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ハワイ・ワイキキの歴史

2024-02-05 20:49:48 | アジア・太平洋戦争

 元々ハワイ諸島に住んでいた人々は、自分たちの土地を「ハワイ」と呼んでいた。その語源は、「小さな故郷」「死者の国」「祖先の国」を意味する「ハワイキ」とも、最初にこの島に到達したのが「ハワイイロア」という人物だったという伝説に由来するともいわれている。

 1779年1月に、イギリス人、キャプテン・クック(ジェームズ・クック)がヨーロッパ人で初めて到達した。そして、彼のスポンサーであったイギリスの貴族ジョン・モンタギュー・サンドイッチ伯爵の名前をとって「サンドイッチ諸島」と名付けた。しかし、1795年カメハメハ大王がハワイ諸島をほぼ統一した時、クックが勝手につけた「サンドイッチ諸島」を無視し、住民の呼び名であった「ハワイ王国」と名付けた。これが世界に公認される事となったのである。

 クック来訪以来の白人とハワイ人の接触は、カメハメハ大王によるハワイ諸島統一を可能にしたし、貿易やさとうきびプランテーションは経済の発展をもたらした。しかし、白人との交流はハワイ人に多くの不幸をももたらした。カメハメハ大王は、クックの来訪をきっかけに島に寄港するようになった英米商人から、鉄砲や帆船を手に入れて統一の武器とした。統一後も、カメハメハ王朝は白人と姻戚関係を結んだり、ヨーロッパ人を政治に登用するなどして支配の一助とした。しかし、憲法を作り、国会を開いたりという近代国家への形を整えていく中で白人の力が強大になっていった。それは国家経済を支える主産業である「製糖業」がアメリカ合衆国に依存する状態で発展したためである。ハワイ王国の砂糖の輸出先はほとんどがアメリカ合衆国で、重い関税をかけていた。そこで、ハワイ在住のアメリカ人の中にはこれを取り除くためにハワイをアメリカに併合する事を考える者が出て来た。王政廃止を叫ぶもの(親米派)と王権を強化しようとするものとの間で確執が起きた。

 又、欧米の白人はコレラ、結核、麻疹などの病気を持ち込み、免疫のない先住民族はどんどん死んでいった。さらに、さとうきびプランテーション労働力として移住してきた、大日本帝国をはじめとするアジア民族が、ハワイ人から労働の場を奪い、ハワイ人社会の崩壊を導いた。それはハワイ人を基盤としたハワイ王朝の権力を弱める事にもなった。キリスト教の布教によりヨーロッパ風の文化が優先され、フラハワイ風の音楽も禁止されていった。

 そのような中でハワイ王朝は、王国統一に成功したカメハメハ大王の直系(3代)が絶えた後、アメリカ合衆国の支配をはね返そうと、様々な努力をした。その一つが、合衆国の経済的な圧力下で、兄のディビッド・カラカウアの後を継いで最後の女王となったリリウオカラ二がハワイ独自の文化の復興を願って「アロハオエ」の歌を作詞作曲した事である。

しかし、1893年親米派クーデターによりハワイ王国最後の女王リリウオカラ二を退位させ、ハワイ王国を滅亡に至らせた。明治時代初頭、ハワイ王国から大日本帝国政府へ、太平洋諸民族が連帯して欧米列強と対抗しようという働きかけがあったようであるが、1900年にはハワイ王国は合衆国の準州とされ、1959年には合衆国で50番目となった。

 最後に、オアフ島ワイキキ・ビーチについて。「ワイキキ」は元々ハワイ語で「湧き出ずる水」という意味で、オアフ島で最も湿潤な土地だった。1893年ハワイ最後の女王リリウオカラ二が退位させられ、ハワイ諸島が合衆国領土となると、合衆国政府はこの湿潤地帯を埋め立て、リゾート地にしようと計画した。工事は先ず、この地域の真ん中に運河を掘り、水を海に流すのと同時に、運河を掘った土砂で湿地帯の水田を埋め立てて行った。さらにそこへ、他の場所から運んできた人工的なビーチを造った(1928年完成)。ワイキキの中心街のカラカウア通りの海寄りの歩道には20~30㍍おきにココヤシが植えられているが、その先数十㍍が人口ビーチである。だから、ワイキキ・ビーチのの色は火山島ではあり得ない淡い黄土色をしている。又天然の浜のような自然な傾斜がなく、波打ち際までほとんど平らで、海水が押し寄せるところから急に傾斜となっている。

(2024年2月5日投稿)

 

 

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