基の原発すべて国民投票で廃止をするという決定をしております。
1990年にはすべて閉じられました。
その後再開を目指す動きが見られたのですが
日本の福島事故の発生で直ちに凍結されました。

菅政権もこの4月1日のことですが、エネルギー基本計画の見直しに言及しました。
私はすでに今から29年ほど前に、『原発への警鐘』という本を出しております。
今度『日本の原発どこで間違えたのか』と題して緊急復刻をしました。
単行本のボリュームの関係で『原発への警鐘』の一部の収録にとどまったのですが、
私はその中で次のように書いております。
 「この国においては人々の未来を決める致命的な国家的命題に関してさえ、
  国民的合意の形成に努めようとする試みも意思さえも殆ど見受けられることはなかった。
  国の存亡にかかわるエネルギー政策が、原発一辺倒に激しく傾斜していった過程を
  一体どれだけの国民が認知し同意したであろうか」
と、こういうふうに書いたのです。

リスク、つまり危険が生み出す人々の不安・・・・その責任をだれが引き受けるのか。
不安を生み出さないためにはどのような社会システムを作っていかなければならないのか。
このリスク社会の中で、今こそそれが問われているのではないでしょうか。
と私はそういうふうに考えます。

筆者注)コンセンサス会議
http://www.ajcost.jp/material_h_2.htm

##この文章は私の覚えとして放送を要約したものです。##
今週金曜午後から、NHKホームページで放送が聴けます。
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北海道の生協から学ぶこと~遠藤 功 さん

2011年10月06日 | ラジオ番組

10月6 NHK『ラジオあさいちばん』から
☆☆☆ ビジネス展望 ☆☆☆
『北海道の生協から学ぶこと』 遠藤 功さん

北海道のコープ札幌を訪ねたが、
これからの日本の企業の在り方を考える上でとても参考になった。

同社は、組合員数 133万人で、北海道の半分以上の世帯が加入している。
事業規模も全国150の生協のトップに位置している。

設立は1965年で50年以上経つが、決して順風満帆な歴史ではなかった。
1997年に拓銀が破綻して以降、北海道の経済が深刻な状況に陥ったことや、
自らのバブル時代の経営多角化の失敗と過大な投資による借入金の負担で、
経営破綻という大苦境に立たされた。

その為、1999年に大きなリストラを行い、
且つ『小売業としての原点を見直す』という姿勢で再建に努めてきた。
そうした結果、2001年の売上高は1453億円まで落ちていたが、
2010年には2477億円と大増収を成し遂げた。

経済の低迷が続く北海道おいて、
このように脅威的な発展を遂げたコープ札幌の経営から学ぶ事は多い。

まず一つ目は、
市場環境の変化に機敏に対応していることである。
北海道でも高齢化とか過疎化が進んでいる。
札幌を除けば、人口が減少し年寄りが増えている。
小売業としての環境は悪化を続けている。
今までのようにお店を開いて客を待っていても売り上げは増えない。

そこで、コープ札幌では宅配に力を入れている。
今では宅配の売上高は全売上高の 3割近くを占めている。
この宅配を利用している世帯は28万世帯、
北海道の9世帯に1軒はこのサービスを利用している。

また宅配ではカバーできない過疎地域などについては
移動販売車を走らせている。

『市場の縮小を嘆いていても仕方がない』
『商品を待ち望んでいる人は必ずいる』
そこへ、こちらから近づいて行くという努力が実ったと言える。

二つ目は
この生協では現場の知恵を巧みに活用している
『改善カード』というのを、全職員・パート社員に持たせ
ボトムアップの業務改善活動を盛んにやっている。
これが、全社の活性化やパート社員の育成につながっている。

三つ目は
『最先端のものをやろう』という先進的な考えがあること。
例えば、いま宅配に使っている車両は 300台あるが
全車両がガソリンを使わない『バイオディーゼル車』である。
燃料に組合員から回収した天ぷら油などを使用している。

店舗もソーラーパネルを備えた木造のエコ店舗で
CO2の排出量も大幅に削減しているということである。

北海道経済が疲弊して元気がないと言われているが
中にはこのように元気な企業もある。

コープ札幌からは、
高齢化・過疎化・環境問題・労働環境などの環境の変化に対して
ただ嘆いている『待ち』の姿勢ではなく、
むしろ『ビジネスチャンス』ととらえて積極的に挑み、
自らを変身させていく姿勢がとても重要だと、学ぶことができる。



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##この文章は私の覚えとして放送を要約したものです。##
今週金曜午後から、NHKホームページで放送が聴けます。
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本田宗一郎ゆかりの天竜二俣を歩く

2011年10月02日 | お出かけとウォーキング

秋晴れの一日、天竜浜名湖鉄道主催のウォーキングで
久しぶりに北遠の天竜・二俣を歩いた。
8月の川下り船の転覆事故の後に当地を訪ねてから1月経った。

スタートはお洒落な赤電の遠州鉄道西鹿島駅。
天竜浜名湖鉄道も乗り入れている。


今日のコースは、立ち寄り先は定番のウォーキングコースだが、
見晴らしが素晴らしい鹿島橋は通らないで、
事故現場から大きく廻リ道するコースで、
はるか下流の飛竜大橋を通って、二俣の街中に入った。

    (写真の上方奥が事故現場)


飛竜大橋は、天竜川に架けられた橋としては
最も新しい橋で、外灯に竜が彫られている。



二俣の町は、元々林業が盛んだった。
今でも、製材所が多い。



前回のウォーキングで気になった、コース案内については、
今回は、白い粉で汚く道路に書いたところはなく、
すべて、たて看板がきれいに立てられていた。
とても嬉しい気がした。




天竜浜名湖鉄道は二俣の町中は高架橋だが、
その下をみんなお辞儀をしながら通る。



二俣の町巡りは、鳥羽山公園、二俣城址、を経て
清瀧寺に到着。
徳川家康の嫡男で、自害をさせられた徳川信康を祀っている。





このすぐ向かいにあるのが、『本田宗一郎ものづくり伝承館』。
世界の”ホンダ”の創始者、本田宗一郎は当地の出身。
彼の偉業を称える『本田宗一郎ものづくり伝承館』では
ホンダの初期のオートバイ数台が展示されていて、
年配者の多数が懐かしそうに頷きながら眺めていた。



次の写真は、ホンダカブF型(昭和27年製)。



僕らはこれを『ポンポン』と読んだ。
洗濯機や冷蔵庫、テレビよりずっと以前に、
遠州っ子の垂涎の的だった。

二俣は林業が盛んの頃は、大変な繁華街だった。
その面影は、今でも料亭や飲食店に見られる。
内科医院も歴史と風格の感じられる西洋風建築だった。