「イッちゃーん。朝比奈さんがね、図書館で10時に待ってるってー」
遠くで母親のそんな声が聞こえた。そいつが現実なんだってわかるまで、しばらく時間がかかった。目を開いた先には天井のシミが見える。
昨日はあれから、つまりマサトが帰ってから、風呂に入り、風呂はもう冷めてたけど沸かしなおすと時間がかかるし、うるさいから親を起こしてしまうとやっかいなのでやめておき、汗だけ流して布団に入った。
変なところで目が覚めてしまったら、眠気もふっとんでしまい、今日詰め込まれたいろんなことがアタマを飽和させ、結論をだそうと焦り始める。だからって、効果的な結論が得られるはずもなく、堂々巡りを繰り返しているだけだった。
カゼとかひいて熱があるときに見る、同じ繰り返しのまどろっこしい夢だ。そんななかにいるようで、気分が悪くなるばかりだ。
ウトウトしたところで目が覚める。そんなこと繰り返していると、いつの間にか窓の外が明るくなってきた。外の気配も内なる不安も断ち切ろうと布団をかぶってたら、ようやく眠りにつけたみたいで、それで今に至るわけだ。そこまで思いめぐらせてようやく状況が把握でき、上半身を起こした。
時計は9時を過ぎていた。おれはシャツとパンツのまま寝ていて、そして、そのまま階段を駆け下りた。廊下の電話はもう受話器が置かれている。台所に行くと母親がせんべいをかじりながらお茶を飲んでいた。どうかしたのと言わんばかりだ。どうかしたのじゃないよ、、、 言ってないけど。
「電話? 切ったわよ。寝てるって言ったら。じゃあ伝言をって言うから。で、さっき伝えたでしょ。よかったわねえ。これで当初の予定も達成できて。夏休みも終盤だけどねえ。朝比奈さんとも仲良くなれて、一石二鳥」
うっ、それを言われるとつらい、、、 しかもなにが一石二鳥なのか、、、 こういうときによくある風景としては、朝比奈さんから電話よーとかあって、おれが起きてきて、ああゴメン寝てた。とか言って待ち合わせの約束とかするのがパターンじゃないだろうか、、、 なんで、ふたりで完結する、、、 なんだか、ふたりに翻弄されているとしか思えない。朝比奈らしいと言えばそれまでだ。合理主義もここまでやるか。
「ちょうどよかったわね。朝ごはん食べて、準備してから向かっても10時に着くからね。あら、朝比奈さんたら、もしかしたらモーニングコールのつもりだったのかしらん?」
そんなもん、知らん。これではいかん。旗色が悪くなるばっかりだ。とにかくおれは着替えをして、顔を洗い、出かけるばっかりの準備をして台所に戻る。テーブルにはトーストと目玉焼き野菜サラダが準備されている。
「洗い物まとめてやるから、ちゃっちゃと食べちゃってよ」
追い立てられているのか、時間をコントロールされているのか、、、 両方だな、、、 でも、9時まで寝てたのに朝食の準備をしてもらい、デートの、、、 大きな範囲で言えばデートでいいだろ、、、 段取りまでしてくれて、これではあたまがあがらない。あっ、初任給のプレゼントを期待しているとか。
洗い物をはじめた母親の動きをチラ見する。特におれを意識することなく、自分の作業をいつもどおり遂行しているように見える。そんなものなんだろうか、変に意識しているのはおれだけか。
「なあに様子うかがってるの。余計なこと考えないで食べることに集中してなさいって」
うっ、なんでコッチの動きがわかる。ニュータイプなのか?
「甘く見ないほうがいいわよ。母親なんてものはね、こどもが何してるか、何考えてるなんて、みんなお見通しなんだから、変なこと考えないほうが身のためよ。エッチな本も古くなったし、もう必要ないんじゃないの。朝比奈さんがいるんなら。今度の廃品回収で出しちゃおっか?」
口に含んだ牛乳をあやうく吹き出しそうになる。このタイミングで言うのはやめてくれ。それはマサトにならまだしも親には言われたくない。別の意味で悠長に朝めし食ってる場合じゃない。おれは急いで食べきろうと、トーストの上にサラダの皿からレタスとトマトを取ってのせて、その上に目玉焼きをさらにおいて一気に口の中に放り込んだ。それを牛乳で流し込む。
部活してた時はこれの3倍は食べていたのに、それでも足りなかったぐらいなのに、いまじゃこれで十分で、成長期も終わったのかと。なにかが終わるのは物悲しいもんだ。おかげで食事も早く済むのは良かったが。
おれは食べ終わった食器を手に流しに置いて洗面台へ急ぐ、口の中はまだいっぱい詰まってる。母親にキツイツッコミを入れられると吹き出してしまうので、そのまま玄関に一目散に向かったのに、靴を履くのに手間取ってると、うしろから声をかけられる。
「歯、磨かなくていいの? チューすることになるかもよ」
吹き出させるためにわざと言ってるのか、、、 おれは朝起きて磨く派なんだ。
「タケダがねえ、へえ、そんな話ししたんだ。おぼえてたのね。それでどうしてホシノはおぼえてないの? ああ、そう、そりゃ、笑えないジョークね」
タケダはマサトの苗字だ。おれが図書館に10分前に着いたときには、もう朝比奈は長椅子に腰かけ本を読んでいた。ほかの学生らしき面々が、ノートを開けて宿題やら、勉強しているのに、ただでさえ目に付くその姿は、悠々としながらも異質であり、そして限りなく華がある。おれは声をかけずにそのまましばらく眺めることにした。
「それはね、わたしも引っかかったから。あのときの二番煎じになっちゃいけないって。ホシノがそれを知ってて言ったのかとも思ったんだけど、そうじゃなかったんだ」
それなのに、朝比奈はおれの食い入るような視線が気になったのか、ふと顔を上げて鋭い目を向けた。おれたちはお互いを疑っていた。いつどこの発言が、誰から発せられたとしても疑念がうまれる。こうして話してみればなんてことない勘違いだってわかるのに。
「あのときとは状況が違ってるって本人が思ってても、まわりがどう判断するかなんて別問題だしね。印象的な出来事が、本人にとってはそうでもないなんて、よくあることだったりもするし」
するしって言われても、簡単に同意できるほど悟ってないし、おれが忘れっぽいのは単に記憶力が悪いだけで、朝比奈の言うところの本質とは違っている。
おれがカマにかけて聞き出そうとした姑息な手口を先回りして、そこまで答えているんだ。ここでもまた見透かされている。そして朝比奈はやはり、おれが心配するような小さい人間ではなかった、、、 あたりまえか。
図書館の中で話すのは難儀だからと、おれが到着したら。朝比奈は読んでいる本をもとの場所に戻して外に出た。そりゃおれもそれについて行くしかない。なんだか途中で読むのをやめてしまっていいのかと気になってみても、朝比奈は何度も読んだ本だから良いのよと、こともなく言う。タイトルを見る限りおれが死ぬまでお目にかかることのないような本だった。
「だれかがね、違うって言わなきゃいけないのに、みんながね迷走におちいって、それが正解だと勘違いしてしまうし、思い込みたくなる。間違いだと気づきはじめても誰かが止めてくれるだろうって他人まかせになっていく。だれしも自分から言い出すのは避けたい。みんなそんなジレンマの中で生きていく。手にした成果が思ったものでなくても、これぐらいならいいかと妥協してしまうとか、いつか人の人生は妥協の積み重ねなっていく。わたしはそうは在りたくない。誰かに気に入られないとしてもね」
おれはすぐにそこに逃げてしまう側の人間だから、どうしたってそんな強いこころざしは持てない。誰かが最初に声を上げてくれるのを待って、そうでなければしかたないって思えるタイプだ。そしてそんな人間は絶対に何者にもなれやしない。
「たしかに最初に否定する人間になるのは厄介を背負うことになる。直接的に言わなくても方向を向かせることはできる。もしくはそういった類の人間と認識されていれば言いやすくなる。集団はそれで安心感を得る。クサリにつながれたゾウは、引っ張ってもそこから動けないと観念したら、そのクサリがほどかれたとしても、もう二度とそこから離れようとはしない。動けない自分を自分のなかに認識させてしまう」
それは朝比奈が学校の中で遂行している役割だ。自分でそれを選んだのか、まわりがそうさせてしまったのか。そりゃ、訊けば自分で率先してやっているんだって言うだろう。朝比奈の主観なら誰かのせいで、自分がそうしているなんて絶対に認めたくないはずだ。
「そのときの気持ちなんて、ほんとうかどうかなんて自分でもわからないんだ。そうだって思い込んでいるだけで、それも事実のひとつ。そして、なにか別のモノに突き動かされているだけなのかもしれないし、本当の誰かに操作されているのかもしれない。それも事実のひとつ」
おれたちは図書館に併設されている公園のベンチに座った。木の陰になっていて心地いいし、ときおり吹いてくる風が気持ちいい。それにおれたちを見るまわりの目が気になりながらも心地いい、、、 奇跡は起きるもんだな、、、 誰にだって平等とはかぎらないけどな。
「だけど。そうね、だけど、それをしようと決めたのは自分なの。その評価をくだすのは別のいろんな人たちかもしれないし、最終的に実行するのは、他の誰でもなく自分なんだよね。それを繰り返してきた。これからも繰り返していく」
そこで朝比奈は大きく伸びをした。両手を組んで空に向かったグーンと。そこで今更ながらに気になったのが、今日はやけにスポーティな姿をしているんだな。図書館のなかにはにつかわない。
「でしょう。きょうはね、ホシノに合わせようかと思って。そうしたら、おかあさんがね図書館で待ち合わせたらいいんじゃないって言われて。わたしの思惑とは違ってたけど、それもおもしろいかなって。ミスマッチは多くの歴史をつくってきたから」
やはり、母親と朝比奈の結託におれはもてあそばれているみたいだ。朝比奈の言う、小さな日常を大きな見解ととらえるそれらの言葉を、今回もうまく理解できない。今日はいったいなにをはじめようとするつもりなんだ。