private noble

寝る前にちょっと読みたくなるお話し

Starting over26.11

2020-04-19 15:07:01 | 連続小説

「なくしたものの大きさがわかるのは、そうね、それが本当に自分に必要かどうかを考えられる時間ができた時。そんな時間がいつか来るんじゃない」
 朝比奈はそう言った。その後はなんだかふたりで盛り上がりはじめて、おれはカヤの外で気持ちを伝えることもないまま、目端にも映らない存在になっていた。母親の顔は普段目にすることのない、それどころかこれまで見ていた中で一番生き生きしているようで、これじゃあおれと父親は単なるストレスのもとでしかなかったんじゃないか。
 母親が朝比奈に何かを質問する。それにこたえつつ、その話題を広げると母親が興味津々でうなずいて、それでまた新たな関心が生まれ、それを説明してっていうのがエンドレスにつづいていく。むろんその逆の流れもあり、ふたりは自分の世代に足りないところをたがいに補う補完的関係を築いていた。
 足りないモノがあるのはおれにだってあるんだけど、おなじ女性同士の会話のかみ合い方は、いいほうに転がればとめどない、、、 かみ合わないこともあるけどね、、、 相性が良いいんだろうな。おれは最初からおなじ人種の匂いを感じてたし。
「“おれは最初から、おなじルーツの血の流れを感じてた“のほうが正しいかもね」
 母親がそう言った。朝比奈とふたりでおれのほうを見て意味ありげに微笑んでいる。”ルーツ”って、それじゃ血縁関係になってしまうじゃないか。でもいいさ、その言葉のほうが的を得ているんだ。いや、いいに決ってる。ふたりがそう思ってるんだから、、、 受験勉強に乗り遅れているどころか、授業にもついていけないようなヤツのたとえなんかよりよっぽど気がきいている、、、
「エーっ、そうなんですか」
 なにが? ああ、おれじゃなくて母親の言葉に反応しているのか、、、 敬語だし。すぐ気づけよ、、、 母親も満更ではなさそうな顔をしている。朝比奈はうれしそうに身振りをまじえて母親に矢継ぎ早に質問をする。なにか幽霊がうらめしやーってしている感じで、両手を前にして指を広げ、一本一本を小刻みに上下させる。
 こんな幽霊が出てきたらおれはうれしいし、うしろから抱きついてしまうかもしれない、、、 なんで後ろから、、、 そりゃ、うしろから胸の感触がつたわってくる態勢が好きだからだけど、おれに後ろを取られる幽霊はいないだろうな。
 アホな妄想をしていると、ふたりは席を立ち、奥の間のほうへ行ってしまった。おれも最後のひと切れとなったパンケーキを指でつかんで口に放り込みふたりを追った。テーブルに残された三枚のケーキ皿とホイップクリームのボウル。ティカップの構図が印象的に目に残る。こういうのってあとから何度か思い出すパターンだ。
 廊下を進むと母親のタンス部屋にふたりはいた。ソーっと扉をあけると、奥のほうでふたりではしゃいでいる。ビロードの布と、レースの飾り物を手にしている。もしかして、自分が着なくなった古着でも朝比奈に分け与えようというのか、、、 それだけはやめて欲しい、、、 おれと逢うときに目にするのはおれなんだからって、ことあとも何度も逢えると思っている能天気なおれ。
 制止せねばとあわてて扉を開ける。なのにふたりはこちらを見向きもせず、楽し気な会話を続けている。母親のタンス部屋の奥にあるもの。近ごろは入ることもなく、久々に足を踏み入れた。たしかに子どものときのうろ覚えで、あの場所になにか置いてあって、レースの敷物がかけられていたような。そのころは気にも留めず、戸棚か引き出しだと思っていた。
 さすがに今見ればそれがなにかわかる。黒塗りで鏡面のように輝いている。縦型のピアノ、、、 アップライトピアノって言うらしい、、、 ふたりの会話からそれが聞いて取れた。そこじゃなくて、なんでウチにピアノがあるの、、、 母親の部屋に。
 おれがひとりわけもわからずうろたえているのに、ふたりは子どもみたいに、、、 朝比奈は子どもでいいのか、、、 ずいぶんマセた子どもだけど、、、 あっ、睨まれた、、、  母親はピアノのキーボードが収まっているフタを固定して、指先で軽く鍵盤を押さえるとポロンポロンと小気味いい音色が出る。
「久しぶりだからね。調律がズレてるかと心配したけどなんとかなりそうね」
「だいじょうぶです。それもアジですから」
 調子っぱずれになってもアジのある音楽ができあがるってことか。んっ、ふたりでやるの? いまからなんかやるの? ここでやるの? てことはセッションだよね。えっ、どうゆう状況なのこれ。置いてきぼりにされたおれは、もうこの時点で完全に周回遅れになっている。
 母親が、椅子に座って指を馴らしだした。さまざまなメロディが織り交ざって流れていく。やるじゃないか、小学校の先生ぐらいの腕前はあるんじゃないか。弾かれている曲もおれでも知ってるようなクラシックの名曲のサビをかいつまんでいる。
 なんと母親にこんなウラの姿があるとは。そりゃおれが知らなかっただけだけど、、、 父親は知っているのか、、、 子どものとき聴かされた記憶もない。これまで口に出さなかったところを見ると、それだけ本気モードの趣味だったってことか。
「少し気になるキーもあるけど、まあ許容範囲内ね。それよりわたしのウデの衰えのほうが心配だわ。ああ、こんなことになるんなら、事前に準備しておけばよかった。朝比奈さんがジャズボーカリスト目指してるって聞いて、勝手に盛り上がっちゃってごめんなさい」
 許容範囲内なのか。おれにはなんの問題もなく聴こえるけど。
「ぜんぜん。大丈夫ですよ。このままバイト先のメンバーに入っても遜色ないぐらいです。こういう突然のセッションとか大好き。変に予定されてると身構えちゃって」
 それはホメすぎだろ。その気になったらどうすんだ。
「あらま、朝比奈さんのお墨付きね。あの子も高校卒業だし、わたしも第二の人生を謳歌しようかしら」
 ほら、言わんこっちゃない。母親はクラシック調からジャジーなナンバーに変えてきた。朝比奈がやってるバンドにはピアノマンがいるから入れないからな。
「わたしとおかあさんのピアノのコンボでデビューっていうのもステキじゃない」
「そうなれば夢は全米制覇ね」
 全米とか、制覇とか、プロレスじゃないんだから。チャンピオンベルトでも持って帰るつもりか。夢ひろがりすぎだろっ、なんておれがいくら突っ込んでも聞く耳持たず、調子が出てきたのか母親は指の動きがどんどん素早くなってきた。温まってきたオイルが全身にまわりだしたんだ。それは誰にだって同じようにやってくるんだな。
https://youtu.be/dWKdN2GNLLo

 ひととおり曲を流したところで音速が緩やかになって静寂がおとずれた。指をぶらつかせた母親がこれでいいかしらと前奏を弾き始めた。このメロディアスな前奏は、たしかジョンの“ユアソング”ってヤツだ。朝比奈は母親の肩にしずかに手をのせる。
 そして満をじして朝比奈はスッと息を吸い込んだ。うわっ、家でこれが見れるとは、、、 さぶボロ、、、
『イッ リルビッ ハァニィ♪』
 母親が伴奏を弾く、朝比奈はそれにあわせて唄いながら、メロディラインを弾いている。ピアノの音に厚みが出て、そこに朝比奈の声が折り重なる。ときに伴奏のメロディのあいだを朝比奈の声が漂い、ときに朝比奈のうたに伴奏がのかってくる。
 メロディラインはその中でズレることなく進行していくのに、朝比奈の歌いっぷりったら、先走ったり、グッと溜めたり、自由自在に回遊していく。おれは夏休み前に見た朝比奈の下校の様子を思い出していた。どんな場面でも自分の力を発揮できるって才能なのか、努力なのか。なんにしろ自分にはできないことをやってのける同年代に、ただ感嘆するばかりだ、、、 昨日からそんなんばっか。