限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第87回目)『京大生の知識レベルは中卒並み?』

2010-10-19 22:28:14 | 日記
私のこのブログ『限りなき知の探訪』のメインのテーマはいかにすれば、現在の日本の若者が世界で活躍できるようになるか、という点について私の考えを述べることにある。ブログと同時に(本当は順序が逆であるが)京都大学でも一般教養の授業としていわゆるリベラルアーツ教育の講義を昨年から始めた。講義のタイトルは、前期は『国際人のグローバル・リテラシー』であり、後期は『ベンチャー魂の系譜』である。二つの講義に共通するのは、日本人としての視点をもちつつ、世界的(グローバル)な視点から日本、および世界の状況を自分で判断できることを狙っている。

さて、最近の授業
【2010年授業】『ベンチャー魂の系譜(2)-- Part2』
で、(私にとって)衝撃的なことがあったので述べてみたい。

それは、前漢の武帝時代に西域との交通の開拓に寄与した探検家、張騫について議論していた時のことであった。

 ******************
(SA):当時の漢と西域の情報の流通について考えてみよう。仏教はいつ発生したか。
(B)紀元前500年ごろにインドで発生。
(SA):そして、中国に仏教に来たのは、いつごろか。
A:(誰もわからず)
 ******************

私が唖然としたのは、30人近くの京大生の誰一人として、仏教の中国伝来の時期を知らなかったことだ。不思議に思ってアンケートをとったところ、受験で、日本史や世界史をとった人間は僅か数人づつ、それ以外の学生では、地理が一番多く、政治や倫理などが続く。

振り返って私が高校生のころ(1970年頃)には、これらの社会の科目は文科系・理科系問わず全て必修であった。私自身は社会科目は嫌いで学校のテスト以外にはほとんど勉強しなかったのだが、それでも必修科目であったので、少なくともこれらの科目について最低限必要な知識だけは習得できたように思う。

その後、大学2年の冬に『徹夜マージャンの果てに』で書いたように、自分の知識の浅薄さに嫌気がさしてから、人文系・社会系の本を進んで読むようになった。この時、高校の時に習ったこれら最低限の知識でも非常に役にたった。


【出典】Amazon

話は変わって、ブラジルのアマゾンは熱帯雨林と言われていて、あたかも植物が繁茂するのに最適な条件のように思われているが、実は全く逆なのだ。アマゾン流域というのは、地上を覆っている高々数十センチメートルほどの表土がなくなると、その下の土地は強酸性で、植物が生えないのだ。しかし、その薄い表土のお陰で一面のジャングルができるのである。

この比喩でいうと、私の社会系の知識も、3年間の高校生の時代に培われた薄い知識の表土を持つことで後日、必要となった時に自分で開拓することができたので、アマゾンとまでは行かないが、なんとか知識が繁茂するようになった。

これから考えると、詰め込み教育と言われている高校の勉強は薄いかもしれないが、知識の表土形成には必須の要因であるように私には感じられる。

現在の高校での教育は大学受験をいわば唯一の目的としているかの如く、偏差値を重視し、受験に不必要な科目は邪険視している。それに輪をかけて、20年近く前に始まったゆとり教育で、日本を代表する京都大学に於いてですら、冒頭で述べたような知識のなさが露呈している。

この現象を分析してみると、高校で日本史や世界史をとらなかった学生は、自らの関心で本を読まない限り、この方面の知識は中学の時に習ったままだ、と分かる。受験に必要な科目、例えば、英語、数学、国語、などは京大の入学試験に合格するほどであるから、平均以上に出来たはずである。つまり、ある科目に関しては飛びぬけた学力を身に着けてはいるが、入試外科目に関しては京大生といえども中学卒業レベルであるのが、厳しい言い方だが、実態である。非常に偏った、つまり畸形的な学力・知識の持ち主を製造しているのが現在の高校の教育であり、受験制度であるといえる。

大学受験制度が悪い、ゆとり教育が悪いなどとの責任追及はここではしない。大学に入ったからには、未来思考で、これから自分がこの世界で生きるために、自ら知識の土地を開拓して欲しい。

日本を背負って立つ若きリーダー(指導層)よ、先ずは薄くてもよいから、自らの努力で知識の表土をつくっていこう。きっと、将来その上には必ず豊かな知識の森が茂ることであろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする