癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

岳友Fuさんの49日法要

2012年06月30日 | 日常生活・つぶやき
 当時のこのブログにも書いていたが、何度も一緒に山に登っていたFuさんが、2009年の暮れに、実家の農作業の手伝いをしていて納屋の梁から落下し、脳幹と小脳を損傷し、ほぼ寝たきりに近い状態でずっと入院生活をしていた。

 それが、先月18日、札幌出張へ向かう朝に、妹さんから「兄が昨夜亡くなりました」との電話をいただいた。遺体は森の実家に戻るというので、その足で実家に寄って、生仏のFuさんに会うことはできた。しかし、その後引き続き会議や他の予定が続いて、葬儀には出席できなかった。

 実家へのお参りしようと思ったが、初七日の後、位牌や仏壇は埼玉の息子さんのお宅へ移ったので、それも叶わなかった。しかし、ご弟妹や息子さんから「ここ数年、一番深いお付き合いをいただいてたのが坂口さんでした。49日法要は森で執り行いますので、ぜひご出席してください」と連絡をいただいていた。
 
 その法要が今日だった・・・・同行した13回以上に及ぶ山行の写真の中から上掲のアルバムを作って持参して息子さんへ差し上げたが、みなさんとても喜んでくださった。

 Fuさんとの出会いは、2004年秋の袴腰岳だった。新しい仕事のために札幌から函館に引っ越して来たばかりのときだったらしい。お互いに単独行だったこともあり、一緒に下山しながらの山談義が弾んだ。平日登山も可能で、雪山もやられるとのことだったので、それ以来、単独では億劫な雪山を中心の頼もしい相棒となっていただいた。2歳年上なのだが、「気は優しく力持ち」タイプの穏やかで謙虚なFuさんは、いつもこちらを立てるようにお付き合いしてくださった。森の実家にも山の帰りに一緒に2度ほどお邪魔したこともあるし、何度も農作物を我が家に届けてくださった。

 何度かお見舞いに行ったが、行くたびにがっしりとしていた体がどんどん小さくなっていくのが悲しかった。また、こちらの言うことは通じるが、排痰装置を装着しているので、向こうの言うことが良く聞き取れないこともあり、お互いストレスを感じることが多かった。しかし、ここ1年ほどはコミニュケーションもままならない状況だと聞いて、気にはなっていたが足が遠のいていたときの訃報だった・・・。

 今日は、やはり葬儀に出席できなかったFuさんが加入していた函館マウンテンクラブのNa女史とMo女史と3人で出席し、会食にまで招いていいただいた。息子さんやお嬢さんから、私と出会う前の札幌での山歴の話などを聞くことができた。

 帰りに、もし誰か使ってくれる人がいれば・・・と、山スキー一式と古いスキーや手つかずの山用ガスカートリッジなどをいただいて来た。
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苅分道を辿り、夏の砂蘭部岳へ

2012年06月28日 | 登山・旅行

 <冬には2回登っている砂蘭部岳頂上から小鉾岳とその奥の乙部岳を望む>

 3年前に沢からこの砂蘭部山に登った人から「頂上まで苅分道があった」という情報をいただいていた。しかし、それがどこから繋がっているのか判らず、SHOさんやTaoさんと近くの林道を走ったり、関係者や関係機関に聞いたりしても判らなかった。

 それが、昨年、森林管理署情報で、砂蘭部川沿いの林道の昔の熊嶺集落のあった辺りの作業小屋の前から繋がっていることが判明した。その情報をもとに、今春にSHOさんたちが登り、自分はTaoさんと一緒に昨日登る予定だった。

 たまたま、やはり、この苅分道情報を調査していたというHYML仲間の龍さんから、数日前に、「961ピークまで辿ったが、時間切れで戻ったので、28日に再訪したい。一緒にどうですか?」というお誘いメールをいただいた。そこで、我々の予定を一日ずらして同行することにした。しかし、Taoさんは都合が悪くなって、龍さんとその仲間のAさんとNi女史と4人で出掛けた。

 作業道には、ウドやフキやアザミなどの夏草と今年の新芽のネマガリダケは大きく育っていたが、それらを鎌で刈りながら登っていく。人工林を過ぎてもその道は続き、横山と砂蘭部岳を結ぶ稜線上の961ピークに出ても、ネマガリダケ林の中に幅4mほどの苅分道がずっと続いていた。昨年育った笹がないところを見ると、昨秋にも刈り払いが行われていたようだ。

 961ピークの手前まで展望はなかったが、そこからは左手に桜野地区を見下ろしながらの稜線歩きで、頂上までの明確な苅分道が続いていた。頂上も広く刈り払われ、昨冬に登ったときに目にしたダケカンバの枝に設置された頂上標識も健在だった。

 天候に恵まれ、すぐ隣の小鉾岳や乙部岳、中央分水嶺上の山々、遊楽部山塊、遠くは駒ヶ岳などの大展望に恵まれ、4人とも冬には登っているので、夏冬制覇の大感激に酔った。
 

 スタート地点の作業小屋


 961ピークと頂上のコル付近から頂上を望む・・・稜線上に微かに苅分道が見える


 頂上直下の稜線上から越えてきた961ピークとその奥の横山


 冬に付けられたと思う頂上標識(今冬も目にしていた)


 広く刈り払われた頂上でくつろぐ


 頂上標識の設置されたダケカンバをバックに記念撮影


 3年越の念願がようやく叶った。登り 3時間20分、下り 2時間5分

GPSトラックログも含めた詳しい山行記録は、下記でどうぞ!
http://sakag.web.fc2.com (アップ完了)
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急遽恵山へ

2012年06月27日 | 登山・旅行

 スカッ晴れの今日は、明日も山の予定なので、休足日にして、HPの更新作業や講演の準備に取り組んでいた。

 ところが、妻の内職の原料が届かないことになり、仕事に空きができたらしい。10時半頃になって、突然「恵山へ行こう!」と言い出した。確かにこの好天を家で過ごすにはもったいないし、恵山は妻が一番好きな山だ・・・ということで付き合うことにした。ただし、時間が遅いので、賽の河原駐車場からの往復のみ・・・。

 海の色も、空の色も、山の色も、全て夏色を呈していて、気持ちの良いのんびり山歩きだった。

 ただし、頂上付近は、瑠璃色の小さな甲虫の仲間(帰宅後調べてみたら、ヨモギハムシらしい?)の異常発生で落ち着いて休むことができなかった。花も咲き残りのエゾイソツツジのみだった。往復2時間ほどで、下山後、椴法華に廻り、回数券のあるホテル恵風の温泉に入って帰宅。


 焼けただれた溶岩の壁の下を通って・・・


 溶岩の間に咲く咲き残りのエゾイソツツジ


 鯱に見える溶岩


 女性の顔に見えなくもない・・・? 


 眼下に見える恵山岬の灯台とホテル恵風

 
 頂上から津軽海峡側の海岸線を俯瞰する


 北側の銚子岬と古部丸山


 賽の河原を挟んで聳える海向山


 3年ぶりの二人の頂上
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徳舜瞥山~ホロホロ山

2012年06月26日 | 登山・旅行

<ホロホロ山から吊り尾根越しに望む徳舜瞥山>

 今日は、5回目となる徳舜瞥山~ホロホロ山へ日鉄鉱山跡コースの5合目にある登山口から登った。7年ぶりの再訪は、道新連載の「ほっかいどう山楽紀行」を意識したネタ探しを兼ねた山行である。

 花の多い山ではあるが、春の花から夏の花への過渡期で、7月中旬より花の種類は少なかった。
天候が良かったこともあり、すばらしい大展望に恵まれた。

 ようやく夏らしい天候になったこともあり、平日にもかかわらず、10組16名の登山者に出会った。中に、3月以降膝や頸椎の調子が悪く病院通いで山から遠ざかっていた同年齢の岳友・千歳のたかさん夫妻がいた。実は、夏に一緒の縦走装備の山行の約束をしていたのだが、そのために懸命にリハビリに取り組んでいるとのこと・・・。

 
 一等三角点のホロホロ山の頂上標識が新しくなっていた。


徳舜瞥山頂上に咲いていた白花のミヤマオダマキ


ホロホロ山から望む支笏湖と恵庭岳(左)と風不死山・樽前山(右)


 詳しい山行記録は、下記でどうぞ!
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有珠善光寺&カルルス山~来馬岳

2012年06月25日 | 登山・旅行

 ようやく夏らしい天候になったので、早速、オロフレ峠から登るカルルス山経由で来馬岳へ向かった。しかし、向こうは濃いガスに覆われていて、山は見えず。そのガスも朝の内だと思い、晴れたら山へ向かうことにして、時間つぶしに有珠の善光寺へ向かった。

○有珠善光寺
 天長3年(826年)、比叡山の僧であった慈覚大師が、自ら彫った本尊阿弥陀如来を安置し、開山したと伝えられている。これが本当なら北海道で一番古いお寺・・・?
 慶長18年(1613年)、松前藩主慶広が如来堂の再興を図り、文化元年(1804年)、時の江戸幕府により蝦夷三官寺の一つとして、正式な建立をみる。江戸の芝増上寺の末寺とのこと。現在の建物は、度重なる有珠山噴火の難を逃れ、ほぼ当時もままの姿を残している。昭和49年5月、国の史跡に指定。
 境内や裏側に続く有珠自然公園に掛けては、樹齢250~300年ほどのいろいろな種類の巨木が多い。


 正門の様子。古刹にしては山門がない。


 枯れたイチイの幹の中に種を落として成長したサクラの木



○バチェラー夫妻記念教会堂

 有珠湾近くの高台に、昭和12年(1937年)、ジョン・バチェラー夫妻の養女向井八重子(バチラー八重子)とその弟山雄、そして多くの信者らの協力によって建てられた。丸い窓と白い十字架が目を引く、石造りのモダンな教会堂。使われている石は有珠山の噴石。
 ジョン・バチラーは、聖公会宣教師として北海道を訪れ、キリスト教の布教だけではなく、アイヌ研究にも情熱を注いだため、よき理解者として「アイヌの父」と呼ばれている。

○カルルス山~来馬岳
 
 10時半ころになって、ガスが取れてきたので、山へ向かう。実は、『山と渓谷』9月号にこの山の紹介記事を依頼されているのだが、写真が気にくわないので、取材を兼ねての再訪である。

 登山口となるオロフレ峠駐車場へ着いたら、オロフレ山から下山してくる登山者がいる。よく見たら、HYML仲間で、一昨年の室蘭岳の裏沢や昨年の大千軒岳ほかでご一緒したり、一緒に何度も呑んだりしている室蘭のなかよしさんだった。彼も、下山後、同じコースを歩くつもりだったとのことで、期せずして道連れができた。

 お陰で、アップダウンの多いやや退屈な稜線歩きもおしゃべりしながら楽しく歩くことができた。天候もみごとに晴れて、思うような写真を撮ることができた。


 オロフレ峠展望台とオロフレ山と羅漢岩を見下ろす


 来馬岳頂上からカルデラ湖の橘湖と倶多楽湖を望む


 詳しい山行記録は、下記でどうぞ!
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大沼1周連れジョグ

2012年06月24日 | 日常生活・つぶやき
 最近の天候不順で山へ行けないのと、妻に刺激されて、ジョギング日数が増えている。一昨日の連れジョグでは、折り返し地点で少し休んだが、12kmほど走れたので、妻を誘って大沼1周(14km弱)ジョグへ挑戦。

 例年は、函館ハーフが近くなってからの練習で出掛けることはあったが、この時期にこの距離を走るのは初体験だ。まさに、連れジョグ効果である。

 公園入口近くの温泉「野畔(あぜ)の花」で、毎週土日限定の500円で温泉とランチ(今日は焼きうどん)がセットのイベントをしているので、ここを発着点とした。もちろん、走った後の温泉と昼食が狙いである。

 最近の連れジョグのペースは6分強/kmなので、6分30秒/kmで走ってみることにしてスタート。1kmごとの距離表示があるのでラップが測りやすい。

 ずっと順調に一度も6分30秒を越えることはなく、ほぼ6分25分前後で走り続けることができた。10km辺りからはさすがきつくなってきた。一人なら絶対歩きたいところである。しかし、妻の方はそんなそぶりも見せずに黙々と付いてくる。子供の頃からの泣き言は絶対言わない負けず嫌いな性格は知ってはいたが、さすがに若い頃女子プロ選手として超ハードなトレーニングをこなした経験が生きているようだ・・・。

 こちらも負けるわけには行かないので、我慢してペースを落とすことなく走り続けることができた。これこそが連れジョグ効果であろう。この春から妻はこちらの倍の日数は走っているが、ここまで走れるようになっているとは思わなかった・・・こちらは、これからは山旅に出ることが多くなるので、そのうちに後れを取りそうな気配・・・ヤバイ!


 走り終えた後すぐの温泉は最高・・・スープ付きの焼きうどんは量的にちょっと物足りなかったが、タダみたいなものなので我慢、我慢・・・。
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三百名山繋がり

2012年06月23日 | 登山・旅行
 これは、昨日の北海道新聞朝刊の記事である。当の本人から、前日の内に「16日で、日本三百名山、無事に登り終えることができました。」との電話をいただいて、一緒に喜び合った。これで、私の知っている限りでは北海道で4人目の快挙である。まだいるかも知れない・・・?

 この小林さんを知るきっかけになったのは、一昨年、自分が富士山での完登前日に登った南アルプスの黒法師岳の入山届けであった。
 自分が記入する際に、数日前のところを見たら、緊急連絡先に011で始まる電話番号が書かれていた。これは、札幌かその近郊の電話番号だ。「もしかしたら、三百名山巡りをしている方かも知れない」と、失礼ではあったが番号を控えてきた。帰ってから電話を差し上げたことからお付き合いが始まった。

 他の2名のうち、旭川のKa女史のことは、旭川の岳友から聞いていたので、こちらの完登前に連絡を取り、メールでのお付き合いが始まった。札幌のUさんは、拙サイトに三百名山完登のことをアップした途端に、「私も昨年登り終えました」というメールをいただいた。

 実は、3人とも拙サイトの愛読者だったらしく、こちらが三百名山巡りをしていたことは以前から知っていたようだ。

 一昨年、私の完登のニュースが北海道新聞全道版に掲載された際に、「4人で、三百名山を語り合える場を作りたいですね」と投げかけたままになっていた。たまたま、今回の小林さんの完登が絶好の機会なので、その場を設定することにした。

 3人とも昨日の内に連絡が取れ、7/5に札幌で顔を合わせることになった。それぞれ全員初対面ではあるが、共通の話題で盛り上がるに違いない。今から楽しみである。

 道内には、まだ、三百名山に挑戦中の方やすでに完登された方がいるはずである。その方々もお誘いしたいので、この記事を読んだ方やその知り合いでも該当者がいたら教えていただきたい・・・。
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緑の島のハマナス

2012年06月22日 | 花・紅葉だより

 今夕の連れジョグの目的地を、往復12kmの緑の島に設定し、ハマナスの花の写真を撮ってきた。しかし、すでにピークは過ぎていた。1週間前辺りが良かったのかも?

 ハマナスの名前の由来は、果実がナシに似た形をしていることから「ハマナシ」という名が付けられ、それが訛ったものらしい。非常に甘い香りがする。バラ科の落葉低木で、夏の花と秋の赤い実を楽しめる。数年前、根室で一緒になった沖縄の子供たちがこの実を見て、「ミニトマトだ!」と言っていたのが面白かった。


海岸の砂地に多く自生しするため、潮風に強く海岸沿いの公園などでよく見かけることができる。今日も白花の他に八重咲きのものがあった。このほかにピンクの花もある。函館市内でも道路の植え込みや公園などあちこちで見ることができる。


 この花は、皇室の雅子妃殿下のお印でもあるらしい。また、我が北海道の花に指定されているし、道内でも市町村の花として指定しているところは、石狩市、紋別市、稚内市、浦幌町、江差町、雄武町、奥尻町、興部町、寿都町、斜里町、標津町、天塩町と12もあり、道外でも東北と北陸を中心に12市町村もある。


 ところで、「緑の島」は函館港整備で浚渫した土砂を埋め立てた面積8ha、周囲約1kmの人工島で、昭和55年(1980)から始めて平成2年(1990)に完成、その後緑地整備などを行い平成6年から供用を開始、市民の憩いとレクリエーションの場として活用されていて、サッカー場もある。今夕もサッカー少年団が練習をしていた。
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隙間落ち防止クッション&寒い初夏

2012年06月21日 | 日常生活・つぶやき
 
 車のシートとコンソールの隙間に物を落とすと、狭くて指が入らないので、取りづらい経験をしたことが多い。小銭、携帯、メモ用紙、ボールペン、お菓子、眠気覚ましのスルメ、割り箸などなど・・・。

 たまたま、妻が、その隙間を埋めるクッションがあることをネットで見つけ、カーショップを廻って見たが、どこにもなかった。


 仕方ないので、ネットで取り寄せた。安かったので、品物と送料が同じくらいの値段(合計で2000円弱)になった。シートベルトバックルを通せる穴まで開いている。、

 装着してみたら、みごとに収まった。なかなかの優れものだ。これで、イライラから解消され、心の隙間も埋まるだろう。


 それにしても、6月下旬だというのに、悪天候と4~5月上旬並みの寒い日が続いている。今日も朝夕、ポータブルストーブのお世話になった。この調子だと、今月は山行日数が極端に少なくなりそうだ。夕食の希望の献立を聞かれて、迷わず「鍋!」・・・温まった~!

 この天候のお陰で?午前中は、道新連載4回目の「緑岳~小泉岳」の執筆をほぼ終えた。さらに、『山と渓谷』から依頼された「急登の山」の写真選定と、9月号に依頼された「全国隠れ名山」シリーズの「カルルス山~来馬岳」の執筆準備に取りかかった。

 午後からは、7/3の亀田老人大学の講義で使うプロジェクターとPCの接続合わせに行ってきた。無事繋がったので、安心してプレゼンテーションの作成に励むことができそうだ。演題を「健康登山と魅了する道南の山々」にしようと思う。
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市内観光案内

2012年06月20日 | 日常生活・つぶやき
 今日で3日連続、それぞれ別なお客さんを案内する日々となった・・・今日は、台風の影響で雨と風の強い中、名古屋から北海道旅行に来た娘の旦那のご両親をあちこち案内した。娘の結婚式以来8年ぶりの再会である。ずっと寒い日が続いていたので、お父さんは風邪を引いていたようだ。

 昨夕に函館に着いたのだが、楽しみにしていた夜景は見ることができなくて残念がっていた。朝、ホテルに迎え行ったときに函館山の頂上が見えていたので、すぐに車で上がってみた。しかし、ときおりガスに覆われてボヤッとしか見ることができなかった。

 その後、西部方面へ向かう。雨なので、町並みを車の中から眺め、元町公園で、写真記念館、公会堂、相馬邸の内部見学・・・これらを廻れば、函館の幕末からの歴史がだいたい理解できるようだ。名古屋には明治村があり、古い建物がたくさんあるが、あちこちから移設した物なので、その土地の歴史と結びついていない。

 案内していると、なぜか客観的に自分の街を見ることができる。函館の町並みやいろいろな建物に洋式文化が多く採り入れられていること、民の力で発展してきたこと、数多くの大火からの復興の歴史などなどが改めて再認識できた。

 昼食は、函館らしさを味わって欲しいので、海鮮丼の美味しいきくよ食堂へ。その後、希望で新しくなった五稜郭タワーへ。自分も奉行所が新しくなってからは、上からそれを見るのは初めてだ。しかし、雨が降っているので、眺望が限られているのが残念だった。

 天候が良いと、下海岸を走って恵山を見たいと言っていたが、それは適わない。風邪をこじらせないように、早めにホテルへ戻って休みたいと言うので、ホテルへ送って、お別れした。
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二股口古戦場跡ほかの踏査

2012年06月19日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

 拙サイトで箱館戦争の古戦場となった二股口台場山や峠下台場山の記録を見たということでメールをいただいていた城郭や古戦場に関する埼玉県の研究家Niさんが来函した。自分は十分な案内はできないので、この件に関しての踏査研究の第一人者であるも~さんに案内を頼んで、あちこち踏査して歩いた。

 まず最初に天狗岳の見えるところまで行って、この山にも記録によると、塹壕があるが見つけることができないという説明を聞く。
 その後、二股岳への林道を少し進んだ送電線の下から台場山とその後ろの山を眺める。この場所は、旧江差山道の旧道が通っていたところで、新政府軍の本拠地だったところだそうだ。

 そして、二股口古戦場跡へ。
 ここでは台場山にたくさんある旧幕府軍(土方歳三隊)の造った塹壕跡を中心に案内してもらった。も~さんが発見した塹壕等の場所へ藪漕ぎで全部見せていただいた。普通の方にはここまで案内しないとのこと。Niさんも自分の足で現地踏査を基本にした研究家で、藪漕ぎは厭わないとのことでとても喜んでいた。


 稲妻型塹壕の中で



 台場山の先端部分の塹壕跡~ここまでも笹藪漕ぎ



 箱館戦争時の下二股川へ下る旧江差山道の旧道跡を歩く。
 この川を挟んだ向かい側に新政府軍の本拠地があったとのこと。



 台場山の後ろ(北)にある山の急斜面を藪を漕いで登ったが、そこにも3ヶ所の塹壕跡があった。
 一番奥のピークには大砲が設置されたという記録があるそうだ。しかし、痕跡はない。


 自分もこの古戦場跡は一度行ったことはあるが、見て歩いたのは、きれいに歩ける標識のある部分だけだった。しかし、も~さんと藪漕ぎを厭わないで感激しているNiさんのお陰で、二股口台場山の全容と、当時の戦いの様子がイメージ豊かに把握することができた。


下山後、峠下台場山へ移動

 峠下台場の中で



 も~さんも自分も初めて下った台場からの下りで偶然見つけた塹壕跡(これは新発見?)



 箱館戦争勃発之地碑が建つ箱館戦争戦死者墓地



 峠下の旧道のそばにある庚申塚の上にある松前藩(新政府軍)が造ったとされる塹壕跡


最後に、戸切地陣屋跡へ


 ここは、松前藩が五稜郭より先に造った洋式城郭


 箱館戦争が始まって、五稜郭を占拠した旧幕府軍に使われるのを嫌がって、松前藩が火を放って松前へ敗走した・・・その遺跡がきれいに復元されている。中に生えている木々のみごとさに歴史を感じる。


 も~さんが用意してくれた資料



 夜、居酒屋で、歴史談義に燃える・・・。


も~さんの6/19の日記「台場案内」は下記からどうぞ!
 http://dp04131457.lolipop.jp/2011nikki/12june.htm
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ガス中の蝦夷松山~雁皮山

2012年06月18日 | 登山・旅行
 札幌からHYML仲間のtuboさんご一行が、函館の庄司山、蝦夷松山~雁皮山、三森山に2泊3日で遠征してきた。
 中日の今日、蝦夷松山~雁皮山にご案内旁々ご一緒させて頂いた。生憎ガスに覆われて、展望は全くなし。仕方ないので、登山道脇の花を探しながら歩いた。


 蝦夷松山頂上直下の岩場の登り


 
 終わりかけのクマガイソウ             ヤマシャクヤク 
 
 オオバスノキ                   コケイラン


 詳しい山行記録は、下記からどうぞ!
 http://sakag.web.fc2.com/ezo-gan12.htm (アップ完了)
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巴大橋ジョグ

2012年06月17日 | 日常生活・つぶやき

 午前中は雨が降っていたが、午後には止み、夕方になってみごとに晴れ上がった。
 妻に煽られて、今年初めての巴大橋コース(10km)の連れジョグに繰り出した。
 キラキラと輝く海を渡ってくる風が気持ちよかった。


 折り返し地点は、ベイエリアの石造りの太鼓橋の七財橋。
 くつろいで何となく観光客風になっている。

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岩壁だらけの497峰

2012年06月16日 | 登山・旅行

 SHOさんとTaoさんと3人で、松倉川のご神木から上流の羽衣の滝を越えて林道までの遡行の予定で出掛けたが、濃いガスと霧雨で断念。戻る途中の三森山の南尾根から西へ派生する途中にある497峰に登った。
 
 ガスで山の全容は見えなかったが、地図でも頂上の周りには崖を巡らせた山である。実際登って見みても、登る先々で地図にはない垂直の岩壁に阻まれ、それを巻いたり、その間や根元を潜ったりしながら、最後は細い岩稜の尾根を辿った。なとか登頂が叶ったが、岩峰や岩壁だらけの急峻な怖い山だった。さすが、頂上にはテープなどの痕跡はなかった。

 
 地図上で大船松倉林道から頂上へ突き上げるルンゼ状の沢から取り付いたが、すぐに、垂直の崖に阻まれ、右の急な尾根に取り付いて登った。

 
 幸い藪は薄く、手頃な灌木を頼りに登れるその尾根も、垂直に切り立つ岩壁に阻まれた。左から大きく巻いて、再び尾根に上がった。

 
 先々で岩にぶつかり、それを巻きながら越えて、両側がすっぱり切れ落ちたナイフリッジの稜線を、灌木に掴まりながら這うようにして登った。役に立ったのが、上手く岩を巻いたり、かわしたりしながら続く鹿道だった・・・鹿に感謝!

 登り 1時間20分、下り 50分

 詳しい山行記録は下記からどうぞ!
 http://sakag.web.fc2.com/497.htm <アップ完了>
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第80回 箱館歴史散歩の会

2012年06月15日 | 街並み・歴史探訪・ドライブ

<本館と同じ明治41年建設の遺愛学院の宣教師館>

 久しぶりに朝から太陽が顔を出した今日、「第80回箱館歴史散歩の会」に参加して来た。

 いつもは西部地区が多かったが、今回は、函館市青年センターに集合して、東部の「千代台公園、時任町、杉並町巡り」だった。西部地区に比べてやや地味な感は否めないが、馴染みの少ないこちら方面の隠れた歴史の解説はとても新鮮な感じだった。

 コース:津軽陣屋(千代ヶ岡陣屋)跡→函館重砲兵大隊跡→球聖久慈次郎の碑→斎藤與一郎書四字句碑→時任町記念碑→レニー先生記念碑→旧制函館中学校(現函館中部高校)→時任農場跡→ 緑町通り→YWCA→遺愛学院→千歳教会(解説あり)→市立函館高校→五稜郭公園

※この中から、印象的な物をいくつか・・・・


<千代台球場の正面横に昭和52年8月建立・故水原茂氏の筆による「球聖久慈次郎の像」>

 大正11年の春、早大を卒業した久慈は、オーシャンの入部を目的に函館に来て、函館水電(現交通局)の営業係として就職。
 昭和6年と9年に来日したアメリカ大リーグ選抜チームとの日米野球大会で、両年とも全日本チームの捕手兼主将として活躍。その後東京巨人軍が創設され、主将として入団の誘いを受けるが、大火に会ったばかりとすでに久慈運動具店を営んでいたことなどで断る。当時、三原や水原の給料が100円だったのに対し、久慈は500円で誘われたそうだ。断ったのにもかかわらず、今でも、巨人の「初代主将」として記録に残っている。
 昭和14年8月19日、捕手の牽制球が右こめかみの上部分に直撃して2日後に逝去。


 <時任町会時任為基ゆかりの地>

 函館支庁長として、明治10年から11年間、函館に住み着き、いろいろ函館市発展の為に尽くした。日本人による最初の上水道の完成も彼の働きかけによるとのこと。一方、現在の本町・杉並町電車通りから大森浜にかけ、約50万坪の土地を購入し、洋式の模範牧場をつくるなど、明治初期の函館地方の開拓と発展に尽した功績は大きく、昭和6年、町名改正のときに、「時任牧場」にちなんで、そのあと地の一部に時任の名を残し時任町とした。函館中学校(現函館中部高校)の敷地を1万坪寄付している。遺愛学院の土地2.1万坪もこの牧場の敷地だった。
 その後、宮崎県知事、元老院議官、高知県知事、静岡県知事、愛知県知事、大阪府知事、宮城県知事を歴任している。俳優の時任三郎は子孫にあたる。


<上記の時任町会記念碑の隣に建っているW・レニー先生記念碑>

 カナダ人で明治39年からスパイ容疑で国外退去させられるまでの35年間、函館の地にあってキリスト教の伝道と社会福祉事業とや英語教師として献身。給料のほとんどを苦学生や貧しい人に分け与え、質素な生活をしていた。教鞭をとった旧制中学、商業、商船、師範、工業の教え子が浄財を募って昭和47年に建立。


<大正15年当時の面影を残す唯一のYWCAの建物>

 当時渡辺熊四郎が250坪単位の当時日本一と言われた高級住宅街として分譲した緑町通り(三角通り)に残っている民家を昭和26年に買い取って、現在もそのまま使用されている。


 <明治41年に建設され、元町から移転してきた遺愛学院>

 当時のアメリカの建築様式を採り入れ、明治の洋風建築の数少ない一つとして、今でも現役で利用されている。明治40年の大火で、建築資材も焼けて苦労したらしい。


<新島襄の遺髪が残っている函館千歳教会>

 現在、函館市が同志社大学に医学部の開設を依頼していることと、新島襄の妻八重が、来年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公に決まって、新島襄や函館の登場も期待されている。 

<千歳教会の牧師さんからの教会の歴史と新島襄とのゆかりについての説明>

 新島襄が箱館から脱国してアメリカに渡り、帰国後、同志社大学を創立し、日本組合教会の礎を築いた。その日本組合教会函館教会が明治34年に設立されたが、たびたび大火で焼け、昭和12年に千歳町に「新島先生脱国記念会堂」として新築移転。その際に、同志社教会牧師堀貞一氏より新島襄の遺髪が寄贈された。
 昭和17年に「日本基督教団函館千歳教会」と改称。戦後、現在の松蔭町に教会堂を再建して現在に至る。

<講師でもある箱館歴史散歩の会主宰中尾仁彦氏の著書『箱館はじめて物語(改訂版)』
1000円で、函館まちづくり交流センターや市内書店で販売中。
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