生きる力になれば

ペンネーム良寛地蔵。70代のブログです。言葉で生きる力になればと綴って15年が過ぎました。

タラントの教え

2018-02-04 16:54:03 | 日々の暮らし
午前はプールで泳ぎ歩いて来ました。

そして、銭湯に行き。
ラーメンカレーセットにビールを頂きました。
併設の図書室で読書。



聖書から

『タラントの教え』

について学ぶ。


才能を世のため、人の

為に尽くしなさいと

いう解釈があるそうです。

聖書は難解のため、

いろいろな解釈ができるようですが。

それから、調べたのですが、

タラントとは

金銀の貨幣の重さを表す言葉ですが、才能の意味もあります。

それから、タレントの

語源になったそうです。

タレントとは聖書から、きているのですね。



室町時代の能役者、

世阿弥(ぜあみ)の書いた『風姿花伝』より

有名な人生論になった、言葉を紹介したいと思います。

『秘すれば花なり』

秘伝とうものは隠している事に価値があり、

相手に勝つ秘策となるが、

種を明かしてしまうと、大したことではないものだ。


だから、秘伝とは
言わぬが花という意味だそうです。

よく料理屋で代々続いている秘伝の味と紹介
していますが、


その内容を聞くとあまり驚かなかったことありませんか。

秘伝とは隠しているから、いいのですね。


次の言葉に

『初心忘するべからず』
があります。

今でもよく使う言葉ですが、

世阿弥が伝えたかったのは

役者は以前の芸は恥として忘れ去る者が多いが、

若年のみずみずしい姿、


青年期のはつらつとした芸、


中年期の円熟した芸、


壮年期の老成した芸を

忘れずに演じることができるようにしておかなくてはいけない。


また違う解釈もあり、


少年の愛らしさが消え、
青年の若さが消え、

壮年の体力が消え

何かを失いながら人は、その人生を辿っていく。

しかし、何かを失うと同時に、

何か新しいものを得る

試練の時、

つまり初心の時。

『初心忘るべからず』とは、

一生を通じて前向きに

チャレンジし続けろ

という願いの言葉であるという。


解釈がそれぞれ違いますが、

新人の時の初々しさを
忘れるな。

だけの意味ではなかったようですね。

図書室で居眠りして


しまった。


起こされる前に起きて



良かった。


世のため、人のために


尽くしなさい


という


タラントの教えを


伝えたかったのです。


合掌
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四苦八苦を生きる

2018-02-04 07:46:06 | 日々の暮らし
今日は瀬戸内寂聴さんの言葉をお借りしてみました。

『私は多く傷つき、
多く苦しんだ人が好きです。

挫折感の深い人は、
その分、愛の深い人になるからです。』


『悩みから救われるには、自分の心の問題です。
とらわれない心になれば救われます。』


『別れの辛さに
馴れることは決してありません。

幾度繰り返しても、
別れは辛く苦しいものです。

それでも、私たちは死ぬまで人を愛さずにはいられません。

それが人間なのです。』


『病気は神様の与えて下さった休暇だと思って、ありがたく休養するのが一番です。』


『人生にはいろいろなことがあります。

しかし、悲しいことは忘れ、
辛いことはじっと耐え忍んでいきましょう。

それがこの四苦八苦の世を生きる唯一の方法ではないかと思います。』

素敵な言葉に感謝です。

あの空海さえも一番弟子に先立たれ、二度と会えない悲哀に大声で
泣き崩れたといいます。
昔痛めた膝裏が悪化したので、プールで歩いてリハビリして来ます。


寒く冷たい朝に

起きるのも修行ですね。




お体をご自愛ください。



合掌
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不可思議は奇跡の事

2018-02-04 00:14:56 | 日々の暮らし
昨日は鶴見の総持寺に行き石原軍団の豆まきに参拝してたくさんの福豆を頂いて来ました。
そのあとの仲間の食事会が楽しかったです。

さて、たくさんのお坊さんを見たので、

『仏教に学ぶ

八十八の智恵』

(ひろさちや著)

を読み返してみました。
僧侶ではなく、東大の文学部を出て宗教を学んでいるいわゆる宗教家です。

私も僧侶ではないが、宗教を学んでいるので、考えが驚くほど似ているので好んで読んでいます。

存命なら80才を越えています。

その中にまた、嬉しい良寛さんの話が出てきたので紹介します。

仏教語に、「不可思議」という言葉がある。

サンスクリット語のアチントヤ(考えられない)を訳したものである。

数多い仏教語の中から何か一語選べと言われたら、私はためらわずにこの不可思議を選ぶ。

キリスト教を「奇蹟の宗教」と呼ぶとすれば、
仏教は「不可思議の宗教」

あるいは「不思議な宗教」と呼べそうだ。

仏教は奇蹟を認めず、奇蹟を必要としない宗教であることが不可思議だからだ。


その仏教の不可思議を感じているとき、思い出すのが、良寛の詩である。

『花は無心にして蝶を招き

蝶は無心にして花を尋ぬ。

花開く時蝶来たり

蝶来る時花開く。

われもまた人を知らず

人もまたわれを知らず。
知らずとも帝則

(大自然の法)に従う。』

知らず知らずのうちに、われわれは自然の大道に従って生きているという意味です。

ごくありきたりの光景が美しくもあり不可思議なことである。


この不可思議なことを仏教では奇蹟として表現しているのです。

仏教語で不可思議とい

う言葉は奇蹟という

意味で大自然をさして

おり、良寛さんの詩が

それを説いていると

書いています。

自然を愛し、死ぬ時は

この自然を形見に残し

ますという辞世の句を

思い出します。

ありのままに生きる

ありのままの自然を

伝え残すことが

仏教の本質だと言いた

かったのだと思います。

わたしも不可思議とい

う言葉を大切にしたい

と思いました。

この言霊に出会えた

ことに感謝です。



不可思議は奇跡です。

貴方の回りにも

たくさんの奇跡が

おこりますように。

合掌
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