岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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日本の戦時体制の特殊性

2011年10月27日 23時59分59秒 | 歴史論・資料
満州事変から太平洋戦争までを歴史用語で「15年戦争」と呼ぶ。ずっと継続して戦争が行われたのではないが、国家体制・支配構造・戦争の主原因に共通点と一貫性があるからだ。

 軍の指揮官の問題に限って言えば、日清・日露戦争を体験した指揮官が引退したあとの世代だったことである。そうでなければ、

「日清日露戦役以来、連戦連勝。寡兵よく大軍を破るという皇軍の伝統」

などという「不敗神話」などが声高に叫ばれることもなかっただろう。(最近の「神話」と名のつくものも、どこかおかしい。「原発の安全神話」「 M 9の地震は起こらないという神話」「経済は右肩あがりに成長するという神話」・土地は必ず値上がりするという「土地神話」など)。

 この時期に斎藤茂吉は「石泉」「白桃」「暁紅」「寒雲」「のぼり路」「霜」「小園」の7歌集の収録作品を詠み、「白桃」「暁紅」「寒雲」「のぼり路」の4歌集を刊行している。膨大な作品数で、特に「白桃」「暁紅」「寒雲」は「戦中三歌集」と呼ばれる。(このあたりの歌集とその刊行年、作歌時期のずれは、いささか交錯しているので、岡井隆著「茂吉の短歌を読む」を参照して頂きたい。)

 さてこの「15年戦争」の時期の政治権力は軍部が握っていた、軍部が暴走したなどと一般に言われるが、これは実態からすこし離れている。

 日本の戦時体制を支えたのは大きくわけて三つのグループがある。

 ひとつは軍部。陸軍は参謀本部、海軍は軍令部によって統率される。陸軍大臣、海軍大臣は内閣の方針の決定への関与・軍備拡張計画・予算の確保と配分などの軍政(軍と時の政権とのつなぎの役割)を担った。ここでいう軍部とは、参謀本部・海軍軍令部を指す。戦時はこの二つが合同して大本営を構成する。「15年戦争」の末期には、参謀本部幹部・陸軍大将・総理大臣・陸軍大臣の一切を体現した東条英機がいた。そういう意味で東条英機は軍の最高責任者にあたる。

 二つ目は政治家と官僚。これは軍部の影に隠れてしまいがちだが、戦時体制に深く関わっていた。広田弘毅やミズーリ号上で降伏文書に署名した重光葵、戦後首相になった鳩山一郎・岸信介が挙げられる。ともに戦時内閣の主要閣僚や高級官僚だった。これに属する人々が、戦後の保守政党の中核となり、歴代の首相や閣僚を輩出する。

 最後が宮中グループ。宮内省そして内大臣。かれらは天皇の側近で、木戸幸一や近衛文麿のグループ。行政官庁から独立し、大日本帝国憲法体制の外にいた。しかし、政治家や軍人が天皇への奏上をする時の取次の順番(順番が先になればそれが最終決定と内定する)や天皇による内閣総理大臣の任命に関与することにより、重要政策決定の鍵を握った。侍従長はいわゆる「お世話係」で政策決定やその経過の詳しいことを知らされないし、関与もしない。

 この体制が特殊なのは、政策決定の最終責任が曖昧になることである。第二次大戦の枢軸国、日・独・伊は「ファシズム陣営」と総称される。しかし、厳密に言えばイタリアがファシズム、ドイツがはナチズムだった。

 ここでは両者の違いに深入りしないが、ドイツのヒットラーは総選挙で勝利し首班指名され、イタリアのムッソリーニは軍事クーデター(黒シャツ隊のローマ進軍)により首相となった。だから戦争責任が明確であったし、そうだったからこそ敗戦時にムッソリーニは吊るされ、ヒットラーは自殺した。

 ところが日本の場合、責任のありかが曖昧なのだ。

 政治家・官僚は軍の統帥に関することには発言権が弱い。大日本帝国憲法では「陸海軍ハ天皇ガコレヲ統帥スル」とあって、軍の統帥権は天皇にあった。第1次大戦後の世界的軍縮の方向に沿って結ばれた「ロンドン海軍軍縮条約」は「天皇の統帥権をないがしろにするもの」と大問題になった。統帥権干犯問題という。これが内閣の瓦解と軍部の台頭の大きなきっかけとなったが、これに政党が深く関与した。野党が与党を追及したのだ。その結果、軍部が台頭してすべての政党(非合法の共産党を除く)が解散することになるとは皮肉な結果だ。

 軍は天皇の統帥下にあるから軍を動かすには、天皇の指示を受けた参謀総長の命令(奉勅命令)が必要だ。戦争開始は飽くまで天皇の意向次第ということになる。奉勅命令なしで軍を動かせば、軍法に照らして死刑となる。ところがこれが極めて曖昧で、奉勅命令なしで行った、張作林爆殺事件の河本大作関東軍参謀の行動は不問に付され、奉勅命令なしで始められた満州事変の指揮官、石原莞爾関東軍参謀はその後、陸軍参謀本部に栄転している。同じく奉勅命令なしで満州事変に加わった朝鮮駐留軍参謀は「以後気をつけるように」と天皇から命令されただけ。2・26事件のときに「決起軍」が天皇の命令でたちまち「反乱軍」となったのとは対照的である。

 宮中グループ。ここは法的権限を持たず、天皇への上奏・助言は、いわば阿吽の呼吸で、天皇に政策決定の責任が及ばないようになっていた。前の二つのグループに比べて実質上に権限が強いにもかかわらず、である。特に木戸幸一・近衛文麿は戦時体制確立に大きな役割を果たした。「革新貴族」と呼ばれたグループで、一世代前の西園寺公望、牧野顕伸らの現状維持派とはかなり思想的に異なる。天皇の側近ということで大きな権力を持っていたが、それは超法規的なものだ。法律に基づく責任追及は困難だ。

 では天皇は?大日本帝国憲法下では形式上、立憲君主制だったから責任云々の外にあったことになる。


 つまり、あれだけの戦争を起こしながら、責任の所在が曖昧この上ないのである。


 戦後の東京裁判で、政治家官僚では、広田弘毅・岸信介らが被告・容疑者となった。また鳩山一郎・重光葵らは公職追放となった。

 軍部では、東条英機・板垣征四郎らが被告となった。

 宮中グループでは、近衛文麿・木戸幸一が被告となった。

 東京裁判は「戦勝国が敗戦国を一方的に裁く」という面があったにせよ、これらの人物に戦争責任があったのは否定できない。もし日本が戦勝国ならトルーマンが被告席にすわっただろうし、原爆投下も国際法違反・「人道に対する罪」に問われただろう。しかし、自国の責任を真っ先に明らかにすることが、歴史に対する責任ではなかろうか。

 ところで天皇は?東京裁判で東条英機が、

「すべては天皇陛下の御意にもとづくものでありました。」

と証言しながら、天皇に責任が及ぶのをおそいれた、木戸幸一が東条を説得し、東条・木戸・広田らが一切の責任を負って拘首刑になったと、アメリカの公文書や、木戸らの証言の聞き取りで明らかになっているのだが。

 但しこれは現在の天皇のことではない。




付記:参考文献・大江志乃夫ほか著「日本史を学ぶ・5」、藤原彰・大江志乃夫・中村正則編集「昭和の歴史・全10巻」、江口圭一「二つの大戦」、加藤文三「日本史入門」、藤原彰著「天皇制と軍隊」、大江志乃夫著「日本の参謀本部」、歴史学研究会編「日本史年表」。



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