限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

智嚢聚銘:(第49回目)『中国四千年の策略大全(その 49)』

2024-02-11 10:06:35 | 日記
前回

韓信の「背水の陣」は孫子の兵法のいう「陷之死地、然後生」の一つの成功事例だ。しかし、これがあまりにも成功したため、孫子の言葉を実践するには必ず「水」がなければならないと思い込んでしまってはいないだろうか?しかし、原点に立ち返ってみると「死地」という言葉に重心があることが分かる。「死地」の一つが「背水」であった訳だが、果たしてそれ以外の「死地」はないのだろう? 武将の中には別の「死地」を考えついた者もいた。

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 馮夢龍『智嚢』【巻23 / 841 / 韓信】(私訳・原文)

李復が反乱を起こした時、宣撫使は韓世忠に反乱を鎮圧するよう命じた。韓世忠にはわずか1000人足らずの兵士しかいなかった。韓世忠はそれを四隊に分け、鉄菱を道一杯に撒いて、帰り路を塞いだ。そうして兵士たちに「前に進めば勝てるが、退却すれば死だ。それでも逃げるものは、後続部隊が刺し殺すからな。」と言ったので、兵士の中に敢えて後ろを見るものはいなくなり、全員必死で戦ったので、敵に勝ち、李復を斬ることができた。これらは皆「背水の陣」の故智に倣ったものだ。

李復乱、宣撫使檄韓世忠追撃、所部不満千人。乃分為四隊、布鉄蒺藜、自塞帰路、令曰:「進則勝、退則死、走者命後隊剿殺。」於是莫敢反顧、皆死戦、大敗之。斬復。此皆背水陣之故智也。
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進軍中、道路に鉄菱をばら撒いていったため、兵隊たちは退却が出来なくなり、前進して相手を倒すしか生き延びる道が無くなった。死にもの狂いで襲ってくる軍隊ほど恐いものはないというのは、古今東西の戦争の鉄則で、ハンニバルにしたって、唐の太宗にしたって、敵を囲むときには、必ず一ヶ所だけ、わざと逃げ道を残していた。



戦力が相手より劣っている時に、いかにして兵士たちに死力を尽くさせることができるか、これが将軍の智略の見せ所だ。上に挙げた背水の陣のようないわば、剛球のような戦法もあるが、山なりのスローボールのような戦法もある、というのが次の話だ。

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 馮夢龍『智嚢』【巻23 / 843 / 勾践柴紹】(私訳・原文)

葉谷渾が洮州と岷州とに侵入してきたので、柴紹を救援に送ったが、逆に敵に囲まれてしまった。敵は小高い所から矢を雨の如く射かけてきた。柴紹は敵の気をそらすため、胡琵琶を伴奏に二人の女ダンサーに踊らせた。敵は何事か、と怪しみながらも、皆集まってダンスを見ていた。柴紹は敵がダンスに気を取られている隙に、秘かに精鋭の騎兵に敵陣の後方から攻撃させ、大勝した。

葉谷渾寇洮、岷二州。遣柴紹救之、為其所囲。虜乗高射之、矢如雨下、紹遣人弾胡琵琶、二女子対舞。虜怪之、相与聚観。紹察其無備、潜遣精騎、出虜陣後、撃之、虜衆大潰。
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まったく戦場では一瞬たりとも油断は禁物だということが痛いほど分かる例だ。日本武尊が熊襲をやっつけたのも、女装の兵士たちではなかっただろうか。歴史上、男たちは女に気をとられたため、さんざん痛い目に遭っているにも拘わらず、一向にその性癖は止む気配がない。この性癖は因果な宿命で、きっと死ぬまで直らないないのだろう。

続く。。。
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