private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

第16章 3

2022-10-02 14:46:47 | 連続小説



R.R

 ナイジの顔がかしみ表情に苦痛が走る。痛みは治まってはくれなかった。それなのに出走時刻は刻一刻と迫ってくる。本戦が行われている中で、全員ピットレーンにいるか、自分のクルマで出走を待っており、ひとりガレージの中で待機するナイジがそこにいた。
 いまもレースの前にオースチンとの儀式をおこなっていた。手足で操縦系を操っての頭の中で試走をしている最中に、痛みに襲われるたびに間断してしまい集中できないでいた。
 そのため一向にオースチンの具合と自分との同期がはかられず、コース戦略に手もつけられない。左手は正確にいえば動かしさえしなければ痛むことは無い。ただ、レーシング状態を想定し、素早く、烈しくシフトチェンジをすれば痛みが走り、続けていけばしだいに感覚が麻痺し握力が保てなくなる。
 痛みが引く間隔は確実に短くなっており、なるべく手首に負担のかからない動作を模索しようと、何度かギアを入れ変える動きを試してみる。
 1、2、3、トップ。上に押し上げる1と3はそれほどでもないが、手首を返さねばならない2とトップには問題がある。レース中には3から1や、4から2とひとつ飛ばすケースもあり、そこにも懸念が残る。気を遣かって慎重におこなえば痛みを抑えることも出来ても、そんな動きでレースになるわけがない。
 瞬時の判断と咄嗟の動きにどこまで耐えうることができるのか、取り返しのつかないミスを起こせばロータスに勝つことはおろか、最悪の場合、事故につながることさえありえる。
 そんな気持ちを断ち切るべく、自分にまとわりついた重く湿った空気を取り払おうと、本能に任せたギアチェンジをしてみた。
 3から2にダウンした時、手首から痛みと伴に感覚がなくなり力が抜け、痛みが引くまで数分を要してしまった。思わず手首を右手で押さえると却って痛点を触ってしまい、その痛みの方が大きくなってしまった。
 さんざん思案しては同じことを繰り返している自分が愚かでしかない。
――ダメだな、このままじゃレースにならない。勝負どころか、まともに走るのも、おぼつかなくなる。もう少し力が入ればギアチェンできるのに… どうする――
 何か手を打たなければ、走る意味さえなくなり、そんなレースをしてしまえば、関係者や観衆から非難を一手に浴び、矢面に立たされるのは自分だけじゃない。
 保身に走るつもりはなくとも、何のために今日走るのかを考えれば、このままレースを迎えるのは、あまりに無責任であるのは否めない。打開策を講じようと必死に頭をひねっても、焦れば焦るほど、アタマはうまく回ってくれず、熱病に冒され悪夢を繰り返し見ているのと同じで、無情に時は進み苛立ちが募るばかりだ。
――こんな気持ちになったのははじめてだな――
 うまく考えがまとまらないのは何も焦っているからだけではなく、認めたくはなくとも、前回の出走前とはまったく違った圧力が自分に覆い被さっているという理由もあった。
 戦うべき相手が多すぎることで、どこに意識を集中させればいいのか戸惑っていた。単純にロータスの男だけに照準を合わすのではなく、今日集まった大観衆を含め、自分に関わる周りの人間も相手を意識しはじめていた。
 勝負に徹するだけではなく、彼らの要求を満たし、前回を上回るほどの魅了する走りをしなければ、自分という価値があっという間に空気より軽い存在になってしまうようで、知らず知らずの内に得も知れぬ畏怖となって身体を締め付けていた。
 ある種の経験は、成長することと、後退することの二面性を持ち合わせ、どちらかが主導権を取るかで、人が成長する場面での岐路となるならば、いまのナイジの現況は、あきらかに負の階段にさしかかっていた。
 自分には関わることはないはずであった好奇の目にさらされる中で、たとえ、そうであっても上手くいなせる自信はあったはずなのに、いざ、その心境に置かれた今、みっともない姿を露呈することを避けようとしている自分がいた。
 不安は他人からもたらされるものではない、自分の内面に巣食っているだけだ。自分以上を求めるた時に起こる意識のズレが、勝手に壁を高いものにしていることにより、それをまわりの要求と履き違えている。そしてそれに輪をかけるようにマリのことが、より一層ナイジの精神を不安定にさせる元凶となっていた。
 スタンバイの前に最終検査をするために医務室に行った。現状を打破する手立てが思い浮かばず、その時のことを振り返っていた。
 いや、正確に言えばその時の志藤からの言葉も、いまのナイジを冷静でいられないくしているもうひとつの元凶であった。
 検査は単純な確認事項だけで、特に問題もなくそうそうに診察は終了した。あの医者、志藤は、ナイジの左手のことをわかっているはずなのに何も言わなかった。言われていても反論する言葉は用意しておいたのに、志藤はそんな無駄なことに時間をかける余裕はなかったのだ。
 マリに必要でもない仕事を言いつけて意図的に席を外させた。志藤は深い思いを秘め、細めた瞼の隙間から伺える瞳には多くの言葉が隠されているように見える。
 ふたりきりになった医務室で、志藤がナイジに告げたマリのこと。なぜこのタイミングだったのか、その時はただ、頭が真っ白になっていた。レースを前にして、いやそれより今度どのような顔でマリに向き合えばいいのか。ナイジには志藤の意図がつかめず怒りにも似た感情がわきあがり、いつしか志藤を睨んでいた。
 そんな反応を目にしても志藤は揺るぐことなく、ナイジから目を離すこともなかった。その強い信念に気圧されるようにナイジは目線を切りった。
 志藤が口にしたマリの状態は、ナイジが思っていたものより深刻だった。その時、最初にアタマに浮かんだのは、誰だって自分の生命が保証されている訳じゃないという屁理屈のような理論だ。ましてやレーサーであるならばその確率は他の者より高そうだと笑いそうになった。
「やはりまだそこまでは聞いてなかったか。マリを悪く思わんでくれ。ワシはな、なにもオマエを追いつめようとしているわけじゃない。ただ、知って欲しいだけなんだ。そのうえで判断して欲しい。マリとその運命を共にするのか。それともお互いにケガをしないうちに引き戻すのか」
 そんな言われ方をして、じゃあ止めますと言えるわけもなく、もともとそのつもりもない。志藤がナイジを試したわけでもない。そこにはなんの駆け引きもなく、ただ自分の本心をありのままに出しているだけだ。
 もうひとつ、ナイジが頬を崩しそうになったのは、自分も左手首のケガを隠しているのと同様に、マリもまたその真実をナイジに話せていなかったことだ。ともすれば他人行儀だと感じてしまう部分も、いまならその相手を思いやる気持ちが素直に腑に落ちる。
「オレにはマリが必要なんだ。それになんの疑いもない。先のことまで考えて答えを出すなんて、いまのオレにはできない」
 それでもいまは素直にマリの顔を見れそうになく、用事から帰ってくる前に医務室をあとにした。そこも含めて志藤がマリに用事を言いつけたことを理解し、その時は、なにか先回りされている状況が面白くないナイジであった。
 今にして思えばレースを前にして知りえたことは、この流れの中で決められていた運命だったともいえ、ほとんど賭けに近いナイジの決断にはずみをつけることになる。
――なんだ、しょせんオレもこんなもんだ。これじゃあネコの手でも借りるか、勝利の女神にでもすがるしかねえな… ――
 そこで、ナイジの脳内にぽっかりと空白が生まれた。そこに侵入しはじめたひとつの妙案が大きく膨らみだす。口元が徐々に緩みだし、やがて口から息が漏れはじめ、あとは勝手に笑いだしていた。
「バカバカしい。でも、オレらしいや。それにネコの手よりよっぽどマシだし、女神ってほどご利益があるわけでもないだろうけど。 …マリが聞いたら怒るな、確実に」
 憑き物が落ちたかのように暗雲が晴れていった。単なる思い付きをきっかけにでさえ、呪縛から解かれていく自分を客観視してみても、説明できない不思議な感情に流されていたのがわかる。
 それに、ここでマリの存在が大きくなるとは思いもよらなかった。今回の一連の流れがマリの登場からはじまり、志藤の独白を受け入れ、気持ちを伝えるには、そこに運を託してみてもあながち間違いではない。
 意を決してからの行動は早かった。車外に飛び出し、ガレージを抜け、ピットレーンを横切る。ピットフェンスから掲示板を見上げればアタック中のクルマは都合よく1コーナーに差し掛かったばかりで、まだ計測がはじまっていなかった。ピットレーンに出走を終えていたミキオがナイジの姿を目にし声をかける。
「どうした、待機してなくて良いのか。何か気になることでも… 」
 ナイジはミキオにちらりと目をやっただけで、何も答えることはなく左手を挙げて振るだけだ。ミキオもつられて手を挙げるが、ナイジの思いもよらぬ行動に、口は開いたが声にならない。
 おかまいなしにナイジは、ピットフェンスを跨ぐとホームストレートを小走りして横切っていく。面食らったのはミキオや甲洲ツアーズの仲間達だけでなく、本日の主役の一人がした、常軌を逸した行動に誰もが唖然として固まってしまった。観衆もその行動に気付き出し、レース中のクルマを追う目をそちらへ向けはじめた。
「何やってんだ、あのバカァ! 早く連れ戻して来い!」
 不破が悪態をついても、さすがにこればかりは、いくら命ぜられようとも、後を追いかけて同じようにホームストレートを縦断するわけにもいかず、誰もが手をこまねいたまま傍観するしかなかった。
 それにナイジが何の考えもなしにこのような行動をとるとも思えず、ツアーズの仲間たちは何をはじめるつもりなのか、少なからず興味をもって待っていた。
 ナイジはホームストレートの真中辺りまでくると、首を回しスタンド全体の様子を眺めてみた。さっきまで自分に無言の圧力をかけていた群衆が、今はもう単なる人の波であり、人の塊という個体にしか見えず、自分が平静に戻っていると予期せず確認していた。
 冷静すぎる自分は、観衆を俯瞰して見ることができ、その落差が面白く思えるほど楽しめている。あの時の得も知れぬ緊縛感はいったいなんだったのか。周りや、環境のせいにしてしまいがちだが、一皮剥けば自分の心に巣食う、欲目と羞恥心に飲み込まれていただけなのだ。
 完全に払拭できた今はもう、多くの名もなき眼が自分に降り注いでいても、なにひとつ臆することなく、走るための力にさえ転化されていく。新たな経験から自分で作り出していた見えない壁を乗り越え、次に進むことができたのだ。そこには、腹をくくって、やらなければならない行為を遂行する力強さが伴っていた。
 スタンドでは、ピットレーンから飛び出てきたひとりの男の行動に、すべての観衆が注視し指を差す。レースの最中、あの男は何をしているのか、これから何が起こるのか、何かが行われる予定だったのか、勝手に想像・連想・妄想して言葉にしている。
 誰がいうでもなしに、あの男がオースチンのドライバーであることが認識され広まっていった。観衆の憶測を意に介さず、タワー側スタンドのフェンスまで来たナイジは、お目当ての人影を探しはじめた。
 スタンドにいるマリにも、ナイジの奇怪な行動は目に入っている。フェンスに張り付いて、誰かを捜している様子から、その誰かは自分かもしれないと思うのは当然の成り行きだ。
 とにかくナイジの意図を確認する必要がある。用事をすまして戻った診療室にはナイジはもうおらず、志藤に聞いても歯切れが悪かった。レースに向けて忙しいのだと自分を納得させるしかなかった。
 最上席から駆け下りていくのは、少しの注意力と、多少の体力と、かなりの勇気が必要とした。その姿を目に留めたナイジが、手を挙げて傍に来るように促がしている。
「もう、わかってるわよ、急かさないで。余計に目立って行きづらくなるじゃない」
 ナイジの真意がつかめないまま、周りからは好奇の目にさらされ、マリは恥ずかしさから顔が赤らむ。ナイジが立っているフェンス際の客席や通路は人垣ができているので、身体をねじこみ掻き分けて進むのもひと苦労だ。
「すいません、すいません。通して下さい」
 ナイジが女性の名前を連呼しているので、人垣の客もマリの存在に気付き、道を開きはじめる。ようやくフェンスまで近づいたところで勢い余り、金網に突っかかるように身体をあずけてようやく止まることができた。
 必死のマリの行動とは対照的に、至って冷静で笑顔まで携えたナイジは、人差し指を動かし、耳を近づけるよう合図している。
「どうしたの、何? 何が起きたっていうの?」
 金網に顔を近づけ「耳、耳」と、ささやくナイジ、自分に周りからの視線が集中しているのがわかり、うろたえるマリ。これほど他人から注目を浴びた経験はなく、恥ずかしさから逃げ出したい気持ちを抑え、半ばやけくそ気味にフェンスに耳を当てる。
 付近の群衆もオースチンのドライバーが、この女性に何を話すつもりなのか気になるが、両手で女性の耳を塞いでいるため、これでは聞き耳をたてることも出来ない。
「えっ!」
 心臓の高鳴りと、ナイジの息がかかるこそばゆさもあり、直ぐには言われた言葉の意味が飲み込めなかった。呆然とするマリは、ナイジに人指し指で強く身を指され念押されても、いったい自分に何ができるのか、まったくわからない。
「時間がないんだ。たのんだから」
 差した指を折り、親指を立ててマリに合図してから最終コーナーを見て、まだクルマが戻ってこないのを確認すると、再びコースを横切りピットフェンスへ戻っていく。そうなると、周りの観衆の目は一斉にマリの方へ注がれる。
 いったいあのドライバーから何を頼まれたのか、この女性は何者でこれから何をしようとするのか、そもそも、なぜこの段階で多くの人目にさらされる中で伝えなければならなかったのか。
 一段と高まるマリへの好奇の目をそらすためか、コースを走りながらナイジは観衆に向かって手を振りだした。派手な振る舞いや、目立つ行為を極力避けていた自分が、こんな派手な行動をとっていることがおかしくてしょうがない。
 調子に乗って振った手を高く上げたまま拍手して、両手を広げスタンドを指差した。それに応えスタンドから大きな歓声と拍手が返ってくる。今日のメインイベントを盛り上げるための、余興の一つかと勘違いしたらしい。
 なににしろ、周りの目から逃れることが出来たマリは、その隙にこの場を離れてスタンドゲートに向かって行った。そのあいだも周りからの視線は途切れることなく、火を噴き出しそうに赤らんだ顔を、できるなら両手で覆いたいぐらいだったが、そんなことをしたら階段を登る速度が落ちて、結局は人目にさらされる時間が長くなってしまうので、しかたなく顔を下げるに留めるしかない。
「もう、ナイジのバカ、バカ、バカーっ」


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