限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

智嚢聚銘:(第51回目)『中国四千年の策略大全(その51 )』

2024-03-10 09:09:42 | 日記
前回

戦場は兵士にとっては、金儲けと出世のチャンスの場であった。日本の場合は武士という職業軍人の勤務評定の場所であったのだ。つまり、そこでは勝つということよりも、自分の戦いぶりを上司や周囲に認識してもらって、出世を狙うことが最重要であった。それゆえ、身体の働きぶりが人の目に見つくことが重要で、見えないところで策略を使って敵の力を封じ込めたとしても、意味のないことであった。

一方、中国では、策略は最重要課題であった。まず、将兵の厳格な区別があり、兵の命の価値は低く、弓矢や鉄砲の弾除け程度にしか見られなかった。よほどの事がなければ、戦争に勝ったとしても何らの褒賞も得られるわけでもなかった。(現在のロシア兵にもなんとなくそのような雰囲気が感じられるが。。。)それゆえ、兵の戦闘意欲は極めて低く、機会があれば掠奪か、逃亡しようと考えていた。それゆえ、将は子飼いの兵以外には頼みとなる兵はいないので、戦闘では子飼いの兵が無駄死にしないように、策略を練ることに叡智を巡らした。

こういった経緯から、『孫子』《謀攻篇》には力ずくで城攻めをするのは下策であり、上策は策略で敵を屈服させることだと次のように説く。「不戦而屈人之兵、善之善者也。故上兵伐謀、其次伐交、其次伐兵、其下攻城。攻城之法、為不得已」

このように策略を重視する中国であるが、毎度のことながら中国の策略には「詐」の要素が強く感じられる。次に示す、何無忌の策略もその一つだ。

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 馮夢龍『智嚢』【巻23 / 849 / 廚人濮何無忌王世充王守仁】(私訳・原文)

東晋の末期、桓温が帝位簒奪を狙ったが果たせず死んだ。その息子の桓玄は弱体化した安帝より禅譲を受けて帝位につくことができた。しかしわずか数ヶ月後、劉裕や劉牢之が桓玄打倒に立ち上がり、桓玄の軍を打ち破った。

桓玄は江陵に逃げ、何澹之に湓口で敵を防がせた。何澹之は一隻の無人の船にあたかも桓玄が乗っているかのように大将の旗をたてて豪華に飾らせて、自分は別の船に乗り移った。劉牢之配下の武将・何無忌はこの大将旗の船を捕獲しようとした。他の武将たちは「何澹之はこの船に乗っていないのだから、捕獲しても無駄でしょう」と言ったが、何無忌は「そんなことは百も承知だ。大将がいないのだから守備兵は弱卒ばかりだろう。こちらの強兵で攻めれば必ずや捕獲できよう。この船を捕獲すれば、見かけ上でも敵は大将を失ったことになるので『敵の大将を捕まえたぞ』と宣言すれば味方の士気は揚がるが、逆に敵は意気消沈するだろう。向うが弱気になれば、あとは一気に叩きつぶせるはずだ」。果たして、ひとたび太鼓を鳴らして攻撃して敵の大将船を確保して「何澹之の首を取ったぞ」と叫ぶと、敵は混乱して、散り散りになってしまった。

桓玄既敗、西走江陵、留何澹之守湓口。澹之空設羽儀旗幟於一舟、而身寄他舟。時何無忌欲攻羽儀所在者、諸将曰:「澹之不在此舟、雖得無益。」無忌曰:「固也、彼既不在此、守衛必弱、我以勁兵攻之、成擒必矣!擒之、彼且以為失軍主、而我徒揚言已得賊帥、則我気盛、而彼必懼。懼而薄之、迎刃之勢也!」果一鼓而舟獲、遂鼓噪唱曰:「斬何澹之矣!」賊駭惑以為然、竟瓦解。
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情報作戦勝、というところか。実際に敵の大将を討ち取らなくとも、討ち取ったと思わせることで、敵の戦意喪失を招き、戦いに勝利したということだ。



中国では、将軍というのは、職業軍人の成りあがりだけでなく、王陽明のような例でも見られるように文人も数多い。李密もその一人であろう。だが、謀略の点に関しては、奸知に長けた職業軍人の王世充の方が一枚上手であったようだ。

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 馮夢龍『智嚢』【巻23 / 849 / 廚人濮何無忌王世充王守仁】(私訳・原文)

李密は王世充と戦闘状態にあった。王世充は、以前に李密に似た顔の男を一人秘かに捕まえて閉じ込めていた。李密との戦闘が激しくなった時、この男を引き出して来て、陣地の前で大声で「李密をつかまえたぞ!」と叫ばした。味方の兵士は万歳を叫び、敵方(李密の軍)は混乱して、大敗北した。

李密与王世充戦。世充先索得一人貌類密者、縛而匿之、戦方酣、使牽以過陣前、噪曰:「已獲李密矣!」士皆呼万歳、密軍乱、遂潰。
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隋末の武将・李密は、黄牛に乗り牛の角に『漢書』を架けて読んだという故事があるというから、どちらかというと文学青年の雰囲気が強かったのだろう。それで、見事に敵の策略にひかかって敗れてしまった。同じ文人武将といえ、王陽明のように文人として超一流でありながら、軍略も一流な人と比べると、見劣りする。

続く。。。
コメント
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