「改訂版:象徴天皇の「伝統」とは昭和天皇の「新日本建設に関する詔書(人間宣言)」」の最後の部分に、この「詔書」を発表してから30年後の1975年の記者会見で、昭和天皇が、現行憲法第1条「象徴天皇」についてどのように考えているかについて発言した内容を紹介したが、それは、
「第1条ですね。あの条文は日本の国体の精神にあった(合った?)事でありますから、そう法律的にやかましい事をいうよりも、私はいいと思っています。……国体というものが、日本の皇室は昔から国民の信頼によって万世一系を保っていたのであります。……その原因というものは、皇室もまた国民を赤子(わが子)と考えられて、非常に国民を大事にされた。その代々の天皇の思召しというものが、今日をなしたと私は信じています。」というものであった。
現行天皇は、この昭和天皇の言葉を間違いなく継承していると考えてよいと思う。そのため、国民は、その「国体」というものがどんなものであるのか?を確認しておく事は非常に重要である考える。
「国体」とは、ほかでもなく「国家神道の教義」に示されているものなのである。神祇院編の『神社本義』(1944年6月)が明確に定義しているのでそれを紹介しよう。それは、
「大日本帝国は、畏くも皇祖天照大神の肇め給うた国であって、その神裔にあらせられる万世一系の天皇が、皇祖の神勅のまにまに、悠遠の古より無窮にしろしめし給う。これ万邦無比の我が国体である。(中略)我が国にあっては、歴代の天皇は常に皇祖と御一体にあらせられ、現御神として神ながら御代しろしめし、宏大無辺の聖徳を垂れさせ給い、国民はこの仁慈の皇恩に浴して、億兆一心、聖旨を奉体し祖志を継ぎ、代々天皇にまつろい奉って、忠孝の美徳を発揮し、かくて君民一致の比類なき一大家族国家を形成し、無窮に絶えることなき国家の生命が、生々発展し続けている。これ我が国体の精華である。この万世変わる事なき尊厳無比なる国体に基づき、太古に肇まり無窮に通じ、中外に施して悖る事なき道こそは、惟神の大道である。しかして惟神の大道が、もっとも荘厳にして尊貴なる姿として現れたものに神社がある。伊勢の神宮を始め奉り、各地に鎮まります神社は、尊厳なる我が国体を顕現し、永久に皇国を鎮護せられているのである。」というものである。
さて、現行天皇の「お言葉」に話をもどそう。その中に、「天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈る事を大切に考えてきた」とか、象徴的行為として行った全国に及ぶ旅は、「天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを人々への深い信頼と敬愛をもってなし得た」という「文言」があるが、この中の「天皇の務めとしての祈り」という「文言」が何を意味しているかを見逃してはいけない。
この「祈り」というものは、国民の我々が、「胸に手を当てて祈る」とかいうものとは全く異なるものであるという事である。
これこそ、かつて「国家神道(皇室神道による神社神道の再編成)」といわれた宗教への「祈り」である事を理解しておかなければならない。
皇居内に造られている「宮中三殿」(賢所、皇霊殿、神殿)で、なかでも一段高く大きく造られている「天照大神」を祀る「賢所」において、その「祈り」は行われてきたのである。
また、「国民体育大会」、略して「国体」の開催の際に主催地にある「護国神社」へ参り、「祈る」という形でも続けられてきた事を意味しているのである。
つまり、戦後廃止された「国家神道」(明治政府によって記紀神話を真実として扱い作られた宗教)は脈々と生き続けているだけでなく、政教一致の「国家神道」を反省して、憲法に定められた「政教分離原則」にも違反してきたという事なのである。
「国家神道」は、他の宗教の自由な発展を阻害し変質させ、宗教に非ざる行為に手を染める歴史を刻ませる事になっただけでなく、日本国民の歴史をも作り変え、伝統的な本来の文化も破壊またはゆがんだものにしてしまったのである。
(2016年8月18日投稿)