癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

大三坂ビル一般公開

2017年11月26日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

外観もきれいに補修された洋風建築と和の蔵と右奥の民家建築の複合的な建物(斜め下から撮影)


(正面から撮影)

 大三坂の下の方に建つ、1921年(大正10年)建築の伝統的建造物「旧仁壽生命ビル」を改修した複合商業施設「大三坂ビルディング」が12月1日に全面オープンする。その前の本日、一般公開されたので見に行ってきた。

 実は、今年の1月30日に、改修前の内部の一般開放も見に行っていたので、それがどのように改修されたのか興味があったからである。


先行オープンしていた玄関右側の1番大きな部屋のレストラン「She told me」


蔵を利用したキャンドル製作・販売の「710candle」


洋館2階手前のレンタルオフィス「函館大三坂オフィス」


2階奥の「箱バル不動産」


左奥の通路からかつての居住スペースを改修したゲストハウス「SMALL TOWN HOSTEL」への玄関へ。



ゲストハウスの共有リビング。
内部はもとは和室だったが、床も道南杉を張り替えてほとんどを洋風に改修したようだ。


ゲストハウスの道南杉を使った2段ベッドの部屋。


洋室の寝室

このほかに和室の寝室が1部屋とロフトの寝室もあった
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青柳町建物探訪

2017年10月17日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ
 天気予報は悪天候だったので、午前中に昨日の岩部岳のHPへのアップ作業をして、その後はのんびり過ごすつもりだった。ところが、予報が外れて青空が広がっていた。たまたま他人のブログを見ていたら、一昨日?に「函館たてもの探訪」という街歩き企画で「青柳町編」があったらしい。

 普段何気なく見ている記憶の中に、印象的な建物が多くあることを思い出して、午後から自分も出掛けて見た。車を青柳小学校のそばに置いて、カメラ片手に1時間以上あちこち歩き回った。

 青柳町は、確か昭和9年の大火でほぼ全焼したはずだから、現在残っている建物はそれ以降のもののはずである。当時は比較的裕福な地域だったので、いち早く復興建築物が建ったはずである。 

民家以外の建物

函館公民館と事務所~昭和8年建築ということだから、これは大火から逃れたらしい

 昭和8年「篤志家 石館友作」が当時で10万円の浄財および土地等を寄付し、函館市青年會館として建設された。その後の函館大火により焼け出された函館地方裁判所の庁舎として一時使用された他、戦後は占領軍に一時接収されるなどいくつかの変遷を経て、昭和22年5月「函館市公民館」として開館


函館公園正面口近くのレストラン唐草館(昭和9年)

 医院併用住宅として建てられた瀟洒な洋館は、青柳町を代表する建物になっている。洋風のバルコニーを取り付けるなど、徹底的に建物を洋風に見せるような工夫が施されている。しかし地元の人から〔ギロチン窓〕と呼ばれる上げ下げ式の窓や、建物全体のシルエットなど、函館の棟梁作ならではの味が出ているのもこの建物の特徴と言えるらしい。


昭和10年竣工の青柳小学校(当時は住吉小学校)

 函館市は昭和9年の函館大火後、内務省の指導により、この時の大火で焼失した区域に火災発生時の避難場所となる鉄筋コンクリート製の校舎5校の建設を決定した。その中でいちばん最初に竣工したのが、高盛小学校と青柳小学校だった。


青柳小学校の斜め向かい側に建つ天祐寺

 昭和9年の函館大火の時に寺は全焼したが、2年後、東京にあった紀州徳川家の由緒ある建物・庫裡(くり)を移し、建てられた。


青柳小学校の向かい側の青柳町会館
いつ建てられたかは不明だが、町並みに合わせてデザインされた最近の建物のようだ。


民家の建物


2軒並んで建つ蔵付きの邸宅~当時の青柳町住民の富を象徴する建築と言われている。


上掲の2軒の坂上に建つ、煉瓦塀を回した蔵付きの邸宅。
津軽海峡方面に塀が設けられているのも、これまでの大火を教訓にしたものらしい。


函館公園向かい側の和洋折衷のモダンな邸宅と後ろの住宅に改造された蔵が棟続きで繋がっている(昭和12年建築)


函館伝統の洋風下見板張りの蔵付き邸宅。昭和20年代半ばの竣工らしい。
明治以来育まれてきた函館の下見板建築の最終型とのこと(現在は売りに」出されいるようだ)


子供のころから印象のある青柳町電停前の海側に建つ、堂々とした瓦屋根と奥の蔵等、風格ある和風住宅。


青柳小学校向かいの二軒長屋~右側の棟は和食居酒屋の「桜路」


屋根と外壁の曲面がモダンな洋風住宅~いつの時代の建物かは不明だが、意外と新しいのかも知れない


青柳町に残る年代物の石垣や大火後間もない建築と思われる民家が残る小路もこの町の魅力の一つ。


 昨日の岩部岳の縦走記録と、今日の夕刊に掲載された「どうなん・とうほく山楽紀行」の23回目「雄鉾岳」は下記でどうぞ!
 http://sakag.web.fc2.com
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「開拓使三角測量函館助基線」絡みウォーキング

2017年08月28日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

 「開拓使三角測量函館助基線」・・・数日前に「山歩人・吉克の山楽日記」で初めて目にした言葉である。

 調べてみたら、北海道開拓使は正確な北海道地図を作成するため、明治6年(1873)3月、米人ワッソンを測量長に三角測量事業を開始、勇払と鵡川間の約14,860mの基線を画し、その両端の基点に標石を建て勇払基線を設定した。
 翌7年、米人デイがワッソンに代わって測量を行ったが、勇払基線を検証するため、明治8年、函館に助基線を設定することとなった。同年5月デイは荒井郁之助とともに函館付近の地勢を調査した結果、亀田郡亀田村(現函館市田家町)と亀田郡一本木村(現北斗市一本木)の間に基線を画すことに決定。10月下旬に勇払基線の測量を終えた村田千万太郎の一行が函館に戻り、11月中に亀田村と一本木村の基点に標台と標塔を建て、基線の予備測量を終えた。精密な測量は翌9年6月になされたが、その測定値は2里1町15間2尺3寸4分(約7,990.819m)といわれている。
・・・とのこと。このような史実は全く知らなかった。
 
 しかも、この勇払基線と函館助基線は、平成28年度(昨年度)土木学会選奨土木遺産に認定されたそうだ。

 我が家のすぐ近くにある大称寺(田家町)の境内に亀田基点の標石が、北斗市の一本木稲荷神社の境内に一本木基点の標石があるという。それらをこの目で確かめて、カメラに収めたいと思った。しかし、ただ車で往復するのでは面白くない。地形図上に函館助基線を入れて、なるべくその近くの道をウォーキングを兼ねて往復することにした。

 我が家からまず大称寺へ行き、その後、助基線になるべく近い道を選んで、一本木稲荷神社まで歩いた。帰りは、幹線を歩いてきたが、往復で約20kmだった。時間は4時間25分。 

◎亀田基点の「亀田村基標跡」の石碑(田家町・大称寺境内)

 昭和45年に発掘調査され、標石は北海道開拓記念館(現北海道博物館)に保管されているそうだ。


 もともとはこの場所でなく、道路を挟んだ向かい側の墓地にあったという説もある。


◎一本木基点の標石<北海道指定有形文化財>(一本木稲荷神社境内)

 この残存する標石1基は、上辺30.1㎝四方、底辺45.0㎝四方、高さ96.5㎝の安山岩製で、昭和45年(1970)北海道開拓記念館の調査で、標石の土台石の下に函館測候所の創設者である福士成豊(続豊治の5男)の名の刻まれた石柱が確認された。


 一本木稲荷神社の裏手の広い敷地の一角に、説明碑とともに設置されている。


 一本木稲荷神社

◎その他関連資料
 
苫小牧と函館間を結ぶ三角網   北斗市分庁舎の大野郷土資料館にある三角測量の櫓の1/6の模型。
(共に、他サイトから借用)
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五稜郭跡兵糧庫

2017年08月26日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

 五稜郭の築造当時の建物としては唯一現存している建物。
 大正期には「懐旧館」という箱館戦争の展示資料館として利用されてた。平成13・14年度(2001・2002)の修理工事の際には,文献資料や発掘調査成果から,庇屋があったことが判明し,現在に姿に復元された。
 もともとは「土蔵」として造られたが、箱館戦争の記憶から,いつしか「兵糧庫」と呼ばれるようになったようだ。


 8月中だけ無料公開されているので、観に行ってきた。


2つの部屋からなっていて、これは右側の部屋の内部


建築当時の五稜郭の目論見図(赤丸は兵糧庫に自分が付けたもの)


昭和47年の解体修理工事写真


五稜郭出土の生活用品


五稜郭出土の輸入品


左側の部屋の内部


五稜郭出土の建築用材


新政府軍艦 朝陽の竜骨の一部(旧幕軍艦 蟠龍に七重浜沖で撃沈された)


亀田川から五稜郭内に引きこんでいた上水道管


旧橋(一の橋、二の橋)の橋脚や敷板の一部
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松前半島一周ドライブ(メインは中山ケンタッキー)

2017年05月04日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

松前道の駅付近から眺める松前城のズーム

 連日の好天に、妻に「どこかドライブに行こうか?」と誘ったら、「松前の中山ケンタッキー」と言う。そんなところは聞いたことがない。「最近話題になっている、40年も続いている手羽先ととり足の店」だそうだ。
 検索してみたら、出てくる出てくる・・・最近、かなり話題になっているようだ。きっかけは、2013年のHBCTVでの放送らしい。しかも、松前の市街地ではなく、字江良というのも興味が引かれた。

 江良なら、江差回りでも松前回りでもほぼ同じ距離(115km強)である。そこで、道路が空いていると思われる江差回りで、松前半島を1周ドライブすることにした。 


まずは、一昨年たまたま見つけたタラの木がたくさん生えている厚沢部町木間内の林道へ入ってみた。
まだ、ちょっと時期的に早く、芽は小さかったが、1回食べる分くらいをゲット。


厚沢部町道の駅で買った小さな黒豆の入ったおにぎりともちもちコロッケときのこじゃんコロッケ


厚沢部川河口から眺める遊楽部山塊

江差の道の駅も上ノ国の道の駅も激混みで、駐車する空きも場所もなかった。
ひたすら、「中山ケンタッキー」を目指す。


大島小学校の入口を過ぎた辺りの海側のおよそ店には見えない感じの建物がそれだった。
しかも、看板もなく、営業中の旗が1本立っているだけ。
ここが地元で「中山ケンタッキー」と呼ばれている名物店。中へ入ると、香ばしい匂いが漂う。
塗りつぶした文字は「中山商店」となっていたようだ。昔は肉屋と民宿を営業していたらしい。


メニューは「手羽先」1本60円、「とり足」(実際はとりもも)1本250円のみ。
手羽先を10本、とり足を2本ゲット。どちらも揚げ立てだが、とり足は注文してから揚げてくれた。


妻と一緒に写真に収まってくれた81歳の中山チヨノさん。40年間、この場所で鶏を揚げ続けてきたという。
営業は、ざっくりと「昼ごろから夕方まで」とのことだが、休みは元日くらいで、年末になると帰省した人たちの注文で、1日に1000本も揚げることがあるとのこと。特製のタレにじっくり漬け込むのが美味さの秘訣か?
「今の江良は人が少なくなって、年寄りばかりで、こういうものは食べなくなった。ここから出て行った人たちからの注文で、今は送る方が多い。あとは遠くから買いに来てくれる人も多い」とのこと。

 
 熱いうちに食べたいので江良漁港へ下りて、松前小島と松前大島(右奥に微かに見える)を眺めながら、厚沢部町の道の駅で買ったおにぎりと一緒に昼食とした。
 確かにとても美味しい。妻に言わせると、五稜郭駅そばの有名店大林商店と同じ味とのこと。


松前市街地手前の「立石三十三観音」
 
 松前のサクラは何度も見ているし、道の駅の駐車場は空き待ちの車が200m以上も並んでいるので、そばの橋の上から松前城の写真だけ撮って通過。


福島峠付近の新緑と春紅葉


木古内の新名所「札苅村上芝桜園」(昨年までは通称「村上さんちの芝桜」だった)


「札苅村上芝桜園」で見た黄色のカタクリ


木古内サラキ岬のチューリップ

 最後は、当別トラピストのソフトクリームで打ち上げようとしたが、待ち人の列が20人以上もいて、諦めて帰路に就いた。


夕食は、今年初のタラの芽とシイタケの天ざるセット
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「旧仁壽生命函館支店」内部公開

2017年01月30日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

 大三坂途中(下の方)に建つ、大正10年に仁壽生命函館支店として建てられた建物。全国で活躍し、函館にも多くの名建築を残している関根要太郎の設計ではないかと言われている。
 コーティング・シュティール様式のスタコッタ塗りが目を引く。
 数日前の新聞に出るまで、大三坂にこんな建物があったことさえ知らなかった。
 旧仁壽生命が退去した後は海運会社の社屋としても使われ、その後、昨年10月まで一般住宅として利用されていたらしい。ただし、住宅は後ろの部分で、前の洋風の部分は物置として利用されていたようだ。
 「近現代様式と和の蔵が近接し、歴史の生き証人のような建物」として、伝統的建築物に指定されていた。

 この建物を箱バル不動産が買い取って、再生して、「大三坂ビルヂィング」として来冬にオープンする計画らしい。そのテナント募集も兼ねて、昨日と今日、内部の一般開放をしていた。




左奥の10月まで利用されていた住宅部分は、箱バル不動産が4部屋のゲストハウスとして運営するらしい。
テナント募集は、蔵と洋風の建物部分のみ。

<公開されていた内部の様子>

玄関の正面の階段


蔵の1階部分


旧仁壽生命時代からのものと思われる大きな金庫


洒落た縦長の洋風窓


2階の前方のキッチンのある部屋(このキッチンは撤去するらしい)


2階の前方の部屋のきれいな天井

 建物はかなり老朽化しているが、天井の装飾などに建設当初の面影を色濃く残している。旧仁壽生命時代から使われていた大きな金庫や建具が印象的。ただし、再生プロジェクトにはかなりの手間と費用が掛りそうだ。みごとに再生し、テナントが入って運営されるようになったら、ぜひ再訪してみたいものだ。
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レトロ建築・「大手町ハウス」 & 「ひし伊」

2016年04月16日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ
「大手町ハウス」がゴーフレット専門店として開店


 ニチロビルの裏手ある「函館大手町ハウス」(旧浅野セメント函館営業所)が、新幹線開業日の3月26日に、バターゴーフレット専門店として開店したということを知った。中を覗けるチャンスなので、訪ねてみた。

 歴史を調べてみると、この大手町ハウスは、1918(大正7)年に浅野セメント函館営業所として建造。この建物は、旧函館区公会堂など多くの建築に携わった名大工村木甚三郎に手による『擬洋風建築』である。

 正面両脇の搭状の構造やアーチが連なる玄関など、函館でもあまり他に例を見ない独特の意匠が印象的で、ずっと気になって建物だった。

 当時、セメントがまだとても高価な時代に、多量のモルタル、ブロックを巧妙に駆使した石造り風に作られ、重厚感と階高があり、とてもスタイルが良く、屋根の形や塔屋、窓の上下の飾りに現代では見られない意匠が施されている。

 しかし、1954年(昭和29年)「(株)北海道漁業公社」へと移譲され、第二の人生を歩むが、1988年(昭和63年)に同社が破たん、その後、10年以上もの間、閉鎖されたままだった。
 朽ち果てる寸前だったこの建物を、2003年に写真などを元に、北斗市の澤田建設が、約6ヶ月の工期を経て、見事に甦えらせたとのこと。

 建築当時の姿に復元されたあとは、一時期はカフェとして営業していたらしいが、再び長い間閉鎖されたままだった。歴史的に価値ある建物が再び日の目を見ることとなるのはうれしいことだ。2階部分は、物置状態で開放の予定はないとのこと。


玄関


1階部分の店と工房


玄関の左横にあるサロン

 
1階部分の西側の壁     「登録有形文化財指定」と「函館市都市景観賞」の章

 新しい店舗名は「BEURRE(ブール)函館本店」。七飯町大沼で観光牧場を運営する企業「どさんこミュゼ」が運営者らしい。

 
店の前の看板     一個ずつ手づくりが特徴


1個200円だが、8個では1200円でお得。
買ってきた3種類(メープル、カフェショコラ、ハスカップ)のゴーフレット。もちもちして美味しかった。


茶房「ひし伊」(ランパス13軒目)


 レトロな建築物ついでに、外からはいつも眺めているが、中には入ったことがなかった「ランパス」参加店である宝来町の「茶房ひし伊」へ。 

 この純和風の建物は、明治40年、大正10年、昭和9年の3つの大火をかいくぐってきた函館唯一の建築物として有名である。中に火が入らないように用心土で全ての隙間を塞ぐ工夫がされたことによるらしい。
 左から、茶房「ひし伊」(石造り・大正10年)、中は、玄関とアンティークショップ(土蔵造り・明治38年)、右が、母屋(全国でもかなり早い鉄筋コンクリート・明治38年)
 

玄関を入ったところ


左は質蔵を利用した茶房の入口。右はアンティークショップ


1階は洋風


2階は和風


太い梁には「大正十年九月十七日上棟 入村富吉建立」と記されている



提供メニューはトーストセット。
ボリューム的には物足りないが、建物や店内の雰囲気を味わえるだけでも大満足
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今年最後の「箱館ハイカラ號」

2015年10月31日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

十字街交差点のカーブ

 この「箱館ハイカラ號」の運行期間は、4月15日~10月31日で、今日が今年最後の運行日だった。
 ふと思いついて、運行時刻を調べて、最後の運行を追いかけて、写真に収めてみた。

 この箱館ハイカラ號は、1910(明治43)年に千葉県成田市の「成宗電気軌道」という会社が購入した車両を、1918(大正7)年に「函館水電」が譲り受け、旅客車として運行。その後、1937(昭和12)年に除雪用の「ササラ電車」排2号へと改造され、半世紀にわたって活躍。1992年の函館市市制施行70周年記念事業の一環として、旅客車時代の図面を基にして現在のように復元された。

 車体は往時の木製ではなく鋼製となったが、台車はササラ電車時代から使用されているものを再使用しているほか、車体側面には不燃処理された木目の美しいナラ材が張りつけられ、内装にも木が使われるなど、オープンデッキの運転台とも相まって、明治時代の路面電車の姿が再現されている。

 他の電車とは異なり、専用のレトロ調制服を着用した運転士と車掌が乗務する「ツーマン運転」で運行されている。発車の際に「チンチン」と鐘が連打されるが、これは車掌から運転士へ「出発してOK」という合図。この音が、路面電車の通称「チンチン電車」の語源のひとつと言われている。


大手町付近


青柳町電停付近


専用のレトロ調制服を着た運転士と車掌


折り返しとなる谷地頭電停


函館駅前交差点のカーブ


谷地頭電停での一番新しい「らっくる号」との珍しいツーショット。
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函館山七福神巡り

2015年06月12日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

 七福神とは、弁財天・毘沙門天・大黒天・福寿禄・恵比須・布袋尊・寿老神という、七神のことをいう。日本古来の神様は恵比須のみで、弁財天・毘沙門天・大黒天はインドの神様、福禄寿・布袋尊・寿老神は中国の神様とのこと。

 七福神巡りは、元旦から7日までの間(もしくは15日まで)にお参りして歩くもので、室町時代に京都で始まったといわれている。やがて全国各地に広がり、江戸時代には庶民の風習として大流行した。

◆函館山七福神とは?

 函館山七福神の歴史は、江戸時代末期にさかのぼる。町民文化が盛んであったころに「七福神祭」が行われていたという記録が残っており、古くから信仰されていたようだ。また、函館山のふもとにある町の名前に、弁天町、旧大黒町、旧恵比須町と、七福神の名前が用いられていたことからも、身近なところに七福神の存在があったことがうかがえる。

 実は、6/7にガイド付きのこの七福神巡りの催しがあったが、大千軒岳登山の予定が入っていたので参加できなかった。そこで、今日、MTB(マウンテンバイク)に跨ってぐるっと回ってきた。

○弁財天 <厳島神社>
創建は江戸時代前期。古くから海の守護神として、漁業者や商人から信を得てきた。境内には、寄進された貴重な遺物が多く、手水石鉢をはじめ、加賀の廻船主たちが寄進した鳥居や、海上安全のため奉納された方位石などがある。
 
弁財天・・・もとはインドの水辺の女神。琵琶を奏でる姿から芸妓上達の神、また水は浄める力を持っているということから金運、財運をつかさどる女神とされる。
※公開(弁財天・恵比須堂のガラス窓越し) 

○毘沙門天 <称名寺>
 1644年創建。1881(明治14)年に現在地に移転。市内では高龍寺に次ぐ歴史があり、開港当初はイギリスやフランスの領事館、箱館戦争時には新撰組屯所が置かれていた。境内には、新撰組副長・土方歳三の供養碑や著名人の墓も多数ある。
 
毘沙門天・・・インドの神様。四天王のひとつ、多聞天の別名。右手に矛、左手に多宝塔をかかげる、武装分怒の守護神。
※公開(寺務所・宝物館内。寺務所に申し出が必要)

○大黒天 <実行寺>
 江戸時代に創建された日蓮宗の寺院。開港後はロシア領事館としても利用されていた。現在の建物は1918(大正7)年に完成したもので、本堂はケヤキが使われた美しいたたずまいの土蔵造り。境内には「日仏親善函館発祥記念碑」などの碑もある。
 
大黒天・・・インドの神。大黒神とも呼ばれ、元来は武神。右手に小槌を持ち、米俵を踏まえている姿になり、恵比須神と並んで厨房の神とされる。
※公開(北辰殿内。寺務所に申し出が必要)

○福禄寿 <船魂神社>
 函館山のふもとの日和坂上にある神社。北海道最古の神社といわれ、源義経にまつわる伝説もある。海に関連する神が祀られていて、漁業や船舶の関係者のみならず、受験生、就職活動中の学生など、進路守護を願うかたも参拝に訪れる。
 
福禄寿・・・中国の神様。南極星の化身といわれる。長頭で不老長寿の薬が入ったひょうたんを携え、延命長寿の神、また財の神、方除け神とされる。
※公開(境内本殿近く。自由に拝観可)

○恵比寿 <恵比寿神社>
 現在の函館繁栄の基礎を築いた江戸時代の豪商・高田屋嘉兵衛に関連する資料を展示していた北方歴史資料館(現在閉館)横にある神社。神仏の信仰厚かった高田屋嘉兵衛が守護神として屋敷に恵比須神を祀ったことから由来。

恵比須・・・右手に釣竿、左手に鯛を抱える姿から、元来は海を守る神、大漁の神、商業が栄えた室町時代のころからは商売繁盛の神とされる。
※非公開

○布袋尊 <天祐寺>
 1850(嘉永3)年、福島県相馬から来た僧が大聖歓喜天を祀ったのが始まり。現在は別堂に祀られているが、寺の前の青柳坂は「聖天坂」とも呼ばれていた。本堂に向かって右前には、かつて函館山にあった薬師如来石像も祀られている。
 
布袋尊・・・七福神の中で唯一実在した中国の禅僧。福々しい姿に大きな袋を背負い、喜びを施した。無邪気で無欲な心の豊かさを諭す神。
※公開(境内に入って左手。自由に拝観可)

○寿老神 <住三吉神社>
 神社の創立年代は未詳。言い伝えによれば、鎌倉時代に創建されたとのこと。1934(昭和9)年の大火により社殿が類焼。三吉神社と合併合祀の上、翌年、現在の社名に改称された。社殿に向かう参道は、桜観賞スポットとしても有名。

寿老神・・・中国の延命長寿の神。巻物を結んだ杖を携え、三千年の長寿の象徴の鹿をつれている。うちわで難を払うことから、諸病平癒などにも功徳があるといわれる。
※非公開(他の寺社にはあった七福神の立て看板もなかった)
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きじひき高原パノラマ展望台

2015年05月21日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

外の展望台から新しくオープンした屋内パノラマ展望台と函館平野を見下ろす

 毛無山麓の故齋藤浩敏さんの「慰霊の道」の草刈り作業(下記記事)の後、新オープンした屋内展望台を見たくて、きじひき高原へ。

 この「きじひき高原」中腹(標高560m)に、雨天時や強風時でも、屋内からもゆっくりと景観を楽しむことができる「きじひき高原パノラマ展望台」がオープンした。
 パノラマ展望台からは、雄大な津軽海峡や壮大に広がる大沼、豊かな表情をのぞかせる駒ヶ岳などの絶景を一望できるほか、大野平野に巨大な弧を描く北海道新幹線の高架橋も見ることができる。新幹線開通後の観光の目玉にしたいらしい。

開館時間:8時30分~17時(※6・7月は19時まで。4月下旬~10月下旬まで開放)
17時(※19時)でキャンプ場のゲートが閉鎖されるので、時間的に余裕を持って下山すること。


以前からあった屋外のパノラマ展望台


屋内の様子とガラス越しに眺める大沼・小沼と駒ヶ岳


屋内の様子とガラス越しに眺める函館平野


急カーブを描く北海道新幹線の高架線と車両基地(左)と新函館北斗駅(右端)


こんな楽しいイラストの案内板も設置されていた


帰りに、ちょっと脇道へ入り、山菜採り
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第125回箱館歴史散歩の会<湯川巡り(その2)>

2014年08月29日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ
 今回は、温泉を中心として、明治31年の馬車鉄道さらに101年前の路面電車の開通により、大きく変貌をとげた湯の川地区の歴史を巡った。


 10:30に湯の川温泉・花びしホテルロピーに集合。いつもの西部方面に比べて、内容的に新鮮なこともあり、120名ほどの参加者だった。自分が参加した中で最も多い人数かもしれない。100部用意した資料がもらえない方もいた。

<コース> 湯倉神社 → 湯の川温泉発祥地 → 旧湯の川役場 → 白系ロシア人居住跡 → 箱館戦争野戦病院跡 → 都雨荘跡 → 南部屋敷跡 → 湯の川駅予定地  → 北海製紙跡 → 大滝温泉跡 → 熱帯植物園 → 根崎温泉碑 → アイヌ史跡館跡 → 大嘗祭共進記念碑 → 黒松林 → 湯の池跡 → 渡辺家別荘跡・林間学校 → 千人風呂跡 → 林長館跡 → 小林亭跡 → 芳明館跡

 
湯倉神社と湯川温泉発祥の地碑

 湯の川温泉の源は、海底に沈んだ銭亀沢カルデラだと言われている。この湯の川温泉は、500年以上前に現在の湯倉神社の近くで湧き出ていた温泉できこりが両腕の痛みを当時したことに始まると言われている。
 その後、1963年松前藩主9代の高広(幼名千代丸)が幼少時代に湯倉神社境内に噴出していた温泉で全治したという話が残っている。翌年そのお礼として母清涼院が湯倉神社の社殿を再建し、現在の社宝も奉納したとされる。

 また、榎本武揚はこの近くに箱館戦争の旧幕府軍の傷病兵のために農家を改造して野戦病院を設置している。このときに、榎本は「ここを100尺も掘り下げれば50度の温泉が湧き出る」と言い残している。それを伝え聞いた石川藤助という井戸職人が、17年後に掘り当てて、現在の湯の川温泉の基礎ができたという。

 
南北海道教育センターの南隣にある幼児公園は、旧戸井線の湯川駅予定地跡だった。
その道路わきにその名残を示す当時の工務省の境界碑が立っている

 今回初めて聞いたが、旧戸井線はこの先の松倉川まで線路が敷かれて、資材を運んだり、海岸の砂利を赤川飛行場建設現場まで運んだという話も残っているらしい。


北海製紙工会社の跡地(現在のダイエー湯の川店)



手前は熱帯植物園の敷地内にある根崎温泉碑と奥は現在のイマジンホテル

 イマジンホテルの場所は、大正10年ごろに開業したいろいろな遊戯施設を備えた今の大型レジャー温泉のような「大瀧温泉大浴場」(通称万人風呂)があったところ。昭和20年終わりごろまでプールがあった。その後、湯川グランドホテルとなり、現在のイマジンホテルとなっている。


アイヌコタン史跡館・荒城土産店跡地

 この辺りには、自分も記憶にあるが、1961年(昭和38年)に開店した荒城土産店とその隣に市立博物館「アイヌコタンの史跡館」があった。


湯川黒松林

 函館の基礎を築いた四天王の一人、金森商店や金森倉庫を開いた渡辺熊四郎が私財を投じて植林した北海道最初の防風防砂林。のちに、火災にあった市立函館病院の再建のために市に寄付された。


渡辺家別荘跡

 黒松林と連続した場所に昭和50年ごろまで渡辺熊四郎別荘があった。船場町(現末広町)にあった西洋料理店養和軒(日本初めてのラーメン発祥の店とも言われている)の建物を明治22年にこちらに移築したらしい。

 
旧湯の川ホテル(千人風呂)跡地<現在の竹葉新葉亭>と現在の大黒屋旅館

 旧湯の川ホテルは、大正6年ごろに開業し、3階建て、50室の客室を持ち、当時日本一の大浴槽があったため通称千人風呂と呼ばれた。

 現在の大黒屋旅館は大正7年創業の現存する一番古い温泉旅館。
 ※今日の説明で、ここが昭和9年の湯の川球場で行われた日米野球の全日本軍が宿泊した小林亭跡地とのことだったが、年代が逆転しているので、中尾さんに電話で問い合わせたら、間違いで、小林亭は現在の電車通りに面したツルハの敷地だったらしい。

 
かつては湯の川の一大繁華街だった湯の川銀座通りと、その通り沿いに残る林長館跡地

 林長館は、湯の川温泉が採掘された明治19年の翌年の明治20年創業の大きな温泉旅館で、新島譲が妻八重とともにここでランチを摂っている。


芳明館跡地(現在の電車通りと湯の川銀座通りの交差点角)

 芳明館は、湯川の繁栄の基を築いた函館馬車鉄道創始者・佐藤湧知が明治40年8月に開業し大正8年まで営業した温泉旅館。のちに映画館となっている。

 ここにアップしたほかに、白系ロシア人居住跡、都雨荘跡、南部屋敷跡、大嘗祭共進記念碑 、湯の池跡などの説明もあったが、割愛する。
 いずれにしても、当時かなりの繁栄を見たであろう湯の川温泉での歴史を垣間見ることができた。
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第123回箱館歴史散歩の会「古地図で巡る明治の函館」

2014年07月27日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

 明治15年発行の古地図「函館真景」には、明治11, 12年の両大火後に稀な都市設計で整備された坂、道路、山の麓の教会や洋館等が鮮やかな彩色で描かれている。特に函館湾岸沿いに描かれている税関、桟橋、居留地、運河、倉庫や造船所は夫々の機能を発揮し、その後の函館発展に大きく貢献した。
 今日は、この湾岸沿いの埋め立て地部分を中心に、古地図に記載されている建物跡地を巡り、主宰の中尾さんが用意してくれた当時の建物の写真と説明で、当時の函館の繁栄の様子に想いを馳せた。

<コース>: 栄国橋 → トムソン造船所跡 → 常備倉跡 → 三菱倉庫跡 → 東浜桟橋 → 凾館税関跡 → 外国人居留地跡 → 辻造船所跡 → 沖の口番所跡 → 島野造船所跡 → 厳島神社 → 弁天岬砲台跡

★函館の埋め立て地について
 函館は土地が狭かったこと、港が浅かったことから浚渫をしてその土砂で埋め立てて、港湾部分を広げ、港湾機能を充実させていくことは江戸時代から主に商人の手で行われてきた。おおよそ、今の電車道路から海側はほとんど埋め立て地と言っても過言ではないとのこと。


現在の銀座通りの入口・・・古地図には願乗寺川と繋がる掘割と、ここに「栄国橋」と記載されている



電車通りをはさんだ向かい側に設置されている「明治5年ごろの願乗寺川と蓬莱町掘割図の案内板」


現在の国際ホテル前の道路・・・ここも埋め立て地で、我々が背にしているところセブンイレブンの辺りの古地図には、「公立病院」と記載されている。明治11年建設の第一公立病院で、当時の「公立」は財界人の寄付に市のお金を足して建てられたもの。「官立」は開拓使が建てたもの。この病院は、のちに民間に払い下げられ「豊川病院」となった。


古地図によると「氷庫」と記載されているところ(現在のニチレイの場所)・・・当時は五稜郭の堀で氷を作り、ここに運んで、船で横浜などへ運んでいた。「函館氷」「五稜郭氷」のブランドで国内トップクラスの品質だった。
この隣に「外国造船所」と記載されているが、これはトムソン造船所で、西洋型の帆船の技術をリードした。


古地図で「常備庫」と記載されているところ(現在のラビスタベイの場所)・・・明治6年~8年にかけて4棟の官営倉庫が建てられた。その後民間へ払い下げられて安田倉庫となった。そのレンガの壁が、現在のラビスタベイの外壁として利用されている。


三菱倉庫(BAY)と七財橋・・・三菱の自社倉庫だった。このレンガの積み方はフランス積み。
七財橋は当時の財界人石川七財(石川七左衛門)の名前による。


金森倉庫・・・明治20年以降なので古地図には載っていない。こちらは貸倉庫で、レンガの積み方はイギリス積み。一番函館山寄りの倉庫は東本願寺と同じころの鉄筋コンクリート造り。

現在の海上自衛隊の敷地は、古地図には「税関」と記載されている。明治5年から昭和43年までは「函館税関」で、その前身は「箱館運上所」だった。


古地図に「外国人居留地」と記載されているところ・・・現在の緑の島の橋の東側で、その居留地造成のために埋め立てられた場所だった。外国人には評判が悪く、結局、町中に雑居することになり、函館独特の西洋文化の形成に大きな役割を果たした。


古地図には「造船所」と記載されている。函館4大造船所の「辻造船所」だった。現在の小熊倉庫の敷地。


古地図には「船改所」と記載されている現在の函館市臨海研究所の敷地。北前船から税金を取る役所「沖の口場所」だった。その後、水上警察署~西警察署となった場所。


古地図には「造船所」と記載されている場所。明治8年建設の島野造船所だった。


現在の厳島神社で、その函館どっく側に、古地図には「砲台」と書かれている「弁天岬台場」があった。この台場は五稜郭と並行して造られて同じ1864年竣工。どちらも武田斐三郎の設計。
その台場の西側に「弁天」と記載されている神社が、現在の厳島神社の場所に移り、名前も変わった。

★今回は珍しく初めて妻も参加したが、目的は終わった後の元町に昨年オープンした「まんまる月夜」のおにぎりランチだったらしい。
 
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第122回箱館歴史散歩の会「幸坂と千歳坂巡り」

2014年07月18日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ
久しぶりに箱館歴史散歩の会に参加した。今回は、「幸坂と千歳坂巡り」だった。

 「幸坂」は明治8年に坂下の海岸を埋め立て幸町としたことからこの名が付き、西部地区では2番目に長く、また勾配の急な坂である。「千歳坂」の東側に神社がありここに松の木があったので、千歳の松に因んでこの名が付いたそうだ。上下和洋折哀の住宅や昔懐かしい大黒商店街、初代函館病院等を巡り、大正湯や旧ロシア領事館にも入館した。



 いつものように10:00に函館市地域交流まちづくリセンターに集合し、簡単な説明を受けてから、旧桟橋~ミートハウス他和洋折衷住宅~大黒通り商店街~旧高龍寺跡~大正湯~初代箱館病院跡~船見公園~山上大神宮~旧ロシア領事館と巡った。



 旧桟橋と呼ばれる「東浜町桟橋」は、明治4年から函館港における唯一の旅客乗降場所として利用が開始されている。本州から北海道に渡る移住者や旅行者が、はじめて北海道に上陸する場所が、この桟橋だった。当時、函館港はまだ水深が浅く、船舶は直接陸地に着くことが出来なかった。そのため、本船を沖に停泊させ、旅客はしけなどで、桟橋や船揚場などに乗降していた。


 この旧桟橋の根元にある「函館市道路元標」・・・ここが大正9年(1920年)、国道4号線が認定され北海道における道路の基点として建てられた標石。昭和27年(1952年)に、駅前から札幌へ向かう道路が国道5号線となり、この元標は役目を終えた。往時を語る貴重な資料である。ちなみに、現在の国道5号、278号、279号の3路線の起点となる「函館市国道元標」は、函館駅前にある。


西部地区のあちこちで見られるもっとも函館らしい建物「和洋折衷住宅」
1階が和風で2階が洋風。共通なのは、2階の外壁がペンキ塗りで縦長の窓、しかし、内部は和風(擬洋風)。
開港後、洋風建築技術を身に付けた大工が、当時財力のあった海産商を中心に店舗や住宅にこの様式を勧めたらしい。


長い間西部地区の中心で歓楽街でもあった「大黒町商店街」



現在も営業を続けている「大正湯」・・・創業は1914年(大正3年)と古く、現在の建物になったのが1927年(昭和2年)。西部地区に多く見られる洋風建築風の外観が印象的で、古いながらも当時のモダンさが偲ばれる外観。函館市の景観形成指定建築物にも選定されている。ピンク色にしたのは終戦後直ぐだそうだ。 
2009年の9月に入浴している。内部の様子もどうぞ!


「初代函館病跡地」・・・1861年に建立。箱館戦争のときに幕府軍も政府軍も分け隔てなく怪我の治療をした高松凌雲が有名


明治11年開校の公立常盤小学校跡地<現船見公園>

                                                              

山上大神宮・・・現在の旧西消防署弥生出張所付近にあった箱館神明社が現地に移転。
坂本龍馬のまたいとこで、ここの宮司になった沢辺琢磨の数奇な人生が面白い


旧ロシア領事館・・・ドイツ人の設計で1906年(明治39年)に完成したが、翌年明治40年の大火で全焼し、翌年元通り再建した(現在の建物)。日本に唯一残る帝政ロシア時代の領事館の建物。
1965年(昭和40年)「函館市立道南青年の家」として1996年(平成8年)まで利用。

 今年度から、保存活用を目的に、市内建築士で構成される「ハコダテ☆ものづくりフォーラム」が主催し,旧ロシア領事館をテーマとする「国際設計コンペ」がスタートしている。8月23日(日)に、市民参加の公開コンペが中央図書館で開催される予定。


玄関ホールと2階への階段


当時のまま残っている食堂
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ニチロビルとカフェ&デリまるせん

2013年12月06日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

 大手町にある一見して特徴があまりなさそうなニチロビル。しかし、かつて、函館がもっとも繁栄した時代を支えた北洋漁業の覇者として君臨し、世界最大の水産会社とも呼ばれたニチロ(旧日露漁業株式会社、現株式会社マルハニチロホールディングス)の当時の本社ビルである。戦前の函館最大オフィスビルだった。
 
 昭和4(1929)年竣工の1号館(現存せず、現在の函館国際ホテル)から始まり、昭和9(1934)年竣工の2号館、そして昭和13(1938)年には、戦後HBCホールとして親しまれた大講堂を持つ3号館という三つの巨大ビルディングを完成させた。

 2号館1階のアーチ窓のデザインなどに昭和初期らしいモダンさも見られる。また、外壁には茶色のペンキが塗られているが、当時は薄黄色などカラフルなタイルが張られ、とても派手な装いだったようだ。

 このニチロビルは、日本最初のコンクリート寺院である東本願寺函館別院、旧丸井今井百貨店(現在のまちセンの前身)、百十三銀行(現在のSEC電算センタービル)、元町カトリック教会など、名だたる鉄筋コンクリート建築物を手がけた木田保造の施工によるものだ。

 実は、自分が子供の頃、生まれて初めて映画を見たのは、現存する3号館(右側のビル)の4階にあったHBCホールのような気がする。当時、父に連れられて、ここでよく見た映画はチャップリンの無声映画だったと思うのだが・・・?
               ↓

他サイトから借用

カフェ&デリ マルセン 
 この北洋漁業全盛期の函館の象徴でもあるビル2号館1階に、この11月1日、湯川町3の「カフェまるせん」が移転し、「カフェ&デリ マルセン」として開業した。

 昨日、箱館歴史散歩の会の後、内部を見たくて、昼食がてら寄ってみた。 カフェが入居した1階は事務所として使われていたが、高い天井には板が張られ、室内は壁で分割されたとのこと。

 まず着手したのは、ビルを建設当時の姿に戻す作業。後付けされた天井板をはがすと、しっくいの装飾が現れ、北洋漁業の全盛期を物語る、威風堂々とした内観がよみがえった。ビルの物置にしまわれていた家具も一部再利用しているらしい。室内には昭和初期のモダンな雰囲気が漂う。












十五穀米の「ごはんプレート」コーヒー付き(960円)
多くの新鮮な野菜が食べられ、とてもヘルシーな感じだ。もちろん味も最高!



ニチロビルの一筋北側に建つ「函館大手町ハウス」

 大正7年に浅野セメント株式会社函館営業所として建てられた。
3連アーチの玄関や塔屋の装飾はヨーロッパ建築を思わせる。
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『市電でめぐる函館100選』

2013年11月25日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ


 函館路面電車は、今年6月で開業100周年を迎えた。実は、父方の祖父はこの電車の乗務員の指導員をしていたと聞いている。自分が生まれたときにはすでに退職していたが、ちょび髭を生やして制服と制帽を身に着けて、多くの乗務員に囲まれてほぼ中央に座っている写真が残っている。

 この路面電車の開業は父の生まれた年と同じ大正2年だ。開業当時から務めていたかどうかは不明だが、いずれにしても、この函館市電の古い歴史を支えてきた一人であることは間違いない。

 さて、上掲の『市電でめぐる函館100選』だが、いつもお世話になっている「箱館歴史散歩の会」主宰・中尾仁彦氏と新函館ライブラリの大西剛氏の著書で、この度11月11日に発刊されたばかりだ。書店で探したが、店頭には並んでいないようだ。そこで、中尾氏が活動拠点としている「函館市地域交流まちづくりセンター」へ出掛けてみた。そこの喫茶店で扱っていた。税込みで1500円。

 早速購入してきた。裏表紙に市電の歴史が記載され、その最後に、「1世紀という長い歴史への敬意を込めて、またこの先いつまでも走り続けて欲しいという願いを込めて、この愛すべき函館の路面電車でじっくりめぐるにふさわしい100のテーマを厳選しました。異国情緒だけでなく、わが国近代史の生き証人としても魅力あふれる函館を堪能する一助になれば幸いです。」と書かれている。

 各電停を中心としたその付近の歴史が7章に分けて構成され、その章ごとの最後に、市電の歴史がコラム的に記載されている。中尾氏の『箱館はじめて物語』の初版本と改訂版は持っているし、何度か参加した例会での現地での説明でも聞いたこととダブってはいるが、いちいち細かいことは覚えていない。新しいことも加筆されているし、大西氏撮影の目新しい写真も増えている。

 中尾氏の文章は、読み物としても非常におもしろい。過去に読んだことや聞いたことを思い出しながらも、ついつい惹かれてじっくり読んでしまう。今日も一気に半分ほど読んでしまった。わが郷土函館の歴史に誇りを持てる貴重な一冊である。ぜひ若い方々にこそ読んで欲しい!



 なお、調べてみたら、いずれは書店やネット販売もされるようだが、現在は下記で先行販売されているようだ。
■市電駒場定期販売所 駒場車庫前電停下車
■函館市地域交流まちづくりセンター 十字街電停下車
■箱館高田屋嘉兵衛資料館 十字街電停下車
■旧函館区公会堂売店 末広町電停下車
■ラビスタ函館ベイ 十字街電停下車
■函館元町ホテル 大町電停下車
■立待岬物語 谷地頭電停下車
■カフェダイニングJOE 大町電停下車
■ギャラリー村岡 十字街電停下車
■函館市役所地下売店 市役所前電停下車
■小春日和 函館市八幡町18-18
11/26現在、Amazonでも購入可能なようです。
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