つれづれなるままに心痛むあれこれ

知る事は幸福度を高める

青森県六ケ所村使用済み核燃料再処理工場の問題に注目を

2024-07-30 10:27:24 | 原発

 原子力資料情報室の連続ウェブ講座の第7回(2021年10月5日)で講演した澤井正子(核燃料サイクル阻止1万人訴訟原告団)の講演要旨を以下に紹介します。再処理工場がいかに危険であるかを確認しよう。

再処理工程で、使用済み核燃料を剪断する際に希ガスなどの気体放射能が大量に放出される。続いて高温の硝酸で溶解し、化学物質を用いてウラン、プルトニウム、核分裂生成物を分離する。ここで核分裂生成物を含む高レベル廃液が発生する。高レベル放射性廃棄物ガラス固化工程では不具合が相次ぎ、ガラス固化体が製造できなくなっている。核物質管理上の問題から、分離したプルトニウムは日本では核兵器への転用防止のため、同量のウランを加えたプルトニウム・ウラン混合酸化物(MOX)の形で製品化する。再処理工程では、原発より何桁も多い放射性物質を排出する。液体廃棄物は海洋放出管で沖合3㌔の海底から放出気体廃棄物は3本の排気塔から大気中に拡散させる。政府は住民の被爆線量を0.022Sv/年と評価しているが、その内訳は評価のたびに異なっている海産物、農畜産物による内部被爆も懸念されるが、影響を過小評価している。付近の大陸棚外縁断層は学会で活断層であると認識されているが、政府は否定している。また、再処理工場は多くの建屋の集合体であり、それを地下トンネルでつないでおり、化学物質を送る配管があるため、耐震性に大きな問題がある」

(2023年8月22日投稿)

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世界遺産登録になぜ歓喜の声?国民は遺産から日本資本主義を学ぶべきだ。

2024-07-28 09:31:35 | 世界遺産

※下記は、2015年7月20日に投稿したものに加筆修正し、改めて投稿したものです。

 1889(明治22)年、2月11日、紀元節の日に大日本帝国憲法が発布された。東京大学医学部のドイツ人教師ベルツがその2日前(9日)の東京の様子を日記に書いている。

 「東京全市は、憲法発布をひかえてその準備のため、言語に絶した騒ぎを演じている。至る所、奉祝門、照明、行列の計画。だがこっけいな事には、誰も憲法の内容をご存じないのだ

上記のような状況が、世界遺産に登録された事でも、国民の間で生じている。

 2014年6月には群馬県の「富岡製糸場と絹産業遺産群」が、2015年の7月5日には新たに明治の産業革命遺産 製鉄・製鋼・造船、石炭産業がユネスコの世界文化遺産に登録された。

 富岡製糸場建設については、大蔵省の渋沢栄一の意見により、フランス製機械の導入、ブリュナなどフランス人技術者の雇用(お雇い外国人)、工女士族の子女の採用とされた。神聖天皇主権大日本帝国政府は生糸(製糸業)を輸出品の目玉として重要視し、富岡製糸場の工場長であった尾高惇忠は明治初期すでに「繰婦(製糸女工)は兵隊に勝る」と考えていた。又政府にとっての生糸政策の重要性は、黒田清隆内閣松方正義蔵相による1889年6月演説に、「天皇陛下が外国より軍艦を購入すべしとのたまいたる時、余は日本の軍艦はすべて生糸を以て購求するものなれば、軍艦を購求せんと欲せば、多く生糸を産出せんことを謀らざるべからずと上言したり」との言葉が表していた。日清戦争前、帝国政府は重工業が未発達で兵器用鉄鋼や軍艦を国内で生産できず、官営八幡製鉄所の稼働まで外国に鉄鋼や軍艦の注文をするしかなかった。そのための代金を得るために生糸が欠かせなかったのである。その生糸生産を担った女工労働については『あゝ野麦峠』に詳しい。

  その産業革命遺産に含まれる「長崎県の高島炭坑や端島炭坑福岡県の三池炭坑・三池港、福岡県の官営八幡製鉄所」について、韓国政府が「戦時中、朝鮮半島出身者に対する強制労働があった」とするのに対して、安倍自公政権が「強制労働ではなく徴用工」だと固執したため、審議での発言内容に激論があり、登録が難航したが、結果として、安倍自公政権は「徴用工」に関する説明を日韓両政府ともに「against  their  will」という英語を使う事で韓国政府と合意し、安倍自公政権声明で「1940年代、その意思に反して連れてこられ、厳しい環境の下で働かされた多くの朝鮮半島出身者等がいた。また、第2次世界大戦中(韓国が日本の植民地時代)に日本政府としても徴用政策を実施していた事について理解できるような措置を講じる所存である。インフォメーションセンターの設置など、犠牲者を記憶にとどめるために適切な措置を説明戦略に盛り込む」と「負の歴史」も踏まえた情報発信をする事を約し、登録が決定した。

 しかし、登録決定翌日から、菅官房長官は、英語の解釈が韓国政府とは異なると知り、「強制労働ではない」と否定している。しかし、外村大東京大教授によれば、「暴力的な動員や過酷な労働を強いた事実は多くの研究で証明されている、意思に反した事が強制した事。言葉のごまかしは国際社会では通じない」という。

 「大日本帝国政府は、1939年から毎年、日本人も含めた労務動員計画を立て、閣議決定した。朝鮮からの動員数も決め、日本の行政機構が役割を担った。手法は年代により『募集』『斡旋』『徴用』と変わったが、すべての時期で概ね暴力を伴う動員が見られ、約70万人の「朝鮮人」が主に日本内地に送られた」「内務省が調査のため44年に朝鮮に派遣した職員は、動員の実情について“拉致同様な状態と文書で報告」「徴用は国民徴用令に基づき、国が責任をもって配置するもので国の栄誉を担う労働者だった。弔慰金や別居手当など援護もついた。日本人は戦争初期から徴用された。しかし、朝鮮人にこの制度が適用されたのは戦争末期の44年。徴用令を適用しないまま、多くの動員をした」

 「世界遺産」として登録を認められるという事は、その遺産がどのようなものであるかという趣旨を可能な限り明らかにする必要があると思う。それは、世界の人々にとって、未来の人類に対して伝えるべき価値のある遺物であると評価する物だからである。だから、各国の政府や国民の誇りを満足させたり誇示するためのものではない。そして、登録を認められた遺産を持つ国は、それを人類共通の大切な宝として継承するために、世界の人々を代表して保存・保護を責任を持って行わなければならないという事である。また、世界遺産に登録してもらうという事は、世界各国(少なくとも21の遺産委員会)に対し、当該国政府(安倍自公政権)の当該遺産に対する歴史認識が世界的普遍的なものとして共有できるものかどうかを判定してもらう、問う、という意味を持つものである。そして、安倍自公政権は今回、結果として歴史認識に問題がある、という事が明らかになったという事である。

 韓国政府朴政権がもし、世界遺産登録に「反対表明」をしなければ、安倍自公政権はもちろん地元の人々や多くの国民は、韓国との歴史について何も触れずに歓喜の声をあげていただろう。メディアもその事を伝えるだけであっただろう。安倍自公政権にとっては朴政権を腹立たしく思っただろうが、国民にとっては隣国との友好を深める上で学ぶ事があったのではないか

 しかし、日本国民は安倍政権もメディアも話題にしない隠していると言ってもよい事を知るべきだ。それは何か。その当時、日本人労働者はどのような環境条件下で働かされていたかという事だ。韓国朴政権は日本国民に、その事を知るキッカケを与えてくれたと理解したい。

 ここでは特に高島炭坑」と「三池炭坑で日本人がどのような労働環境労働条件下で働かされていたかについて紹介しよう。まず、「高島炭坑については、1888(明治21)年、政教社の松岡好一が雑誌『日本人』(主幹・三宅雪嶺)に発表した「高島炭坑の惨状」と題するレポート(高島炭坑坑夫虐待事件)を紹介しよう。「高島炭坑」は、1874年から工部省の管轄下にあったが、同年民営化により、後藤象二郎の所有となり、1881年に三菱会社が買収し経営した。レポートによると、坑夫の直接管理は納屋頭をもうけてそれに当たらせていた。

納屋頭は各地方の博徒その他に依頼し、ほとんど誘拐同様の手段にて雇入れたれば、目下本坑に従事する坑夫は皆その姦計に陥りたるを悔い、悲憤激昂せざるものなし。……坑夫中過度の労力に堪えずして休憩を請い、或は納屋頭、人繰(人夫頭)の意に逆らう者ある時は、見せしめと称して後手に縛し梁上に釣り上げ、足と地と咫尺するに於いて打撃を加え、他の衆坑夫をしてこれを観視せしむ。余(松岡好一)これを聞く、1884(明治17)年の夏この島にコレラ病の侵入するや、3千の坑夫中その大半、即ち1500余名はこの病のために死せりと。炭坑社はその死せる者と未だ死せざる者とを問わず、発病より1日を経れば之を焼き場に送り、大鉄板上に於いて5人もしくは10人づつ焚焼せり。むべなるかな、高島に3回の暴動起こりし事。その1回の如きは竹槍蓆旗を以て炭坑舎を焼き尽くし、機関を破壊し、まさに由々しき大事に至らんとせしが、早くもその警報長崎に達し、警部巡査及び分営軍人の出張ありてわずかに鎮撫せしといえども、舎員の死傷は少なからざらしと。この暴動にや恐れけん、以来炭坑舎は撃剣に熟達せる者を雇入れ、坑内坑外の取締をはなはだ厳にせり。……」(明治文化全集)

 また、吉本襄によると、「……納屋頭より坑夫に与えられる賃金は採掘高によって定められていたが、食事代、納屋賃、道具代その他の名目で納屋頭に中間搾取され、坑夫にとっては働けば働くほど借金ができる仕組みになっていた。その待遇は毎日12時間という長時間労働で、坑内には35度以上という灼熱の場所もあった。食事は少量のご飯とおかずで、納屋には冬でさえ1枚のふとんも用意されていなかった逃亡を企てると、甚だしきに至りてはこれを縛って逆さまに懲役台に釣り下げるといった残酷な刑罰が加えられた」という。

 納屋制は「高島炭坑」に特別あったものではなく、筑豊・北海道などの諸炭坑に当時は広く見受けられた。同じようなものに「飯場制」「人夫部屋」「監獄部屋などがあった。

 1873(明治6)年、官営化した「三池炭坑」では、「囚人労働」が行われた。1888(明治21)年民営化により、三井所有、1908年には三池港完成。官営時代に坑口の近くに「三池集治監を設けて、九州各地の長期刑囚を集め、坑内労働をさせていた。三井払い下げ後もこの囚人労働の使用は継続した。団琢磨は、「坑内作業の囚徒の脱走を防ぐために坑口に鉄砲を持った監視人が立っていた……囚徒の暴動を鎮圧するために囚徒を竹槍にて刺し殺した」と語っている。暴動は73年から5年間連続して起こった。昭和の初期まで継続された。囚人労働が納屋制労働と比較して有利な点は、その労働力の確保をより安価により大量に行えた事である。

 金子堅太郎は、「彼ら囚人はもとより暴戻の悪徒なれば、その苦役に堪えず斃死するも、尋常の工夫が妻子を遺して骨を山野に埋めるの惨状と異なり、また今日のごとく重罪犯人多くしていたずらに国庫支出の監獄費を増加するの際なれば、囚徒をしてこれを必要の工事に服せしめ、もしこれに堪えず斃れ死してその人員を減少するは、監獄費支出の困難を告げる今日に於いて、万止むを得ざる政略なり。また尋常の工夫を使役すると囚徒を使役するとその賃金の比較を挙げれば、北海道に於いて尋常の工夫は概して1日の賃金40銭より下らず、囚徒はわずかに1日18銭を得るものなり。しからば即ち囚徒を役する時は、この開鑿費用中工夫の賃金に於いて過半数以上の減額を見るならん。これ実に一挙両全の策というべきなり。……よろしくこれら囚徒を駆って、尋常の工夫の堪えるあたわざる困難衝に当たらしむべきものとす」と語っている。金子は伊藤博文にかわいがられ神聖天皇主権大日本帝国憲法作成に協力し、農商務大臣、司法大臣となり、伯爵となった。

 当時の日本の資本主義を象徴する姿は、最新の文明技術(外国人技師を雇い機械導入)と奴隷的労働(労働者は土地を失って流浪する農民や被差別部落民らで、残酷な苦役を強制)の結合というものであった。今日の国民は、我々の祖先がどのような歴史を生きていたのかという事を知り、そこから学び、受け継ぐ事を忘れている。その祖先の生き様や思いこそ「歴史遺産」として受け継がなければいけないと思う。安倍自公政権はそのような国民の遺産を受け継ぐ事にはまったく関心をもたない。価値観が異なるからである。国民は安倍自公政権の価値観に取り込まれないようにしなければならない。魂を売ってはならない常に彼らは飴(金)で国民の魂(心)を取り込もうとしている

 安倍自公政権は、こういう機会を逃さず利用して、翼賛体制化したメディアを使って、国民意識の統合(挙国一致の意識)を醸成していこうとしている。五輪の場合も同じ意図をもって国民意識を馴らしていく取り込んでいくのである。「国旗国歌」を強制するのもそういう効果を与える支配の道具なのです。それを嫌う国民には非国民」というレッテルを張り、精神的に弾圧していき、生きてゆきにくくするのである。 

 登録が決まる世界遺産委員会の取材陣は例年、日本が突出して多い。地元にはテレビカメラが入り、喜びに沸く人々の姿をテレビに映し出していた。メディアが無理矢理に煽っている事が見え見えで、これを見て違和感を覚えた。世界遺産に登録してもらうためになぜ必死になり、登録決定すればするでなぜ歓喜の涙まで流す必要があるのか疑問に思う。最近日本では、観光振興の目玉とするために世界遺産登録をめざす自治体が多くなっているらしい。よく使われる言葉で「経済効果」「町おこし」のキッカケにしたいようだ。つまり、金儲けのために遺産登録に参加するということだ。そのためその遺産から何を受け継ぐのかは明確ではないし、考えてもいないか、金儲けに都合のよい事だけを利用するだけで、本来の意味での「遺産」の意識に乏しいようだ。安倍自公政府でさえも登録申請する時点では、「19世紀から20世紀初頭、製鉄や造船、石炭産業の重工業分野に西洋の技術を導入し、日本が短期間で近代産業国家になった道筋を示している」と位置付ける程度で、日本の近代化を誇りたいためと、景気上昇に利用するとか、商売上得か否か、儲かるか否かの視点だけから判断しており、商売感覚でしか考えていないのである。政府はもちろん国民の多数が精神的貧困、文化的貧困という状態で、文化や思想信条、宗教より金儲けが大事のようなのである。だからこれまで安倍自公政府にそこを見透かされて、経済政策とその政府に翼賛するメディアに足元をすくわれてきたのです。60年安保闘争の後(池田勇人、高度経済成長政策)も、バブル政策も、現在のアベノミクス政策も同じである。国民はずっとエコノミック・アニマルとしての生き方を続けてきたのです。生き続けさせる政策に取り込まれてきたのである。これに気がつかなければ本当の幸せを手に入れる事はできないと思う。つまり、生き方を変える必要があるという事です。その第1歩は安倍政権の政策には必ず裏があるから、疑ってかかり、たやすく同調せず、何を狙っているのかを考えてみる事だ。

  メディアは今回の韓国の動向について「過ぎた政治介入」の見出しで「華やかな世界遺産で影の歴史的な事実を強調するのは難しい」「お互いに支持を得ようと繰り広げた外交攻勢」「日韓両国は得たものはなく」「過ぎたる政治介入として世界は教訓にすべき」と締めくくっているがこれはあまり杜撰なまとめ方であろう。「世界遺産登録」の意味付けが浅すぎる、喧嘩両成敗的発想でかたずける(メディアの傲慢)べき問題ではない。メディアは又「なりふり構わぬ言動が目立った。具体的な被害数を途中から使わなくなるなど根拠の不確かな主張もあった」ともいうが、これには呆れてものが言えない。なぜなら、意思に反して連れてきた神聖天皇主権大日本帝国が「人数を明らかにしていない事こそが問題で誠実ではないからだ。敗戦時に戦争関連資料の焼却処分をしている事自体、後ろめたい事をしたという証拠だ。日本側が連れてきたのだから日本側がその数字を明らかにするのが筋だろう。第3者感覚で批判だけして、自分の意見を中途半端に明確にしないのは無責任である。両者を煽る効果しか生まない。メディアは安泰でも、物事の解決の力にはならない。メディアは「客観的ではない」という事が垣間見える。それを悟られないようにしようとしても。揉ましておく事解決させない事がメディアにとっては金儲けのもととなるからであろう。 

 安倍自公政権は自民党政権であるが、その自民党から「(外相会談で協力を合意したのに)約束が違う」とか「韓国側は(世界遺産委員会で)『強制労働』を主張するとの合意反故を(事前に)言ってきた。完全なる外交上のルール違反だ」と批判しているが、これは自分たちの思惑通りにいかないために、韓国を批判非難しているというだけではないのか

※日本政府は世界遺産登録の際、なぜ構成遺産を戦前の1910年までに限定したのかは不明。

※小出裕章・佐高信『原発と日本人─自分を売らない思想』より

 「自分で物事の是非を判断せず、不都合が起きたら“だまされた”で済ませてしまう国民にも大いなる責任があるのではないか」

 「私たちには騙された責任、そして2度と騙されない責任がある」

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潜伏キリシタン遺産の世界遺産登録は経済効果のためか、国民は学び継承すべき教訓に目覚めよ

2024-07-28 09:20:23 | 世界遺産

 潜伏キリシタン遺跡世界遺産に登録された事を多くのメディア(テレビ各局など)が取り上げている。その取り上げ方は不思議な事に一律で共通しており、登録された事に大喜びをしている事と、その喜びの理由を「経済効果がある」という言葉ひと言で言い表している点に大きな特徴がある。そこには世界遺産に登録されるという事に対するメディアの価値観が端的に現れていると言って良い。これまでの、特に文化遺産に関して言えば、文化遺産を物として外見的な捉え方をするだけであり、それを通してそれを生み出した人々がどのように生きたのか(それはその人たちに対し権力者がいかに対応したのかという事も含むが)やその人々の価値観や思想を理解し、現在の私たちや未来を生きる子孫にとって貴重な教訓にしようとする姿勢態度はかけらも感じさせないものである。それは世界遺産についてお世辞にも真の意味を理解しているとはいえないものである。これは日本国民の最大の欠陥である。

 以下に、神聖天皇主権大日本帝国政府が、長崎浦上村の「潜伏キリシタン」に対してどのような姿勢態度で臨んだのかという事について、農民・高木仙右衛門について紹介するのでそこから教訓を得てほしい。

 「潜伏キリシタン」が国際的問題に発展したきっかけは、1864年12月29日にフランスの力で落成した大浦天主堂(フランス寺)で、65年3月17日に浦上村信徒が名乗り出た事に始まる。当時まだ政権を握っていた幕府は67年7月15日浦上村の信徒約70名を逮捕したが、幕府は政治面でも軍事面でもフランス公使ロッシュに頼っていたため徹底的な弾圧はできなかった。それを示す史料として、その時逮捕された浦上村農民である高木仙右衛門『覚書』がある。それによると幕府長崎奉行・河津伊豆守が仙右衛門に対し改宗を説諭したのに対し、「信教の自由」を訴え「改宗」を拒否したため改宗させられないまま結局「村預け」として釈放している。しかし、帝国政府はそうではなかった。

 帝国政府の「潜伏キリシタン」に対する政策は幕府とは異なり過酷を極めた。1868年3月7日、外国事務係、長崎裁判所(長崎奉行所の後身)参謀に着任した井上馨は「物情騒然たる維新の際、浦上一村をあげてキリシタンである事を騒乱分子として危険視」した。そのため、3月15日、「五榜の掲示」により「キリシタン」を禁じた。そのためそれ以後、外国公使団から「キリシタン禁制高札」の廃止を申し入れられ、「切支丹」と「邪宗門」を書き分ける小手先の改訂をするが、浦上村「潜伏キリシタン」に対しては徹底した弾圧を推進した。

 1868年5月17日には大阪行在所(西本願寺)での御前会議で、浦上村「潜伏キリシタン」の処分を、「一村総流罪」(キリシタンを残さず分散して諸藩に預け改宗させる)と決定した。68年6月7日には太政官布達で浦上村「潜伏キリシタン」の流罪処分が発せられ、7月11日から中心人物114名を津和野藩(28名で高木仙右衛門を含む)、長州藩萩(66名)、福山藩(20名)へ移送し投獄した。70年1月始めには残った村民全員(流罪総人数約3380名)を富山以南の西国21藩に移送し投獄した。

 このような帝国政府の姿勢に対し、各国公使団は直ちに帝国政府に対し警告を発した。71年1月には英国代理公使ウイリアム・アダムズが、右大臣三条実美に対し浦上村「潜伏キリシタン」の待遇改善を申し入れた。それに対し帝国政府は3月にはその要求を受け入れた。さらに、71年12月23日から「岩倉遣欧使節団」が出発したが、訪ねる先の国々で抗議を受けた。72年3月4日には米国大統領グラントから信仰や良心の自由、キリシタン禁制を解く事の必要を勧告された。同年11月27日には英国外相グランウィルからヴィクトリア女王の言葉としてキリシタンの弾圧政策を指摘された。また、仏国外相レミュサやベルギー国蔵相モローや米国国務相フィシュからも抗議を受けた。

 このような事から帝国政府(三条実美)は73年2月24日、キリシタン禁制の高札を撤去するに至る。同年3月14日には太政官布達で「長崎県下異宗徒帰還」を命令し、浦上「潜伏キリシタン」も釈放した。高木仙右衛門はこの間弾圧を耐え忍び、7月9日に帰村できた。しかし、帝国政府はキリスト教を許可したのではなく黙認する事にしただけであった(この事は後の内村鑑三不敬事件でも明確である)。

 津和野藩で高木仙右衛門はどのように扱われどのように抗したのかについては、長崎市本原町お告げのマリア修道会墓地に存する「高木仙右衛門碑文」(1941(昭和16)年建立)に詳しい。そこには「……津和野の冬は寒気稟烈骨を刺す程なるに、翁(仙右衛門)等は単衣の儘にてその冬を過ごし、一枚の布団すら給せられず、一日僅か一合四勺の麥(麦)粥にその飢えを凌ぎ三日或は五日に一度は必ず白州に引き出されて説得を加えられても飽くまで屈せざりければ、三尺牢に閉じ込められて、具に辛酸をなむ、明治二年霜月二十六日の朝の如きは病臥中なりしにも拘らず素裸にされ、氷の張り詰めたる池の中に突っ込まれ、長柄の杓にて容赦もなく、冷水を浴びせられ次第に顔色は蒼黒く舌の根は硬ばり、言葉も自由ならずさすがの翁も今は是までなりと覚悟を定め、天を仰ぎ両手を合わせて一心に祈る、役人等もそれと気遣い命じて池より引き上げしむ、翁は牢内にありても毎日熱心に祈り金曜日毎に断食を行い身をも心をも天主にささげて拷問に堪えるべき力を懇請し、かくして六年の久しきに亘りてよく難萬苦に堪え以て終わりを全うする事を得たり、明治六(1873)年四月放免の恩典に浴し、無事浦上に帰還す、……」とある。

 神聖天皇主権大日本帝国政府は、天皇を神格化し神社信仰・神道を国教として、日本国民の思想的・宗教的統一を確立するために、仏教とキリスト教を弾圧したのである。

 そのような権力者に対して、浦上村の農民・高木仙右衛門は自己の信仰(思想の自由・信教の自由)を守るために命を賭けて抵抗したのである。

 大仏次郎は高木仙右衛門の事を『天皇の世紀』に、「政治権力に対する浦上切支丹の根強い抵抗は、目的のない『ええじゃないか踊り』や、花火のように散発的だった各所の百姓一揆と違って、生命を賭して政府の圧力に屈しない性格が、当時としては出色のものであった。政治に発言を一切許されなかった庶民の抵抗として過去になかった新しい時代を作る仕事に、地下のエネルギーとして参加したものである。新政府も公卿も志士たちも新しい時代を作るためにした事は破壊以外何もして居なかった。浦上の四番崩れは、明治新政府の外交問題となった点で有名となったが、それ以上に、権力の前に庶民が強力に自己を主張した点で、封建世界の卑屈な心理から抜け出て、新しい時代の扉を開く先駆となった事件である。社会的にもまた市民の『我』の歴史の上にも、どこでも不徹底に終わった百姓一揆などよりも、力強い航跡を残した。文字のない浦上村本原郷の仙右衛門は自信を以て反抗した農民たちの象徴的な存在であった。維新史の上では無名の彼は、実は日本人として新鮮な性格で、精神の一時代を創設する礎石の一個となった。それとは自分も知らず、その上間もなく歴史の砂礫の下に埋もれて、宗教史以外の歴史家も無視して顧みない存在と成って、いつか元の土中に隠れた。明治の元勲と尊敬された人々よりも、真実新しい時代の門に手を掛けた者だったともいえるのである」と評している。

 日本国民は、浦上村「潜伏キリシタン」から何を教訓として学ぶべきなのか。

(2018年7月投稿)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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世界文化遺産「軍艦島」徴用の説明センターを安倍政権は東京設置。韓国政府の遺憾表明は当たり前だ!!

2024-07-28 09:11:31 | 世界遺産

 安倍自公政府は2020年6月15日、ユネスコの世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」を説明する施設「産業遺産情報センター」の一般公開を始めた。しかし、元島民の「徴用工差別はなかった」とする証言などを展示しているため同日、韓国外交省が「施設」が朝鮮半島出身者に対する「強制労役の事実」を歪曲して伝えていると冨田大使に抗議をするとともに、報道官名で、展示内容は「歴史的事実を完全に歪曲する内容を含んでおり遺憾である」との抗議声明を出した。

※以下は2017年12月10日に投稿したものに加筆修正し改めて投稿したものです。当時の状況を知る事ができると思います。

 2015年7月5日に世界文化遺産に登録された長崎市の軍艦島(端島炭坑)など「明治日本の産業革命遺産」に関し、安倍自公政権は2017年12月1日、登録の際に日韓両政府間でなされた約束の履行方法として、東京に新設する総合情報センター(インフォメーションセンターの事か?)で「徴用の歴史を紹介する」、つまり、「戦時中に朝鮮半島出身の労働者が軍艦島などで働いた事を含め、多様な情報を発信する」とする方針ユネスコに報告した。

 それに対し韓国・文政府外交省報道官は同月5日、「遺憾」の意を表明し、「日本は国際社会に約束した通り、強制労働の犠牲者を記憶にとどめるための措置を、誠実に速やかに履行する事を求める」と述べた。また、朝日新聞によると、韓国外交省関係者、「(歴史を紹介する)施設が東京に設置される事を含めて、様々な問題がある」と述べている。さらに韓国ハンギョレ新聞など韓国メディアでは「日本が軍艦島の朝鮮人強制労働についての説明資料を現地から1200㌔も離れた場所に置く」と批判している。

 なぜ、韓国政府や、韓国メディアや韓国国民からこのような受け止め方をされるのであろうか。安倍自公政権はどのような約束をしたのであろうか。そして今回の安倍政権の方針は、韓国側から見てその約束をどのように違える内容であるという事なのであろうか。当時を振り返ると、

 産業革命遺産に含まれる「長崎県の高島炭坑や端島炭坑、福岡県の三池炭坑・三池港、福岡県の官営八幡製鉄所」について、韓国政府が「戦時中、朝鮮半島出身者に対する強制労働があった」としたのに対し、安倍自公政権が「強制労働ではなく徴用工だ」と固執したため、審議での発言内容に激論があり、登録が難航したが、結果として、安倍政権は「徴用工」に関する説明を日韓両政府ともに「against  their  will」という英語を使う事で韓国政府と合意し、安倍自公政権は声明で「1940年代、その意思に反して連れてこられ、厳しい環境の下で働かされた多くの朝鮮半島出身者等がいた。また、第2次世界大戦中(韓国が日本の植民地時代)に日本政府としても徴用政策を実施していた事について理解できるような措置を講じる所存である。インフォメーションセンターの設置など、犠牲者を記憶にとどめるために適切な措置を説明戦略に盛り込む」と「負の歴史」も踏まえた情報発信をする事を約束し、登録が決定している。

 この経過から見れば、韓国側とすれば「安倍政権にごまかされた」という受け止め方をしても仕方がないと思える。「約束」を誠意を持って履行しようとしているとは言い難いが、みなさんどうでしょう。

 しかし、このような事になるであろう事はすでに予想可能であった。なぜならそれは、登録決定の翌日の時点で、菅官房長官が、英語の解釈が韓国政府とは異なると知り、「強制労働ではない」と否定発言をしていたからである。なお、それに対しては、外村大東京大教授が暴力的な動員や過酷な労働を強いた事実は多くの研究で証明されている。意思に反した事が強制した事。言葉のゴマカシは国際社会では通じない」とメディアを通して述べていた。

 今回上記のような方針を公表する事によって安倍自公政権は、登録時の「約束」は「口先だけ」であった事を暴露するとともに、どのような事実を突きつけられようと、「戦時中、朝鮮半島出身者に対して強制労働をさせた事実」を絶対に認めたくない認めないという意識世界(価値観、歴史認識=歴史修正主義)に生きているという事を改めて暴露する事になったという事である。

 ちなみに、神聖天皇主権大日本帝国政府は、1939年から毎年、日本人も含めた労務動員計画を立て、閣議決定した。朝鮮からの動員数も決め、日本の行政機構が役割を担った。手法は年代により『募集』『斡旋』『徴用』と変わったが、すべての時期で概ね暴力を伴う動員が見られ、約70万人の「朝鮮人」が主に日本内地に送られた。内務省が調査のため44年に朝鮮に派遣した職員は動員の実情について『拉致同様な状態』と文書で報告していた。徴用は国民徴用令に基づき、国が責任をもって配置するもので、国の栄誉を担う労働者だった。弔慰金や別居手当など援護もついた。日本人は戦争初期から徴用された。しかし、朝鮮人にこの制度が適用されたのは戦争末期の44年であった。徴用令を適用しないまま多くの動員をしたといわれる。

 安倍自公政権はわがままのし放題を憲法改悪によって正当化しようとしている。主権者国民は可能な限り早く退場させなければ、主権者国民にとって日本国は安心して生きていけない国、住みたくない国になってしまうだろう。

※別稿「世界遺産登録になぜ歓喜の声?遺産から何を学ぶべきなのか?」(2015年7月20日投稿)などもあわせて読んでください。

(2020年6月16日投稿)

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安倍自公政権は「明治の産業遺産」について世界遺産委での韓国政府との約束を反故にするな。近鉄は生駒トンネル建設事故死の朝鮮人労働者慰霊碑建立

2024-07-28 09:00:44 | 世界遺産

 2019年12月1日までに安倍自公政権は、世界文化遺産に登録された長崎市の軍艦島など「明治日本の産業革命遺産」に関する保全状況報告書をユネスコに提出した。安倍自公政権は、2015年の世界遺産委員会では「意思に反して連れて来られ、厳しい環境の下で働かされた多くの朝鮮半島出身者がいた事を認め、当時の徴用政策について理解できるような措置を講じる」と表明していたが、今回触れていない。そのため、韓国政府は安倍自公政権に対し「朝鮮半島出身の強制労役の犠牲者を記憶に止める措置をとる事を約束した」と主張し、「約束通りの措置をとる」よう要求している。

 近畿日本鉄道の前身である大阪電気軌道会社生駒トンネル建設において、朝鮮人労働者が落盤事故により死亡している。

 1910年9月、大阪~奈良間に電車を走らせようと、大阪電気軌道会社が創立された。大林組の大林芳五郎らが創立委員となり、社長に広岡恵三、専務に七里清介、取締役に岩下清周らが就任した。大正時代の初期には、大阪~奈良間にはすでに国鉄(現JR関西線)が走っていたが、生駒山を迂回していたので、2時間近くもかかっていた。それを50分前後に短縮しようとした。この事業の最大の難関は生駒山であった。山をぶち抜くトンネル案と、ケーブルで山頂を越そうという案と、2つの案が出た。トンネルでは膨大な経費が必要なのでケーブル案に傾きかけた時、岩下が現地を見に行き「遊覧電車ならともかく、高速電車をケーブルにすると後世の物笑いになる。どんな事があってもトンネルにすべきだ」と主張した。

 1911年6月19日、大阪上本町~奈良三条間の30.6㌔の鉄道敷設に着手した。同年7月4日から全長3388㍍、幅6.7㍍、高さ5.5㍍のトンネル工事が、東西から同時に始まった。当時、国鉄中央線の笹子トンネル(4.7㌔)が日本で最長であったが、これは単線狭軌で、複線広軌では生駒トンネルが最初の試みであった。1913年1月26日午後3時半頃、生駒トンネル東口から700㍍の坑内で、レンガを積み上げ中、落盤事故が発生し、153人が生き埋めとなり、19人が死亡した。

 生駒駅の北側にある浄土真宗西教寺では工事関係者の葬儀や法要が営まれた事から当時の追悼式の文書や工事期間中の過去帳が遺されている。生駒トンネル西口から下った浄土真宗称要寺(東大阪市日下町)境内には大阪電気軌道会社と大林組が建立した「招魂碑」がある。裏面には24名の傷病没名が刻まれ、その中に朝鮮人労働者の名がある。

 生駒駅から宝山寺への参道を登ると、右側にハングルのルビがふられた「宝徳寺」があるが、戦後外国人に対し認められた最初の宗教法人である。この寺は住職の趨南錫(故人)が生駒トンネル工事で酷使された同胞の話を知り、トンネル工事にゆかりのあるこの地に建てたものである。境内には1977年11月、地元の有志と近畿日本鉄道の協力し、本堂より一段高い敷地に「韓国人犠牲者無縁仏慰霊碑」を建立している。

 生駒トンネル工事の現場に朝鮮人労働者が働きに来ざるを得なかった背景の一つに「韓国併合」以前の朝鮮での鉄道工事がある。生駒トンネルの工事を請け負った大林組は当時のゼネコンとでもいうべき他の土木請負会社とともに、日露戦争(1904~05)を契機として朝鮮での鉄道工事に参入している。京釜鉄道(ソウル~釜山)の一部と臨時軍用鉄道の一部、さらにソウル~義州間の停車場や機関庫の工事を請け負い、以後の日本国内の請負工事に実績を上げていく。大林組と朝鮮人労働者との関係はこの時期から密接になり、生駒トンネル工事にも朝鮮人労働者が就労する事になったといえる。また、大林組は「韓国併合」後の日本国内での請負工事で、朝鮮人の労働力を最大限に利用し私益を上げていく。

 生駒トンネル工事の歴史は、単にならと大阪の地方史ではなく、これ以後に続く「朝鮮人強制連行・強制労働」の起点であり序章であるといえる。

 1914年1月31日未明、生駒トンネルは貫通し、4月30日に開業した。

 1964年7月、車両の大型化にともない、すぐ南側に新しい生駒トンネルが貫通し、50年にわたるお勤めを終えた。

(2019年12月12日投稿)

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