ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「紫禁城の黄昏」

2007-02-10 17:27:33 | Weblog
「紫禁城の黄昏」という本を読んだ。
これは図書館の本ではない。久しぶりに自分で購入した本だ。
金を出して自分で本を買うということも一年振りぐらいだ。
本を買わないというのは、金が掛かるということもさることながら、われわれレベルだと一度読んだ本はもう2度と読まないという点からしても、買うということがもったいないという意識があるからだ。その上、蔵書がたまって困るということもある。
その点、図書館の本ならばそういう心配は一切ないわけで、まことに都合がいいわけだが、この本に限っては、自分で買って読みたかった。
上下2巻の本であったが、まず上巻の方は辛亥革命前後の記述である。
辛亥革命が起きる前後に、清王朝が如何に対応したかという部分の記述であるが、この本の著者は清王朝最後の皇帝、宣統帝溥儀の家庭教師を勤めた人で、清王朝の最後を内側から見ていたわけで、その意味でわれわれの知らない部分を大胆に描き出している。
しかし、私は思春期にパール・バック女史の「大地」を読んで以来、しばらくの間はそういうものから遠ざかっていたが、数年前、ユン・チャン女史の「ワイルド・スワン」「マオ」を読み、今回「紫禁城の黄昏」というものを読んでみると、どうにもシナ人というものが不可解に思われてくる。
アジア大陸にはさまざまな民族が住んでいたことは周知の事実であるが、あまりにも陸地の面積が広すぎるので、地域地域によってそれぞれの王国ができ、それらが栄華盛衰を繰り返すということは理解できる。
しかし、地方地方でさまざまな民族が群雄割拠しているので、アジア全体として統一国家というものができないのが不思議でならない。
あまりにも陸地が広すぎるということなのであろうか。
われわれが習う歴史では唐、宋、元、明、清等々の王朝の興亡は習うが、それらがアジア全域を統一国家としたという風には習わない。
つまり、中国の地に次から次に王朝ができては消え、消えてはできても、常にその周辺に夷荻の存在があったわけで、国家統一ということはいまだに存在し得ない。
アメリカ大陸、南北アメリカ大陸にも先住民としてアジア系の人たちがいたが、きわめて大雑把に言って、この人々も統一国家を作ることなく現代のアメリカ社会に埋没してしまっている。
この地の先住民も、基本的にアジアから出てあの地に流れ着いたモンゴリアン、モンゴロイドであったわけで、そう考えるとモンゴリアンというのは自分たちの統一国家というものを作る気質が先天的に欠けているのであろうか。
中国の歴史というのは、極め大雑把に言ってしまえば、ヨーロッパ人に席巻される前のアメリカ大陸の先住民、いわゆるインデアン、インデオと同じだということではなかろうか。
アメリカの先住民も、ヨーロッパ人が来るまでは、地域地域に群雄割拠しながら、勢力を大きくしたり小さくしたり、つまり民族同士の興亡を繰りかえしていたが、大陸をひとつの国家として統一するということはなかった。
それはアジア大陸の中央部で、いわゆる中国の地で、さまざまな王朝が勃興しまた衰退していったことと同じなのではなかろうか。
南北アメリカ大陸にはヨーロッパ人が移住して、結果的にはその地はヨーロッパ系の白人に支配されてしまっている。
先住民としての現地の人々は、それぞれの社会の隅に追いやられてしまっている。
アジア大陸においては、かっての帝国主義華やかりし頃には、そういう民族の危機というのが現実にあったわけで、この本の著者R・F・ジョンストンという人も、その帝国主義の手先の一人であったわけだ。
それで、その手先の一人の視点からアジアの先住民としての満州族の王朝のものの見方を見てみると、それはアジアのあらゆる民族に共通する潜在意識が透けて見えるということだと思う。
アジアに住んでいる諸民族の共通認識というのは、いわゆる孔子の儒教思想である。
仁儀礼知信を最良の徳と説く思想は、アジアに住むあらゆる民族の精神にはっきりと刷り込まれているわけで、民族が違ってもそれが共通基盤となっているように見える。
ところが王朝の交代というのは、統治者の儒教思想の濃淡でいかようにも裁量が許されてしまうわけで、言葉を返せば、自分勝手にその儒教思想を解釈してしまうわけである。
それはなんとなれば、アジア大陸では何時なんどき他民族に支配、専制されてしまうかわからないので、他人がまったく信用ならないという現実からきていると思う。
故に、この地の住む人々は徹底的な個人主義に固まっているわけで、自分以外の他人を信用するということがなく、すべてのことが個人の利益につながるかつながらないかが価値の基準になっているのである。
だから人のために何かをなすという意識がまったくないものだから、その個人主義を全うするために、儒教思想を利用し続けてきたわけである。
ここで問題となるのは、彼らが古い価値観から脱却しようとせず、頑迷な考え方に固執する理由である。
意識改革ということが彼らの脳裏にはまったく見られないということである。
辛亥革命というのは旧態依然たる大清帝国を近代化しようとするものと定義されているが、この本によると、それは漢民族の国家を再興するというニュアンスで語られている。
このときに意識改革をしようとしたものがいたことはいたが、いかんせん数が少なく、無教養な大衆の中に埋没してしまった。
毛沢東の共産主義革命が成功しても、国の本質を形成する人々の潜在意識の実態は早々急激に変わるものではなく、その中の人々の意識は、古来の思考から脱却することをかたくなに拒んでおり、それをきれいさっぱり払拭することは不可能であった。
統治するものの形態が多少変わったとしても共産党員とそうでないものの乖離は当然旧思考のままで、表層的なスローガンが変わっただけである。
この時代の中国、いわゆるシナというのは、清王朝、中華民国といったところで、統一国家の体をなしていなかったといったほうが正鵠を得ていると思う。
ところがこれを中国の外側から見ると、西洋諸国はこの当時の中国の実態を自分のご都合主義で自分にとって都合のいいように解釈していたようだ。
一言でいえば、帝国主義的利得の草刈場そのものであったわけだ。
アメリカ大陸にヨーロッパから新天地を求めて渡ったのと同じ感覚できたものの、アジアは多様な文化を内包していたので、成功すると部分と撤退せざるを得ない部分がまだら状に展開したのである。
日本などはヨーロッパ人に入り込む隙を与えなかった部類の数少ないアジア人だったと思う。
清王朝も、われわれが文字の上から学ぶかぎり、一応は統一国家に見えるが、その中で各地方の軍司令官が自分の兵隊たちを私物化するということは、われわれの理解を超えることだ。
軍人がシステムとしての武力集団を私物化すれば、官僚がやはりシステムとしての行政を私物化するのも当然のことで、そのことは公に殉ずるという意識そのものが最初からないということにつながる。
中国の人々は徹底的な個人主義なわけで、公、おおやけ、というものの意識、概念が最初から存在していないのではないかと思う。
それも無理ない話ではないかと想像する。
私が想像するに、中国の大衆、民衆、特にこの時代のそういう類の人々は、人間ではないという意識が中国人からも、そしてヨーロッパ人からも、そしてわれわれの同胞からも、そう思われていたのではないかと想像する。
公園に「犬と中国人は入るべからず」などという看板があったということはそういうことだと思う。
それは清王朝の施策が悪かったということを超越して、もっと根源的に、人間の生の姿、太古の民族移動、原始の人間の姿を呈していたのではないかと思う。
文明の対極に位置する、人間の姿をした動物以外の何者でもない、という存在であったのではなかろうか。
広大なアジア大陸の奥地に住んでいた人、道もなく、電灯もなく、水道も、耕地もない山奥に生きてきた人が、文明の光に導かれて都会に出てきたとすれば、必然的にこのような情況を呈するのではなかろうか。
この本の著者は、そういう社会とは大きく隔たった、王朝の内部という別世界に起居していて見聞したことを書いているが、紫禁城を一歩離れれば、そういう状況が展開していたのではなかろうか。
こういう状況を目の当たりにすれば、公に殉ずるなどという奇麗事は通らないということが一目瞭然であったに違いない。
そんなものは放り投げておいて、まずは自分の保身を図らないことには、何時なんどきわが身がそういう状況におとされるかわからないわけで、稼げるうちに私服を肥やさねばならないという思考になるものと考える。
それに反し、自分の主君に対する忠というのは多少存在するが、それとても絶対的なものではないわけで、自分の都合によってきわめて日和見な態度にならざるを得ないはずだ。
アジア大陸、中国の地に生きる人々にとって、他民族ばかりではなく、同胞からも何時自分の家、家財、財産、集落が壊滅あるいは殲滅されるかわからない不安が付きまとっているわけで、それに対処するには他人のことなど構っておれなかったかというのが現実ではないかと想像する。
われわれの国ではそういうことはありえないわけで、四周は海で取り囲まれ、治安というものがしっかりしているので、いつも枕を高くして眠れるが、彼の地ではそうは行かないわけで、常に自分に身は自分で守ることを心に思い煩っていなければならない。
奇麗事で人のことなどに関わりあっておれないのも無理からぬことである。
この本は清王朝、宣統帝溥儀の最後の最後まで、彼らを食い物にしていた官僚の腐敗、醜態を描き出しているが、この生き方そのものが中国の民の潜在的な志向である、と言うことをわれわれは肝に銘じて知っておかねばならない。
彼らは自分たちの自身の力というものを実によく知っている。
知ってるから、生き馬の目を抜く国際社会を、自分の力で切り開いて生きようなどとは最初から考えず、敵対勢力を戦わせて、自分は「漁夫の利」を得ることを考えているわけである。
中華民国の蒋介石も、中国共産党の毛沢東も同じ手法、手段で、覇を競ったではないか。
それに引き換えわれわれから見た中国というのは、太古における文明の先駆者というイメージを払拭しきれず、相手を先輩と崇め、一歩遜った思考になってしまうので、相手からみれば日本に対しては尊大に振舞ってもかまわないという思考になってしまうのである。
その点、ヨーロッパ系の人々はそういう意識がまったくないものだから、あくまでもアジアの未開人という認識で迫ってくるので、彼らには贖罪意識がまったく存在しないということになる。

「日本外交の無能と戦争責任」

2007-02-07 08:03:43 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「日本外交の無能と戦争責任」という本を読んだ。
これは本というよりもパンフレットに近い薄い冊子であるが、内容的には非常に意味の深いものであった。
この中で吉田茂に対する評価は私と意見を異にするものであるが、その他の部分では大いに共感するものがある。
先の戦争にかかわる部分で、外交官、外務省に関する糾弾の中で、日米開戦当時の駐米大使館員であった奥村勝三、寺崎英成、井口貞夫に対する詰問は当然のことだと思う。
厳密に言えばこの3人の上に野村吉三郎と来栖三郎がいたが、彼らは駐米大使館の組織のトップとはいうものの日米交渉のために臨時にその役割を担ったわけで、いわば看板のようなもので、実務はこの3人が負うべきだと思う。
しかも昭和天皇は開戦にあたり、こういうこと、つまり開戦の手続きに「遺漏なきように」と念を押されているにもかかわらず、遺漏をしてしまったという点からすると、彼らは切腹して当然という立場にあったわけである。
にもかかわらず、奥村勝三はその後外務次官となり、終戦直後、昭和天皇とマッカアサーの会見に立会いその内容をリークしている。
寺崎英成は、その後、宮内庁御用掛となり「昭和天皇独白録」を出しているが、これも昭和天皇の心中を暴露したようなものだ。
また、井口貞夫は昭和26年のサンフランシスコ講和条約締結に随行員としてついていっている。これらの人事を全部吉田茂のしたことだとはにわかに信じがたいが、著者の立腹も察して余りある。また、同時に杉原千畝に対する処遇は、ユダヤ人を6千名も救済した実績に鑑みても、これらと全く正反対になっているわけで、著者が憤慨するのももっともなことだ。
この著者、杉原誠四郎氏が吉田茂を糾弾する根拠は、彼がこれら外交官の失敗をかばい、彼らを厳しく諌めることをせず、逆に擁護した点が彼の逆鱗に触れているということから来ている。
基本的には外務省の有り体がだらしがないから、日本は奈落の底に転がり落ちたという意味では大いに共感が得られる。
私も心底そう思っているし、同じ趣旨の文をすでにHP上に発表している。
昭和初期の段階で、日本軍が中国全土に軍を進めている現状にてらして、諸外国はどう反応するのかという情報収集とその分析は外務省であれば当然しなければならないことである。
日本の外務省の外交官、ないしは職員には、そういうことがまったく理解されていなかった。
ただただ相手国の意向を本国に伝えるだけのことしかしていなかったわけで、これでは子供の使いとまったく同じレベルのことでしかない。
日本の政府から派遣されて外国の領事館ないしは大使館に派遣されるということは、その職務の中に、当然、情報収集も含まれているわけで、もっといえば情報収集だけではなく情報の分析までもその職分の中に入っていると思うのが外交というものに対する普通の思考であり、普通の認識だと思う。
日本の外務省の人間には、それがまったく判っていないようだ。
その理由を推察するならば、基本的には、外交官の採用試験、任用のときからその矛盾が内在していたと考えなければならない。
外交官試験に受かるということは、非常な難関をクリアーすることで、難関であるからこそ、それをクリアーしたということは、押しも押されもせぬエリートとして選別されたということである。
そういう難関をクリアーした人にしてみれば、こまごまとした仕事は自分たちの職分ではないと思うのも無理からぬことである。
それを端的に示しているのが、日米開戦の宣戦布告の文書を清書するのにタイプを打てる人がいなかったという例に見える。
英語圏に派遣されているのに、自分でタイプライターも打てない人間ではなんとも仕様がないではないか。
ところが彼らは、エリートがタイプを打つこと自体を認識していないわけで、それが当然だと思っているのである。
なんとなれば、タイプを打つなどという仕儀は下級職員の仕事で、自分たちエリートはそんなことする必要がない、と思い込んでいたわけである。
車を運転するのは、運転手という下等な職域にすることで、自分は後ろでふんぞり返るべき人間だ、という認識であり、今で言えば、コンピューターの使い方を自分でマスターしなくても、必要なときは人に頼んで資料を目の前に出してもらえばいい、という認識であり、そういうことは下級のものの職務分担だ、といっているようなものである。
非常に狭い門をクリアーしてきたエリートの認識がこの程度なのだから、宣戦布告の文書がどれだけ大事なものか、という認識もまったくなかったに違いない。
日米交渉を通じて、今にも戦争が始まるという感覚とか、緊張感とか、異様に張り詰めた雰囲気などが、このときの駐米大使館の人間には理解されていなかったに違いない。
普通にまともな人間ならば、すぐにでも戦争になるかもしれない、という雰囲気は肌で感じれると思うし、それを感じたら、しばらくの間は全員待機を命じ、何時いかなるときでも直ちに対応する体制を整えて準備すると思うが、当時の駐米大使館にはそういう緊張感が微塵もなく、極めてのんびりと日曜日の朝を迎えていたようだ。
この、今にも戦争になるかも知れない、という雰囲気を嗅ぎ取れない外交官ではまったく話にならないではないか。
この鈍感さという点から見れば、頭から無能とののしられても致し方ない。
この著者の怒りは、無能だけならばまだいいが、その無能な外交官が重大な失敗をしたにもかかわらず、処罰もされなければ、首にもならず、出世している点に、怒りの真骨頂があったわけだ。それをしたのが吉田茂というわけで、吉田茂は彼にかかるとコテンパンにこき下ろされている。
吉田茂も外務省出身ということはよく知っているので、案外そういう見方が正しいのかもしれない。外務省の杉原千畝に対する処遇についても著者が怒るのも無理ないと思う。
外務省として彼、杉原のとった行為の意味というものを全く理解していないということだろうと思う。
自分達の同僚のとった行為の意味を全く理解しないということも、実に由々しき問題なわけで、この認識が蔓延していたからこそ、日米開戦の宣戦布告の文書が遅れても、なんら処罰もされなければ首にもならないということなのであろう。
つまり、あらゆることに対して、そのことが重大な要因を含んでいるかどうか、という判断が全く出来ていないということである。
これでは無能と言われてもなんら返す言葉がないというものであろう。
教科書の誤認報道に対する措置でも、脱北者の処遇に対する措置でも、領事館員の自殺の件でも、小泉首相の靖国神社参詣の問題でも、相手側の言っていることの本意、狙い、ことの重大さ、ないしは外交的なブラフというものの本質がまったくわかっていないから、相手の言うがままに振り回されているのである。
しかし、これらのことにはその一つ一つに国益が絡んでいるわけで、主権国家の外交官ならば、その国の国益の擁護が最重要なことであるにもかかわらず、ことの軽重がわかっていないものだからそれが損なわれている。
国益が損なわれていること自体が認識されていないのではなかろうか。
戦争が政治の延長という言葉は広く流布されているが、外交もそれ以上に政治の延長なわけで、政治といった場合、それは国の内側に向けられがちだが、外交の場合は、そのベクトルが外側に向かっているのである。
戦後の日本は、戦争という武力行使を極端に嫌っているが、外交さえしっかりしていれば、戦争という血を見るような最悪の選択はしないですむわけである。
外交さえしっかりしていれば、国民は一滴の血を流すことなく国益を擁護できるのである。
そのためには、相手の国をとことん研究しなければならないし、綺麗な仕事ばかりではなく、汚いことに手を染めなければならないことも多々あるわけである。
アメリカのCIAも、イギリスのMI6も、ソ連のKGBも、それぞれに情報を集めてそれを外交交渉に利用していることは歴然としているが、自分の手の内は決して見せないようにしている。
それが外交の常道なわけで、自分の手の内は決して見せずに相手から譲歩を引き出すように知恵と情報を使い分けるのである。
戦争は単なるその場の思いつきするものではなく、双方がそのための準備をする関係上、予兆というものがあって、それを探るのも外交官の重要な使命のはずであるが、日本の外交官はまったくそういうことに無頓着である。
その意味で、外交官というのは任地に赴任している間中、その地では戦闘状態でなければならないし、常に臨戦態勢でなければならないはずである。
軍隊というのは戦争が始まってから動けばいいが、外交官というのは、赴任してから離任まで、毎日が臨戦態勢、戦闘体制で情報収集に努めなければならないので、その点で他の官庁とは大いに異なっていると思う。
日本の外交官にはその心構えがないのではなかろうか。
旧ソ連の駐日大使館などは、全員が情報部員のようなもので、それは対日情報だけではなく、日本の絡んだ他国の情報も収集するわけで、それでこそ本当の外交施設としての大使館であり領事館だと思う。
そこに行くと、日本の外交官というのは先方のメッセンジャーボーイのようなもので、相手から馬鹿にされるのも致し方ない。
昔のヨーロッパの外交官というのは、それこそ「会議は踊る」で、毎日の宴会やダンスパーテーによる人的コミニケーションでしか情報を得られなかったが、昨今はそんな時代ではないわけで、情報のあり方も大きく変わり、それにともなって収集方法もその手段も様変わりしている。
なおかつ集めた情報を分析するということも収集以上に重要なわけで、われわれの国の外交官というのは、そういう面に非常に立ち遅れた認識しか持っていないということである。
外交官が任地で的確な情報を収集し、その情報を綿密に分析して、それによって外交を牛耳れば、国民の側としては血で血を洗う戦争などしなくても済むはずである。
日本が今後とも平和国家として武力行使をしないで生きていこうとすれば、外交官の更なる努力が望まれるが、日本の外務省にはそれは望めないであろう。
われわれはいかなる状況でも戦争状態にはしたくないのだから、結局のところ金で解決ということになるのであろうが、その金は国民の血税なわけで、そのことから考えれば外務省および外交官は国益ということを頭に入れてもらいたいものだ。


「私の昭和漫訪記」

2007-02-06 17:20:22 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「私の昭和漫訪記」という本を読んだ。
個人の自分史そのものであるが、それがそのまま昭和の時代を映し出しているというものだ。
昭和に生きた人間が自分のヒューマン・ヒストリーを綴れば、おのずとそれはそのまま昭和史になるのも当然ではある。
しかし、その本人が、その時代にいかなる心構えで立ち向かったかで、その人の昭和史が肯定的にもなり否定的にもなる。
われわれの感情の中には、当たりまえのものを当たりまえと思えば、面白くもおかしくもない。
目の前のものを否定的に、悲観的に捉えると、なんとなく時代の矛盾に敢然と戦い抜いて生きてきたような優越感に浸れる。
人は平穏無事な日常を綴ったものよりも、変化に富んだ波乱万丈の人生を綴った作品のほうをよしとするに違いない。
けれども大部分の人の人生というのは、そうそう大波乱に富んだものではないはずで、世の中の矛盾に自分の身を合わせて生きてきたものと考える。
しかし、日本および日本人というものを考えるときは、時代に反感を持ち、矛盾を突いて己の整合性を主張し、不平不満の固まりとして生き抜いてきた人たちよりも、時代状況に順応して生き抜いた人々に目を向けるべきではなかろうか。
時代状況に不満を持ち、現状を改善しなければならない、とまじめに思い込んで過激な行為に出たのが昭和の初期の時代に突出したテロ行為ではなかろうか。
戦後は、個々のテロという行為は鳴りを潜めたが、それに変わって大衆示威運動としてのデモという形でそれが露呈して来た。
テロよりもデモのほうが直接的な殺人を伴わないだけ人間が利口になったということであろう。
しかし、テロやデモでは世の中は変えられないわけで、世の中を変えるには、国民の底辺、大衆の下層部分の底上げが伴わないことには人々の心の平安は得られないのである。
第2次世界大戦、太平洋戦争、大東亜戦争の前までのわれわれは、富国強兵ということを無意識のうちに思い込んでいたが、戦後は強兵ということが否定され、われわれはただただ生きんがために死に物狂いで生産活動にまい進した。
その結果として、ふと気がついてみるとアメリカに次ぐ経済大国になっていたわけで、そうなった根本のところには、無辜の大衆の時代状況への貢献があったと思う。
つまるところ、生きんがためにもくもくとわき目も振らずに働き続けた結果だということだ。
黙々と、黙って働き続けている人々を傍目で見ながら、不平不満を声高に叫び、デモを繰り返しておれば太平天国の世が来ると思い違いをしていたのが、大学生や、その教授連中や、メデイアをはじめとする知識人という連中である。
彼らは、ただただ世の中を面白おかしくするためにデモを煽り、生産を阻害し、まじめな労働者に迷惑をかけただけで、戦後の復興には具体的に何一つ貢献していない。
戦後の復興は、無名の勤労者のたゆまぬ勤労にあったものと思う。
この著者は素直に昭和天皇を賛美されているが、その意味できわめて良心的な日本人の一人だと確信する。
前の田原総一郎の本にも書いたが、昭和天皇というのは実に民主的な思考の持ち主だった、と私も思う。
戦前、戦中、戦後を通じて、昭和天皇は常に民主的であろうと心がけておられたと思う。
戦争ということは国家の行為なわけで、国家としての行為ともなると、元首といえども自分でするしないの決断をする立場であったとしても、一旦決定してしまった以上、自分の下した決定に従わざるを得ない。
だから昭和天皇はマッカアサ-の前にいって「一切の責任は自分のある、自分の身はどうなってもいいから国民を助けてくれ」といったのである。
これって、本当は、われわれ日本人にとってはきわめて普通のことではなかろうか。
特別に昭和天皇が慈悲深いというほどのことでもないし、特別に高貴な思想というわけでもないはずである。
問題は、天皇という立場でいながら、ごく普通のことを普通に言われた、という点に昭和天皇の偉大さがあるということである。
戦争に入っていく過程の御前会議の様子でも、天皇は民主的であろうと心がけるあまり、沈黙を通したが、内心は戦争などしたくないと思っていたわけである。
天皇は、政治にはノータッチの立場を貫き通そうとしたけれど、内閣、いや内閣とはいえなかったかもしれないが、閣僚が決めたことには口を差し挟むことを控えていたわけである。
これも立憲君主制を堅持しようとするという昭和天皇の立場からすれば、ごくごく当然のことなわけで、われわれは誰か大号令をかけてきちんと命令したわけでもないのに、ずるずると戦争にはまり込んでいってしまったのである。
私が「普通のこと」といった場合、それは日本人にとっては普通のことであるが、民族が違えば決して普通のことではないわけで、そこにこそ「日本の常識は世界の非常識、世界の常識は日本の非常識」という俚言がある。
普通のことを普通と認識することはきわめて大事なことだと思うが、それでは面白くもおかしくもないわけで、普通ではない、少しばかり才覚に長けた人は、奇をてらうという行動に出る。
テロ行為というのはその極致で、誰もそんなことは容認できないので、テロを糾弾する発言は、それが当たり前なるがゆえに何ら評価されることがない。
ところが、そのテロ行為に対して、「テロは容認できないが、その至誠は察するに余りある」というように、テロをした犯人を擁護するような発言をすると、これはまさしく奇をてらう言葉であり、世の関心を集めるということになる。
テロを糾弾する発言は、普通の平穏な社会ではあまりにも当然のことゆえ、ごく当たり前のことであり、おもしろくもおかしくもない。
まさしく床屋談義の域を出るものではない。
ところが犯人のそこに至るまでの心の遍歴を考慮して、「漢奸に鉄槌を加えるという心情は察して余りある」というような論説を流布すれば、なんとなく奇をてらう物分りのいい論説とみなされるのである。
まさに「罪を憎んで人を憎まず」という日本人の感性を刺激するわけで、テロに対して減刑嘆願書が集まるという構図である。
この状況では、法よりも感情が優先しているわけで、法が感情で左右されるようでは民主主義というものの根底がふらついてしまう。
ところが普通の大部分の沈黙した大衆というのは、ごく当たり前の思考を、当たり前なるがゆえにことさら大きな声で騒ぎ立てることはないが、奇をてらう発言は、それが当たり前の思考でないがゆえに大声でわめきたてるわけである。
大声でわめきたてれば、それはだんだんと整合性を持つにいたるわけで、嘘でも最後は真実になってしまう。
個々の人々は戦争になどに行きたくないが、その一人一人の個人が集合して学校単位、町内単位、集落単位となると、個人の感情を差し置いて「イケイケドンドン」、「勝ってくるぞと勇ましく」、となるわけである。
そのことは、そのものずばり、世の矛盾に順応してしまうということで、こういう矛盾に取り囲まれてわれわれは敗戦という奈落の底に一度は落ちたわけである。
奈落の底に日本国民の全部が落ちて、それこそ皆平等に苦難を背負ってみると、今度が掛け声のベクトルが反対向きになって、「あいつがやれば俺もやる」、「イケイケドンドン」になったわけである。
よって戦後は強兵を欠いたまま、富国を達成してしまったけれど、世の矛盾というのはわれわれには相変わらずついて回っている。

「大日本帝国の民主主義」

2007-02-05 11:35:04 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「大日本帝国の民主主義」という本を読んだ。
マスメデイアで大活躍の田原総一郎と、元東大教授の坂野潤治の討論をそのまま本にしたものであったが、ジャーナリストと学者の思い上がった思考が垣間見れる。
日本が明治維新以降近代化に向けてまい進した姿を、アジアへの侵略という視点で捉えているところが私のもっとも不満とするところである。
侵略などという言葉をそう軽々しく使うべきではないと思う。
キリスト教文化圏でも、中国の何代にもわたる諸国家の勃興と衰退も、アメリカの開拓の歴史も、人間のすべての歴史というものが突き詰めれば侵略に行き着くわけで、そのことは文明の発展そのものが侵略の歴史と同一であるということだ。
優勝劣敗は世の習いなわけで、国家が興隆、隆盛をほこれば、そこには必ず侵略が内包されており、犯し犯されて人間は今日まで来たのである。
そのことを踏まえて、われわれの19世紀後半から20世紀初頭の日本民族のありようをアジアへの侵略という言葉を使って意味つけることはないと思う。
この地球上にいくつの民族があるのか正確には知らないけれど、民族と民族の接しあう接点では何がしかの軋轢があるのは当然の帰結であって、その軋轢には必然的に人の殺傷ということがついて回ると思う。
その結果として、力の強いほうが弱いほうを蚕食し、抑圧するのも当然の成り行きである。
日本の学者やジャーナリストは、この現象を侵略と称して、あたかも人間のすべきことではない罪悪だ、という認識でものを語っている。
ということは人間の美しい理想郷を思い描いて、奇麗事の理念におぼれ、現実を直視することを遺棄し、さまざまな罪悪を背負った生きた人間の存在を否定するということでしかない。
彼ら、文化人という人々は、人間の存在を否定する立場でいても食っていけるのである。
なんとなれば、彼らは大学者であり、大ジャーナリストなので、自らは釘一本、米一粒、ねぎ一本作ることなくても生きていけるからである。
民族と民族の接しあうボーダーラインでは、いつ寝首をかかれるかわからないという緊張感の中で生活している人がいる一方で、彼らはそこから遠く離れた暖かい暖炉の前で、愚にもつかない議論に明け暮れて生きているわけである。
明治憲法、大日本帝国憲法が最初から民主的な憲法であることはそれを読めば一目瞭然ではないか。
天皇は、そのときから象徴天皇であることが一目瞭然と書かれているではないか。
昭和のはじめにわれわれが奈落の底に転がり落ちた最大の理由は、軍部が統帥権というものを最大限利用して、あるべき民主主義を踏みにじり、国民を押さえつけたからに他ならない。
そんなことは私のような無学なものでもわかるのに、何を今更、東大教授や田原総一郎から聞かなければならないのであろう。
彼ら、東大教授や田原総一郎のようなジャーナリストの使命は、そういう国民の側、ないしは軍部や官僚の行き過ぎを是正するところにあると思う。
常に人間としてあるべき姿を示して、政治家や軍人や官僚の行き過ぎを軌道修正するところにあるはずである。
悪名高き治安維持法は、普通選挙法と抱き合わせで大正14年1925年に成立しているが、これは毛沢東やスターリンが独裁者としての権力を振りかざして作ったものではなく、帝国議会の審議を経て成立したことを考えてみる必要がある。
つまり立派に民主的手法でできたわけで、この時点ではまだ軍部独裁にはなっていなかったはずであり、国会の審議を経てこの法律ができた背景を考えてみる必要がある。
この法律が悪法だということは散々聞かされているが、それは運用の手順が間違っていたわけで、それは統帥権の乱用と瓜二つの類似性があったにもかかわらず、その矛盾を突くことを怠り、間違った道を歩みかけたもの是正する努力を怠ったのは明らかに学者連中と当時のジャーナリストの怠慢だと思うが、そこを突いた論調はあまり見当たらないように思う。
その問題に関連して、この法案が提出され、審議されているとき、東京帝国大学、京都帝国大学の学者たちはいったい何をしていたのか、新聞雑誌のジャーナリストたちはいったい何をしていたのかという疑問は当然無学な私には起きてくる。
われわれは政治家のリーダーシップということをよく口にするが、これは間違った認識だと思う。
国民をリードすべきリーダーシップは、基本的に学者が負わなければならないと思う。
それでなければ帝国大学、ないしは国立大学の学者先生方の存在意義がないではないか。
政治家というのはあくまでもコーデイネーターに徹するべきで、政治家がリーダーシップを持ってはいけないと思う。
人が寄り集まって作り上げている社会で、自分たちの行く末を考えるのは、やはり学者であってしかるべきで、学者が政治家に進むべき道を掲示するのが社会としての正道ではないかと思う。
その過程で、学者が共産主義にかぶれて、その思い込みで政治家にレクチャーしようとして失敗したのが、日本の独立をめぐるときに開陳された平和問題談話会の面々の論議である。
これで象牙の塔の学者たちの現状認識が如何に出鱈目かということが完全に露呈してしまった。
この本の中でも美濃部達吉の「天皇機関説」が俎上に上がっていたが、「天皇機関説」はけっして間違った論議ではなかったはずなのに、当時の衆議院議員、貴族院議員、各大学の教授たちの面々はなぜ彼をボイコットしてしまったのであろう。
ここでも大学教授の出鱈目さが見事に露呈しているわけで、学究的真理を放棄して保身のために沈黙を守ったわけである。
斉藤隆夫の粛軍演説(厳密にいうと粛軍というほどのものではなく予算の使い方を問いただしただけ)をフォローしなかったのであろう。
これらの責任はすべて国民の側、厳密に言えば当時の国会議員、学者諸氏、新聞雑誌のジャーナリストの責任に帰すると思う。
ところがこの本はそこまでは突っ込んでいない。
「天皇機関説」が良いか悪いかの議論に終始しているが、天皇自身が「それでよい」といっていることに対して、何をいまさら屋上屋を積んでいるのかということだ。
こういう論議は、今、平成19年2月5日の時点で、柳沢厚労大臣が「女性は産む機械だ」と失言したことに対する野党の攻撃とまったく同じなわけで、典型的な的外れの議論である。
一大臣の失言と、国会における審議拒否とは完全に別の次元の問題にもかかわらず、ある種の言葉狩りで与党に揺さぶりをかけるということは政治の邪道だと思う。
ここで本来ならば知性の金字塔としての学者たちが、国会議員、特に野党の国会議員に対して「あなた方のしていることは間違っているよ」と忠告をしなければならないはずである。
失言は失言として本人も認めているわけで、「だったら大臣を辞任せよ」というのは明らかに言葉狩りそのもので、ただ単なるいじめの構造に過ぎない。
こういう間違った政道を正して、「本来の政治とはそうではありませんよ」というべき使命を負っているのが学問の府としての大学であり、木鐸としてのジャーナリズムでなければならない。
私は自民党から金をもらっているわけではないが、普通の常識で普通に考えれば、こういう結論にならざるを得ないのではなかろうか。
柳沢大臣の発言は確かに不穏当ではあるけれど、それを人に強制したわけでもなく、自分でも失言だと認識しているわけで、だから「大臣にふさわしくないから辞めよ」というのは、風が吹けば桶やが儲かる式の唐突な議論で、子供のけんかの類である。
言うだけならばまだいい。しかし、だからといって審議拒否するということは、明らかに争点のすり替えであり、国民から負託された参政権の不行使だと思う。
日本の政治というのはこういうことの連続であったわけで、昭和5年のロンドン海軍軍縮会議で全権大使が決めてきたことを、「統帥権の干犯だ」といって糾弾したのも、ただただ与党を政権の座から引きずり落とすための詭弁であったわけで、この詭弁が大手を振って罷り通ったから、われわれは奈落の底に転がり落ちたではないか。
そのことを、われわれは歴史の教訓とすべきであるが、それから未だに何も学んでいないではないか。

「通信技師の歩いた近代」

2007-02-03 07:44:01 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「通信技師の歩いた近代」という本を読んだ。
ズバリ、他人が書いた自分史である。
本人の覚え書をもとに他人がそのヒューマン・ヒストリーを記したものである。
1860年に土佐で生まれた山崎養麿氏の一生を描いているが、彼の誕生が明治維新の前のことでもあり、その後の明治という近代国家日本の胎動の苦悩の中で、時流に翻弄された名もない一市井の生涯を書き綴ったものである。
それは明治維新という大革命の中で、旧体制から放り出された人々が如何に新政府に順応していったかという軌跡でもある。
日本の近代といわれるこの時代に、明治新政府発足の前から没年の昭和6年まで、官吏として生きた一人の人間の姿を垣間見ることが出来る。
それから憶測すると、この時代の官吏には結構リストラという大鉈が振るわれているように見受けられる。
技術革新はあらゆるものに日進月歩の勢いで進んでいるわけで、その技術革新で現状に合わなくなった人間は、意図も簡単にリストラされているようだ。
この主人公が習得した通信技術は、あくまでも電信技術であったわけで、それが電話というものが普及してくるとあっさりリストラされている。
これは今流の言い方で言えば、当時は官僚機能が正常に機能していたということだと思う。昨今の国家公務員、いわゆる官僚たちは、こういう場面でも天下りと称して保身を図るのが当たり前となっているが、この当時は用のないもの、いわゆる時代の要請に合わないものは、さっさとその場でリストラして経費節減を図っている。
これは資本主義体制であれば当然のことで、官民を問わず、不要のものをただただ可愛そうだからというだけで、国民の税金で徒食させること回避しているということだと思う。黎明期の日本のサラリーマン社会は、こういうリスクを背負っていたわけで、この現実こそ、真の資本主義社会であろうと思う。
業務に不要な人間を路頭に迷わすのは忍びない、という温情主義はある意味では心温まる措置かもしれないが、それでは苦しい中から納税した納税者としては納得できないのも無理はない。
一度公僕として録を食んでも、その時代時代の希求に順応できるように自己研鑽を積んでいれば、リストラということはなかろうか、古い技術にいつまでも固執していては、当然の帰結であろうと思う。
ところが昨今の官僚の有り体は、官僚自らが次に自分の入る住処を作っておいて、そこに天下るわけで、これは国民の納めた税金をただただ蚕食している図でしかない。
官吏としての仕事、ないしは業務が、国民のためではなく、自分達と同じ官僚のために機能しているわけで、国民は蚊帳の外というわけである。
この本を読んでいて少々気になることは、著者は1958年昭和33年生まれ、押しも押されもせぬ戦後世代であるが、こういう人に掛かると、過去の日本の発展というものが、アジアの人々の犠牲の上に成り立っている、という思考に陥っている。
台湾統治、朝鮮支配というものが、日本の侵した悪行という感覚で語られている。
戦争をするということは、ただただ単純な人殺しにすぎず、いかなる理由があろうとも、避けるべき悪行という認識である。
台湾総督府が誰々のときは統治が悪かったとか良かったという評価はありえるが、それと侵略したとか、抑圧したとか、蔑視したという言い方は、同じ国民の末裔として、身内の側からは言うべきことではないと思う。
明治維新というのは大革命であったわけで、我々の仲間内、つまり同胞同士でも攘夷だとか左幕だとか言いながら殺し合ったし、先方は先方で、やはり我々と同じように同胞同士で殺し合いをしていたわけで、この当時はそれが世界の常態であった。
それを鑑みることなく、絵に描いたような奇麗事の平和思考を唱えても無意味なわけで、いわゆる自虐史観が何の抵抗もなくごく普通の認識として行間に感じられる。
それをことさら強調して述べた部分はないが、行間の言葉の端々にそれが伺える。
つまり、そのことはこの世代の共通認識となっているのではないかということである。
問題は、こういう極めつけの平和思考で戦争ということを考えると、またまた我われは過誤に陥る可能性を生むということである。
先の大戦中は、日本国民の誰一人日本が負けるなどということは信じていなかった。
けれども蓋を開ければ日本は負けたわけで、それを我々は「軍部に騙されていた」といって責任を軍部に負い被せているが、極めつけの平和主義というのも、戦争の本質を知ろうともせず、上辺の奇麗事に惑わされていると、これと同じパターンを踏襲する危険があるということだ。
この本の主目的は、一人の通信技師の生涯を描くことなので、社会的な動きというのは副次的な要因でしかないが、社会の流れ、つまりその国の歴史というのは、正邪、善悪、良し悪しという価値観で測りきれないはずである。
官吏があっさりリストラにあうということは、正邪、善悪、良し悪しという価値観で測りきれないわけで、それは突き詰めれば国家の要請ということになる。
ところが昨今では国家にそういう要請があったとしても、公務員の側が、その要請を認めず、私利私欲を優先させ、自己の保身のために国家の要請そのものを歪曲してしまう。
行政改革がなかなか進まないということは、国家の要請に対して公務員、いわゆる官僚が抵抗しているからで、いまどき公務員をリストラするなどということはありえないのではないかと思う。
そのことは同時に国税の浪費にモロにつながってくるが、国税をいくら浪費しようとも、国家公務員は意に介することなく、首切りはまかりならぬということだ。
この時代は富国強兵や殖産興業が国是であったわけで、そのためにも国税の節約、有効利用ということ最優先課題だったことは否めない。
そのために、官僚が簡単に非官になってしまうということは、当人にとっては極めて遺憾な、ひどい仕打ちであったろうけれど、国全体から見れば、健全な雇用関係ないしは国税の使い方をしていたということだ。
こういうことのないように労働3法というものができたのだろうけれど、普通の社会の雇用関係というのは、これが正常な有り体だと思う。
それでは使われる側の労働者が可愛そうだ、という論議が当然出てくるが、可愛そうだからという人情論や感情論で、国税を湯水のように使うということも許されることではない。
使用者側の意に沿わない、使い道のない人間をいつまでも雇用しつづけた場合、その出費は誰がどう負担するのか、という問いにどう答えるかということだ。
昨今の官僚は、自分の食んでいる録が、国民の納めた税金などと思っていないのではなかろうか。

NHK BS2「民衆が語る中国激動の時代」

2007-02-02 10:46:44 | Weblog
「異境」という本を読んで、文革のことについて考えていた矢先、NHK BS2の「民衆が語る中国激動の時代」という番組で文革のことを報じていた。
この番組の中で、それぞれに語っている民衆というのは、年齢はともに60歳代で、文革を身をもって体験してきた世代の人たちである。
被害者として、または加害者として、はたまた加害者であったものがあるときからいきなり被害者の側に身を転じたりと、さまざま身の処し方をそれぞれに語っているが、結局のところこの番組を見終わっても文革とは一体なんであったのかということは分からずじまいであった。
ただ、この激動の時代を体験した人たちが60歳代に達しているということは、今の中国の実質的な指導者層は、この文化大革命を体験した人たちが担っているという現実である。
文革というのは、様々な書物が暴露しているように、貧乏な農民が貧乏なるがゆえに革命的英雄に祭り上げられ、無学な人間が無学なるがゆえに革命的英雄に祭り上げられ、教養や知性を持った人間は、それだからこそ走資派として弾圧されたわけで、これでは世界共通の認識が全く通用していないということである。
この地球上の普遍的な常識なら、教養をつみ、知性を磨き、理性と知識にあふれた人間に、自らの統治を委ねたほうが平穏な社会が出来るに違いない、という暗黙の了解があるはずであるが、この時代の中国ではそれが根底から否定されている。
人間の知性、理性、向上心、好奇心、伝統、過去の実績というものをすべて否定するわけで、生きた人間の思考として、こんな馬鹿な話はありえない。
これが国家の最高指導者・毛沢東の指示だったというのだから驚く。
この時点で、毛沢東は完全に現人神になって、年端もいかない餓鬼連中から崇め奉られて好い気になっているわけで、それは我々が経験した戦時中の軍国主義の有り体と全く同じ轍を歩んでいるということだ。
そのことについてはすでに述べているが、毛沢東が間違った指示を次から次に出して、それを検証したり、懐疑したり、その結果を考察するものはすべて走資派とし、反革命分子として弾圧するということは、完全にこの時点で人間の理性が止まってしまったということだ。
それが法によってなされたのであればまだ納得できる部分があるが、年端もいかない中学生や高校生、大学生によって、なんら法的根拠もないまま無頼の輩に類したものが、自分達の仲間をいじめ抜いたり、他校のグループと武力抗争をするような状況が、人間の倫理として許されるわけがないではないか。
私が不思議に思うのは、この文革の嵐が終焉した後で、そのゆり戻しが全く見当たらないということである。
確かに、紅青女史を含む4人組は粛清されたが、文革の中で無学なるがゆえに革命的英雄になったような人たちは、その後引き下ろされたかどうかという点である。
このテレビに登場して語っている人たちは、全く罪の意識もなく、まさに転変地変のような他人事のように語っているが、普通の倫理観を持った人間ならば、そんな語り口はないと思う。
少なくとも、罪の意識にさいなまれてテレビカメラの前で自らの行為をしゃべることは出来ないはずだと思う。
被害者の側は、そのときに受けた屈辱で、自らの命を自ら絶った人も大勢いたに違いなく、そういう人は語ろうにも語れないわけで、ここで語っている人は、文革を生き抜いたというだけで大なり小なり加害者の側に身をおいていたといわなければならない。
先に、軍や治安機関は何をしていたのかという疑問を呈したが、このテレビを見た限り、軍や治安機関はわざと無知な民衆のなすがままにしていた節がうかがえる。
うがった言い方をすれば、毛沢東が軍や治安機関の出動を抑えていた節がある。
つまり、毛沢東は故意に、国民、民衆、社会の中に、混乱、擾乱を作り出しておいて、それを利用することによって自分の保身、権力の集中を強固にしたと考えられる。
文革が若い世代の無軌道、無節操で推し進められ、社会が大混乱に陥っても、彼はそれを人事のように見ていたわけで、自分の権威さえ維持できれば、それで由と考えていたにちがいない。
これは指導者としての毛沢東の知的老衰、理性の退化、頭脳の老化現象ではなかったかと思う。
それは同時に5千年とも4千年とも言われる中国の歴史の繰り返しに過ぎなかった。
中国の歴史というのは、こういうことが今までに連綿と繰り替えされてきたわけで、たまたま20世紀においては、そのエネルギーに共産主義、あるいはマルクス主義というのが介在していただけのことで、基本的には過去の中国の歴史の繰り返しに過ぎないということがいえる。
中国の中では、過去の歴史の繰り返しであったとしても、今日という地球上では、それぞれに主権国家が存立しているわけで、この中国大陸の中の人々の変動が外に多大な影響を及ぼすということを考えなければならない。
小泉首相の靖国神社参詣にクレームをつける、という中国側の思考は、あの文化大革命のときに知識人に走資派というレッテルを貼ったときの思考と全く同じであって、ただただ根も葉もない言いがかりにすぎず、こちらの事情をなんら考慮することなく、自分たちの思い込みの言い分を声高に叫んでいるだけではないか。
相手の言ったことに対して我々の側が敏感に反応するから、相手にしてみれば「それ見たことか、我々の言ったことは正しいではないか」という相手の論理に引き込まれてしまうのである。
自分の言い分を大きな声で叫び続け、回りのものに自分の整合性を訴える術というのは、中国人が古来から持っている国民性、ないしは民族性なわけで、文革の中でも、何ら整合性がないことでも、大きな声で相手を非難中傷すれば、大衆はそれに迎合するのである。大きな声で叫んで大衆を自分のほうに迎合させれば、大きな声で叫んだ人の勝ちになるわけで、非難されたほうは、何も理由がなくとも悪人に仕立てられてしまう。
このあたりの描写は「ワイルド・スワン」でも「異境」でも見事に描かれている。
靖国神社にA級戦犯が合祀されていようがいまいが、それは我々の側の問題であって、我々の側の御霊に、その国の首脳が参詣することに異議をさしはさむというのは、国際間の倫理上なんら問題がないにも拘らず、それを外交上の切り札にしてくるということは、文化大革命のときに紅衛兵が無辜の人を貶めたときの構図と全く同じではないか。
なんら整合性のないことでも、大声で叫び続けていると、それを聞いた回りのものがかかわりを避けるために少しでも追従すると、それが整合性を帯びてしまうわけで、非難中傷された側は悪人に仕立てられてしまう。
文化大革命の中の被害者加害者の関係はこうして成り立っていたのではなかろうか。
このときの状況を鑑みると、現在の中国の首脳部にはあの文化大革命のときに紅衛兵として中国人同胞を数限りなく窮地に貶めた面々が居残っているのではないかと思う。