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マクロス外伝大本営 新統合軍極東太平洋軍管区司令部

マクロスやロボット大好きなブログです。二次創作などを主にやります。

公式ではなく非公式です。

えい

2018-02-05 00:20:38 | 戦国武将・戦国姫図鑑

えい
【生没】
1524年ー1596年
【父親】
林通安
【母親】
不明
【兄弟】
林通忠
女(井戸宇右衛門正室)
【旦那】
森可成
【子息】
森可隆
森長可
森成利
森長隆
森長氏
森忠政
碧松院(関成政室)
娘(青木秀重室)
うめ(木下勝俊室)
【解説】
林通安の娘として生まれる。
帰蝶の侍女として働いており、腰入れの際には織田家に行き。
織田信長の仲介で森可成と結婚した。
全員えいが産み夫婦は幸せに暮らしていたが、可隆と可成を同時に亡くし。
えいは出家する。
浄土真宗に帰依しており、本願寺から和議の仲介を頼まれ。
信長を説得し和議を成功する。
理由としては可成の忠節とえいの信心であり。
えいにより本願寺は信長の慈悲を得たと言う。

だが

本能寺で成利.長隆.長氏が戦死し、小牧長久手の戦いで長可が戦死する。
そうした悲劇を経験しつつえいは1596年まで生きるのであった。

2018-02-01 13:33:30 | 戦国武将・戦国姫図鑑

【生没】
1534年ー1625年
【父親】
木下弥右衛門
【母親】
なか
【兄弟】
豊臣秀吉
豊臣秀長
朝日姫
【旦那】
三好吉房
【子息】
豊臣秀次
豊臣秀勝
豊臣秀保
【解説】
木下弥右衛門となかの間に生まれた第1子で、豊臣秀吉の姉である。
尾張農民である弥助こと後の三好吉房に嫁ぎ、秀次・秀勝・秀保を産む。
後に秀次が三好姓を名乗ると夫も三好姓を名乗る事になる。
秀吉がようやく生まれた実子鶴松が死ぬと秀次と秀勝を養子に入れた。
しかし、秀勝が病死・秀保が秀長の養子になるも病死。
秀次が関白になるも秀吉に謀反の容疑をかけられ一族ごと処断される悲劇に見舞われる。
夫も島流しになり自身は難を逃れるが、刑死した秀次の菩提を弔った。
その後、江戸幕府が出来るが・・・・・
孫であり秀次の娘菊も大坂の陣で豊臣方に付き刑死した悲劇に見舞われている。
1626年、92歳の長寿で亡くなる。
秀吉の兄弟で唯一子孫を残しており、その子孫は九条家と今上天皇陛下らがいる。

朝日姫

2018-02-01 13:11:07 | 戦国武将・戦国姫図鑑
朝日姫
【生没】
1543年ー1590年
【父親】
竹阿弥
【母親】
なか
【兄弟】
日秀(三好吉房室)
羽柴秀吉
羽柴秀長
【旦那】
佐治日向守
副田甚兵衛吉成
【解説】
豊臣秀吉の異父妹、羽柴秀長と同父兄弟である。
尾張国の農民で後に武士に取り立てられる、佐治日向守と結婚する。
佐治日向守の死後、織田家家臣だった副田甚兵衛吉成と再婚する。
普通に暮らしていたが、1586年兄秀吉により強制的に離縁され徳川家康を懐柔するための正室にされる。
それでも追従しないので母なかを送りようやく家康は秀吉に従った。
その4年後に朝日姫は亡くなる。

帰蝶/濃姫

2018-01-31 15:07:28 | 戦国武将・戦国姫図鑑
帰蝶
【生没】
1535年ー不明(1612年または1583年など諸説あり)
【父親】
斎藤道三
【母親】
小見の方
【兄弟】
斎藤義龍
斎藤龍重
斎藤龍定
斎藤利堯
斎藤利治
女(斎藤利三正室)
胡蝶(姉小路頼綱正室)
女(稲葉貞通正室)
女(金森長近室)
女(休庵室)
【旦那】
織田信長
【子息】
なし
【解説】
斎藤道三の娘として美濃国に生まれる。
帰蝶は斎藤道三の子供の中で唯一の正室の子供である。
叔父に明智光綱がおり、その息子である明智光秀とは従兄弟関係である。
父道三は美濃国守護土岐頼芸を追放し、美濃を奪い取る。

しかし、土岐に忠誠を誓う家臣が多く兄義龍が頼芸の落胤として国主にされる。
それに反発した土岐氏は頼芸の甥土岐頼純を大将に北から朝倉孝景、南から織田信秀が攻め込んでくる。
道三は津田武永ら率いる織田軍と戦うが敗北、織田信秀の嫡男である織田信長と娘を婚約する約束し。

頼芸を美濃国に出迎え、越前朝倉氏とも和睦した。

織田信秀と朝倉孝景は道三討伐を諦めていなかった。
土岐頼芸・頼純に挙兵を促し道三を討とうと持ち掛ける。
それに気が付いた道三はその前に攻撃し、完全に頼芸を追放する。

信秀は稲葉山城城下を攻撃するが、帰還中に襲撃され大敗を喫す。(加納口の戦い)

そしてこうした経緯もあり、和睦が成立。
織田信長と帰蝶は正式に結婚する。

しかし

子供に恵まれないばかりか
斎藤家の菩提寺常在寺に父・道三の肖像を寄進したのを最後に帰蝶の行方が不明になる。

【その後】
行方不明になった帰蝶だが、諸説ある。

離縁
嫡男も生めないため道三が死んだため、離縁された。
兄義龍を嫌い叔父明智光安のいる明智城に身を寄せた。

ただ、離縁する理由は特別な理由なくその証拠がないので信憑性はない。

早世
織田信長と結婚するが、若くしてなくなり別の人間が正室になった。
これも信憑性が低い。

明智城で死亡
上記の離縁説と合わせ、義龍の美濃統一戦で明智城が攻撃され。
叔父明智光安ら明智一族と共に死亡した説。

本能寺で戦死
本能寺の変で夫織田信長と共に従兄弟で謀反を起こした明智光秀と戦い戦死した説。
初出は絵本太功記であるが、これは作品であり。
創作説である、ただ民間伝承に帰蝶の遺髪塚がある。(西野不動堂)

生存説
生存説は結構存在しており、1583年まで生きたとか。
江戸時代初期まで存命していたといろんな話がある。
織田信雄分限帳では安土殿と呼ばれる女性がおり、学者はこの人物こそ帰蝶ではないかと言われる。



すべて総括すれば、帰蝶がどのような末路を辿ったのかは当時の人かつ帰蝶しか知らない。
この事実は神のみぞ知ると言う物ではないだろうか。

まだ歴史にはまだ発掘されていない資料があるので、今後も捜査が必要である。

【おまけ】

姉小路頼綱正室・胡蝶(帰蝶の妹)

武田信勝

2018-01-31 13:34:29 | 戦国武将・戦国姫図鑑
武田信勝
【諱】
信勝
【苗字】
武田
【朝臣】

【生没】
1567年ー1582年
【父親】
武田勝頼
【母親】
遠山夫人
【兄妹】
武田勝親
貞姫
周哲大童子
望月信永室
【解説】
武田勝頼の嫡男として生まれる。
父は庶子であり祖母の実家諏訪家を存続していたが、義信事件で後継者になる。
だが勝頼が家督を相続する権利はなくただの後見人であり、信玄の後継者は信勝である。
長篠の戦いで大敗し甲越同盟の締結・甲相同盟の破たんでどんどん武田家は追いつめられると。
母が織田家にゆかりがあり、織田信長との和睦を望んでいた武田勝頼は信勝に家督を完全に譲る準備をする。
その一方で信長は勝頼を朝敵とし、木曽義昌の造反で武田家に総攻撃を開始。
どんどん追いつめられ小山田信茂のいる岩殿城に逃れるが裏切られ、結局父と一族と共に自害する。
その後、穴山信君の息子信治が相続するが亡くなり徳川家康の5男信吉が相続するが亡くなり甲斐武田家は断絶する。
武田家が本当の意味で再興されるのは、伯父信親の末裔である武田信興が柳沢吉保経由で幕臣として迎え入れる1700年。
約118年後の時を待たなくてはならない。

清音院殿

2018-01-31 13:24:07 | 戦国武将・戦国姫図鑑
清音院殿
【生没】
不明ー1619年
【父親】
真田信綱
【母親】
於キタ
【兄妹】
真田与右衛門
真田信興
真田信光
【旦那】
真田信之
【子供】
真田信吉
【解説】
真田信綱の娘として生まれる。
武田勝頼の命令で父や伯父昌輝が亡くなった長篠の戦いで真田家を相続した真田昌幸の嫡男信之の正室になる。
1595年に信吉を生むが、その頃になると本多忠勝の娘小松が正室扱いになり。
清音は正室から側室に転落してしまう。
いつしか記録からいなかった扱いにされ、不遇のまま1619年に亡くなる。

小松姫

2018-01-31 13:14:48 | 戦国武将・戦国姫図鑑
小松姫
【生没】
1573年ー1620年
【父親】
本多忠勝
【母親】
於久の方
【養父】
徳川家康
【兄妹】
もり姫(奥平家昌正室)
本多忠政
本多忠朝
女(本多信之室)
女(松下重綱室)
女(蒲生瀬兵衛室)
【旦那】
真田信之
【子息】
まん(高力忠房室)
まさ(佐久間勝宗室)
真田信政
真田信重
【解説】
徳川家康の家臣で徳川4天王の一人で戦国最強の武人本多忠勝の第1子として生まれる幼名は稲姫。
本多家は祖父忠高や曾祖父忠豊、父の叔父忠真は戦場で死ぬほどの部門の一族であった。
天正壬午の乱終結後に沼田領問題が起こり、それがきっかけで第1次上田城の戦いが起こる。
その時、徳川家康は真田に苦しめられ恐ろしさを経験する。

そんな中で小松にも婚姻の時が来るが、婿候補になる武者が大勢いた。
それを小松は髷を握り婿選びをする。
そこに一人に武者がおり、小松は髷を握ろうとした途端・・・・それを回避し叱咤して、鉄扇で小松姫の顔を打った。
その武者は徳川家を苦しめた真田昌幸の嫡男真田信之(この時は信幸)であった。

小松は信之を気に入るが、時の情勢を握っていた豊臣秀吉と真田を警戒している徳川家康の思惑が一致し。
真田昌幸を徳川家康の与力大名とするた、小松を家康の養女として信之の正室に迎えられた。

豊臣秀吉の聚楽第・伏見城・大坂城の武家屋敷に住むが、信之には真田信綱の娘清音院殿がいた。
小松の嫁入りで家女に降格する羽目になる。

1600年、毛利輝元を大将に担ぎ上げた石田三成ら西軍と徳川家康の東軍が関ケ原や各地の戦線で戦が始まる。
真田家は信之は東軍・昌幸と信繁が西軍と二つに割れる。
小松は本来、大坂にいるはずだが養父家康の計らいで沼田の地におり。
孫の顔を見に来た昌幸を自ら武装し籠城威圧した。

威圧したが、そのあと孫の姿を見せたという。

戦後、東軍が勝利で終わり昌幸と信繁は死罪になろうとしたが。
信之と小松の父本多忠勝と本多正信らにより助命され高野山に追放される。
江戸幕府が出来ると父本多忠勝は桑名藩主になり、小松は江戸屋敷に住むようになる。

1620年に病気になり草津温泉で養生しようとするが道中で死去。
彼女の死は信之を落胆させる事になる。

【人物像】
小松姫はかなり気の強い女性で、養父家康や2代将軍徳川秀忠の堂々と意見を述べる程である。
一方で本多忠政や本多忠朝が戦地から戻ると忠節を称えるなど勇気ある女性とされている。

【戦国無双シリーズについて】
戦国無双シリーズにおいては本名の小松ではなく、幼名の稲姫と言う明記になっており。
父本多忠勝と共にプレイヤー武将として最古参として参戦している。

永姫

2018-01-30 23:51:01 | 戦国武将・戦国姫図鑑


永姫
【生没】
1574年ー1623年
【父親】
織田信長
【母親】
不明
【兄弟】
織田信忠
北畠信雄
神戸信孝
羽柴秀勝
津田信房
織田信秀
織田信高
織田信吉
織田信貞
織田信好
織田長次
織田信正
徳姫(長女、松平信康室)
冬姫(二女、蒲生氏郷室)
秀子(三女、筒井定次室)
報恩院(五女、丹羽長重室)
於振(六女、佐治一成継室)
源光院(七女、万里小路充房室)
月明院(八女、徳大寺実久室)
三の丸殿(九女、豊臣秀吉側室・二条昭実後室)
鶴姫(十女、中川秀政室)
慈眼院(十一女、養女、北条氏直婚約者)
【旦那】
前田利長
【子息】
なし
【解説】
織田信長の4女として生まれる。
前田利家の嫡男前田利長の正室になる。
本能寺の変の時、利長と共に本能寺に向かうが変の急報を聞いて尾張国に逃れた。
関ヶ原の戦いで義母まつと共に人質として江戸に向かうがすぐ領地に戻る。
利長と仲がよかったが、子供がなく。
利長の死後、出家し50歳で亡くなるまで利長の菩提を弔う日々を送った。

徳姫

2018-01-30 23:44:13 | 戦国武将・戦国姫図鑑

徳姫
【生没】
1559年ー1636年
【父親】
織田信長
【母親】
生駒吉乃
【兄弟】
織田信忠
北畠信雄
神戸信孝
羽柴秀勝
津田信房
織田信秀
織田信高
織田信吉
織田信貞
織田信好
織田長次
織田信正
徳姫(長女、松平信康室)
冬姫(次女、蒲生氏郷室)
秀子(三女、筒井定次室)
永姫(四女、前田利長室)
報恩院(五女、丹羽長重室)
於振(六女、佐治一成継室)
源光院(七女、万里小路充房室)
月明院(八女、徳大寺実久室)
三の丸殿(九女、二条昭実後室)
鶴姫(鷺の方)(十女、中川秀政室)
慈眼院(十一女 北条氏直婚約者)
【旦那】
徳川信康
【子息】
登久姫(小笠原秀政室)
熊姫(本多忠政室)
【解説】
織田信長の長女として生まれる同母兄弟に織田信忠がいる。
徳川家康との婚姻同盟を結ぶため、家康の嫡男徳川岡崎三郎信康に嫁ぐ。
2人の娘を生むが中々嫡男が生まれず、信康の母瀬名姫が心配し側室を入れる。
それがきっかけで不仲になったと言う。
その結果夫婦関係が悪化し、徳姫は父信長に二人が武田と通じていると言う書状を送る。

激怒した信長は二人の処断を家康に要求。
家康は同盟関係崩壊を防ぐべく二人とも殺害された。
その後、居場所がなくなったため織田家に戻り。
本能寺の変の後、織田信雄の元に身を寄せる。
小牧長久手の戦いを経て、信雄が改易されると尾張国小折を経て京都に移住する。
関ヶ原の戦い後は、尾張国の清洲城主となった家康の四男の松平忠吉から所領を与えられるがすぐ移住している。

晩年期には蜂須賀家に嫁いだひ孫繁姫から蜂須賀光隆の乳母選定の手伝いをしている。

冬姫

2018-01-30 23:32:02 | 戦国武将・戦国姫図鑑


冬姫
【生没】
1561年ー1641年
【父親】
織田信長
【母親】
養観院
【兄弟】
織田信忠
北畠信雄
神戸信孝
羽柴秀勝
津田信房
織田信秀
織田信高
織田信吉
織田信貞
織田信好
織田長次
織田信正
徳姫(長女、松平信康室)
秀子(三女、筒井定次室)
永姫(四女、前田利長室)
報恩院(五女、丹羽長重室)
於振(六女、佐治一成継室)
源光院(七女、万里小路充房室)
月明院(八女、徳大寺実久室)
三の丸殿(九女、二条昭実後室)
鶴姫(鷺の方)(十女、中川秀政室)
慈眼院(十一女 北条氏直婚約者)
【旦那】
蒲生氏郷
【子息】
蒲生秀行
前田利政正室
【解説】
織田信長の次女、同母兄弟に羽柴秀勝がいる。
近江六角氏の旧臣の蒲生賢秀が父信長に従属すると。
信長は人質として取っていた蒲生氏郷の器量を見抜き、冬が正室として嫁がされる。
本能寺の変以降氏郷は豊臣秀吉に臣従し、陸奥会津92万石の大名に出世するが。
僅か40歳で亡くなり、子秀行が継ぐが統制できず宇都宮12万石に大幅に所領を失う。

関ヶ原の戦いで東軍に味方に貢献し会津60万石に戻るがが・・・・
その後秀行も若くして亡くなり孫蒲生忠郷が存続するが、彼も25歳で亡くなり。
改易の危機に陥る。

功績により弟忠知が存続するが、子無くして亡くなり結局改易される。
冬姫は晩年は京都嵯峨で過ごしたという。

北条夫人

2018-01-29 15:41:06 | 戦国武将・戦国姫図鑑
北条夫人
【氏族】
北条氏
【生没】
1564年ー1582年
【父親】
北条氏康
【母親】
松田殿
【兄弟】
北条新九郎
北条氏政
北条氏照(大石定久養子)
北条氏邦(藤田康邦養子)
北条氏規
北条氏忠(佐野宗綱養子)
北条三郎(上杉謙信養子、上杉景虎)
北条氏光
浄光院殿(足利義氏室)
七曲殿(北条氏繁室)
長林院殿(太田氏資室)
蔵春院殿(今川氏真室)
尾崎殿(千葉親胤室)
種徳寺殿(小笠原康広室)
菊姫(里見義頼継室)
娘(千葉利胤室)
【旦那】
武田勝頼
【子息】
武田勝親
貞姫(宮原義久室)
【解説】
北条氏康の6女として生まれる。
今川義元が討たれ、姉早川殿が嫁いでいる今川家に武田信玄が攻撃。
これのより甲駿相三国同盟が崩壊。
兄氏政に嫁いでいた信玄の娘黄梅院が返還されるなど関係が険悪化した。
10年後、なんとか関係は改善されるが婚姻としての結婚はなかった。

そんな時、武田勝頼は美濃国の国衆である遠山直廉の娘で織田信長の養女・竜勝院が死没した。
そして信玄没後に起こった長篠の戦いで大敗した武田勝頼は、外交強化すべく。
本格的に婚姻同盟を結ぶ気になり。
北条夫人が勝頼正室になる。

だけど、上杉謙信没後跡目を巡って夫人の兄弟上杉景虎と謙信の甥上杉景勝が争う御館の乱が発生。
勝頼も当初は、夫人の実兄北条氏政の要請もあり上杉景虎を支持していたが。
勝頼が菊姫を景勝に嫁がせ、甲越同盟を結び、乱に敗れた景虎が自害に追いやられたことで甲相同盟の破綻を招く。

甲越同盟は軍事同盟として役に立たず、木曽義昌の造反から始まる甲州征伐では。
勝頼のために武田家の安泰を願い、武田八幡宮に願文を奉納している。
逆臣を糾弾し、それを呪詛するが勝頼の加護を祈っている。

岩殿城に勝頼と信勝と共に逃れるが、小山田信茂の裏切りにより自害に追い込まれる。
享年19歳

亀姫

2018-01-29 15:12:31 | 戦国武将・戦国姫図鑑
亀姫
【氏族】
徳川氏
【生没】
1560年ー1625年
【父親】
徳川家康
【母親】
瀬名姫
【兄弟】
松平信康(母:築山殿)
結城秀康(母:小督局)
徳川秀忠(母:西郷局)
松平忠吉(母:西郷局)
武田信吉(母:下山殿)
松平忠輝(母:茶阿局)
松平松千代(母:茶阿局)
平岩仙千代(母:お亀)
徳川義直(母:お亀)
徳川頼宣(母:お万)
徳川頼房(母:お万)
二女・督姫(母:西郡局) - 北条氏直室のちに池田輝政室
三女・振姫(母:お竹) - 蒲生秀行・浅野長晟室
四女・松姫(母:お久)
五女・市姫(母:お梶)
【旦那】
奥平信昌
【子息】
奥平家昌
松平家治
奥平忠政
松平忠明)
1女(大久保忠常室)
【解説】
徳川家康と瀬名姫の長女として生まれる。
長篠の戦いで落城せず奮戦した奥平信昌の恩賞として、正室として嫁ぐ。
信昌は亀以外の側室を置かず4人の息子と娘を全部一人で出産している。
信昌と子の相次ぐ死を受けて孫の後見人を務め。
66歳で亡くなるが、家康の娘としては最後の生存者で。
4人いた妹は全員、亀姫が亡くなるまでにこの世を去っている。


瀬名姫/築山御前

2018-01-29 14:49:52 | 戦国武将・戦国姫図鑑
瀬名姫
【氏族】
関口氏(今川氏)
【生没】
不明ー1579年
【父親】
関口親永
【母親】
今川義元妹
【兄弟】
関口正長
関口道秀、
大谷元秀室
【旦那】
徳川家康
【子供】
徳川信康
亀姫
【解説】
関口親永の娘として生まれる。
叔父に今川義元がいる。
1557年に松平元康と結婚し、2年後に信康と翌年に亀姫を産む。
桶狭間の戦いで義元が織田信長に討たれると夫は独立し。
命の危機に陥るが、鵜殿氏長・鵜殿氏次と家康の異父弟松平康俊で夫家康の元に戻るが。
康俊が今川滅亡後、武田信玄により甲斐に送られ。
家康の手配で脱出する際に両足の指を凍傷で失ってしまい。
家康と康俊の母於大の方から恨まれる。
息子の信康と織田信長の長女・徳姫が9歳同士で結婚し、瀬名は息子がいる岡崎城に留まる。
信康と徳姫夫婦には登久姫と熊姫が生まれるが、後継ぎの男子を産まず。
焦りからか元武田家家臣浅原昌時の娘および日向時昌の娘など側室に迎えさせるが。
徳姫に恨まれ父信長に武田に内通しているとして報告し。
信長は家康に信康と瀬名の殺害を命じている。

その結果

岡本時仲と野中重政により殺害、検使役は石川義房が務めた。
一方の、信康は9月15日に二俣城で切腹した。

望月千代女

2018-01-29 12:57:55 | 戦国武将・戦国姫図鑑
望月千代女
【生没】
不明
【氏族】
甲賀望月氏
【旦那】
望月盛時?
【子息】
望月信雅?
望月新六?
【解説】
清和天皇第4皇子の貞保親王の末裔で、信濃豪族望月氏の一族で。
平将門の乱で武功があったとされる望月三郎兼家から分かれ甲賀忍者の家系になった甲賀望月氏の娘。
甲賀望月氏は甲賀五十三家の一つに数えられる。
本家に当たる望月盛時に嫁ぎ、戦死後武田信玄の命令で歩き巫女頭になったという。
戦乱の世により家族が死に孤児になったり、貧しさから捨て子となった少女達数百人を集め。
歩き巫女を育成したと言われる。
相手が男性だった時の為に色香で男を惑わし情報収集する訓練を行っていたらしい。

これらの説は1930年に発売された中山太郎の『日本巫女史』が初出であり。
実在に関してはさまざまな説があり、実在が疑われている。

ただ歩き巫女は千代女に関わらずとも存在しており。
いろいろと回るので、誰にも怪しまれずに諜報活動できる要素はあり。
戦国大名が諜報に活用していないとは言い切れない。
果たして詳細はいかに?


【本ブログで扱う千代女】


(前世と後世の比較 前世.歩き巫女として潜入時.後世、非常事態勤務待機時)

本作で扱う望月千代の生まれ変わり望月千代女は重野なおき先生の望月千代女に順じている。
彼女の戦国時代の活動は信長の忍びの流れと同じであるが、細部は異なっており。
平行世界の同一人物と言う扱いになっている。



望月千代女(信長の忍びアナザールート版)
【氏族】
信濃望月氏
【生没】
1549年ー1575年
【父親】
望月盛時
【母親】
甲賀千代女
【兄弟】
望月信雅
望月新六
望月盛綱
【親族】
望月忠綱(兄盛綱の子)
初芽局(兄盛綱の子、徳川配下伊賀忍者.石田三成の監視等の任務担当.江戸幕府成立後、伊賀組に所属。)
【解説】
望月盛時と甲賀千代女の間に生まれた末娘。
幼い頃に、母甲賀千代女に忍者として育てられ母と同じ千代女と言う名が与えられる。
武田家に預けられ武田信玄の命令より諏訪四郎勝頼の監視役として仕える。
母が亡くなり、歩き巫女頭に任ぜられる。
数々の功績をあげるが・・・三方ヶ原の戦いで千鳥に武田軍が泥を塗られる事態になると。
千鳥に対し激しい憎悪を燃やし、潜入時に戦い。
捕らえると、思わず目を隠すような拷問をする。
脱走されると以後、見つけ出して殺すまでに狙うようになる。
長篠の戦いで千鳥と戦い傷を負わされ、満身創痍で本陣に戻るが道中織田家配下忍び楓に止めを刺され戦死。
死ぬまで、千鳥
死後、数百年が経ち彼女の生まれ変わり望月千代がいるが。
千鳥の生まれ変わりに関する復讐の大部分は忘れられているようである。
椎茸嫌いとワンマンアーミータイプスタイルなど受け継がれている。


甥忠綱は旗本になり、姪初芽は家康に伊賀組預けられ石田三成を監視している。

愛姫

2018-01-29 11:12:53 | 戦国武将・戦国姫図鑑
愛姫
【生没】
【父親】
田村清顕
【母親】
於北(相馬顕胤の娘)
【旦那】
伊達政宗
【子供】
五郎八姫(松平忠輝室)
伊達忠宗(仙台藩2代藩主)
伊達宗綱
伊達竹松丸
【解説】
田村清顕の一人娘として生まれる。
名前の由来は愛らしいに由来するらしく。
東北では可愛らしいをめんこいと呼び、めんこい姫と呼ばれていたのが。
愛姫と呼ばれるようになり、別の呼び方では義母である義姫と同じになる。
12歳で伊達政宗に嫁ぐ事になる。
政宗とは又従兄弟の関係にある。
しかし政宗自身に毒殺事件が起こり。
政宗が田村家が送り込んだ内通者だと思い、乳母を始め愛姫付きの侍女を処断した事から夫婦仲はこの頃良くなかった。
その後、夫婦仲は改善されたようで。
京都聚楽第の伊達屋敷に移ると、長女五郎八姫(松平忠輝室)を出産した。
それから仙台藩2代藩主となる忠宗を始め宗綱・竹松丸と、政宗との間に計4人の子宝に恵まれる。
後に後継者を定めで忠宗に決まる事になる。
その一方で、先に生まれた秀宗は事実上の廃嫡され政宗と関係悪化する事になるのだが。

愛姫は伊達家の外交官的役割を持っており、ある時に政宗に


天下はいまだ定まっておりませぬ。殿は天地の大義に従って去就をお決め下さりませ。私の身はお案じなさいますな。匕首を常に懐に持っております。誓って辱めは受けませぬ

と言う書状を送っており。
娘婿で徳川家康の6男松平忠輝の高田城築城中の政宗に春秋の季節感や天然自然の草木、花鳥風月について、仏教の無常感を表した書状を送っている。
政宗の死後に出家し、1653年に86歳の長寿で亡くなる。

死後、奥州仕置きで改易され一族を出て片倉姓を名乗った田村宗顕に代わり
孫で忠宗の子宗良が田村家を相続し、一関藩主となり。
明治維新後は子爵に任ぜられる。(~1945年の大日本帝国憲法下)
本来の田村家の一族で片倉姓を名乗った一族の方は、子孫にイラク戦争時の外交官片倉邦雄がいる。

【先祖】
征夷大将軍坂上田村麻呂が先祖で有名だが、坂上氏は中国系の渡来人で。
遡ると後漢王朝霊帝に繋がれるとされる。

【エピソード】
伊達政宗は晩年期、愛姫の見舞いや世話を断っている。
理由は、死に近づく自分の姿を見せるわけにはいかないと言う理由から。
最終的に政宗は愛姫に会う事なく、死んでいくが。
恨みはせず、政宗の片目像と政宗の命日と同じ日に死ねる事を祈った。