癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

山陽道15日目・廿日市宿~30玖波宿~31関戸宿〈32km〉(8時間35分)

2020年11月30日 | 登山・旅行

 今日は、岩国市の錦帯橋も見たかったので、錦帯橋の近くに宿を取った。錦帯橋にいちばん近い関戸宿の先のバス停をゴールとした。 

 競売、5ヵ所の峠があり、しかも、4ヵ所は昔のままの、今では街道歩きの人しか通らないような自然道である。そのせいか、歩行距離の割には時間が掛かった。

廿日市宿~玖波宿

 宮島口から廿日市駅まで移動して、6:20、まだ薄暗い廿日市宿の昨日のゴールをスタート

 朝の交通ラッシュの車がうるさい県道をしばらく歩き、狭い旧道へ入って、ほっとする。しかし、1時間以上歩いても、興味をそそられるものはない。

 そのうちに、登り坂となる。一里塚跡も現れる。

 ずっと県道だが、長い登り坂が続く。ここは「四郎峠」である。峠まで2kmほどもあった。さらに、峠から2kmほどでようやく集落が見えてきた。

 峠が、合併前の大野町との境界だった。昔の大野村を太郎、次郎、三郎、四郎、十郎という五人の兄弟が開墾し、それぞれが開墾したり住んだりした所に地名などを残した。四郎峠の名は、中山に住んだ四郎に由来していると伝わる。

 宮内集落に入り、更に下って行くと、右手に観音堂」と「今川貞世歌碑」がある。今川貞世(了俊)は足利義満から九州探題に任ぜられ、その任地に下がるときの紀行文「道ゆきぶり」を残した。この歌碑は、ここ中山を通過したとき景色を詠んだもの。
 ここを右折すると山間の、のんびりした旧道になった。車も来ないので良い感じだ。左手の茂みの前に「史跡一里塚跡」の碑がある。

 その先「十郎原」と書いた案内板が置いてあり、「伝説「大野五郎」の五兄弟のうち末弟十郎が開墾したところとして十郎原の名が残っています。」と書いてある。

 やがて、狭い旧道は民家の裏側の山裾に続く。それが、昔のままの自然道となり、「四国街道ウォークロード」の看板が続く。

途中に、手作りの可愛い水車が列なっている。

 快適な昔にままのタイムスリップしたような細い道がずっと続いている。

 高畑に入ると、左手に「古代山陽道の高庭駅家跡・濃唹(のう)駅家跡がある。古代山陽道には約16km毎に役人の宿泊や、乗継ぎ用の馬を備えておく「駅屋(うまや)」が置かれた。平安時代以後濃唹駅に変ったという。山上憶良の歌碑も建つ 。 

 ようやく、大野浦の集落の中に入っていく。銀色の瓦の屋根も増えてくる。

 大野小学校のそばに、明治9年の道標があり、「右 宮島 廣島道 左 宮内 妹背瀧道」と彫られている。

 大野浦の集落を抜けると、再び、山道となる。「石畳」の道も現れる。今回の旅では初めて目にする。

 昔のままの道が「残念社」への道となる。昔、建物があったと思われる石垣の横を通っていく。案内標識がたくさんあるので、それにしたがって登っていく。やがて、「ざんねん砦」の碑が建つ。

 また、石畳の道となり、「残念社」が現れる。

 気になる名前だが、慶応2年四十八坂を単騎で西に向かっている幕府軍の武士がいた。これ見た長州軍の兵士が勘違いで狙撃して;しまった。その武士は、「残念」と言って倒れた。後にこの武士は丹後宮津藩士の依田伴蔵で、軍使として長州軍営に赴く途中であったことが分かり、長州軍は遺憾の意を表した。村人が伴蔵の戦死を哀れんで祀ったのがこの社である。

 やがて、「八坂峠」に到着。ここには「三県一望」の展望台があり、瀬戸内海が一望できる。昨日訪れた宮島も真向かいに言えた。

 そこに、依田神社の鳥居が立ち、下に大きな石がある。これは、「吉田松陰腰かけの石」て、海を眺めたという。松陰はここから見える周防大島の出身だという。

 やがて、峠をくだっていくと、正面に工場群が見える。石垣の間を抜ける道もある。

 やがて、鳴川をわたって、廿日市市から大竹市に入る。また、登り坂となる。

 「鳴川の石畳」が現れ、旧西国街道の説明板もある。

 この峠は、「鉾の峠」である。下りていくと唐船浜へ出る。その先が、玖波宿である。

30玖波宿~関戸宿

 「玖波宿」にほ、本陣跡付近の旧家や高札場跡の標識もあった。

 宿を抜けると、また、山の方へ向かう。しかし、まもなく、「間の宿 小方」に出る。ここの写真は、玖波宿とごっちゃになり、間違って消してしまった。すぐに抜けるような集落だった。

 

 今度は、「苦の坂」へ向かって登っていくが、舗装道路の先は通行止めになっている。そこの先に入ってみたが、道らしい痕跡はない。迂回するには莫大に遠回りとなる。

 参考にしているサイトの方はどうしたのだろうと思って見たら、「仮設階段を登った」と書いてある。先にそれを見たときは、何かの工事用のものだと思ったのて、登ってみる気もしなかった。

 それを登り、竹林の中の自然道を歩いていくと、すぐに「苦の坂」峠に出た。説明板には、苦の坂の名前のとおり、難所に数えられていたと係れている。 

 下り坂は、落ち葉が積もり、下の浮き石が見えないので怖い。こんなところで捻挫などしたくない。慎重に下る。

 出口には、「長州の役戦跡苦の坂入口」の碑と説明板がある。下っていくと、木瀬集落に出る。

 苦の坂を下って、県道に出る。そこ先の小瀬川を渡る。渡り切る土古路に「山口県 岩国市」の標識がある。

 京都~大阪~兵庫~岡山~広島と歩いてきて、いよいよラストステージである。ちょっと灌漑深いものがある。

 その先の川原に、昔の渡船場跡があったらしいが、通り過ぎてしまった。小瀬地区を進むと、曲がり角に「吉田松蔭の歌碑」がある。安政の大獄で、江戸へ護送された安政6年、30才の時の歌である。このあと、江戸で若い命を終わらせることとなる。

 小瀬集落を抜けると、またまた、山の方へ向かっていく。小瀬峠越えである。

 入口に標識があり、またまた、昔のままの道となる。本日最後のタイムスリップを楽しんでいくが、すぐに舗装道路に出た。そのあとも部分的に旧道があったらしいが入口が分からず、そのまま、舗装道路の峠を越えて、山口県最初の「関戸宿」へ入っていく。

31関戸宿~関戸バス停

 「旧山陽道と関戸本陣跡」の説明板もある。そこまでは旧家もあったが、そこから振り返って撮った写真には写っていなかった。

 国道に出て、バス停をさがしてうろうろしたが、ようやく見つけら5分前にバスが出だところだった。

 ブログの写真の整理をしていたら、すぐに50分が経って継のbusにのることができた。

 錦帯橋は10分もしないうちに到着。明日の朝のバスの時刻を確かめて、初めて目にする錦帯橋へ。

錦帯橋

 これまで、写真で何度も見ていたが、予想していたより、ずっと大きかった。5連で両側の2つと真ん中の3つの造りが違うことが初めて分かった。

 渡るのに、往復310円取られるとは思わなかった。前を学校帰りの子たちが歩いていた。この子たちはもちろんただだろう。

 夜のライトアップもされるらしいが、たいぎなので行かず、他サイトからパクり。

 錦帯橋から10分も歩かないうちに、今日の宿の「三原屋」に到着。大正年代の建物で、築100年弱とのこと。

 GoTo割り引きで、2734円だったか、こちらの手違いで、地域クーポン券は付かなかった。

 早速、岩風呂へ入って、ブログアップ作業に取り組んだ。途中で、コンビニに買い出しに行って、夕食を食べたら眠くなって、途中でキブアッフ。残りは夜中に起きて書いた。さあ、また寝れるかな?

 今日の歩数計 50000歩。

前日へ   翌日へ


山陽道14日目・海田市宿~28広島宿~29廿日市宿〈26km〉(6時間50分)

2020年11月29日 | 登山・旅行

 今日は、広島市内が中心の町中ウォークといった感じで、ここ数日間の旧街道歩きの楽しみは少なかった。

 厳島神社へ行きたかったので、宮島口に宿を取り、そこへ移動するのに便利な廿日市宿の駅前をゴールとした。

 広島の原爆ドームも厳島神社の赤鳥居も、修復中で、その姿は見ることができなかった。宿は、後で詳しく触れるが、GoTo割引でなく、別な割引で、素泊まり1000円だった。過去、これまでの旅で最安値である。

海田市宿~27広島宿

 広島駅から海田市駅へ移動して、昨日のゴール地点からスタート。

 スタートして、100mもしないうちに、広島市に入る。

 明治2年の常夜灯が立っていた。普通は、神社や寺の前に多いが、ここは、純粋に旧街道の旅人のためのものらしい。 

 ずっと家並みが続く船越峠を越えたら、今度は、広島市から府中町へ入る。昨日から何度も広島市からほかの町が出入りしている。

 府中町の市街地だが、道路の狭さに、旧街道の面影を感じる。

 やがて、再び広島市へ入る。ここからは廿日市市までは、ずっと広島市だった。

 「三本松」~街道松の名残で、地域の町名にもなっている。しかし、この松は、あとで植え替えたものらしい。

 

 「我羅我羅(がらがらばし)」~がら竹という竹で造ったので、がらがらと音がしたという。この細い道は、昔は川だった。

 やがて、広島駅近くへやって来る。上の高架線を新幹線が過ぎて行った。

 下は広島市電である。函館のように1両でなく、連結タイプのものが多い。

28広島宿~29廿日市宿

 やがて、広島市の中心部へ入っていく。原爆で焼け野原になったのだから、旧街道も宿場の面影もないのが当然である。

 「猿猴(えんこう)橋」~左の石柱は、被爆当時の橋の門柱。

 猿猴橋を渡ると、飲み屋街の薬研通りへと入っていく。角を曲がると、今度は、すぐに「本町通り商店街」へ。この辺りが、広島宿の中心地だったらしい。

 やがて、元安橋を渡る。この辺りは観光地になっている。それもそのはず、修復中で姿が見えない原爆ドーム(下の画像)がすぐ近くにあるからである。

 元安橋を渡ると、平和祈念公園へ入っていく。 

 この辺りも、江戸時代には商人の町として賑わっていたところらしい。

 「ここは旧山陽道」の碑が立つ天満宮。

 西広島駅を過ぎると、郊外といった雰囲気になり、古い建物も目につくようになる。

 鷺森神社~天徳年間(951~960年)創建だが、やはり、被爆建物で、昭和52年に修復されている。

 「小泉酒造」~明治天皇巡行の際に休憩している。下の碑が、その記念碑。

28廿日市宿

  やがて、廿日市宿に入っていく。

 立派な「西国街道壱里塚跡」と「街道松」。この街道松は、文化2年(1819年)には、この辺りで68本あったが、今はこの1本だけ。

 「芸州廿日市宿御本陣旧址」碑とその跡地に建つ廿日市中央市民センターと、下は、そこから撮った町並みたが、宿場の音影は残っていない。

 13:30、ここが、廿日市駅への通り道だったので、ここをゴールとして、宮島口へ電車で移動。

厳島神社

 この旅で絶対訪れたいところの一つが、この厳島神社だった。

 厳島へは、渡船フェリーに乗らなければならない。向かう途中からいくら探しても、シンボルの赤い鳥居が見えない。隣にいた人に聞いたら、現在は修復中で、シートで覆われているのがそれだという。せっかく来たのに・・・。広島の原爆ドームもそうだった。

 日曜日だからか、観光客の数がものすごい。今回の旅でこれほどの人出を見たのは初めてである。土産店が並ぶ参道にも鹿が普通にいる。店にも入っては追い出されている。

 足場で姿が見えない赤い鳥居と厳島神社。

 肝心の赤い鳥居が見られなかったので、参道にあった写真を写しておいた。

 下は、おやつに買った名物の紅葉饅頭。

 素泊まり1000円の「ゲストハウス シンプル スティ宮島」。普段でも安いらしいが、やはり、新型コロナの関係の広島宿泊事業者支援プランの料金とのこと。

 安いだけあって、テレビも風呂もトイレも付いていないし、シャワールーム(100円)しかない。浴衣もタオルも歯ブラシもない。でも、ベッドは広くて寝心地が良さそう。寝るだけなので、これで十分。 

 本日の歩数計 44000歩。

前日へ   翌日へ


山陽道13日目・西條宿~27海田市宿〈33km〉(7時間40分)

2020年11月28日 | 登山・旅行

 電車で広島から西條へ移動。雨予報もあるので、宿は連泊なので、雨具をサブザツクに詰めた。雨は、折り畳み傘で間に合うような弱い雨だが、断続的に降られた。しかし、明日からは、またずっと好天が続くようだ。

 今日もほとんどが旧道歩きになるはずだったが、大山峠が2年前の豪雨災害で流されていて、国道を迂回せざるを得なかった。

 なお、直接関係ないことだが、走っている車をみると、マツダの車が圧倒的に多い。さすがに広島だ。

西條宿~28海田市宿

 広島駅から西條駅まで移動して、6:40、駅前の街道をスタート。

 駅前からも、大きな旧家が数軒目についた。上の建物は、「山陽鶴酒造」だったが、今は割烹になっていた。下の建物は、明らかに昔の商家であろう。

 西條宿をぬけてしばらく行くと、飢坂(かつえざか)への登りとなる。

 飢坂は途中から自然道となる。一番高いところに「飢坂の由来」が書かれていた。

 飢坂の名前の由来は二つあり、江戸時代、飢饉の時に、ここで多くの人が飢えで力尽き亡くなったことからこの地名になったという伝説と、昔、牛を救って長者となった牛満長者は、助実の歌謡坂)から朝早く田植を始め、昼に浜田まで仕上げ、夕方に当地に達したところで、空腹となり飢坂の地名がおこったというもの。

 飢坂を下っていくと、八本松の集落に出る。両側が石垣が積まれた道もある。八本松の駅前を通り、しばらく行くと、大山峠への登りとなる。

 大山峠の入口には、西国街道や大山峠の標識もある。

 5分も進まないうちに、街道が消えている。2年前に広島付近を襲った豪雨災害の痕跡である。すぐ上で砂防ダムの工事をしている人に聞いたら、とても通れる状態ではないし、向こう側の道も橋が落ちて通れないとのこと・・・戻って、国道を迂回することにした。

 1時間弱で、反対側の出口に到着した。ところが、下りてくる道路が閉鎖されていて、「新しい道を作っています」と書かれた看板があった。

 峠のこちらがわの道路も流されたということなのであろう。

 国道から瀬野の旧道へと入っていくが、道沿いの川にも豪雨災害の爪痕が残っている。

 「吉田松陰詩詠の地」の看板と「涼木一里塚跡」

 「西国街道」の標識の「大山刀鍛治場跡・墓地」の説明板。これと同じ西国街道の標識は、瀬野地区には多く見られた。

 

 瀬野の市街地に入るが、赤瓦が少なくなり、黒瓦の家が多くなってくる。

 その集落の入口に「落合の一里塚跡」と古い道標が並んで立っている。その道標には、「右ハ四日市 左ハ志わ みち」と刻まれている。

 瀬野駅前で昼になったので、寿司屋さんへ入って、天ぷらうどんを食べた。汁が抜群に美味しくて、全部飲み干した。

 中野地区に入っていくと、公的な道路標識では珍しい「安芸山陽道」と書かれたものがあちこちにあった。

 やがて、海田町に入っていく。峠を越えてからは、広島市安芸区だったので、安芸区の海田町かと思っていた。

 「出迎えの松」~旧街道の街道松の名残である。名前の由来は、参勤交代の責を果たした安芸国の藩主の帰りを家来や有志の村人がこの辺りまで出迎えたことによる。

 いよいよ、今日のゴールである海田市宿へ入っていく。豪華な由緒ありそうな旧家も目につく。

 ところが「海田町役場」が現れて、びっくり。そばにいた方に聞いたら、広島市安芸区は分断された感じで、境界が微妙に入り組んでいるらしい。駅名と昔の宿場名は「海田市(かいたいち)」とのこと。

 このあと、本陣茶屋跡と脇本陣茶屋跡の標識はあったが、間違って消してしまった。どちらも建物は残っていなかった。

 しかし、重要文化財に指定されている「伊藤家」(江戸時代中期)と「三宅家」(江戸時代後期)が残っていた。

 宿番の後ろの高台に建っている「月光山大師堂」(1830年天保元年築)

 「梅田市の一里塚跡」~ここが駅に一番近いところなので、ここを今日のゴールとして、海田市駅へ向かう。

 駅前には大きな看板が・・・ここは織田幹雄氏の生誕の地だった。

 すぐに広島行きの電車が来たので、連泊となる広島のホテルへ移動。

 これから、夕食を食べに行くが、昨日は、広島お好み焼きを食べた。今日は何を食べよう?地域クーポンが使える店にしたい。

 

 前日へ  翌日へ


山陽道12日目・本郷宿~26西條宿〈34km〉(9時間)

2020年11月27日 | 登山・旅行

 今日は、ほとんどが旧道歩きで、自然道の峠越えが2ヵ所もあり、古墳の中を覗いたりと、変化に富んだ歩きを堪能できた。

 西條駅前には安い宿がなかったので、少し離れているが広島駅前に取った。

本郷宿~26西條宿

 だんだん夜明けが遅くなる。ほんのり明るくなった6:35にホテルを出る。旧街道に戻る前に、駅の北側にある、「御茶屋本陣跡」を訪ねた。街道から離れた本陣も珍しい。
 何も表示がないのでわかりにくいが、医院の隣の門のある旧家がそう。広島藩は宿駅を指定するにあたり、本陣を造らず、茶屋を造り、必要に応じて、参勤交代の大名や幕府役人の宿にあてていたといわれる。

 7:50、昨日のゴールの支所前へ戻ってスタート。

 この先の本郷宿にも旧家や「本郷醤油醸造元」(下)もあった。

  右手に恵比須神社がある。鳥居の扁額に、2匹の石造りの鯛が掲げられている。こういう形のを見るのは始めて。恵比須神は鯛を抱えている姿をしているために、鳥居にも付けたのだろうか。

 沼田川を渡り、本郷宿を抜ける。橋の右奥に小早川隆景の居城「新高山城跡」の山が見える。

 隆景は毛利元就の3男で、昨日通った三原城も建てているが、この新高山城を40年間に渡り、居城としたという。

 本郷中央病院の所を右に入って行くと、右手に「菅公御手掘井戸」がある。案内板によると、菅原道真が大宰府に送られる途中、この地に上陸したところ、人々は水不足で困っていた。見かねた道真が自ら井戸を掘ったところ、こんこんときれいな水が湧き出し人々を救った。人々はお礼に干し飯を甑(こしき)で蒸して差し出した。

 その後、このご恩を忘れないようにと丘に社を建てたのが、岸ケ丘の「甑天満宮」だという。

 農村風景の中に入っていくと、これまでにはあまり印象がなかった赤瓦の屋根の農家が目につくようになる。それも、いろいろな飾りを付けている。

 国道を左下に見ながら、山際の旧道を辿る。

 まもなく、古墳群が現れる。3ヵ所寄ってみた。いずれも1400年前の古文時代の横穴式石室だった。

 まずは、「御年代古墳」~ここには石棺が2個入っていた。

 次に、「貞丸古墳」~上が1号古墳、下が2号古墳で、どちらも石棺が一つずつ。

 最後に、「二本松古墳」~ここは家型石棺が神社の境内に飾られていた。この石は、今回の旅で、山陽道3日目に泊まった兵庫県高砂市宝殿の竜山石だという。

 古墳群を見たあとは、山中へと入っていく。やがて、廃道化した自然道の歩きとなる。20分くらいで、県道に出る。

 そこの交差点に、地元の生産物の自動販売機がある。実は朝から何も食べていない。峠越えのエネルギー補給ができるものがないかと探したら、塩せんべいが2袋で200円で売られていたので、それをゲット。食べながら、県道の坂道を登っていく。

 このあと、「瓦坂峠」への入口を見落として、10分ほど登ってから、通り過ぎていたことに気付いて戻った。しかし、轍のある道へ入ったが、藪こぎとなる。そんなはずはないと、また戻る。結局、30分以上も無駄な時間を浪費してしまった。

 さらに、その下に入口を見つけることができた。一部藪濃ぎ状態の所もあったが、概ね幅広の快適な自然道として残っていた。しかし、入口にも峠にも標識すらなかった。

 下っていくと、一部ではあるが、石畳の所もあった。この峠が三原市と竹原市の境界だったようだ。

 舗装道路を下っていくと、やはり赤瓦の屋根の農家の集落に出た。

 さらに下っていくと、竹原市街地が見えた。

 峠の出口には、「西 廣島 東 大坂」と彫られた道標があり、「河原探坂峠」「旧山陽道」などの標識があった。峠の名前は、瓦坂と河原坂と表記は違うが、同じものである。

 峠を下りて、旧道が国道の近くにずっと続いている。やがて「田万里往還入口」という標識が出てくる。

 国道に近いところから眺めたら、レストランが見えた。ちょうど昼なので、そこへ寄る。山菜ピラフは、まさに絶品だった。非常に人気の高いレストランらしい。

 田万里往還へ戻ると、小さな集落が現れる。「間の宿 田万里市」だった。そのすぐ先に、本陣跡らしい旧家があった。

 その先から、山に向かって、緩やかに登っていく。今度は、松子山峠が待っている。

 反対側の田万里往還入口を過ぎると、竹原市から東広島市へと入っていく。

 そのすぐ上に「赤瓦釉薬検量油土の製造所跡」(文政年間西條赤瓦のルーツ)の碑が立っている。道理で、西條に近づくに連れて、赤瓦の家が増えて来たわけだ。ここで、其の変化の訳がわかった。

 さらに、そのすぐ上に「茗荷清水跡」もあった。

 どんどん登っていくと、「雛壇一里塚」に到着。平成18年に整備したものだった。

 そこに「松子山峠」への入口があるはずだが、見つけられなくて、10分ほどうろうろしたが、藪を漕いでみたら見つかった。ここにも標識が欲しかった。

 瓦坂峠よりは、藪化していて、微かな踏み跡しか無いところもあった。

 ここの峠には、新しい標識が設置されていた。峠からすぐに林道に出て、さらに、下っていくと県道に出た。

 あとは、ひたすら、今日のゴールの西條宿を目指して下っていく。

 市街地へ下りて行くと、西條宿の中心部は「酒蔵通り」となっていて、有名な銘柄の酒造会社が軒を並べてい

 ここで造られてある銘柄の一覧。

 その酒蔵通りの裏手に「本陣茶屋跡」があった。

 15:50、今日のゴール、西條駅に到着。そのあと、広島へ移動。

 明日も連泊する広島ガーデンパレスにチェックイン。

 GoTo割引で、2 日分で5480円。地域クーポン券2枚。

 今日の歩数計 52000歩。

前日へ   翌日へ


山陽道11日目・尾道宿~24三原宿~25本郷宿〈27km〉(7時間)

2020年11月26日 | 登山・旅行

 今日は距離が短いが、これ以上進んでも、駅も宿もない。幸い、本郷駅前にホテルがあったので、ここをゴールとせざるを得なかった。

尾道宿~24三原宿

 3連泊となった福山市から尾道に電車で移動。

 7:00、一昨日のゴールとした林芙美子像の前をスタート。旧道は尾道駅の裏に続いている。

 間口が狭い家が建て込んでいて、家並みがごちゃこぢゃした感じがする。

 そんな中で一軒だけ大きな旧家がある。創業安政元年の「吉源酒造所」である。どこも、酒蔵は歴史が古いので、旧街道沿いにあるのが常である。

 やがて、「七曲り」という所に差し掛かる。ただ曲がっているのではかく、急な坂道になっていて、道路の横に階段もある。それを登り切ったら中学校のグランドに入っていく。間違えたと思ったが、サッカーゴールの後ろ側を通るようである。そこを抜けたら、再び、家並みが続き、くねくねと曲がりながら下っていく。

 その先で少し平らな旧道が続くが、再び、くねくねと登っていく。高速道路の上を通るガード手前が、昔は「大人峠」と言われた所らしい。

 下っていくと、「大人峠 一里塚跡」の碑が立っている。横に「三原市内一里塚4ヶ所の最東端」と彫られている。

 大人峠が尾道市と三原市の境界のようだ。

 上のみかんは、聞いたら「はるみ」という種類らしい。下の小さいのは、キンカンか?

 やがて、国道歩きとなる。左手に瀬戸内海を望みなからの開放的な眺めだが、通勤時間でもあり、交通量がものすごい。

 再び、線路沿いの旧道を進むと、「六本松一里塚跡」の碑。もともとは線路になった所にあったらしい。

 一里塚跡の先に「糸崎神社」がある。神功皇后が西征の帰途、船を寄せられた際に水を献じたという故事によって、天平元年(729年)創建された。神門は、三原城内にあった侍屋敷門の一つが移設されている。

 その少し先に、松ノ木の太い幹と祠があり、神功皇后が西行の途中、この地に立ち寄った時に、船をつないだ松といわれている。

 その後、国道を進む。糸崎駅前を通る。しばらく進んで旧道へ入る。

右手奥に、三重の塔が見える。どうやら、専福寺のものらしい。

24三原宿~本郷宿

 ガード下を潜ると、三原宿へと入っていく。ここも間口の狭い家がびっしり軒を連ねている。

 立派な古い工場風の建物が見えてくる。有名な「酔心 山根本店」の看板。「横山大観愛飲の酒」とも書かれている。

 善教寺の入口に「伊能忠敬 観測地」の碑。「文化3年(1806)  文化6年(1809)測量」と彫られている。

 本陣跡の標識等はなかったが、橋の手前の一角がその跡らしい。

 やがて、「史蹟 三原城跡」の石垣が現れる。この城は、小早川隆景が永禄10年(1567年)に築城している。国鉄が敷かれたときに、本丸跡を三原駅にしたという。左後ろの建物が三原駅である。

 城跡の旧街道に沿った鍵形の部分が三原城跡歴史公園になっている。

 城跡を抜けると、再び、ごちゃこぢゃとした家並みが続く。

 ごちゃこぢゃした中にも、旧家はわすかだが存在している

 右手に順勝寺がある。山門は、三原城内にあった御作事奉行所門を明治10年に移設したもの。築城当時の建築物が当時の状況を保存してあるものが非常に少なく貴重である。

 三原宿を抜けてしばらく進むと、「国境石」があるはずの地点にいくら探しても見当たらない。そばで仕事をしていたおばさんに聞いたら、もう少し手前だとのこと。戻って、探したら、ちょっとした峠状の地点にあった。

 「国境石」には「従是東 備後國 従是西 安藝國」と刻まれている。今は、どちらも三原市である。

 そのあとしばらくは、人家が途絶え、旧道や国道を繰り返すように進む。

 ちょうど、昼近くになり、国道歩きになったところで食堂があった。ランチの中に、お好み焼き定食があったので、それを注文。広島はお好み焼きが名物である。

 再び、人家の少ない国道と旧道を繰り返して進む。やがて、本郷宿に繋がる整備された道路へ入る。

 いかにも旧街道の町並みといった感じの本郷宿へと入っていく。本郷支所の向かいに、「佛通寺道 稲荷道」と彫られた文化6年の道標が立っている。

 この稲荷道が今日のホテルに繋がる道である。14:00、まだ本郷宿は続くが、ここを今日のゴールとした。

 チェックインには早すぎるので、ホテルそばの本郷駅でブログの下準備をして過ごした。

 15:00、本郷グランドホテルに到着。一番安い部屋を頼んだら、トイレも風呂もない和室で、4280円だった。じゃらん対象の宿ではないので正規の料金だが、十分安い。しかも、麦飯石を使った人工温泉で日帰り入浴もやっている。

 チェックインして、すぐに、温泉もどきの大浴場へ駆け込んだのは言うまでもない。

 今日の歩数計 40000歩。

前日へ  翌日へ


しまなみ海道・今治&尾道観光

2020年11月25日 | 登山・旅行

 当初の計画では、しまなみ海道(70km)は、「往きはレンタサイクルで、帰りはバスで」の予定だった。やってやれないことはないが、今はそこまで元気はない。また、明日以降に疲れを残す可能性大である。そこで、高速バスで往復し、残りは尾道観光に当て、休足日とすることにした。

 結果的に、自転車や歩行者専用のスペースがあるわけではないので、止めて正解だった。

しまなみ海道・往復

 しまなみ海道と言われる、西瀬戸自動車道は、本州四国連絡道路の3ルートのうち、西に位置する尾道・今治ルートを成す高速道路である。 広島県尾道市の尾道福山自動車道西瀬戸尾道ICを起点とし、向島・因島・生口島・大三島・伯方島・大島などを経て愛媛県今治市の今治ICに至る、延長59.4 kmの高規格幹線道路である。 

 尾道から今治までの6つの島を結ぶ7つの橋からなり、歩くことも自転車で走ることもできる。大人気のサイクリングコースでもある。

 高速乗合バス「しまなみスカイライナー」を利用することにしたが、乗り降り自由なのが、瀬戸田BSのみである。ほかは、乗車のみとか、降車のみとなっている。

 往きは、始発の福山駅前からまっすぐ今治まで行き、2時間ほど今治観光を楽しんで、帰りのバスに乗った。

 帰りは、瀬戸田で降りて、島内観光をしようと思ったが、見たい所がバス停からかなり遠いので止めた。因島大橋で降りて、尾道行きの路線バスに乗り換えて尾道まで戻った。

 7:00、福山駅前始発のしまなみライナーに乗る。

 以下は、しまなみ海道の7つの橋と橋からの眺めをセットにしてみた。

 最初の尾道から向島を繋ぐ「新尾道大橋」。下は、帰りに旧尾道大橋から新尾道大橋を眺めたもの。

  2つ目の向島と因島を繋ぐ「因島大橋」

 3つ目の因島と生口島を繋ぐ「生口橋」。

 4つ目の生口島と大三島を繋ぐ「多々羅大橋」。

 5つ目の大三島と伯方島を繋ぐ「大三島橋」。

 6つ目の伯方島と大島を繋ぐ「伯方・大島大橋」

 最後の大島と今治を繋ぐ「来島海峡大橋」。

 8:24、「タオルと造船のまち今治へ」の塔に迎えられて、今治駅前で下車。

 今治は、四国遍路の時に2回通っている。

 四国遍路の時も見ていない今治城。堀の水面に映す姿が美しい。

 今治駅の裏にある天然温泉「喜助の湯」に入った。今回の旅では一度も入っていないので、どうしても入りたかった。

 この温泉は、しまなみ海道を走ってくるサイクリスト利用される温泉でもある。

 駅の売店で、愛媛の名物「じゃこちくわ」と「御簀巻」を買って食べた。

 下は、バスの乗り換えの因島大橋のレストランで昼食に食べた「たこ甘酢揚げ定食」。

 しまなみ海道から眺めた今治のドック。

 因島大橋で路線バスに乗り換えて、11:50、尾道に到着。

尾道観光

 尾道に戻って、駅前からウォーターフロントを歩く。

 尾道の観光の目玉は、古寺巡りである。観光客は、全部で25ヵ所ほどの古寺を巡るコースマップを持って歩いている。

 その中でも1番人気は、高いところにある千光寺である。

 千光寺までの、4つの寺だけ巡った。

 古寺巡りのコースは1間幅くらいしかない細い道や階段が多い。千光寺への階段は非常に長い(左上)。

 なお、千光寺の上まではロープウェイもあるが、使わなかった。

 千光寺の階段の横に建つ「天寧寺の三重の塔」。室町時代のもので、国の重要文化財に指定されている。

 千光寺の下に建つ「みはらし亭」。これは大正時代の建物で、やはり、国の重要文化財に指定されている。

 千光寺の手前にある「三重岩」だが、「石鎚山」と銘打って、鎖場を真似ている。ここは登ってみた。石鎚山の一の鎖や二の鎖はこの何十倍もあるが、懐かしかった。

 右が千光寺の本堂

 梵字岩やマスクをされた仏像を眺めながら、さらに上の山頂を目指す。

 山頂には展望台がある。その隣の売店で食べたみかんソフトがおいしかった。

 展望台から、尾道の町並みを眺める。左下の奥の橋は、新旧の尾道大橋からの。

 尾道から電車で移動して、15:00に連泊となる「ホテルトレンド福山駅前」に戻った。

 今日の歩数計 18000歩。千光寺の階段もあったが、良い休足日になった。明日から、また頑張れそう!

前日へ   翌日へ


山陽道10日目・神辺駅~22今津宿~23尾道宿〈29km〉(6時間45分)

2020年11月24日 | 登山・旅行

 朝外に出た途端、寒いと思ったら、霜が降りたようだ。それでも6℃もある。しかし、こちらの気温に慣れたせいか、非常に寒かった。そろそろ朝だけでもインナーダウンが必要な感じ。

 今日は、尾道でゴールである。距離が短いので、13:15にゴールできた。朝は寒かったので高速で歩いたせいか、結構疲れた。ブログも珍しく18時前にアップできた。

神辺駅前~今津宿

 30分ほど歩いて、鶴が橋を渡るが、そのたもとに出雲大社の道標があった。出雲大社へ詣でる人たちも途中まではこの山陽道を歩いたのだろう。

 鶴が橋を渡るが、交通渋滞が凄い。

 橋を渡り終えると、堤防の上を県道が走り、歩行者・自転車専用道は堤防の下に続いている。昔の山陽道は古い堤防の上を歩いたのだろう。堤防の陰になって寒い。

 まもなく、二本松の碑や排水工事完成記念碑や腰折れ地蔵などがまとめて設置されている所を通った。

 旧道に入っていくと、昨日から目にするようになった大正チックな建物と古来の旧家が繋がった家があった。珍しい組合わせである。

イチジクの実。イチジクと言えば浣腸・・・コマーシャルも罪だ。どんな味がするのか、売っていたら食べてみたいものだ。

 福山市山手町の一里塚と榎木。こちらへ来て、榎木が残っている。一里塚は初めてかも?

 上は、天保2年の常夜灯。昔は旅人の目印になったり、夜は火を灯したて、今の街灯の役割をした。

 下は、赤坂一里塚。隣に、江戸時代のこの辺の絵図の解説が掲げられていた。

 国道に出て、すぐに旧道に入って、今津宿となる。

22今津宿~尾道宿

 右上のお宅が今津宿本陣跡河本家。表門、塀、石垣は当時のままのもの。

 この本陣のあったところが今津宿の中心部で、昔は商家が300軒もあった書かれていたが、その面影は全くない。

 今津宿を抜けてしばらくいくと、道標があるが、「右 ちかみち」と彫られている。珍しい道標だ。何の近道かと上を見たら、「関の地蔵」とジグザグの道が書かれていた。

 それにつられて、急な細いジグザグな階段を上って行ったら「関の地蔵」があった。

 その先で、国道に近づいたところにすき家があったので、、11時過ぎだったが昼食にした。

 この辺りで、福山市から尾道市になっていた。

 「高須一里塚」から先になると、家並みが途切れ、山の方へ向かっていく。「名号石碑」の前を通り、国道のガード下を潜ると、急な坂道になる。

 今回の旅では一番急な坂道だった。明らかに峠越えである。Googleマップには何も書かれていない。GPSを見たら、「防地峠」と書かれている。

 峠を挟んで、「これより東は福山領」「これより西は芸洲領」の碑が立ち、説明板によれば、ここの両側に両藩の番所があったらしい。

 峠を下って行くと、尾道市街地が見える。

 峠を下り切ると、市街地に入って行く。

 やがて、アーケードで覆われた「尾道通り」に入っていく。ここが尾道宿の中心部である。昔の面影を感じるものは何もない。

 一度切れたところに、「尾道通り 石畳地区 旧本陣」と彫られた新しい標石が立っている。

 昔の商家造りの家は1軒も見当たらなかったが、大正チックな建物が2軒あった。下の銭湯は、ちょうどカフェか何かにリフォームする準備をしているところだった。上の建物は「尾道商工会議所記念館」になっていた。

 その隣の広場に「奉行所跡」の碑が立っている。

 アーケードが切れて、さらに進むと、今度は「センター街」という商店街へ入って行く。

 その商店街を抜けると、「林芙美子」の像がある。芙美子はここが出身地なようだ。

 その先で尾道駅になるので、今日は、ここまでとした。

 尾道駅前のベーカリーで、休憩がてら、尾道あんぱん、くるみ塩パン、コーンスープを注文。尾道あんぱんは中にあんとクリームが一緒に入っている。

 尾道で安い宿が取れなかったので、20分ほど電車で福山駅まで移動して、昨日とは違うホテルトレンド福山駅前に向かった。ここも、先月にオープンしたばかりだった。

 明日も泊まるので、GoTo割引で、2日間で7020円。地域クーポン券2枚付きだった。

 さて、明日の予定だが、計画では、「しまなみ海道を往きはレンタサイクルで、帰りはバスで」の予定だったが、とってもそのような元気はない。しかし、しまなみ海道は渡りたい。そこで、往復バス利用で今治まで行き、戻ってきてから、尾道観光を少しすることにした。

 今日の歩数計 44000歩。

前日へ   翌日へ


山陽道9日目・三谷駅~18矢掛宿~19七日市宿~20高屋宿~21神辺宿〈31km〉(7時間40分)

2020年11月23日 | 登山・旅行

 昨日から急に涼しくなった。数日前まで半袖で歩いていたのに・・・汗をかかないで歩けるのがうれしい。また、天候には実に恵まれている。昨夜降っていた雨も朝には上がっていた。まだ、一度も雨に当たっていない。

 今回の旅は、街道沿いに宿が少ない。どうしても宿までの電車移動が多くなる。GoTo割引が適用になるじゃらんで予約できる宿にこだわっていることもあるのだが・・・。特に、今朝は、ホテル予約のミスもあり、ホテルから乗り換え等で1時間半近くも要した。

 今日は、4 つの宿のほかに、間の宿が2ヵ所もあり、やたらと宿場が多く、得した感じだった。

 4:50にホテルまで車で迎えに来てもらって、昨日のゴールの三谷駅に着いたのは6:14だった。

三谷駅~17矢掛宿

 6:20、まだ夜明け前の旧街道に出てスタート。

 田園風景の中をのんびり歩く。

18矢掛宿~七日市宿

 1時間ほどのんびり歩いて、矢掛宿の入口に到着。

 すごい力の入れようの案内板や「岡山町並み保存地区」の文言に嫌でも期待が高まる。

 案の定、今回の旅では、最も宿場の雰囲気を残している。昔のままの重厚な商家造りが軒をならべている。観光にも力を入れているようだ。

 「重要文化財 旧矢掛本陣石井家」

 間違って消してしまったが、「脇本陣高草家」も重要文化財に指定されている。

 矢掛宿の標石の説明板。

 1kmほどの宿場は橋の手前で終わっている。

 その後は、しばらく国道歩きが続く。

 国道から旧道に入ると、再び、宿場の雰囲気を残す家並みに入っていく。

 ここは、間の宿、小田堀越宿である。

 古い家並みの中に、2軒だけ、大正時代のものと思われるモダンな建物がある。軒の模様も然り、大正時代の建物が並ぶ函館の銀座通りの建物と雰囲気が似ている。

 再び、国道歩きが続く。途中で、矢掛町から井原市へと入っていく。

 旧道へ入ると、今度は、また、間の宿・今市宿が現れる。重厚な旧家が数軒目につく。

 この辺りは、標識はなかったが、本陣跡らしい。

 神社の入口に中堀城址の標識が立っている。

19七日市宿~高屋宿

 

 10:30、川を渡ると、七日市宿が現れる。ここは、井原市の中心部である。

 立派な石に彫られた「旧山陽道 参勤交代 七日市宿場 本陣屋敷跡」の碑が立っている。

 井原駅前の繁華街を抜ける。

 旧道が直角に曲がる地点に「旧山陽道大曲跡」の説明板が設置されている。これは、矢掛宿を抜けた後にもあったが、単調な旅に変化を持たせる意味で、わざと作ったらしい。戦乱の世では、駆け抜ける敵の人数を数えたり、参勤交代のときは、殿様が行列の様子を眺めたりすることもできたそうだ。

20高屋宿~神辺宿

 高屋宿は、入口に文化年間の常夜灯が立っている。

 ここにも、旧家の間に大正時代のものと思われるモダンな建物がある。

 高屋宿の出口の大きな看板が立っている。すぐその先に、岡山県と広島県の県境の高い標柱が立っている。昔でいえば、備中国と備後国の境である。普通、県境は川や峠にあることが多いが、ここには何もなく、突然隣の県となる。1歩跨げば、岡山県と広島県な足を置くことができる。

 広島県福山市になるが、上御領地区に古い「一里塚跡」の石碑と菅茶山先生の漢詩「高屋途中」の碑が立っている。この菅茶山先生のことは、このあとでも触れる。

 「南大門跡」~ここは、備後国分寺があったところの入口である。

 この前は、近世山陽道(西国街道)と古代山陽道(石洲銀山道)の交差点だそうだ。自分が歩いてきたのは、近世山陽道だった。

 やがて、堤防の上の歩きとなる。珍しい石橋を目にした。これは古いものであろう。

21神辺宿~神辺駅

 神辺宿の入口付近に、「平野一里塚跡」の碑と、江戸時代の絵図が掲げられていた。

 神辺宿へ入っていくと、国の特別史跡「簾塾と菅茶山旧家」がある。菅茶山は、幕末の学者でここで塾を開いていた。

 この建物は、当時のものである。

 今回の街道歩きで初めて目にした酒造会社「天寶一」

 「神邉驛跡」~太閤秀吉が朝鮮出兵の帰途、立ち寄った館があったところ。明治以降は川北村役場が置かれた所。

 神辺本陣~この建物は当時から残っているものである。

 ここにも、大正時代の建物が残っている。

 14:00、今日のゴール、神辺駅に到着。

 このあと、10分ほど電車に乗り、福山駅前のホテルリブマックス福山へ。

 駅から眺めた福山城。

 今年オープンしたばかりのホテルだが、GoTo割引で2532円。地域クーポン券付き。1500円で泊まった感じ。

 今日は、食べるところに恵まれず、朝は肉マン、昼はたい焼きのみだった。これから夕食に出掛けて、少しも良いものを食べよう。

 今日の歩数計 46000歩。

前日へ   翌日へ


山陽道8日目・備前一宮駅~16板倉宿~17川辺宿~三谷駅〈32km〉(7時間30分)

2020年11月22日 | 登山・旅行

 今までは大きなミスなしでやって来たのたが、今日は大ポカの2連発の厄日だった。

まずは、朝・・・岡山駅発5:55の電車で昨日のゴールの備前一宮駅へ移動するつもりが、大きな駅なので、全く同じ時刻に出る別の線の電車に乗ってしまった。間違いに気づいて途中で降りたが、すぐに岡山に戻る電車がない。結局、備前一宮駅に着いたのが、7:44になってしまった。しかし、あと3日で尾道まで行けば良いので、余裕はある。

 そして、2日前に予約しておいたホテル・・・倉敷駅前に取れなくて新倉敷駅前に取ったのだが、駅に着いてネットの予約を確かめてみたら、別館になっていた。タクシーでしか行けないところで、往復3000円以上。GoTo割り引きも地域クーポン券の分もパー。 

 子供の頃から、おっちょこちょい少年だった。人生に関わる大きなミスはしないでここまで生きてきたが、これは死んでも治らない・・・。

 お陰で、岡山駅での乗り換えで、きひだんごを買うことができた。何十種類もあって選ぶのに困ったが、一番小さいのを選んだ。

備前一宮駅~板倉宿

 7:45、備前一宮駅をスタート。

 歩き始めて、すぐに「これより東は備前の国」の道標と、「真金一里塚」の碑が立っていた。

 この辺りは、いろいろなところに桃太郎の関係のものがある。消火栓マンホールの蓋。さらに、民家の壁にも。

16板倉宿~川辺宿

 板倉宿の入口に「旧山陽道 板倉宿」の表記。今回の旅では初めて目にした感じだ。街道歩きをしている者にとっては非常にうれしいものだ。

 板倉宿の中心部。本陣跡の標識はなかった。

 五街道では多く目にした、白壁と格子模様の壁の旧家。この街道では珍しい。

 大正4年の道標~読みやすい字体である。

日本遺産に指定されている「鯉喰神社」~温羅(うら)征伐にちなむ神社で、敗れた温羅が洪水を呼び、鯉に変じて逃げのびようとするのを、大吉備津彦命がこれを退治したという伝説がある。

 墓地の一角に集められた?江戸時代の以前の墓石群

「造山古墳群」の一部。この辺りには、非常に多くの古墳が点在している。手前のは現在整備中の古墳。左奥の物も古墳のひとつ。

 やがて、岡山市から総社市へと入っていく。

 山手地区の入口に立つ大きな看板。総社市は吉備真備(きびのまきび)生誕の地である。吉備 真備は、奈良時代の公卿・学者。官位は正二位・右大臣。

 

 国道を越えて進むと、大正元年の道標が立つ「宿」というのは集落に出た。説明板には「宿は山陽道の宿場町として栄え、街道沿いには当時の名残をとどめる家が沢山あります。北には備中国分寺や尼寺跡、南側には寺山古墳などが存在し、吉備路の中心に位置します」と書かれていた。

 国分寺があったところから考えると、鎌倉・室町時代の宿場だったのだろう。

 江戸時代の宿場には指定されてはいないが、宿場の名残を留める家並みが続く。

 右側に五重の塔が見える。これは、備中国分寺のもので、聖武天皇の発願になるものだが、建物は南北朝時代に焼失したと伝えられ、現在の建物は江戸時代中期以降に再建されたもの。   

 総社市には、このような「山陽道」と史跡の標識が多く設置されている。岡山県に入った辺りから「西国街道」の名称は目にしなくなった。

 上の画像の中央の小さなこんもりとしたものが寺山古墳。

 旧山手村の「山陽道 一里塚」

 山手地区の外れに来ると、旧街道の雰囲気が漂う家並みが続く。

 こんな時期に桜が咲いていた。冬桜?

 高梁川には、車道の橋のほかに、自転車と歩行者専用の橋が架けられている。

17川辺宿~三谷駅

 この橋を渡ると、総社市から倉敷市へと入っていく。

 昔の渡しのあったところから移動された一里塚。江戸から百八十里と書かれている。

 川辺宿の中心部だが、全くその面影はない。

 しかし、うれしいことに、本陣跡と脇本陣跡の標柱が設置されている

 やがて、真備地区の市街地の歩きとなる。

 瀬戸内海を挟んだ四国の影響か、讃岐手打ちうどんの看板が目に付くようになる。

 たまたま入った「讃岐うどん かわはら」で食べた、イカ入りぶっかけは、麺の歯ごたえも良く、汁の旨さといい、抜群の旨さだった。このような讃岐うどんは四国遍路以来である。

 この真備(まび)地区は、吉備真備の生誕の地である看板や表示が多い。ここの駅名は、まともに吉備真備駅である。

 このあとすぐに素敵な出会いがあった。交差点で信号待ちをしていたら、こちらのスタイルを見た30代くらいの男性が「うれしいなぁ、僕も山陽道を歩いているのです。何度かに分けながらですが、京都から尾道まで歩き終わり、これからその続きを歩く予定です」とのこと。

 住まいはここだが、実家は今日通ってきた板倉宿にあるとのこと。同じ目的を持った人に会ったのは、今回の旅では初めてだった。お互いにうれしくて、話が弾んだ。

 人家が切れた辺りの右手に「吉備公彈琴・・・」の石碑が立っている。読めないが、吉備真備が、晩年帰郷し、中秋の名月の夜に、この辺りの岩の上に琴を置いてかなでたと伝えられている。 

 その先に、総社市と矢掛町の境界がある。その境界を挟んでそれぞれ200mほど離れた向かい側に一里塚跡の碑が立っている。普通、道を挟んで向かい側に立つものだが、これはどういう訳か? 

 「これより宿場町矢掛」の看板が立つ。今日会った方の話では、なかなか充実した宿場とのこと。

 その先の「筆塚」~矢掛町出身の書家「田中塊堂」が中心になって、真備公の遺徳を顕彰するために建立したという。 

 矢掛宿まで行って、矢掛駅まで歩こうと思ったが、電車の時間までに着ける自信がない。時間的にも距離的にもまだ早いが、三谷駅を今日のゴールとした。

 14:15、三谷駅でゴール。電車の時刻まで、1時間帯以上あったが ブログの下準備をしていたら、あっという間に過ぎた。

 電車を2回乗り換えて、新倉敷駅まで移動。あとは、冒頭に書いた通り。明日の朝、5:20の電車に乗るので、タクシーの迎えを頼んだ。タクシー代に地域クーポン券が使えるという。

 ホテルセントイン倉敷ビジネス別館は、GoTo割引で4290円。地域クーポン券付き。洗濯機と乾燥機があったので、洗濯ができた。

 今日の歩数計 40000歩。

前日へ   翌日へ


山陽道7日目・伊部駅~14藤井宿~15岡山宿~備前一宮駅〈39km〉(9時間)

2020年11月21日 | 登山・旅行

 今日はこれまでで一番朝から足が軽かった。今までとは違うのは、昨日大浴場に入浴したことだけ。やはりホテルのバスタブでは疲れが抜けないのか?加えて、涼しかったこととリュックがなかったことである。最後まで疲れを感じなかったのは今日が初めてである。 

 距離が長かった割には、昨日と違って興味をそそられるものが少なかった。

 ホテルの朝食は遅いので、食べるこことはできず、電車で伊部駅まで戻る。リュックはロッカーに入れっぱなしにして、サブザツクで出掛けた。

伊部駅~藤井宿

 6:40、伊部駅前をスタート。

 まだ先まで、備前焼の窯元がたくさんある。

 平安時代の文献に登場しているという「大ケ池」。その後、何度も改修されて今日の姿になっている。

 やがて、香登(かがと)地区へ入っていく。

 典型的な商家造りの「鷹取醤油 燕来庵」~創業が明治38年というから、その当時からの建物か?

 「日本イエスキリスト教団香登教会」~何となく大正時代の趣がある。

 いつ頃の建物か、交通指導員の方に聞いたら、そばにいた4年生くらいの女の子が、教会の方へ走っていて、縁の下を覗いて手招きしている。説明板はない。一緒に縁の下を覗いたら、土台に「1928」と彫られていた。きっと社会科の郷土学習で知ったのであろう。昭和3年の建築である。「凄いね、よく知ってたね。ありがとう」とお礼を言って、別れた。

 やがて、国道に出ると長船地区に出る。ここは、刀剣の里らしい。

 やがて、吉井川を渡ると、岡山市に入る。

 国道から旧道に入ると沼という地区に入るが、この溜め池が地名の由来らしい。

 水が少ないので底の様子が良く分かる。ただ水を溜めているだけでなく、いろいろ工夫をしているようだ。

 上道地区に入ると、「旧道山陽」の標柱が立っている。このようなものを見るとうれしい限りで、元気が出る。

 そのすぐあとに、なんと、自分の姓と同じ名前の古墳の標識がたっている。300mなら寄らずばなるまい。

 行ってみたら、標識はあるが、こんもりした林にしか見えない。サイトで検索してみたら、発掘当時の写真が見つかった。中から勾玉や銀製のいろいろなものなどか出土していて、平安時代のもので追葬されていたらしい。

 その先で、藤井宿に入っていく。

14藤井宿~岡山宿

 11:00、右手に「総社八幡宮がある。参道入口には「藤井」についての案内板が置かれている。
 参道入口に、文化9年(1812)建立の常夜燈、天保4年の鳥居などがある。 

 宿場の雰囲気が残ってもなくないが、本陣跡などの標識は一切ない

 長岡地区へ入っていくと、辻に、明治38年の道標が立っていた。

 岡山市の市街地に入っていくが、旧街道は幅が狭くて、車がすれちがう時には、どちらかの車が停まらないとすれ違えない。それなのに交通量が多く、こちらの歩くところがなくなる。非常に怖い。

 岡山城下入口の「惣門跡」~岡山藩主宇喜多道家が、ここに惣門番所を設けたところ。その前の家並みを写す。

 宇喜多家と言えば、大学時代に宇喜多教授がいた。殿様の子孫だと話していたので、ここの藩主の子孫だったのだ。

15岡山宿~備前一宮駅

 旧街道は昔の城の外側を迂回しているが、岡山城を眺めたくて、ショートカットして、昔の城郭の中だった旭川の相生橋を渡り、県庁通りを通った。

 左側の屋敷のような重厚な建物は二の丸跡のものらしい。右奥に岡山城が見えた。

 13:20、県庁通りから旧街道へ入ると、表町3丁目のアーケード商店街の中を進む。ここが、岡山宿の中心部である。看板には西大寺町と書かれている。昔は西大寺町といって宇喜多氏が城下を整備するにあたって、上道郡西大寺村の商人を住わせたことが由来である。

 通りに、宇喜多氏が商人を呼び寄せて作った町で、ここに本陣もあったと書かれている。

 昼食は、地域クーポン券が使える店がなかなかない。利用できるのはチェックインした日の翌日までなので、なんとしても使いたい。たまたま、数日前に食べた博多ラーメンの一風堂があったので入店。前回は白味噌だったので今回は赤味噌の野菜ラーメンを食べた。やはり、美味しかった。

 やがて、アーケードの奉還商店街の中を進む。

 市街地を抜けて、しばらくすると、「笑塚」がある。芭蕉の「八九間 空で雨降る 柳かな」の句が刻まれているが、なぜ笑塚なのか?検索してみても、分からなかった。

 やがて、一宮地区へ入っていく。一宮の致命の由来となっている吉備津神社。境内にある常夜灯は日本一の大きさだそうだ。

 

 15:40、今日のゴール、備前一宮駅に到着。岡山は桃太郎伝説の里である。マンホールの蓋にも桃太郎が描かれている。岡山市街地にきひだんごの名店が何軒かあるらしいが、食べ損なった。

 電車で岡山駅へ移動し、連泊となるカプセルホテルへ。大浴場に入って、ワンドリンクサービスの生ビールをいただき、ブログを打つ。選べる夕食は、カツ定食にしようと思う。

 今日の歩数計 55000歩。

前日へ   翌日へ


山陽道6日目・11有年宿~12三石宿~13片上宿~伊部駅〈32km〉(8時間30分)

2020年11月20日 | 登山・旅行

 夜から降っていた雨が朝には止んでいた。非常についている。11時過ぎに少し降られたが、すぐに止んでくれた。

 今日は、昨日までと違って、宿場と宿場の間は峠越えが続いた。名前があるだけで3ヶ所、その他に国道歩きでもそれらしいところがあった。したがって、時間の割には距離が稼げなかった。

 また、今までは人家がほとんど切れることはなかったが、今日は人家のない所を歩く方がずっと多かった。

 相生から電車で有年駅へ移動。暗いうちの6:00、駅前から旧街道に出て、スタート。

11有年宿~三石宿

 相生駅から有年(うね)駅へ電車で移動。6:00、まだ暗い旧街道をスタート。すぐに国道、さらに旧道と繰り返して進むうちに明るくなってきた。

 有年宿に入ったら、これまでと旧家の造りが違っている。これまでは、道に対して横長の家が多かったが、ここは、道に対して縦長で屋根の形も違う。

 「有年宿本陣跡(旧柳原家宅跡)」の標柱と「明治天皇駐賛記念碑」が立っている。この先に、「有年番所跡(旧松下家宅)もあった。

 

 まもなくして、「八幡神社」がある。普通なら寄らないのだが、そばに立っていた「山城へGO」の登りに煽られた。上の城趾に八幡宮と船灯台があるという。それほど高くなさそうなので、朝のうちで元気があるので登ることにした。

 石段の上は、岩盤を削った自然道である。上には夜にライトアップされている船灯台があり、奥には八幡神社が建っている。眼下には有年の集落が見えた。

 やがて、右手に「有年(ありとし)家の長屋門が建っている。こちらの名前は地名とは読み方が違っていた。有年家は江戸時代、大庄屋を務めた家柄であった。赤穂市に残る長屋門は赤穂城内の大石良雄跡宅門、近藤源八宅跡とここの3軒しかなく、母屋と一体となって、赤穂藩の庄屋の屋敷構えを残す貴重な文化財とのこと。

 有年宿を抜けると、今日一つ目の「有年峠」へ。

 7:55、害獣避けのゲートを開けて、自然道の峠道を登っていく。そばに「西国街道(近世山陽道)」の説明板があった。

 この峠は、明治18年の明治天皇の巡行の際に、現在の国道2号の方に新しい道が造られて、役割を終えている。

 当然昔のままの状態で残っているわけで、登山モードとタイムスリップを楽しみながら歩いた。

 途中の分岐に丁寧な標識がある。この先から、荒れた道が続く。落ち葉が下の石を隠しているので、非常に怖い。

 峠にのピークには、標識が設置されていた。下りの方が距離が短く、急だった。出口にもゲートがあった。

 入口から出口まで、50分間の登山モードだった。 

 梨ヶ原の集落へ下りていく。

 梨ヶ原は、間(あい)の宿で、ここにも「明治天皇駐賛之地」碑が立ってあいた。

 

 小さな集落で、すぐに通過してしまった。今度は船坂峠越えである。丁寧な標識がうれしい。

 こちらは、落ち葉の絨毯で覆われているが、舗装されていて、国道の船坂山トンネルができるまでは、旧国道だったようだ。

 峠のピークには、「県界 東宮殿下仰星記念」の碑が立っている。ここで、兵庫県から岡山県となる。

12三石宿~片上

 船坂峠を下ると、三石宿へ入っていく。ここにも一里塚跡の碑がたっている。

 三石宿も小さな集落で、本陣跡に建つ家が一番立派だった。

 今度は、長い国道2号歩きが続く。幸い、歩道が設置されていて助かった。しかし、人家もなく、1時間以上ものアップダウンの続く、山中の国道歩きは気が滅入る。

 国道歩きの途中で1軒だけコンビニがあった。イートインスペースで昼食を食べた。

13片上宿~香登駅

 片上宿へ入っていく。宇佐八幡宮の前に、「山陽道 片上宿(方上津)」の碑が立っている。両面に有年宿からの距離と、藤井宿までの距離が書かれていた。

 片上宿の中には、いろいろな史跡の標柱が立っている。

 宿の中心部の先の辻の奥まった所に「片上駅本陣小國氏邸宅跡」の石碑が立ち、辻には古い道標が立っていた。

 片上宿を抜けると「葛坂峠」へ差し掛かる。墓地の入口に「悲恋の灯花 お夏の墓」の標識が立っている。

 お夏は、井原西鶴の「好色五人女」に書かれているお夏清十郎事件の主人公である。峠の茶屋の娘で、天性の美貌と知れ渡った評判の店は随分はやったといわれる。浄瑠璃などで演じられて有名になった。

 峠の上には、「お夏の茶屋跡」がある。下っていくと、今日のゴール、伊部(いんべ)の町並みが見えてくる。

 この伊部地区は「備前焼の里」で有名な所である。歩きながら目についた窯元の看板をカメラに収めたが、20軒以上もあるらしい。

 伊部の旧道の中心部へ入っていくと、一里塚が立ち、旧家が並んでいる。

 伊部の旧道の中心部は「備前焼本通り」と言われ、大きな窯元や陶商が軒を並べている

 14:30、ゴールの伊部駅も入っている、大きなビルに到着。今日のやどは岡山駅前に取ってあるが、岡山行きの電車は15:13だった。時間があるので、備前焼の展示会を見て、ブログの下準備をした。

 駅の入っているビルの2階で備前焼展示会を見る。

 16:15、今日の宿「サウナ&カプセル ハリウッド駅前店」に到着。

 2食とワンドリンク付きでGoTo割引で2925円。地域クーポン券付きとお得感満点。

 夕食は、8種類の定食から選べるので、野菜炒め定食を食べた。ワンドリンクサービスは、着いてすぐに風呂に入ってから飲んだ。

前日へ  翌日へ


山陽道5日目・姫路城~8鵤宿~9正條宿~10鹿嶋宿~有年駅〈35km〉(8時間45分)

2020年11月19日 | 登山・旅行

 今日も暑い日だった。8:30にはTシャツ1枚になった。最高気温が25℃を超えたようだ。しかし、これも明日の雨を境に、10℃以上下がるらしい。 

 今日も旧道歩きがずっと続いて、宿場は3ヶ所、市町は姫路城~太子町~たつの市~相生市~赤穂市と5市町を通った。

姫路城~鵤宿

 リュックをホテルの部屋に置きっぱなしにして、ショルダーバックのみで、相生駅から姫路駅まで移動。駅から歩いて姫路城へ。6:30、夜明け前の別名白鷺城を眺めて、スタート。

 姫路城下の旧街道には、格式高い旧家が多く目につく。いずれも、2階の虫籠窓、1階の連格子という典型的な旧家である。

 高岡郵便局手前に、新しい大きな「西国街道」の道標が立っていた。コノアト、まもなくのところでも目にした。

 角に、安政2年の古い道標が建つ。読めないので調べてみたら、備前、金毘羅、九州、宮嶋、姫路、大坂、京、江戸、因州、伯秋など各方面への里程を刻む。「圓光大師二十五番霊場 美作國・誕生寺道」と刻むので特に法然の巡礼を意識した道標と考えられる・・・とのこと。

 そのすぐ先に、旧家が3軒並んで建ってある。

 国道の横の道を上っていくと、「山田峠」に到着。峠の標識はなかったが、登り口に「史跡旧道山陽道 山田峠登り口」の看板が金網に掛かっていたらしい・・・残念。

 峠は両側が高い切り通しになっているが、右上に寺があることから考えると、この切り通しは後世に削られたもので、昔は上を通っていたものと思われる。

 峠を下って、太子町へと入っていく。下の集落は山田地区。

 山田地区に下りて行くと、「明治天皇山田御小休所」の碑と説明板のある旧家がある。明治18年7月26日から明治天皇六大巡幸の最後となる山陽道巡幸が開始され、8月8日、岡山県最東部の三石の光明寺を出立した天皇は、正條で昼食をとり山田峠に向かうが、その峠の手前、山田の集落、当家で小休止された。

 少しの間国道を歩き、旧道へ入った竹林に「桜井の清水という井戸跡がある。戦国時代に播磨を治めた、赤松義村が選んだという、「播磨十水の一」の一つ。

 大田地区に、行基が建立したという「太田の地蔵様」がある。

 一度国道に出て、再び左の旧道へ入っていくと、鵤宿に入っていく。

8鵤(いかるが)宿~正條宿

 太子町鵤は、聖徳太子が創建したという斑鳩寺の門前町として発展した町で、太子町の町名もそれに由来している。

  「西国街道」「斑鳩地区歴史的景観保存地区」の碑が立ち、街道の町並みほぞんに力を入れている。

 この向かいの「聖徳太子」と刻まれた常夜灯の間を進むと、斑鳩寺がある。街道から往復1kmほど外れるが、行ってみた。

 推古天皇14年(606)、聖徳太子が推古天皇勝鬘経を講じた功績により、播磨国揖保郡の土地360町歩を賜り、大和国斑鳩宮から足を運び当地を斑鳩荘(鵤荘)と命名、伽藍を建立した、とされ、これを斑鳩寺の始まりと伝える。

 斑鳩寺は、法隆寺の末寺的存在であったが、現在は天文10年(1542)尼子氏侵入により焼失、再建後は天台宗に属する。
 右手の三重の塔は永禄8(1565)、赤松左兵衛尉政秀の志願で再建された塔で、国の重要文化財に指定されている。
 

 

 この時期に旧街道歩きをしていると、いつも驚くのが、4mほどの丈の皇帝ダリアである。

 コスモスは、今が見頃というのも、こちらならではであろう。

 

 村田川を亘ると、たつの市へと入っていく。

 揖保川を渡る。そうめんで有名な揖保の糸の工場も、このたつの市にある。

 揖保川を渡り、堤防の旧道から下りる地点に立つ「正條の渡し橋跡」。ここから、正條宿へと入っていく。

9正條宿~片嶋宿

 やかて、本陣跡井口家「明治天皇御駐輦趾」「明治天皇正條行在所」と刻まれた石標が2基建つ。
 旧正條宿は西国大名が参勤交代の始めを瀬戸内海を航路で来て、南方の室津に上陸して、陸路を取ると、初めての宿場にあたり、賑わいを見せたようである。しかし、近すぎて、泊らず休憩が多く、「極めて悪く、泊にならず」とも評されている。現在静かな町並であり、

 本陣以外にも、旧家が目についた。

 

10片嶋宿~有年駅

 竜野駅前を通り、正條宿から30分もしない内に片嶋宿に着いた

 正條宿、片島宿とも参勤交代で航路を取った大名が、室津で上陸し陸路「大坂」へ向った際、最近の宿場であったが、休憩が多く、あまり繁栄しなかったとされる。片島宿は秀吉の島津氏に対する遠征の宿場として作られたとされ、正條宿は参勤交代制ができた寛永年間に成立した。宿としては2宿が1つのの宿としての機能を果す相合宿であり、正條宿は隣の有年宿まで、片島宿は姫路宿までの継ぎ立てを担当した。 

 やがて、相生市へと入っていく。

 12:40、相生駅手前の食堂で日替わり定食をいただく。さすがにご飯はほとんど残した。

 宿は相生駅前にあるが、次の有年駅まで8kmほどなので、さらに前進すり。

 特に見所のない歩きが続く。

 車が轟音を立てて走る国道2号の歩きもあった。

 有年駅が近くなって、工事中にぶつかり、迂回路の堤防の道を進む。旧街道に合流する前に有年駅に着いてしまった。

 15:15、今日のゴール地点の有年駅。有年宿は、駅より先なので、明日の楽しみにして、電車で相生駅へ戻った。

 連泊することになった駅となりの相生ステーションホテル。

 今日は、直接受付だったので、GoTo割り引きも、地域クーポン券もなく、正規料金の5050円だった。

 今日の歩数計 53000歩、

前日へ  翌日へ


山陽道4日目・宝殿~⑥御着宿~⑦姫路宿<17km>(4時間00分)

2020年11月18日 | 登山・旅行

 今日の計画(加古川宿~相生駅)の距離設定が間違っていたことに気づいて、今後の計画を変更せざるを得なくたった。

 昨日、加古川から宿のある宝殿まで6km歩いたので、今日は楽だと思っていた。しかし、御着宿と姫路宿を抜けて、11:00に姫路城に着いた。そこから相生までの距離を見たら、まだ23kmもある。とても、無理な距離である。姫路宿からは峠越えになり、山陽本線から離れてしまう。再び合流するのは竜野駅である。そこまでも20kmはある。無理しないで、姫路以降の予定を1日ずらすことにした。

 お陰で、姫路城や好古園でのんびりできた。

 今日も暑かった。9時にはTシャツになった。今日も国道2号と絡みなからも、ずっと旧道が残っていて、快適な旧街道歩きを楽しむことができた。

 2食付き3500円の朝食にしては、十分満足できる内容である。

 宿から5分で旧街道に出た。7:00、スタート。

 目の前に、竜山石(宝殿石)の採石場が見えてくる。古代より現在もなお、1700年もの間同じ場所から採石され続けている歴史ある石材は国内で唯一竜山石だけとのこと。

 幅4mくらいの旧道のあちこちで立派な旧家が目についた。

 魚橋集落に「土田家住宅と旧魚橋郵便局舎」が建っている。緑色の洋館のような建物は明治の初期、各地の有力者の家を改造して郵便局にしたもので、国の登録有形文化財。左は土田家住宅。

 その先の正蓮寺の門前に「月の砂漠」や「お山の杉の子」などの作詞家の佐々木英生誕の地の石碑があった。

 JR曽根駅付近のガード下左手には、付近から集められた道標が4基並んでいた。

姫路市への境界を過ぎると、右手には、「六騎塚」がある。

 嘉永3年(1850)左和田清左衛門範一建立の「備後守児嶋君墓」と刻まれた碑が建つ。「太平記」によると、 延元元年(1336)足利尊氏が大軍を率いて九州から東上してくるのを備後守範長が迎え撃ったが、戦いに敗れ、最後に主従6騎となり、阿弥陀宿の辻堂で自害したという。

 昨日からため池が目につくようになったが、ここには蓮が密生していた。

6御着宿~7姫路宿

 御着宿の入口に、都市景観重要建築物に指定されている豪邸「小原家住宅」が建っている。

 その先右手の御着公会堂の所は「御着宿本陣」があった所。御着は姫路―加古川の「間の宿(あいのしゅく)」。この辺りに敷地2100坪、建坪130坪の本陣があったと説明がある。本陣は天川氏が勤めた。
 御着宿には外にも「都市景観重要建築物」に指定された建物や白壁やうだつのある古い家並みが残っている。この地は黒田官兵衛ゆかりの地のようだ。

 うれしい「旧山陽道」の標識が立っている。

 やがて、姫路市街地へ入っていく。姫路城も見えるが、先に姫路宿を歩きたいので、遠回りになるが、そのまま旧街道を進む。

 二階町の商店街へ入っていくが、この通りが姫路宿の中心部だったらしい。全くその面影はない。

 道路を越えて二階西町の商店街のこの辺りに本陣があったらしいが、標識もなかった。

 商店街を抜けて、城の方へ向かい、白鷺(はくろ)橋を渡る。ここまで、濠があったのか、石垣がある。姫路城の敷地はずいぶんと広かったようだ。

 城へは大手前通まで戻り、城へ向かう。

 その通りには「西国街道」と「国府寺家本陣跡」の説明板があった。

 どうやら、この付近の街道は、城の前を通るものと、商店街を通るもの2本があったようた。

 濠の外から大手門と姫路城を眺める。

 写真では何度も眺めていた姫路城だが、実際に目にするのは初めてである。さすか、日本一の名城と言われるだけの城だ。最近白く塗り直されたらしい。中には入らなかった。

 内堀を眺めながら、城の横にある好古園へ向う。

 紅葉が見頃な「姫路城西御屋敷跡庭園」」

 好古園を出て、姫路駅へ向かった。

 昼食は、一風堂の博多ラーメン。博多ラーメンを食べたのは何年ぶりだろう?

 姫路駅から相生駅へ移動し、15:00には、相生ステーションホテルにチェックイン。GoTo割引で3283円。地域クーポン券付き。

 明日の岡山の宿はキャンセルして、この宿に連泊することにした。

今日の歩数計 39000歩(姫路の街中散歩も含む)

前日へ  翌日へ


山陽道3日目・塩屋駅~④明石宿~⑤加古川宿~高砂市宝殿<38km>(9時間10分)

2020年11月17日 | 登山・旅行

 歩き旅も5日目に入ると、足が慣れてきて、足の筋肉の張りや痛みがなくなる。むしろ、腰に多少の疲れがあるくらいで、いくらでも歩けるような感じである。

 今日は快晴に恵まれて、9:30には、今回の歩き旅で初めて、半袖のTシャツになった。ついに9時間超えとなり、距離も一番長かった。

 今日は、明石宿と加古川宿を通過したが、昨日までより、旧道がずっと残っていて、旧街道歩きを満喫することができた。

 しかし、なんといっても一番のヒットは、2食付き3500円の高砂市の宿だった。もちろんGoTo割引などではない。最後に詳しく書くことにする。

 暗いうちに、、明石駅のコインロッカーにリュックを預けて、塩屋駅まで移動。

塩屋駅~明石宿

 6:20、塩屋駅前をスタート。明石宿の手前まで、ずっと国道2号の歩きが続く。

 舞子浜公園から明石海峡大橋を眺める。風がないのに波が立っているのは、潮の流れである。

 大橋の下を潜ると、「明石藩舞子台場跡」があった。

4明石宿~加古川宿

 朝霧駅を過ぎると、旧道への分岐があり、明石宿へと入っていく。

 このような旧家が増えてくる。

 この大蔵会館が建っている向かい側に本陣があったらしい。

明石宿を抜けて、曲がり角に来たら、道標があった。「左 大阪 りゃうご」「右 加古川」などと彫られている。いつのものかは見るのを忘れた。

 その辻を曲がったら「大日本中央標準時子午線通過地標識」が立っていた。いうまでもなく、明石市は日本標準時となる、東経135度の子午線が通っている場所である。あとで気づいたが、持参していたGPSで計測するのを忘れた。

 この標柱は、明治43年明石郡小学校の先生方が費用を負担して建てたそうた。

 この先で、リュックを取りに、明石駅まで往復した。

明石宿~~5加古川宿

 明石駅を過ぎると、昨日までの都会の街中歩きがから、初めて、郊外の旧街道歩きとなった。

 幅4mほどの細い道の両側に古い民家が並び、いかにも旧街道といった感じである。

 大久保町に来ると、今回の旅で初の田畑が現れる。

 大久保町の坂を下った辺りに、立派な門塀を回した安藤家が建っている。ここは、「大久保本陣」であった
 大久保地区は戦国時代から栄えていた所で、明石藩が設けた、西の宿場であった。本陣の外旅籠が十数軒あったといわれる。 ただ案内板などなく、知らないとそのまま通りすぎてしまう感じがする。る。         

 大久保町には、農家の旧家が多く目につく。どの家も、黒い壁や木塀は焼き杉である。

 ついに、山陽道の史跡が洗われた。説明板には「古代山陽道と邑美駅家」と書かれている。奈良時代に明石駅家と賀古駅家の中間につくられた駅家とのこと。

 最近の発掘調査で発見されたものらしい。復元図を描かれた方は北海道教育大学釧路校の教授だったことにも驚いた。

 途中の左手の墓地の中に貞和2年(1346)の五輪塔がある。高さは1.76m、花崗岩製の五輪塔で、兵庫県の文化財に指定されている。

 「胴切れ地蔵」~ある人が、うっかり殿様の行列を横切ったために、供侍に無礼打にあい、胴体を真っ二つに切らた。ところが自分の胴体はなんともなく、地蔵さんの胴が真っ二つになっていたという。
 身代りで切られたという胴は、うしろから覗くと本当に斜めに切れているのがわかる。

 12:00、土山町で明石市から加古川市へと入って行くが、そこで、すき家を見つけたので昼食をたべた。

12:30、加古川駅前を通過。

 アーケードに覆われた「じけまち(寺家町)商店街へ入って行くが、ここが明石宿の中心部だったという。

 右の角が本陣があったというが、標識などの類いは一切ない。

 アーケードの隙間から見えた古いが立派な商家。

 アーケードの終るあたり、右手に「人形の店陣屋がある。陣屋は、姫路藩加古川役所として宝暦2年(1752)に建造され、参勤交代の際、加古川宿を通行する大名の接待などに使われた。明治18年には明治天皇の西国行幸の際、昼食場所として用いられたという。

 加古川橋を渡ると、高砂市へと入っていく。ここで、今日の宿までの距離を調べたら、3kmだったのでラストスパートを掛ける。

 15:30、今日一番のヒットだった、2食付き3500円の「高砂寮」に到着。

 写真で見てはいたが、やはり大きなマンションだった。まさか、これすべてが宿泊施設?

 経営者は若い感じの良いご夫婦だった。受付を済ませて聞いたら、32室を賃貸で借りて営業しているとのこと。ほとんどの利用者は長期滞在者とのこと。原則として、1グループ1戸。いずれも4部屋あり、そのすべてに、ふとんかベッドが用意されている。部屋ごとにテレビもエアコンも付いている。

 もちろん、マンションだから、台所も風呂もあるし、洗濯機もある。お陰で洗濯ができた。アメニティも浴衣累積以外はすべて揃っている。

 食堂の賄いさんと掃除の人を10人雇っているが、何とか経営ができているようだ。利用者が少ないとこまるが、幸い長期滞在者が多くて助かったいると話していた。今夜の宿泊は70人以上とのこと。

 食堂は、別の建物で、どんな料理が出るか楽しみだったが、十分満足できる内容だった。食事は夕食が500円で、朝食が300円。素泊まりは2700円とのこと。

 混む前の17:30に行ったが、そのうちに次々と労務者風の方々がつやって来た。

 これまでずいぶんと安い宿を利用してきたが、2食付きで3500円は、全国一安い宿だと思われる・・・?

 今日の歩数計 53500歩

前日へ  翌日へ

 

 


山陽道2日目・②西宮宿~③兵庫宿~塩屋駅<33km>(8時間30分)

2020年11月16日 | 登山・旅行

 今日も良い天気に恵まれて、快調に歩くことができた。しかし、都会の歩きで信号待ちや陸橋越えなどが多く、時間の割に距離を稼げなかった。予定は垂水駅まで歩いて、電車でホテルを予約しておいた明石駅まで移動の予定だったが、3kmほど手前の塩屋駅で電車に乗った。

 今日の兵庫宿に高田屋嘉兵衛のゆかりの史跡があるというので、楽しみに歩いた。

2西宮宿~兵庫宿

 6:30、ホテルを出る。ホテルから西宮神社までの辺りが、西宮宿の中心地だったようである。西宮宿は西宮神社を中心に栄えた所で、東の鳥居手前に本陣があったようだ。

 西宮神社の東門の前の国道を歩き、まもなく旧道へと入っていく。

 やがて、芦屋市に入っていく。右手に、日本三百名山巡りで芦屋から有馬温泉まで縦走した六甲山の山並みが見える。このあとも、常に右手に六甲山を見ながらの歩きとなる。

不気味な感じの「花松くび地蔵」~大正6年に造られたもので、首から上の病気に霊験あらたかだという

 住吉だんじりで有名な住吉神社

 「徳川道起点」と書かれた案内板がある。幕末、兵庫港開港するにあたって、外国人と西国街道を通る諸大名や武士との衝突を避けるための迂回路として造られた。ここを起点として、杣谷峠、長坂などを通って、明石大蔵谷までの8里27町9間(約34km)あった。

 西国街道や旧西国街道の標識が多い。山陽道は古代からの名称で、西国街道と呼ばれるようになったのは、江戸時代からだそうだ。

 

三宮~3兵庫宿

  10:30、三宮へ入っていく。三宮あじさい通り商店街の中を通る。

 そこを抜けると、三宮駅前を通る。すごい人の流れである。神戸市随一の繁華街とのこと。

 生田通りの赤い鳥居。下は三宮神社。

 三宮神社は「神戸事件発生の地」である。神戸港開港当時、この付近で、西宮警備を下命された備前藩士の行列の前を横切った外国人を、藩士が無礼討ちにしたのが発端で、神戸の街が、一時外国人に占拠される「神戸事件」が起こり大きな国際問題となった。結局、藩士の「瀧善三郎正信」を責任者として、切腹させることによりその解決を図り、同人は従容として割腹し事件は解決したという。

 まもなく、アーケードで覆われた神戸市随一の「元町商店街」へと入っていく。抜けるのに23分も掛かったので、2km弱はあったろう。

 元町商店街を抜けたら、大きな「兵庫県里程元標」が立っている。

 まもなく、神戸駅前を通過。県庁所在地の駅でありながら、神戸の中心を三宮に取られたせいか、駅前は地味。しかし歴史を感じさせるシックな造りでなかなか感じがいい。近代化遺産の指定を受けいるとか。中にも入ってみたが、太い柱が印象的である。

 神戸駅前を越えたら、西宮からそこまでの現代的な繁華街ぶりが嘘のような静けさになる。

 昼を過ぎていたので、ここまでの行程のあちこちで目につき、どこも混んでいた「大衆中華料理 一貫楼」という店へ入った。リーズナブルなメニューが人気のようだ。日替り定食のメンチカツとハム、ワンタンスープを食べた。この店も満席だった

 やがて、兵庫宿の中心部へと入っていく。

 みなと八幡神社の前に「西國街道 兵庫 湊口惣門跡」の石標と説明板がある。西国街道に設けた兵庫出入口の惣門である。西国街道はこの先、今の兵庫本町を進み南仲町で右折し、柳原口にあった柳原惣門を出て、斜めに今の長田交叉点に出て、須磨に向かったと書かれている。

 ここから、街道から少し外れて、函館市の礎を築いた高田屋嘉兵衛ゆかりの地を3箇所巡った。西出や東出地区は、嘉兵衛が本店を開き、地域に貢献した場所である。

 東出町の一角に「高田屋嘉兵衛 本店の地」の石碑と説明板が設置されている。説明板には「淡路島からここに移住し、1822年に引退するまで、ここに本店を開いていた」と書かれていた。

 しかし、「確か函館にも本店はあったはず」と思っていたところ、箱館人さんから「実は、1822年から本店は函館に移され、兵庫は支店となります。蝦夷地や択捉の漁場の産物を函館にほとんど集荷することで、高田屋商会の「富の源泉」の比重がより函館に高まったためです。」という、コメントをいただいて納得。

 1822年という年号はあってあるので、引退ではなく、函館に本店を移したというところが正解か?

 本店跡の道路を挟んだ向かいの竹尾稲荷神社には、「高田屋嘉兵衛顕彰碑」が立ち、その功績の説明板が掲げられてある。

 さらに、すぐ近くの鎮守稲荷神社には、嘉兵衛が海上安全を願って寄進した常夜灯も残っている。

 これらを目にして、大満足で、再び、街道に戻る。

 「札場の辻」~ここに高札場があり、兵庫宿の中心地だった。

 蛭子神社の角は、柳原惣門のあった所で、兵庫宿の西の出入り口にあたる。

兵庫宿~塩屋駅

 兵庫宿を抜けたら、きょうのゴールの塩屋駅までの2時間ほどは、ひたすら広い国道歩きが続いた。

 須磨浦公園に建つ「源平史跡 合戦の濵」の石碑~

 須磨浦公園の西端に建っている「敦盛塚」~総高4m近い大きなもので、中世の五輪塔としては石清水八幡宮五輪塔に次ぎ、全国で2番目の大きさを誇る。室町末期から桃山にかけての作になる。平敦盛の供養塔という伝承から敦盛塚といわれている。

今回の歩き旅で初めて海を目にする。瀬戸内海である。

 15:00、トイレにも行きたかったので、予定の垂水駅の3km手前だったが、この塩屋駅をゴールとして、明石駅へ移動した。

 明石駅近くのグリーンヒルホテル明石に到着。立派な佇まいに場違いな感じを受ける。三ツ星ホテルだそうだ。

 それでも、GoTo割引で4388円で、1000円の地域クーポン券も付いてきた。

 部屋もダブルで、広々していて、バスタブも我が家の風呂より大きくて、足を伸ばして、ゆっくり疲れを抜いた。

 夕食はいつも地域クーポン券で助かっている。いつもの歩き旅より贅沢ができる。今夜は、大阪で食べられなかった串カツ。タレに浸けるタイプではなく、ソースを掛けて食べることが残念だった。

 今日の歩数計 51000歩

前日へ  翌日へ