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朝日新聞記事「はじまりを歩く」の「二宮金次郎像設置普及」説明への疑問

2024-06-24 20:41:18 | 教育

 2021年2月13日の朝日新聞記事「はじまりを歩く」が「二宮金次郎像」を取り上げていた。その中でその像の設置の全国的広まりについて、「政府や役所主導ではなく、学校の父母や篤志家ら、草の根で広まっていった」と説明しているが、これは事実とは異なるのではないだろうか。

 「金次郎像」の設置が全国的に広まる背景には、先ず、二宮尊徳の思想を実践し農村の救済再建を目指して組織された「報徳社」という結社が、明治の初めには全国に1000社ほど成立していた事にある。そして、日露戦争後の農村の疲弊と騒擾多発状況に対して、神聖天皇主権大日本帝国政府は、西欧帝国主義列強に伍していくためには新しい国民(農民)をつくり、その一致団結のもとに新しい帝国日本を作り出す必要があると考え、第2次桂内閣時の1908年10月に「戊辰詔書」を発布した。内容は「……宜く上下心を一にし 忠実業に服し勤倹産を治め 惟れ信惟れ義 醇厚俗を成し 華を去り実に就き 荒怠相誡め 自彊息まざるべし……」とあり、全国民が共同一致して、勤労に励む事により国富を増強する事を強調していた。その農村への広まりを狙って実施したのが、09年から活発化する「地方改良運動」であった。運動の力点は、第1、町村運営を能率的にするため有能な町村吏員を要請し、それを下から支える町村内部の有志集団(中小地主、自作上農)を作り上げる事であり、帝国政府はこの有志集団の典型として「報徳社」を高く評価したのである。第2、国家財政の重圧に耐え抜く町村をつくるため、部落有林の統一と農事改良・産業組合の設立による生産力の増強を図った。第3、新しい国家体制づくりのために小学校教育青年会運動を奨励したのである。

 「報徳社」は1924年には大合同して「大日本報徳社」を設立した。

 国定教科書では「二宮金次郎」は「孝行」「勤労」「学問」などの徳目で、1904(明治37)年の第1期国定教科書「尋常小学修身書」から登場し、第5期国民学校教科書まで一貫して載せている。

 記事にある「1928年に兵庫県議も務めた中村直吉が妻の倹約した金で(金次郎の銅像を)つくり、(報徳二宮神社に)寄贈した。各地の小学校にも同じく贈ったその数千体。15歳前後の『少年金次郎モデル』が全国に散らばった。機を逃さず富山県高岡市の鋳物業者や愛知県岡崎市の石工業者がセールスをかける」という動きは、上記のような政治社会背景が存在したから起きたものであると考えるべきであり、そのように説明する方が実態を反映しているであろう。

ついでながら、尋常小学唱歌「二宮金次郎」(1911年)は以下の通り。

1、芝刈り縄ない 草鞋をつくり

  親の手を助け 弟を世話し

  兄弟仲良く 孝行つくす

  手本は二宮金次郎

2、骨身を惜まず 仕事にはげみ

  夜なべ済まして 手習読書

  せわしい中にも たゆまず学ぶ

  手本は二宮金次郎

3、家業大事に 費をはぶき

  少しの物をも 粗末にせずに

  遂に身を立て 人をもすくう

  手本は二宮金次郎

(2021年2月15日投稿)

 

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「シベリア出兵」は神聖天皇主権大日本帝国原敬政権によるソヴィエト政権打倒とシベリア略取

2024-06-24 07:43:58 | 文学・歴史

 現在、メディアの扇動により、国民の間の話題は、ロシアによるウクライナ侵略問題で持ち切りのように思われるほどであるが(実際のところはどうであるか分からないが)、今から100年ほど前には、神聖天皇主権大日本帝国原敬政権(1918年9月~21年11月)が、ロシアで革命が起こり、1918年1月社会主義政権として生まれ変わった「ロシア社会主義ソヴィエト共和国」(1922年ソヴィエト社会主義共和国連邦)に対し、それを打倒するとともに、火事場泥棒のごとくシベリア東部略取し支配下に置こうとする対ソ革命干渉戦争政策を実行し失敗した歴史がある事を国民のどれほどが知っているだろう。

 ソヴィエト共和国政府は1917年11月、「平和に関する布告」を採択し、第一次世界大戦の即時休戦と、「無併合・無賠償・民族自決」の民主主義的原則に基づく講和を呼びかけた。さらに秘密外交の廃止も宣言し、帝政ロシアが結んだすべての秘密条約の失効も公表した。大日本帝国政府との秘密条約=日露協約も公表され無効とされ、大日本帝国政府は「満州」での制約はなくなった。しかし、連合国が戦争の早期終結を拒否したため、ソヴィエト共和国政府は1918年3月3日にはドイツ帝国政府単独講和(ブレスト・リトフクス講和条約)を締結し戦線から離脱した。

 危機感を持った英仏両国政府は、反ソヴィエト政権を樹立し、レーニン政権を打倒しようと、米日両国政府にも「対ソ革命干渉戦争」(1918~22)への参加を呼びかけた。その口実としたのが「チェコスロバキア軍」が樹立した「反ソヴィエト政権」の救援であった。

 大日本帝国政府は元々、連合国の掣肘を受ける事なく独自に出兵し、反革命勢力を支援し、帝政ロシアが抑えていた「満州」北部と東支鉄道の支配権を掌握し、うまくいけば「満州」北部と東部シベリア(バイカル湖以東)地域反ソビエトの親日傀儡政権を樹立し、間接的な支配権の確立を狙っていた。その動きは、1918年1月には、革命勢力に圧力をかけるためウラジオストクの居留民保護を名目に巡洋艦2隻を派遣。4月5日には居留民殺傷事件を名目に陸戦隊出兵上陸ハルビンでは中東鉄道長官ホルヴァ―ト権力を支援しソヴィエトを鎮圧。当時大日本帝国国内では、労働争議が頻発し、社会運動の勃興がみられ、18年6月には後藤新平外相意見書で、人心の弛廃を憂え、「シベリア出兵を断行し、人心を緊張せしむるの要あり」と述べ、寺内正毅首相も「資本家と労働者の懸隔甚だしき事が国体に合致せぬ国民思想の変化を生む」と危険を警告しており、大日本帝国政府としては国内政治的危機の回避のためにも「シベリア出兵」を急がねばならないと考えていた。しかし、『大阪朝日』『東洋経済新聞』をはじめ多くの新聞・雑誌は出兵に反対し、国民も冷ややかであった。

※『東洋経済新聞』の反対論 1918年7月25日号「社説」より

「目下の露国の混乱は、経済上の理由から発した国内の階級戦だという事を、強く我が国民に知ってもらいたい。幾十百年の間、他国民のほとんど想像だも出来ぬ激しさを以て圧伏せられて来た農民労働者が、一時にその圧迫を蹴破って起ったのが、今回の露国の革命である。……明治維新も一種の階級戦であった。混乱は随分続いた。しかしこの時外国の勢力が、あるいは幕府を援け、あるいは討幕党を圧迫する事によって能くその混乱を鎮め得ただろうか。よし一時は鎮め得たとしても、それで国民は満足したであろうか。今の露国で、反革命を援け、あるいは革命党を圧迫するのは、あたかも明治維新の際、幕府を援け、討幕党を圧迫するのと異ならない。……過激派(ボルシェビキ[多数派]を当時このように訳した)を承認しろ過激派を援けろ。連合国は、思想上過激派と一致せざるやにて、その承認を拒んでおるが、それでは彼らは他国民の思想に干渉する者である。民族の自決権などいう事を喧しくいう連合国の主張とは矛盾である。……事実は仮令厭うべきものでも、その存在を認めねばならぬ。……責めるにしても、援けるにしても、存在する物を認めぬという法はない。悪かったらこれを責めるも善い、勧告するも善い、とにかく過激派政府を認めて、露国のため、連合国のため最善の努力をなさしめる。これをおいて他に現下の時局を救う途はない。……無名の兵を露国に出だし、露国民の憤恨を買うが如きは、絶対にすべからざる事である。」 

 18年7月に米国の出兵提案を受け、同年8月2日、大日本帝国政府はシベリア出兵(ウラジオストク)を宣言した。大日本帝国軍1万2千人、米国軍7千人、英仏軍5800人の約束で共同出兵し大日本帝国政府軍が指揮権を握った。大日本帝国政府は、米国の限定出兵の約束を形式上受け入れたが元々、出兵地域や兵力量を限定するつもりがなかったで、10月末には7万2千人(ソ満国境の満州里からチタへ侵略した関東都督府指揮下の部隊も含む)の派遣となり、シベリアのバイカル湖以東を制圧した。1918年11月11日、ドイツの休戦協定調印により第一次世界大戦は終結したが対ソ革命干渉戦争は続けられた。しかし、1919年初めから大日本帝国政府軍は戦況不利となり、又手段を選ばない残虐な戦闘行為はシベリア民衆の反日感情とパルチザン抵抗運動を強める事になり、大日本帝国政府軍部隊の全滅が相次いだ。鉄道や鉄橋、電話線なども絶え間なく破壊されたが、大日本帝国政府軍はその報復として、村を焼き払い住民を男女の別なく虐殺した。

 1920年1月、対ソ革命干渉戦争の無益さを感じた米国と英仏両国が撤兵声明を出したが、大日本帝国政府軍は東部シベリアや樺太北半部の略取に執着し、出兵理由を「朝鮮・満州への革命波及の防止、シベリア居留民の保護など」に改めて駐兵継続を宣言し、沿海州のソヴィエト軍の武装を解除して各都市を占領し居座りを続けた。この事は、尼港(ニコライエフスク)事件を招く事となった。

 大日本帝国内では、日本労働総同盟が「即時撤兵・日ソ通商開始」の要求運動を起こし、1922年には「対露非干渉同志会」が作られたためもあり、1922年10月撤兵を完了した。しかし、樺太北半部の撤退完了は尼港事件処理に拘ったため、1925年5月まで長引いた

シベリア出征兵士の体験 松尾勝造『シベリア出征日記』より一部抜粋

「(1919年2月13日)……家の中より物陰より盛んに発砲して来るが、その時はもう身の危険等との考えは微塵も起こらない。一昨日の恨み、戦死者の弔い合戦だと身の疲労等とうに忘れてしまい、脱兎のごとくに攻め入った。……硝子を打ち割り、扉を破り、家に侵入、敵は土民かの見境はつかぬ。手当り次第撃ち殺す、突き殺すの阿修羅となった。前もって女子供、土民を害すなと注意されてはいたものの、敵にして正規兵は極少数、多くは土民に武器を持たしたものの、武器を捨てれば土民に早変わりという有様にて、兵か土民かの見分けの付こうはずはない。片っ端から殺して行く。」

※列国の「ソヴィエト社会主義共和国連邦」承認の時期

 1922年 ドイツ 1924年 イギリス、イタリア、フランス 

 1925年 日本  1933年 アメリカ  

 1934年 ソ連、国際連盟加盟

(2022年4月16日投稿)

 

 

 

 

 

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原敬首相が起こした森戸事件と大本教事件から見た彼の実像

2024-06-24 07:36:37 | 宗教

 「平民宰相」といわれ、さも民衆の国民の味方のようなイメージを描くが、実像はまったく正反対で、庶民が政治意識を高め政治参加する事に至極否定的で、政府に対する批判には徹底的な弾圧を行い、神聖天皇主権の国家体制を守ろうとした。そのため、民衆の批判が高まり東京駅で国鉄職員に暗殺された。 

 原敬内閣(1918年9月29日~1921年11月5日)は米騒動の責任を負い総辞職した寺内内閣のあと元老の推薦により成立した。原は立憲政友会総裁であったが、この内閣は政友会が民衆の先頭に立って闘い取ったものではない。神聖天皇主権大日本国帝国政府が、民衆運動の高まりを抑えるために、これまでの閥族超然主義の統治方法が継続不可能となったと判断し、神聖天皇主権政治下での政党政治という統治方法をとったものである。原は民主主義を要求する民衆運動の高まりに対しては、国家体制の危機と捉え「官僚はこの潮流を遮断せんと欲し、余輩は之を激盛せしめずして、相当に疎通して大害を起こさざらん事を欲する」と『原敬日記』に記しているように、右翼団体・大日本国粋会などの結成に尽力し、これら右翼団体と結託して民衆運動を弾圧した(右翼団体の運動を国粋主義から反社会主義運動に変化させ、政党の大衆(世論)操作の一翼を担うようにした。右翼団体と政友会の密着は、民衆運動に対し暴力を用いて対抗しようとしたのである)。植民地朝鮮においては、1919年に起こった3・1独立運動を徹底的に弾圧したが、国内においても森戸事件大本教事件を起こした。

 森戸事件(1920年1月)は、東京帝国大学助教授森戸辰雄が前年末に同大経済学部機関紙「経済学研究」創刊号に掲載した「クロポトキンの社会思想の研究」に対する弾圧であった。1920年1月13日の『原敬日記』には、「共産無政府主義なるクロポトキン主義を執筆したる森戸東京大学助教授起訴の件、閣僚に諮り不得巳起訴の外なしと決定したるに因り、鈴木司法次官を招き起訴の内訓をなしたり。但「経済学研究」と称する雑誌に登載ありしに因り、同雑誌編輯人大内助教授も同時に起訴する事となしたり。近来教授等如何にも無責任にて国家の根本を考えざるが如き行動多きに因り、国家の前途に甚だ憂慮すべしと思う。因て此際断然たる処置を取る事となせり」とある。この事件の火付け役は上杉慎吉指導の東大右翼学生の組織・興国同志会であった。

※下記は2019年11月11日投稿の内容を再投稿したものです。

 大本教事件(1921年2月)は、大本教に対する弾圧であった。大本教は出口直を教祖として日露戦争の頃発展した。出口王仁三郎の指導により第1次世界大戦ととも教勢を増した。原は戦後の不況で悪化した社会情勢と人心の動揺を怖れて、徹底的に弾圧した。信教の自由を圧殺する事により神聖天皇主権国家体制を死守する事を目的として起こした政治的事件である。1920年10月9日の『原敬日記』には、「余は我国宗教の力は殆ど全滅したる結果として大本教の如きものすら蔓延する勢いなれば、耶蘇教の如き近来非常の勢いを以て伝播せり。……而して儒教、仏教皆日本化したるが如く、耶蘇教も日本化する様子なりしも、何分外国宣教師によりて宣伝さるると又欧州大戦の影響として人の動揺を来したる際なるに因り、将来如何なる状況を呈せんも知るべからず、斯くの如き形勢なる独り教育の力を以てのみ人心を指導せんとするは、実に至難の事業なり、併し何とかせざるべからずと考え講究中なりと云い置きたり」と記している。

(2020年8月30日投稿) 

 

 

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原敬首相の実像、政治目的は政友会の党勢拡大と盤石化、民衆の国家への統合とそのための教化にあった。

2024-06-24 07:28:27 | 安倍政治

 原敬首相は、立憲政友会の党勢を拡大する事とその党勢を盤石なものとする事を目的とし、1919年5月23日に改正衆議院議員選挙法を成立させた。その内容は大きく2つあった。その一つが小選挙区制の採用であった。彼の掲げた理由は、①選挙民と候補者との関係を密接にし得る事、②同士打ちを回避できる事、③政党の地盤を強め得る事、④選挙費用を節約できる事、⑤選挙干渉の効き目を減少せしめる事、などであった。しかし、その真の狙いはもちろん立憲政友会の地盤強化にあった。

 もう一つは有権者の納税資格要件を10円から3円以上に引き下げた事であった。この狙いはどこにあったか。原敬は「普通選挙」を直ちに実施する事には反対であった。帝国政府や社会に脅威を与えているのは、民衆の成長であり、普選法の背後には階級制度を打破しようとする「不穏なる思想」が潜んでいるとみていた。そこで納税資格要件を引き下げたのであるが、その事により有権者数を倍増させるのであるが、そのほとんどは地方農民の小地主や上層自作農民であり、彼らが有権者となる事が政友会に有利な状況を生むと計算したのである。原敬による有権者の納税資格要件の引き下げと小選挙区制の成立は帝国政府の利益を計算した民衆対策であったのである。民衆による民主主義的な運動の高まりに理解を示すように見せながら、実は民衆運動を押さえつける事を狙っていたのである。原敬は民主主義的な民衆運動に対し挑戦をしたのであった。

 原敬の民衆対策からもその事は明らかであった。彼の「民衆像」は「保守と進歩」の調和による「鉄の如き国民性」(『原敬全集』下)であった。それは民衆の帝国政府・社会に対する義務を強調し、民衆を帝国政府に統合していくものであった。民衆の協調性をうたい、帝国政府への忠誠観念、自治公共心を養成する考え方は、民衆の政治的成長を防止し、逆に民衆を操作していく上での根本としていた。「健全な国家」を築き上げるために民衆に「危激の思想」にかぶれないよう「自重自制の精神」をいかに修得させるかを大きな課題としていた。

 原敬の民衆教化対策としては1919年3月以降内務省を通じて推進していた民力涵養運動があった。この狙いは民衆に「犠牲奉公の精神」を発揮させ「国体の精華」を発揮させる事、勤倹主義をもって生活の改善をはからせ、「協同調和の実」を上げさせる事にあった。この運動は県・郡・市町村の行政を通じて社会の底辺におろされた。担い手は地方の共同体に拠点を持つ青年団、婦女会、産業組合などで、府県郡市町村が指導したのであった。

 そして、この運動は大日本帝国政府を安定させるために、民主主義的な社会運動に対する政府の抑圧弾圧政策の露払いの役割を果たしたのであった。それが山川均・堺利彦らが1920年に12月に結成した日本社会主義同盟の禁止(21年)であった。また、朝鮮における1919年の三・一独立運動に対する弾圧であった。

(2018年10月27日投稿)

 

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