限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

【麻生川語録・23】『死ぬ価値のある人しか死ねない(その1)』

2011-01-08 21:54:51 | 日記
数学に非ユークリッド幾何学という学問分野がある。それは、ユークリッド幾何学の第5番目の公理である、『平行線は交わらない』というのを、否定して平行線は交わると定義しなおして、新しい幾何学を構築したものである。非ユークリッド幾何学が実用になるものなのか私は浅学にして知らないが、それまで誰も疑わなかった根本命題を否定すると世界がどのように見えるかという試みにチャレンジした、その精神はすばらしい。

さて、古今の宗教・哲学は『生と死』を巡るものが多く、大抵は、生をより良く生きるにはどうすればよいか、ということを根本命題として捉えているように私には思える。宗教・哲学というと何やら深遠な思考を巡らしているかのように勿体をつけてはいるが、単純に言えば、生がよく、死は悪い、という人間だけでなく、動物が本能的に死を避け、生に執着するという性質を単に形而上学的に理屈をつけたのが、世の中の宗教・哲学といえよう。

私も子供のころから、特に教えられた訳でなくても、死は恐しいもの、避けるべきものと考えていた。ところがある時、中国の思想家である荘子を読んで次のような文句に出会った。
荘子が山道で髑髏を見かけた。その髑髏がどのような経緯で埋葬されなかったのかを自問自答した。夜になって髑髏が荘子の夢に中に現れた。そこで荘子が髑髏に、『もう一度、その骨に肉や皮膚をつけてこの世に生き返らせてあげようか?』とたずねたところ、髑髏は眉をしわよせて、『どうして安逸な帝王の位を捨てて、煩わしい人間界に戻れようか!』(吾安能棄南面王楽、而復為人間之労乎!)と一蹴されてしまった。

つまり、生きている人は、死の世界を経験もしていないくせに、死の世界はおぞましく、生の世界が望ましいと、勝手に決め付けている。しかし、一度死の世界に入ると、その安逸さは筆舌に尽くせぬほど甘美なものであり、一旦それを味わうと、二度と現世に戻って煩わしい生活など送ろうなどと思わないものだという。このことを荘子は髑髏の口を借りてしゃべらせ、生を極端に重視する考え方に対して痛烈な疑問符を投げかけた。



これは中国の荘子だけが独占的に考えていたのではなく、古代ギリシャ人の中にも同じような考えを持っていた人がいた。ピュリギアのミダス王がシレーノス(Silenus)に人間の幸福を聞いたところ、次のような答えを得たを言われている。『人間にとっての最大の幸せとは生まれなかったこと、生まれてしまった以上は一刻も早く死ぬことである。』("The best thing for a man is not to be born, and if already born, to die as soon as possible.")

さらにはヘロドトスの『歴史』(巻1・31)ではアルゲイオスの若者の兄弟の話が語られている。兄弟が老母を車に乗せて、変わりばんこに車を曳き、数キロ先のアルゴスの神殿の祭典に間に合うように全力疾走して連れて行った。老母は息子達の行為に感謝し神に、息子達の親孝行に一番相応しい贈り物を、と願った。暫くして、人は寝殿で休んでいた息子達が死んでしまっていることを発見した。ギリシャ人はこのことで、神は死が最良の贈り物だと考えていることを知ったという。

ギリシャ人に次いで、ローマ人の死の見方も一風変わっている。それは『死んだ』といわないで『生ききった(vixit)』という。 vixit とは vivere(生きる)の現在完了形である。つまり死というのは不慮に死ぬと言うのではなく、その人に与えられている生を全うした時が死を迎える時だ、と考えたのだ。

このように見てみると、死が悪い、あるいはおぞましい、という考えかたは必ずしもいつも正しいとは考えられていなかったことが分かる。それは『平行線は交わらない』が永久不変の定理ではなく、その定理を否定した非ユークリッド幾何学が立派に成立することから考えて、『死が悪い』という常識的な立場とは異なる、全く逆の立場から考えても一つの理論(宗教・哲学)が立派に成立しうる可能性を示唆しているように考えられないだろうか?

続く。。。
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