癌春(がんばる)日記 by 花sakag

2008年と2011年の2回の大腸癌手術
   ・・・克服の先に広がる新たな春を生きがいに・・・

雪景色の函館山散策

2017年12月05日 | 登山・旅行

千畳敷から望む山頂(御殿山)と函館港と稜線に雲をかぶった駒ケ岳と横津連峰

朝ま降っていた雪も止み、久しぶりに青空が広がったので、初雪山となる函館山へ。
熊野古道では登山モードの毎日だったが、山は、ガイドを依頼された駒ケ岳と恵山以来である。
旧登山道コース~山頂~入江山~千畳敷~七曲コース~宮の森コースと回った。
どのコースにも多くの足跡があり、冬用のトイレがつつじ山駐車場と千畳敷広場にあった。
時間は2時間15分、歩数計は約15,000歩。


9時時点でほぼ満杯の登山口駐車場。下山した11時過ぎも、出入りはあったようだが同じような状態だった


旧登山道コースから山頂を見上げる。雪景色と久しぶりの青空のコントラストがきれい


山頂下から望む千畳敷と津軽海峡を挟んだ下北半島


まだロープウェイも動いてなく、貸切状態の展望台から雪景色の市街地を見下ろす


入江山から眺める眼下のドックや函館湾、函館平野、横津連峰



入江山の21番観音


雪の花並木の千畳敷コース


月見台にあった手前(下から見て右側)の建物の解体工事が行われていた。砲台跡に建っていたようだ。


千畳敷砲台跡から眺めるアンテナ群の立つ地蔵山と汐首岬までの海岸線


枯れ葉をつけてまま冬を越すカシワ


地蔵山展望台から眺める眼下の鞍掛山と汐首岬までの海岸線


雪をかぶったオオウバユリの殻
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今回の歩き旅を振り返る

2017年11月18日 | 登山・旅行
◎東海道後半の部<桑名~草津>


 今回は、春に残した42桑名から51の草津まで歩いてゴールとした。草津をゴールとしたのは、昨年の中山道の時に、草津で合流する東海道部分の京都三条大橋まで踏破済みだったからである。

 わずか3日間だけの歩きだったが、東海道にしては珍しい歴史的建造物保存地区として町並み保存活動に取り組んでいる関宿が印象的だった。中山道の奈良井宿、妻籠宿、馬篭宿のように、観光ずれしてなく、その古い町並みの中で、日常の生活が普通に営まれていることが非常に新鮮だった。

 峠越えは、「東の箱根 西の鈴鹿」と言われた鈴鹿峠だけだったが、こちら側からの登りが急できつかっただけで、下りは民家が続く緩やかな道で、特にきついとは思わなかった。

 あと、面白かったのが、石部宿~草津宿間にあった2ヶ所の天井川である。道路の上を川が流れていて、川の下のトンネルを潜ったことだ。草津の東海道と中山道の合流地点に抜ける中山道側の草津トンネルも、昨年は気付かなかったが、天井川のトンネルだった。上がって見たら、今は川は流れておらず、川を埋め立てた公園になっていた。

<東海道全般に通しての印象> 
 5街道の中で一番昔の面影を残しているのが中山道と聞いたので、先に中山道を歩いてみた。しかし、東海道も予想していたよりずっと素晴らしかった。どちらかというと中山道は内陸部の道なので、自然が豊かな感じだった。それに比べて東海道は国道1号に絡んだ都会の中に残る街道といった感じだった。ただ、中山道に比べると、宿場の雰囲気を残しているところは少なかったような気がする。

 旧街道が国道や県道にもっともっと吸収されてしまっているのではないかと思っていた。しかし、中山道もそうだが、昔からの集落のあるところは昔の街道の狭い道幅のまま家並みが残されていることだった。それだけに朝の通勤時の車が怖かった。
 国道や県道に吸収されているところは、集落のないところが多かった。それだけに予想以上に昔の旧街道の面影を満喫することができた。

 また、中山道同様、現在の歩き旅の人に対する標識が充実していた。歩き旅は、ガイドマップを持っても、迷ったり間違ったりすることが多い。それも振り返ってみれば、歩き旅の楽しみでもあるのだが・・・。たまたま自分のGPSの地図には東海道の道に色付けがされていて、それを辿れば良かったので、非常に助かった。

 また、東海道本線に絡んだ街道でもあり、私鉄も充実しているので、宿が街道沿いで取れなくても、それらを利用して移動することができて便利だった。

 これで、5街道のうちメインの2街道を踏破したことになる。ほかに、甲州街道(日本橋から八王子、甲府を経て、下諏訪で中山道に合流する43次)、日光街道(日本橋から、宇都宮、今市を経て、日光までの21次)、奥州街道(日本橋から宇都宮まで日光街道(重複区間)を経て、宇都宮より陸奥・白河までの27次)があるが、どうするかまったく考えていない。

◎伊勢街道


 東海道の日永追分から別れ、伊勢神宮までのいわゆる「お伊勢参り」の街道である。昔は、東海道を旅する人は、こちらへ向かう旅人が多かったようだ。

 街道の雰囲気は東海道の延長といった感じだが、東海道からこちらへ入った途端に、現在の歩き旅の人に対する標識はほとんど見当たらなかった。GPSの地図も特別扱いをしていなかった。しかし、非常に詳しいガイドマップを持ったので、それが分かりやすくとても助かった。ただし、昔のお伊勢参りの人に対する古い道標やあちこちに設置されている常夜燈が充実していた。昔の旅人はそれらを頼りに歩いたのだろう。

 こちらもずっと家並みが続く平坦な道が多かった。中山道や東海道同様、昔からの集落のあるところは旧街道がしっかり残っていた。街道沿いには、しっくい壁、虫食い窓、連子格子の古い家が非常に多かったという印象だった。

 伊勢神宮は、観光も含めてこれで2度目だったが、特に内宮の方は、人出がも凄かった。内宮までの両側のびっしりと並ぶ土産物屋や食べ物屋も凄い。昔はもっともっとにぎやかだったものと思われる。

◎熊野古道伊勢道


 熊野古道伊勢路は、伊勢神宮と熊野三山の2大聖地を結ぶ参詣道で、西国三十三ヶ所巡礼の1番札所である那智山・青岸渡寺への巡礼道でもある。

 これまでに中辺路と小辺路も歩いたが、中山道や東海道とは、まったく趣を異にする。旧街道というよりは名前通り、まさに連日登山モードの古道歩きが続くと考えた方が良い。リアス式海岸の入江にある集落を結ぶ道や紀伊半島の山中に向かう道なので、アップダウンの多い峠越えの道がほとんどである。

 今回の伊勢路は8日間で、花の窟神社からは直接熊野本宮へ向かう本宮道を歩いたこともあるが、峠越えのない日は1日もなかった。合計18ヶ所もあった。標高の一番高い八鬼山越えもあったが、自分的には、翌日の1日で6つも峠越えが続き、ほとんど石畳と石段の坂道を歩いてばかりいた日だった。昔の旅人はこれを往復したのだから、凄いパワーだと思う。

 古道の石畳と石段は、雨の多いこの地域ならではの雨から土砂崩れや土砂流れを防ぐ工夫だが、その当時の労力を考えるだけでも大変だったろうと思う。

 峠の途中から眺めるリアス式海岸の入江の集落や山中の峠越え前後の山村風景なども印象深い景観だった。

 宿が思うようになく、その日のゴール地点から宿への往復が大変だった。その移動も海岸線以外は鉄道が通っておらず、バスだけで、それも本数が少ないので思うように距離を稼げなかった。

 熊野本宮大社は、観光も含めて昨年を除いた5年間で5回も行ったことになる。来年で創建2050年を迎えるという。そのころから参詣道だった熊野古道があったということを考えると、凄い歴史である。
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半月ぶりに無事帰宅

2017年11月17日 | 登山・旅行
     

 昨夜23:55名古屋発の夜行バス(3列独立シート、トイレ付きで4,500円)で東京へ。その後、成田空港まで直通バス(1,000円)で移動。11:55発のバニラエア(諸費用込み5,650円)で、2週間ぶりに無事帰函。
 
 LCCのバニラエアは、早く申し込んだので、最安値の4,980円だったが、諸税380円、サービス料・手数料600円が別料金になっている。それでもかなり安い。
 お陰で、いろいろ乗り換えの煩わしさはあるが、名古屋から直接飛ぶよりかなり安く済むことになる。
 
 また、機内に持ち込める荷物は2個までで、合計7kg以内である。気にしないでお土産を買ってしまったために、不要なものは全て捨てた。
 妻からラインで、「重さを計るところがあるはずだから、超過したら、予約でない場合は料金を払うより送った方が安く済む」とのこと。計ってみたら、何とかセーフだった。

     
 歩きの途中、熊野市、熊野本宮、名古屋、成田空港で買ってきたお土産。

 向こうも、朝はかなり冷えた日もあったが、こちらへ帰って来たら、やはり寒かった。ただ、向こうは常緑樹が多いし、落葉樹もまだ葉を付けている木が多い。しかし、こちらは木の葉が全て落ちてしまって、余計に寒々しい感じがした。

 あす、今回の歩き旅をゆっくり振り返ってみたい。
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熊野古道伊勢路 8日目・志古~万歳峠~請川~熊野本宮大社〈13.3km〉

2017年11月16日 | 登山・旅行
 いよいよ万歳峠越えのラストウォーク。温泉効果もあり?9時間も爆睡。6:55のバスで湯の峰温泉から志古まで戻る。

     
 7:30、国道の上の標識に導かれて、志古谷の林道へと進む。帰りのバス時刻まで3時間45分しかないので、ハイペースで進む。
 
 入り口説明板によると、一遍上人は熊野権現のお告げにより悟りを開き、全国に時宗を布教する際、それまで上流階級の信仰だった熊野信仰を庶民の信仰に広げていったらしい。
 その一遍上人の名合碑なるものが、この万歳峠越えの街道にあるらしいが、結局見落としたようだ。

     
 持参したガイドブックでは、峠の手前までは舗装された林道歩きとのことであったが、「←志古 小雲取越え➡」の新しめの標識と、最近見つけられたらしい古道が4ヶ所ほどあった。

 小雲取越えとは、中辺路の後半の呼び名である。万歳峠を越えると合流していて、自分も3年前にも歩いている。

     
     
 痕跡ははっきりしているが、歩き込まれていないので、まだ歩きづらかった。

     
 3ヶ所目の途中に、広い石段や石畳が敷かれているところがあった。設置されているはずの地蔵がなくなっていた。どこかのお寺にでも移設されたのであろう。

      
      4ヶ所目の入口と右の林道。

      
 最後の林道歩きの途中の標識。右に100m行けば桜地蔵や一遍上人の合名碑があるらしいが、時間が気になってパスしてしまった。

     
 峠が近くなってくると急になり、石段や猪垣などか出てくる。

     
 大急ぎで登ったので、5.7kmの登りを1時間10分で、標高417mの万歳(ばんぜ)峠に到着。ここも稜線の切り通しとなっていた。
 この峠は、古い記録によると番西峠と呼ばれていたようだ。

     
 25分ほど下っていくと、中辺路(小雲取越え)と合流する。ここからは、3年前にも歩いた道である。

 中辺路は、本宮道へ入らずに、七里ヶ浜沿いの本街道をまっすぐ進み、新宮の熊野速玉大社とその先の熊野那智大社を回って熊野本宮大社へと向かう伊勢路である。

     
     このような標識も設置されている。

     
     松屋茶屋跡の標識と石段

     
 この中辺路は、非常に人気の高い古道で、幅が広く歩き込まれているのと整備が行き届いているので、とても歩きやすい。歩く人が非常に多い。今日もわずか4kmほどの間に6人に出会った。その内2人は欧米系の人だった。  
 昨日の宿にも外国人の夫婦が泊まっていた。熊野古道や高野山は欧米人に人気が高い。

     
      野良積みの石垣も見納め。

     
 下っていくと、請川の集落と熊野川が見えてくる。右奥の備崎橋は、大峯奥駈道を縦走したときに渡ってきた懐かしい橋である。したがって、その先から熊野本宮大社までは3回目の歩きとなる。

     
 市街地へ入っていくと、右手に大斎宮の大鳥居が見えてくる。最初の熊野本宮大社はここに創建されたが、熊野川の氾濫で流されてしまい、現在の小高い所に移設されている。

     
     観光も含めると、5年間で5回目となる本宮大社の登り口に到着。

     
 来年で創建2050年を迎えるらしい。

     
     最後の石段登りが辛かった。

     
 10:40、3時間10分で、14日間に渡る今回の歩き旅のゴール。
  
     
     案内スタッフにシャッターを押してもらう。
 
 これで、世界遺産に登録されている大峯奥駈道、熊野古道の中辺路と小辺路と伊勢路のすべて踏破したことになる。熊野古道紀伊路もあるが、これは世界遺産に認められていないのでパス。

 もう、この熊野へ足を踏み入れることはないであろう。

 11:15のバスで名古屋へ。さらに23:55の夜行バスで東京へ向かい、明日は成田からバニラ航空で帰函の予定。

 今夜は、名古屋めしで完歩祝いの予定。 

     
 熊野古道伊勢路に入ってからの8日間の歩数計。

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熊野古道伊勢路 7日目・後地バス停~丸山千枚田~矢ノ川~楊枝川~志古〈26.5km〉

2017年11月15日 | 登山・旅行
 今日は、まずは、全国一の規模を誇る棚田の丸山千枚田に寄ってから、明日の万歳峠越え入口の志古まで歩いた。

 当初の計画では、昨日の内に千枚田を見ておいて、今日は一気に熊野本宮まで歩く予定だった。しかし、宿やバス時刻の関係で、予備日の明日に志古から熊野本宮までの予定にならざるを得なかった。

 昨日のゴールとした後地バス停までのバスは途中で乗り換えるが、8:28発があるという。阿田和端地で乗り換えて、9:30に着いた。

     
 普段より遅いスタートで焦りもあり急ぎ足になる。後地バス停から本宮道と別れて丸山千枚田へ向かう通り峠への道に入る。通り峠とは、やはり熊野古道ではあるが、熊野と吉野を結ぶ北山道の一部である。

     
 通り峠にも石畳の道が続く。結構きつい登りだった。

     
 標高390mにある通り峠には、子安地蔵が立っている。

     
 通り峠からさらに急な道を登り、千枚田がよく見えるという展望台を往復。
 上から眺めたら、昨年行ったマチュピチュや3回もを行っているネパールを思い出した。どう見ても日本ではない感じ。

 実は、この丸山千枚田も昨日通った獅子岩と花の窟神社は、5年前の大峯奥駈道縦走(前半)の下山後にレンタカーで観光したときに見ている。しかし、この展望台には上がっていないし、千枚田の中の道路を歩いて通りたかった。

  千枚田と言われるが、実際には高低差160mの谷合に約1,340枚の棚田がある。最も小さい田は、1枚で0.5m²しかない。棚田の法面は野面積みを主とした石積みであり、西日本に多く見られる方式である。 
 ひとつ残念なのは、すでに稲刈りが終わっていたことた。

     
     
 展望台から戻り、北山道とも別れて、千枚田の中へ下りて行く。あちこちに案山子が立つくねくね道を下り、国道311号へ下りた。

     
 矢ノ川大平の集落を通り、本宮道の案内表示に従って、旧道へ入る。ここから先の楊枝川の集落を結ぶ14kmくらいの主に県道と林道の間に6ヶ所の古道を歩くところがある。
 そのすべての入口と出口に次のそれらまでの距離も書かれた標識が設置されていて、非常に安心感があった。

     
 そのすべてにこれまでの峠越えと同じ100mごとの距離表示も設置されている。

     
     
     
 すべての古道部分には、ここも石畳や深く掘れた道が続く。

     
 途中で通過した小栗須の集落

     
 古道や県道・林道の道端には古い地蔵さんも多い。

     
 また、これまでにもあちこちで目にした猪の掘り返しも凄い。北海道に多い熊の掘り返しと似ている。

     
 今日になって所々で目にした「熊野古道トレイルラン」のテープ。

     
 コンビニで買った昼食を食べた夕日の丘公園。標高270mの所にあった明倫小学校跡。しかし、周りには人家も集落もなかった。
 
 ここで、志古のバス時刻に間に合う見通しがついたので、今晩の宿となる湯の峰温泉の民宿に予約の電話を入れた。

     
 バス時刻のこともあるので大急ぎで歩き、千枚田を下りてから2時間半ほどで、楊枝川集落の県道に出た。

 あとは、地蔵の多い楊枝川沿いの県道をひたすら歩いた。楊枝川はやがて熊野川に合流する。

     
 熊野川の1kmほど上流部には、頭痛に苦しんでいた後白河天皇の伝説が伝わる楊枝薬師堂・頭痛山平癒寺がある。

     
 その手前にあった楊枝の渡し場から対岸の志古を望む。今は、下流の三和大橋を渡るために、対岸に行くのに3km以上も遠回りをしなくてはならなかった。

     
 熊野川に架かる三和大橋を渡る。

     
 15:45、これまでの最短の6時間15分で今日のゴールとなる志古に到着。志古には、瀞峡へのウォータージェットの乗り場がある。

     
 バスは16:28なので、ウォータージェット乗り場の土産店で熊野古道麦酒を飲みながら、ブログの下準備をした。対岸は、楊枝の渡し場跡

     
 小栗判官蘇生の地の伝説がある湯の峰温泉は、開湯1800年で日本最古の湯だそうだ。川を挟んで昔ながらの温泉情緒を残す小じんまりとした温泉街だ。古の人々は熊野詣の旅の途中、湯の峰で湯垢離を行い、聖地での禊ぎと旅の疲れを癒したそうだ。
 
 17:00、今日の宿「温泉民宿てるてや」に到着。実は、3年前の中辺路の時もお世話になっている。感じが良かったので、今回もリピートした。
 早速小じんまりとした源泉かけ流しの、この旅最初で最後の温泉へ入って疲れを癒した。やはり温泉はいい…極楽、極楽!
 宿の名前の由来は、小栗判官との悲話伝説の照手姫に因んでいるとのこと。

     
 夕食は、3年前の写真とほぼ同じだった。鮎の甘露煮、鴨鍋と鹿肉の刺身などなど・・・。明日は早いので朝食抜きにしたら、前回より700円安くなって、6950円だったがおにぎり2個とみかんをサービスしてくれた。
 
 寝る前に、もう一度温泉にゆったりと入ろう。

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熊野古道伊勢路 6日目・大泊~松本峠~花の窟神社~横垣峠~風伝峠~後地バス停〈25km〉

2017年11月14日 | 登山・旅行
 まずは、昨日残した大泊から熊野市街地を抜けて、花の窟神社まで4.7kmを歩いた。そこから、熊野本宮大社を直接目指す本宮道へ入った。最後は風伝峠を下りて国道の一番近い後地バス停でゴールとした。

 今日も同じ宿に戻って連泊するので、余計な荷物を預けて、6:30に宿を出た。熊野市駅から大泊駅まで電車で移動。

     
 7:00、昨日のゴール地点をスタート。大泊の町並みを右に見て、海岸の堤防の上を歩く。

     
 国道とぶつかった所に、これまで目にしなかった茅葺きの立派な民家を見つける。まだ新しい感じである。

     
 5分ほどで松本峠への入口へ。このころから雨がパラついてきたが、傘だけで歩いた。

     
 この後進む本宮道は本街道ではないので、ひょっとすると最後の石畳の道かと思いながら心して歩いた。

     
 峠には、建ったその日に妖怪と間違えられて、足下に鉄砲傷がついてしまったという大きな地蔵が出迎えてくれた。

     
 峠から下る途中から、新宮まで25kmも続く七里ヶ浜と山並みが見えた。

     
 やがて、熊野市街地端の大本地区へと下りていく。

     
 古い家並みが続く熊野市街地の商店街を抜ける。

     
     世界遺産にも登録されている獅子岩。高さ25m。

       
 ここも世界遺産に登録されている、高さ45mの巨巖をご神体とする日本最古の神社として有名な花の窟(いわや)神社を見上げる。神殿はなく、自然崇拝の太古の遺風を伝えている。
 
          
     根元に祀られた燭台

     
 神社横の交差点に建つ「右くまのへ」と彫られた道標。
 ここで、新宮にある熊野速玉大社までの伊勢路本街道と別れて、直接熊野本宮大社を目指す本宮道と別れる。

 ここから先の浜街道と呼ばれる本街道は、新宮の速玉大社から那智大社を経て本宮大社へ詣でる人や、西国三十三ヶ所の1番札所である青岸渡寺を目指す巡礼者が歩いた。一方、本宮道は直接本宮大社へ向かう人や、熊野三山詣でを終えて帰る人たちが通った道である。

     
 産田神社は、イザナミノミコトが火神カグツチノミコトをこの地で産んだことに由来。さんま寿司発祥の地の標柱も立っていた。

     
 天保の大飢饉で亡くなった人たちの供養碑。この辺りで雨が強くなってきたのでカッパを着た。

     
 神木の集落の中の国道を歩いていると、国道の上に横垣峠への標識があった。ここまで熊野古道の標識がほとんどなかったので助かった。
 入口に「地滑りで通行禁止」のようなことが書かれた看板があったので、すぐそばのなかよしステーションのおばちゃんに聞いたら、みんな行っているとのこと。

     
 水壺地蔵とも呼ばれる地蔵の横に弘法大師が杖で穴を開けて水を出したという伝説の湧水がある。似たような伝説は西日本にはあちこちにある。

     
 登りは自然道で石段の段差がないので普通の登山モードの歩きができて助かった。

     
 峠には、大きな石に「横垣峠」と彫られた石が立っていた。峠の前後にも立ち入り禁止の看板が立っていたが、危険な所はなかった。

     
 下りになったら、神木流紋岩の石畳。流紋岩は濡れると非常に滑るので、なるべく石畳の横を歩いた。

     
 地滑りで立ち入り禁止の地滑りは、峠から林道への出口だった。踏み跡を辿って、滑って転んで泥んこになったが、林道へ下りることができた。

     
 林道を下って、阪本の集落へと入っていった。しかし、国道へ下りる道が良く分からないので、人家に立ち寄って教えてもらった。そのすぐ先に「熊野古道」と彫られた道標があった。

 阪本から国道を歩き、尾呂志へ入っていったが、標識がまったくなく、次の風伝峠への道がまた分からなくなった。あちこちうろうろして無駄な歩きをした後、また人家に寄って聞いたら、すぐその先だった。

     
 教えられた道を進んだら、道標があってひと安心。峠道に入ると、ハイキングする人が多いのか、細かに距離まで書かれた標識が設置されている。やがて、石畳の道が続く。

     
 広い風伝茶屋跡から舗装された林道を進むと、「風伝峠」と、彫られた石柱だけが立っていた。豊臣秀吉等の奥熊野攻めなどの様々な歴史的事件の戦略の拠点となったところらしい。

     
 峠から滑る石畳に気をつけながら下って国道に出た。さらに進むと後地バス停があった。ここは、明日古道を外れて丸山千枚田に寄る近道なので、14:00、このバス停をゴールとした。7時間の歩きだった。熊野市駅へ向かうバスを1時間ほど待った。

 熊野市駅まで戻って、宿のチェックイン時刻まで隣の図書館でブログを打った。雨降りなので、あちこち出歩くのも嫌で、コンビニで夕食を買って宿に入った。

 夕食を食べていたら、オーナーが味噌汁を持ってきてくれた。若いのによく気の回るオーナーだ。
 
 ブログも打ち終えたので、近くのコインランドリーで洗濯をして、銭湯に入って寝るつもり。 
   
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熊野古道伊勢路 5日目・三木里~三木峠~羽後峠~曽根次郎坂・太郎坂~逢神坂峠~新鹿~大吹峠~大泊<22.4km〉

2017年11月13日 | 登山・旅行
 昨夜、宿の女将に明日は花の窟神社までの予定と話したら、「絶対無理!そんなお客さんいないですよ。せいぜい頑張っても大泊まで」と言われた。
 単なる距離だけで計算していたが、今日のコースは、峠越えが6つもあり、ほとんど石畳と石段の坂道を歩いてばかりいた1日だった。獲得標高差を計算したら昨日より多い1200mもあった。
 結果、宿の女将のいう通り、大泊までで9時間30分も掛かってしまい、そこでギブアップ。歩いた距離はわずか22.4kmだった。

 峠越えが多いのは、リアス式海岸に原因があった。入り江にある集落を繋ぐには山越えの道しかないからだ。峠の途中から見下ろす入江の眺めが印象的な1日だった。

 早い朝食を食べ、昼のおにぎりをもらって6:30スタート。

    
 国道を10分ほど歩いたら、ヨコネ道へ入っていく。ここも峠の名はないが海を眼下に眺めながらの立派な峠道だった。

     
     日の出前の賀田湾を見下ろす

     
     朝日による粋な演出
 ヨコネ道から国道に下りたら、すぐその先に三木峠の入口があった。
 昨日までは、石畳と石段は感動的だったが、当たり前になって、むしろ石段の段差の大きさに嫌気が差してきた。おまけに昨日の疲れを感じて、ペースが上がらない。

    
 標高122mの三木峠の展望台からの深い入江を持つ賀田湾の眺め

     
 民家の先に続く、猪垣と畑の石垣の間を問通って国道に下りる。

    
 国道に出たと思ったら、またすぐに羽後峠の入口。

    
 入口が海岸まで下りなかったので、標高200mほどの峠までの登りはすぐだった。広いところは茶屋跡。だいたいの峠にはこのように茶屋があったようだ。

     
 下りには、立派な猪垣が続く。田畑への猪や鹿の侵入を防ぐ石垣である。昔から今と同じような苦労をしていたようだ。

     
 羽後峠から賀田の集落へと下りていく。
 賀田から曽根への国道歩きは、今日一番長い1kmほどの平らな歩きだった。

     
 今度は、曽根次郎坂・太郎坂へと入って行く。これは人の名ではなく、中世までの志摩と紀伊の国境だったことから、曽根側からみた自領と他領が次郎と太郎に訛ったらしい。

     
 登りの次郎坂の石畳の苔が非常にきれいだった。

     
     登りの途中の、鯨岩…なるほど納得!

     
 なお、この峠の登りは名前は甫母峠だった。標高は350m。

      
     下りの楯見ヶ丘から見下ろす楯ヶ崎

     
 どこの峠にも、車で入れる所からの登り口と下り口までの総距離と100mごとの距離(上の数字)の標識が設置されていて目安になった。

     
 曽根次郎坂・太郎坂を下りると、二木島の海岸に下りていく。

     
 しかし、ここも民家の間の階段を登り、すぐに二木島峠・逢神峠への登りとなる。

     
 二木島峠は少し下がって登り返してそのまま標高190mの逢神峠へと続く。峠にはどこにもスタンプラリーのスタンプが入ったボックスがある。

     
 逢神峠の由来は、伊勢の神と熊野の神が逢う所、または狼がたくさんいた所とも言われている。

     
 苔むした石段を下っていくと新鹿に出る。

     
 1kmほどの国道歩きの途中にある、丸い石を組んだ独特の意匠を持つ徳司神社。
 次の峠は、最高地点の標高が130mの波田須の道だった。

     
 波田須の道の登り始めにある、鎌倉時代に造成された大きな石の石畳が印象的だった。

     
 標高90mほどの山の斜面にある波田須の集落の中に徐福の宮がある。秦の始皇帝の命で不老不死の霊薬を求めて来た徐福が、ここに漂着し、村人にいろいろなことを教えて一緒に暮らして、この地で亡くなったと伝わり、ここに墓がある。

     
 山村の波田須の道を抜け、大吹峠へと入っていく。

     
 標高200mの大吹峠を下ると、珍しい孟宗竹の林があった。

     
 やがて、大泊へ下りたら16:00になった。今日はここでギブアップし、16:30の電車で宿を取ってある隣の熊野市駅へ。

     
 今日の宿は、古民家を利用したゲストハウスわがらん家(素泊まり3000円)。わがらんとは、こちらの方言で私たちの意味。
 若いオーナーが別の仕事と掛け持ちで経営している。隣の部屋の物音は我慢しなくてはならないが、なかなか古民家の雰囲気を生かした宿になっている。
 チェックイン前に、向かいの洋食屋さんで豚肉の生姜焼き定食を食べた。
 宿に入ってからは、ひたすらブログを打ち続け、これから近くの銭湯へ。

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熊野古道伊勢路 4日目・船津~馬越峠~尾鷲~八鬼山~三木里〈28km〉

2017年11月12日 | 登山・旅行
 朝はこの旅最低の7℃と冷え込んだ。2度目のインナーダウンのお出ましとなった。しかし、1日中晴天に恵まれた。
 今日は、伊勢路で最も美しい石畳で知られる馬越峠越えと西国一の難所と恐れられた海抜ゼロから海抜ゼロまでの八鬼山(647m)越えが待っていた。
 両方のトータルで11kmもの石畳の歩きには感動した。しかも、両方の獲得標高差が1100mの完全登山モードだった。しかし、最も往時を偲ばせる古道歩きを堪能することができた。

 ホテルを5:30に出て、尾鷲駅から船津駅まで電車で移動。船津駅をまだ暗い6:00にスタート。

     
 15分ほど歩いた先の中里の旧道で洋風の「海山郷土資料館」がある。この建物は、明治24年に隣の松本家の別邸として建設。その後町に寄贈され、役場や公民館としても利用された。

     
 国道と旧道を交互に進むと、多くの熊野古道の標識の上に「種まき権兵衛」のイラストが乗っている。
 この海山地区は誰でも知っている「権兵衛か種まきゃカラスがほじくる」の歌?の里だった。この権兵衛さんは、この里の英雄だった。種をほじくるカラスを追わないほど優しい人だった。しかし、村人に悪さをする馬越峠の大蛇を退治したが、噛まれてその毒で自分も亡くなったという。

     
 相賀地区には、有名なお寺や神社が多く、落ち着いた雰囲気の旧道が続く。

     
 いよいよ、馬越峠の登り口。国道との分岐にも標識。

     
 古道は7世紀ごろからあったらしいが、石畳は17世紀後半の紀州藩の街道整備によるのではないかとのこと。
 道幅は、紀州藩の籠の大きさに合わせて1間半。かなり広く風格さえ漂う。石は現地調達で幾重にもかさねられているらしい。雨の多い地域なので、多雨から道を守る工夫がされている。

     
 途中にあった夜泣き地蔵。もともと旅の安全を守る地蔵だったが、いつしか、子の夜泣き封じを祈願するようになったらしい。

      
 前を歩いていた静岡のご夫婦と急な石畳。

     
 途中から眺めた大台ヶ原山。日本百名山だが、松浦武四郎が晩年に何度も探索して、登山道を開いた山でもある。

       
 40分で、標高325mの馬越峠へ到着。

     
 下りの石畳を登ってくる人。
 この他に多くの人に出会った。特に、日常的に登っているという地元のご夫婦と話しながら下りた。なんと、そのご主人は「日本二百名山巡り」をしているという。北海道では日高の3山(カムエク、ペテガリ、幌尻)が残っているとこのこと。来年挑戦する予定だそうで話が弾んだ。

     
 尾鷲側の登り口の下から少し入ったところにある馬越不動滝。

     
 峠からの下りから尾鷲の町が見える。

     
     尾鷲の旧道沿いの商店街の町並み

    
 旧道の排水溝の蓋に書かれている道標。

    
 森林経営で財をなした土井本家屋敷の莫大な広さの中にある明治洋館。手前の建物は土井子供くらし館。

    
 幅半間ほどの路地裏を通る「熊野古道やのはま道」。

    
 またまた素敵なお接待をいただいた。町外れで家の前を掃除している奥さんにこの先の昼食を買えるコンビニか店を聞いたらないという。なんと、「大きなお世話かもしれませんが、買い置きのパンで良かったら差し上げます」とのこと。ご好意に甘えて感激していただいた。

     
 八鬼山登り口の手前に「ままになるなら あの八鬼山を 鍬でならして通らせたい」と彫られた尾鷲節歌碑が立っている。

     
 11:15、いよいよ登り4km標高647mの石畳道の登りである。ここは紀州の殿様の休憩所だった籠立場。
 この登りでは、熊野古道詣でや西国三十三ヶ所巡礼の人がたくさん亡くなったそうで、途中に「行き倒れ地蔵」かいくつもの設置されていた。

     
     この登りで最も急な七曲がり。ここを登り切った所で昼になったので、いただいたパンを食べた。

     
     蓮華石と烏帽子石。無数に点在する巨岩の中でもシンボル的存在の岩。

     
 頂上の少し下に建つ荒廃した三宝荒神堂。お堂の中で、お坊さんと信者がお経を上げてお勤めをしていた。
 このお堂は、7世紀に巡礼者を襲う山賊を退治するために修験者が建てたという。 

     
 まもなく、山頂すぐ下の三木峠に到着。上の広場は茶屋跡。

     
 2時間で、大きな岩が鎮座した八鬼山に到着。

     
 山頂下の「桜の森広場」の展望台から眼下に村上水軍で有名な九鬼町が見える。

     
 急な所には、立ち木に木の幹を結び付けたロープが設置されている。

     
 下りて行ったら、「世界遺産指定反対」の文字が書かれた杉林が目に入ってくる。住民にとっては迷惑だと思う人たちもいたようだ。

     
 三木里側の登り口を過ぎても、両側に石垣と石畳が続いていた。

     
 草で覆われた石畳の道から三木里の集落が見える。

     
 三木里の旧道に見られた雁木のある家。激しい風雨や日差しを防ぐ工夫だそうだ。

     
 尾鷲側の登り口から4時間弱で海水浴場で有名な三木里海岸に到着。

      
 そこから、越えてきた八鬼山(中央の山)を見上げる。

     
 15:00、ちょうど9時間で、そのすぐ手前にあった今日の宿の民宿油屋(2食付き6500円)に到着。
 今朝、船津から来たと言ったら「こんな時間に着くお客さんは今までにいません」と驚かれた。

     
 自分一人のために用意してくれた心のこもった豪勢な料理。魚は大アジの刺身と初めて聞いたまとう鯛の煮付け。

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熊野古道伊勢路 3日目・大内山~ツヅラト峠~紀伊長島~一石峠~古里~三浦峠~三浦~始神峠~船津〈32km〉

2017年11月11日 | 登山・旅行
 今日は、4つもの峠越えの他に佐甫道など、自然道ばかり歩いていたような気がする。舗装道路歩きは印象が薄いのと、峠の登り口の前後も未舗装の林道が続くのがそう思わせるのかもしれな
 結果、この旅ではあまり汗をかくことはなかったが、一番汗をかいた日だった。
  
     
 朝食のテーブルに、ビニール袋に入ったものがあった。開けてみたら、昼食セットだった。「古道歩きは店や食堂がないから」とのこと。おまけに、昨夜の夕食の缶ビールもサービスとのこと。さらに、洗濯までしてもらって…丁重なお礼をして失礼した。 
 お接待文化が定着している四国遍路では似たようなことはあったが、その他の歩き旅では初めてである。

 6:30、大感激で宿をスタート。夜中に降っていた雨も上がって、青空も覗いていた。

     
 宿のすぐ向かい側に、まだ灯りの点いているこれまでに見たことのない洒落た「中組常夜燈」があった。明治8年に伊勢市河崎に設置されたものを頭之宮参詣道と熊野古道の分岐点であるこの地に移設。右に見える鳥居は頭之宮神社のもの。

     
 道端にこれまで何度も目にしたさざんかの花が咲いていた。この時期が見頃らしい。

     
 さらに進むと桜まで咲いている。調べたら、冬桜の種類で、ピンクの八重は十月桜らしい。

 国道42号の側道や旧街道をひたすら歩き、梅ヶ谷を目指す。
 梅ヶ谷は、伊勢と紀伊の国境越えのツヅラト峠と荷坂峠の分岐で、どちらも熊野古道である。自分が歩いたツヅラト峠は、古くからの、熊野への参詣道として使われ、江戸時代になって荷坂峠へ本街道が移された後も、昭和に入るまで生活道として利用されていたらしい。

     
 8:00、ツヅラト峠入口に到着。

     
 登口ですでに250mもあるので、357mの峠までは20分で登ってしまった。

     
 東屋のある頂上からは、熊野灘が一望できる。伊勢を出発して初めて目にする海だ。
 
 登りは簡単だったが、下りは梅ヶ谷側のは比べ物にならないくらい急勾配の九十九折りがつづく。ツヅラトの語源が実感できる険しい道である。おまけに、海抜30mまで下るのだから、反対側から登るのは大変だ。

     
 道の崩落を防ぐために、野面乱層積みという石垣があらゆるところに見られる。

      
 さらに下っていくと、室町時代に民衆の力で敷かれたという石畳が残っている。
 
     
 20分で登った峠を40分も要して、海抜30mの反対側の登り口に到着。

     
 志子奥の集落を抜けて、赤羽川に沿う国道422号を紀伊長島へ下っていくと、峠から見下ろした海が見えてくる。

        
 紀伊長島では、昔の賑やかだっであろう狭い街道の雰囲気を残す魚まちを抜ける。

     
 魚まちの交差点に古い道標が立っている。

     
 長島神社に寄る。迎えてくれたのは樹齢800年の楠の巨木。

     
 長島城が落城した天正の合戦で焼失したが、1587年に再建されたのが現在の長島神社である。

     
 国道42号の歩きから長島港を眺める。

     
 やがて、一石峠の入口に到着。

     
 稜線を大きく切通したこの峠は標高80mなので、10分ほどで登り10分ほどで下ってしまった。

     
 一石峠の下の平方峠から古里海岸へと下っていく。

     
 海水浴場と紀伊の松島といわれる海岸美の観光地なのか、たくさんの民宿が並ぶ中を抜ける。

     
 まもなく、古里トンネルの手前から海岸の絶壁を削って造った佐甫道を登る。現在は遊歩道として整備されて、峠には展望台があった。

     
 ちょうど昼になったので、展望台で、紀伊の松島と言われる古里の海を眺めながら、宿からいただいた昼食セットをいただく。

     
 20分ほどして、今度は三浦峠(熊谷道)の登り口に到着。

     
 標高130mの両側の岩山を削って切通した三浦峠の頂上。15分で登り、20分で下った。

     
 反対側の登り口には、新しい熊ヶ谷橋が架かっていた。この橋は、長い間崩壊したままだったが、世界遺産になったので、昔のままの工法で再建したとのこと。

     
 三浦峠を下ると三浦の集落へと入っていく。

     
 まさに、この集落は、三浦峠とこれから越える始神峠に挟まれた集落である。

     
 再び海岸へ出て、しばらくの間、堤防の上を歩く。

     
 いよいよ今日最後の始神峠へと入っていく。

     
 初めは緩やかだが、徐々に斜度が増し、石段の道も出てくる。

     
 海抜ゼロから147mの始神峠に25分ほどで到着。手前の平坦な所は茶屋跡。

     
 この峠の魅力は、この熊野灘の眺めで、昔の旅人もその
景観に疲れを癒されたという。

     
 まもなく、江戸道と明治道の分岐。実は、この始神峠は、熊野への参詣道として開かれた江戸道と、明治になってから開かれた物資の輸送に必要な緩くて幅広の明治道がある。
 登ってきたのは急な江戸道だったので、下りは緩やかな明治道を選んだ。

     
 確かに明治道は、広くて緩やかな道だった。

     
 峠を下っていくと、峠の案内掲示が充実した立派なトイレがあった。

 ここから船津駅までの4.5kmを、15:16の電車に間に合わせるべく、大急ぎで時折走ったりして40分で走破した。

     
 電車時刻の6分前に船津駅に到着。今日の行動時間は8時間30分だった。
 電車で尾鷲駅まで移動。今日の宿は尾鷲駅近くのビジネスホテル(素泊まり5300円)。連日旅館のご馳走を食べ続けたら、コンビニの惣菜やカップ麺が食べたくなった。夕食は、ホテルの隣のコンビニで適当に物色してきて済ませた。

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熊野古道伊勢路 2日目・三瀬谷~三瀬坂峠~阿曽~大内山〈24.2km〉

2017年11月10日 | 登山・旅行
     
 宿のご主人の勧めで、朝食前に裏の稲荷神社の山へ登ってみた。日の出前の栃原地区が一望できた。

     
 昨夜いただいた『熊野古道伊勢路図絵 新・平成の熊野詣』(世界遺産登録10周年事業三重県実行委員会発行)の記念誌をいただいた。
 イラスト入りで非常に詳しくて、自分が持ってきたガイドブックよりとても分かりやすい。A4版43ページものだが、丸めて持って歩き、その都度見ながら進んだ。

 朝は気温がひと桁でこれまでで最も寒かった。ウィンドーブレーカーの下にインナーダウンを着てスタート。ところが、放射冷却だったようだ。終日快晴で、日中はこれまでで最も暑くなって次々脱ぎなから歩いた。。

 栃原駅7:25の電車で、昨日のゴールだった三瀬谷駅まで移動。

     
 7:40、三瀬谷駅前の市街地の街道をスタート。

     
 宮川に架かる旧船木橋を渡る。橋の上から眺める水面の青さと紅葉のコントラストが美しい。

     
 この旧船木橋は、昭和9年完成のレンガ造りの橋脚で、県指定の有形文化財となっている。

     
 県道から少し入った所にある「多岐原神社」。天照大神の神霊を祀る場所を求めて諸国を歩いた倭姫伝説で、宮川を渡る手助けをした真奈胡神が祀られ、地元では「まなごさん」と親しまれている。

     
 その神社の下には「三瀬の渡し場跡」がある。
 左上の木に引っ掛かっている白い布切れは、台風21号の大雨のときの水面の高さだったようだ。辺りの木にも同じような高さに木の根やビニールの切れ端が引っ掛かっている。

     
 再び県道に戻って少し進むと、今日のハイライトである「三瀬谷峠」の入口。

     
 右から登ってきて左へ上がって行く。桧林の中につづら折りの道が続く。昨日の女鬼峠より急な上に、台風の大雨の影響で荒れていて非常に歩きづらかった。

     
 峠には、石窟の中に宝暦地蔵(1756年建立)が祀られている。その前に行き倒れ供養塔が立ち、向かいには植林されているが、2軒の茶屋跡の平地がある。

     
 里への下りの上の方は、三瀬からの登りより急で、荒れて石がごろごろしていて、怖いくらいだった。しかし、下の方には、苔むした部分が残っている所もあった。

     
 約1時間の峠越えで、里の集落へと入っていく。

     
 里の集落を抜ける、伊勢神宮内宮の別宮である「瀧原宮」の巨木の森の中を抜け、長い参道へと足を踏み入れる。直径2mはあろうかと思うような杉の巨木が並んでいる。
 ここは、天照大神が伊勢に落ち着く前に祀られていた場所で「元伊勢」ともいわれる。伊勢神宮より古い歴史は杉の巨木を見ただけでも十分偲ばれる。

     
 鬱蒼とした林の中の長い参道の奥に祀られていた本殿(右)と並宮(左)。

     
 滝原地区には、重厚な石垣や古民家など魅力満載の家並みが続く。

    
 途中、街道からそれて、大滝峡に寄ってみた。
 やがて、阿曽の集落へと入っていく。

     
 欅の巨木が立つ阿曽観音堂。

     
 武家屋敷のような白壁の塀を回した立派な民家。

     
 昼になったが、阿曽の街道沿いには、店すら見当たらない。しかし、集会所のような建物に不似合いなたこ焼とたい焼きの幟が立っている。
 窓から購入するようになっていたので覗いてみたら、「やまびこ作業所」だった。中で障害者の方が一生懸命焼いていた。
 たこ焼と栗あんのたい焼きをゲット。たこ焼は大きくて、たい焼きの栗あんは栗がごろごろ入っている贅沢なもので、共にとても美味しかったった。しめて470円は大満足の昼食だった。

     
 くねくね曲がりながら流れる大内山川沿いの街道や国道の側道を進む。柏野の集落を抜けて柏野大橋を渡ると、立派な巨木の下に「垣内後庚申塚」が目に入ってくる。

     
 宮原の集落には、古民家が立ち並ぶ所がある。

     
 街道を覆う見事なシダレザクラ。花の頃にはさぞかし豪華な花見がてきるだろう。

     
 山あいを流れる大内山川沿いの街道を進む。

     
 「大内山の一里塚」だか、伊勢路に入って初めて目にした一里塚だった。目印にと徳川3代将軍家光が植えた松は枯死して、2代目の松が植えられている。

     
 その一里塚の先は、川沿いの桧林の中に、不安になるような踏み跡状の道が続く。峠もそうだが、今では熊野古道歩きの人しか通らない道になっているようだ。

     
 そこを抜け、再び舗装の街道へ出ると、大内山の集落に入っていく。
 15:00、今日のゴールとなる喜畑屋旅館(2食付き7000円)に到着。

 予定は2kmほど先の梅ヶ谷だったが、そこには宿がないのでここをゴールとした。
 荒れて予想以上に険しかった峠越えの他にあちこち街道を外れて寄ったところも多かったので、7時間20分にしては、稼いだ距離が短かった。

     
 熊野古道歩きに入ってからこれで3日連続の旅館だが、3軒ともお客は自分ひとりだけだった。古道歩きの人が主な客らしいが、今時期はもう遅いのだろうか?

 今日の宿は、頼みもしないのに洗濯をしてくれた。2替わり持参している着替えだが、今日は早く着いたので洗濯をしようと思っていただけに非常に助かった。
 
 家並みがずっと続く東海道や伊勢街道に比べて、こちらは、山あいを流れる川に沿った集落を繋ぐ道が続く。したがって、景観も自然豊かでのどかな歩きが楽しめる。
 当然、コンビニや店が少ない。旅館も2食付きで頼むしかなかった。

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熊野古道伊勢路1日目・伊勢神宮(外宮)~野中~女鬼峠~栃原~川添~三瀬谷<41.6km>

2017年11月09日 | 登山・旅行


 すでに中辺路と小辺路を歩いている「熊野古道」とは、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へと通じる参詣道の総称である。道は三重県、奈良県、和歌山県、大阪府に跨り、紀伊路(渡辺津-田辺)、小辺路(高野山-熊野三山)、中辺路(田辺-熊野三山)、大辺路(田辺-串本-熊野三山)、伊勢路(伊勢神宮-熊野三山)がある。

 これらの多くは、2000年に「熊野参詣道」として国の史跡に指定され、2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産における「遺跡および文化的景観」)として登録された。

 今回歩くのは、伊勢神宮と熊野三山の二大聖地を結ぶ「熊野古道 伊勢路」である。伊勢神宮から、いくつもの険しい峠を越え、熊野三山を詣でるために通った“祈りの道”である。古くには、「伊勢に七度、熊野に三度」という言葉もあったほど、誰もが訪れたいと願う憧れの地であり、そのような「熊野古道 伊勢路」には、今でもその景観や歴史、文化が随所に息づいているとのこと。

 特に楽しみなのは、石畳などいにしえの雰囲気を色濃く残している峠越えが、毎日のように合計10ヶ所もあることだ。熊野三山は中辺路・小辺路のときにすでに詣でているし、それらを結ぶ古道も歩いているので、今回は、最後は七里ヶ浜の花の窟神社から直接熊野本宮大社を目指す未踏の「本宮道」を歩くことにした。
 ガイドブックは小辺路・中辺路を歩いたときに買った『熊野古道を歩く』(山と渓谷社)の必要な部分を剥ぎとって持参した。

     
 宿での朝食をいただく。旅に来ている感じがする。6:47、二見浦駅から伊勢市駅まで電車に乗った。降りたらスタート地点の伊勢神宮外宮の参拝道だった。

     
 7:10、外宮前をスタート。昨日来た道を少し戻り、川のない筋向橋が伊勢街道と熊野古道の分岐だった。

     
 宮川の土手にぶつかる。昔は柳の渡し場のあった所だか、今はすぐ下流の度会橋を渡る。

     
 田園風景の中の県道を歩くと、やがて田丸町へ入って行く。田丸町は城下町なので、6回ほどジグザク直角に曲がる道があり、その全てに標識があり、分かりやすい。

     
 城下町だけに古そうな重厚な家も多い。

     
 曲がり門に昔からの古い道標が立っている。

     
 田丸の市街地を抜けて県道を歩き、原の手前で旧道に入ると、西国三十三観音像33体か祀られた巡礼道引観音がある。巡礼者が旅の安全を祈ったと伝わる。

     
 やがて、旧街道の雰囲気を残す野中へ入っていく。

     
 野中の市街地から山に向かう道に入ると、女鬼峠への標識がある。

     
 1.8㍍を超す野中の道標。

     
 いよいよ楽しみにしていた鬱蒼とした女鬼峠へと入っていく。どこにでも標識と幟がたっているのがうれしい。

     
 千枚岩の上に昔の荷車の轍か残っている。

     
 茶屋跡を越えると、千枚岩の岩壁を掘削した道が女鬼峠である。その手前から展望台への道があったので登ってみた。

     
 展望台からは、このあとの下りていく相鹿瀬の集落が見える。

     
 峠から下っていくと、如意輪観音がある。

     
 やがて、茶畑が広がる相鹿瀬へと下りていく。

      
 県道を絡みながらしばらく行くと、柳原観音千福寺がある。聖徳太子作と伝わる観世音菩薩が本尊で、古くから広く信仰を集めているらしい。

     
 やがて、栃原へと入っていく。昼をかなり過ぎた所に1軒だけ小さなコンビニかあったので、サンドイッチを買って昼食とした。

     
 栃原の茶屋集落に入っていくと、今日の宿となる岡島屋がある(宿のことは最後の方に記載)。まだ13時過ぎだったのでリュックを預ける。
 戻ってくる列車が17時台までないので、ご主人の助言を受けて、今日のゴール予定だった川添を越えて三瀬谷駅まで歩くことにした。

      
 しばらく県道歩きが続き、猿木坂の標識に従って細い山道を下ると、川にぶつかる。渡渉して登り返す。こんなワイルドなところもあった。

      
 少し進み、また細い山道を下ると「殿様の井戸」(湧水池)を通る。江戸時代に鷹狩りに来た殿様のお気に入りの休憩場所だったらしい。

      
 再び国道を歩き、旧街道の下楠集落へと入っていく。上楠集落へ入ると、今日のゴール予定だった川添駅だったが、まだ14時過ぎなので、先へ進む。

     
 川添駅を過ぎて、下三瀬には昔の三瀬の渡しがあった。渡船のない今は、3km以上も先に進み、大きく迂回しなければならない。

     
 粟生で国道に出ると、道標地蔵が立っている。地蔵様の右と左にそれぞれの進む道が彫られている。
 ここから緩やかな国道の登り坂が続く。

     
 やがて、国道から別れて下三瀬へと入っていく。途中に「三瀬砦跡」がある。ここは、室町時代から戦国時代まで当時の武将に砦として利用されていたらしい。

     
 やがて、旧街道は三瀬谷駅前を通る。
 16:00、ここを今日のゴールとした。2回目の40km超えを約9時間で歩き通した。

 16:59の列車を待つ間、ブログの写真の選択などをした。電車に乗り、栃原で下車して、旅館岡島屋へ。

     
 この岡島屋(2食付き7000円)は、天保7年創業の宿で、昔は20軒ほどあった旅館の中で、唯一営業を続けている。
 美味しい夕食を食べ終わる頃、ご主人が顔を出したのでお話をした。サラリーマンだったが、退職後にこの宿を継いだそうだ。さらに、退職してから始めた山の魅力に取りつかれたとのことで話が弾んだ。今年槍ヶ岳に登って感動したそうだ。
 おまけに、お世話になって年賀状のやりとりをしているヤマケイの小林千穂さんも今年泊まって行ったそうだ。

 夕食後、ゆっくりとブログをアップした。

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伊勢街道2日目・4津~5雲津~6松阪~櫛田駅〈25.1km〉

2017年11月07日 | 登山・旅行
 朝食バイキングを食べ、6:45にホテルを出る。一歩踏み出せば街道沿いなのがうれしい。
 津駅前付近は、駅ができてから開けた所で、昔からの中心街はもっと先だった。

     
 30分ほど歩くと、昔からの中心街の伊勢街道はアーケード商店街になっていた。すぐそばの国道23号沿いにも銀行やデパートもあった。
 そのあとはしばらく広い国道23号の商店街を歩くが、その東側の歩道が伊勢街道だった。

     
 国道から離れてしばらく進むと閻魔堂がある。二代藩主藤堂高次が建立したもので、町のはずれで、閻魔堂は角町の守護として建てられたという。辺りは、街道の名所の1つで、蕎麦屋や茶店などで賑わっていたところらしい。

     
 閻魔堂から先は、タイムスリップしたようなこじんまりとした民家が並ぶ通りになる。

     
 高茶屋地区に入ると、珍しく煉瓦塀の家があった。
 この先には、雲出川の渡しを控えた5つ目の宿場である雲津(雲出)地区だが、そのような雰囲気は全く残っていなかった。

     
 やがて、津市と松阪市の境界となる雲出川の雲出橋に差し掛かる。その手前にも天保5年(1834)の常夜燈が立っている。これはかっては渡し場口にあったものをここに移設したと説明されている。

     
 橋を渡り終わって松阪市に入った途端の小公園に、「三重県の誇り 松浦武四郎」の説明板があってビックリ。

     
 昔の渡し場までの堤防の上の通りから、松阪市側の伊勢街道を見下ろす。この辺りには渡しを控えて旅籠が数軒あったらしい。

     
 下りていってまもなくのところに、松浦武四郎の生家があったが、現在修復工事中だった。来年は松浦武四郎生誕200年なので、それに合わせて修復しているらしい。

      
 そこから5分ほど歩き、街道から右へ5分ほどで松浦武四郎記念館。10年ほど前に紀伊半島の山を登り歩いたときに一度寄っているが、また寄ってみた。

      
 来年度の生誕200年祭が準備されているらしい。来年は北海道も、武四郎が北海道命名150年で、大々的な記念行事が予定されている。

      
 展示も充実しているが、それより映像がもっと素晴らしい。前回全て観ているのでパスした。全部観たら1時間以上になる。映像は北海道での活躍が中心だが、それまでの生い立ちや北海道開拓使の役人を辞めて故郷へ戻ってからの大台ケ原の探検や登山も面白い。30分以上は滞在した。

     
 奈良街道との分岐にある道標と常夜灯。

     
 久米地区で目にした、なまこ壁の長屋門のある舟木家。南北朝時代から続く名家らしい。

     
 阪内川に架かる大橋を渡ると、松阪市街地へ入っていく。

     
     松阪商人の館

     
 松阪商人の代表格三井家発祥の地。最近新しく建て替えられた休憩所になっていた。三越のシンボルの来遠(ライオン)像も鎮座していた。
 
 その辻向かいに今夜の宿となる旅館小西屋があったが、まだ13:10だった。リュックを預けて、さらに進んだ。朝はしっかり食べたので腹も減っていない。昼食も摂らずに歩き続けた。

     
 松阪駅付近の商店街の伊勢街道を行く。

     
     松阪駅前通りに立つ道標

     
 商店街を抜けてしばらく進んだ和歌山街道との分岐にある常夜灯と道標。

     
     豊原地区の向かい合う連子格子の古民家と街道

     
 豊原地区に立つ「從是外宮迄四里」の道標。伊勢神宮の外宮までの距離。

     
 伊勢街道沿いの家の玄関の上に必ず掛けられている笑門の飾り。「笑う門には福来る」が由来らしいが、正月に取り替えるのか?

     
 豊原地区の「おもん茶屋跡」。白壁、虫食い窓が当時の面影を残す。へんば餅を名物にしていた。
 
     
 おもん茶屋の隣りの2軒は連子格子の立派な家。

     
 交差点で初めて目にした伊勢街道の標示板

     
 14:50、約8時間、櫛田川の橋の手前を今日のゴールとして櫛田駅へ。2時間近く歩いたのに、電車で15分で松阪駅まで戻る。
 駅前付近で夕食場所を探しながらぶらぶらして今日の宿へ。

     
 伊勢街道沿いの小西屋旅館(素泊まり3900円)は明治7年創業で、今でもそのままの建物を一部使っているとのこと。中の和風庭園にその雰囲気が感じられる。

 夕食は松阪牛といきたいところだが、とてもとても。駅前通りに出て、寿司居酒屋で海鮮サラダと手羽先唐揚げで2杯。

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伊勢街道1日目・日永追分~1神部~2白子~3上野~4津<30.1km>

2017年11月06日 | 登山・旅行

 伊勢街道とは、日永の追分で東海道と分かれ、伊勢湾沿いを白子、津、松阪などを経て 伊勢神宮へ至る街道である。 別名:伊勢参宮街道とも呼ばれ、江戸時代、お伊勢参りの旅人で賑わう街道であった。

 江戸時代の中期以降の庶民の楽しみの一つに、旅行があった。しかし、当時はただの観光目的の旅には許可が下りなかったために、あくまでも表向きは寺社への参拝ということになっていた。

 その中でも特に人気だったのが、「一生に一度はお伊勢さま」と言われるほどだった。文政13年(1830)には500万人の参詣者があったという。当時日本の人口は3000万人ほどだったので、その数の多さには驚かされる。

     
 その火付け役となったのは、十返舎一九の書いた「東海道中膝栗毛」だといわれている。弥次さんと喜多さんが、厄落としのために江戸から伊勢神宮に向かう様子を、面白おかしく書いた書物である。

 なお、ガイド地図は、ネット上の「みえ歴史街道ウォーキングマップ 伊勢街道」をダウンロードして印刷したものを持った。

 さて、その1日目のスタートだが、宿から追分駅まで、四日市駅で私鉄を乗り継いで移動。日永追分まで東海道を少し戻った。

     
 3日前にも通った日永追分には、伊勢神宮の二の鳥居や伊勢神宮遥拝啓所の他に、嘉永2年(1849)建立の追分道標がある。

     
「左いせ参宮道」、「右京大坂道」、裏には「すぐ江戸道」(3日前には見落とした)と刻まれている。「すぐ」とは、まっすぐの意味らしい。これは、江戸店を持っていた伊勢商人の「渡辺六兵衛」が寄付したもの。 
 この先常夜燈や道標が多く目に付くが、成功した伊勢商人の建立したものが多いとされる。 

 6:15、いよいよ3日間にわたる伊勢街道歩きのスタート。少しの間、国道23号を歩くが、やがて旧道へ。

       
 しばらくして、堤防の上を歩き、先に見える高岡橋を渡る。 

     
 橋を渡り、再び堤防を歩くと常夜灯がある。ここが、昔の橋があったところらしい。
 ここから、再び旧道へと入っていく。

     
 高岡の町並みを抜けると、のどかな田園風景の中を進む。ここの一直線の街道は古代条理制度の名残だそうだ。

         
 やがて伊勢街道最初の宿場である神部へと入っていく。その入口にある「神部の見附」。両側に石垣や土塁を築き、役人が見張っていたという。

     
 神部の中心地へ入っていくと、現在でも旅館を続ける旅籠屋「加美亭」がある。

     
 最初に目にした道標。「右さんぐう道」と彫られている。なお、東海道や中山道のような現在の歩き旅用の案内標識は全くない。ひたすら手持ちの案内地図だけが頼りである。
 このあと、常夜灯や道標は多く目にする。

     
 江島の入口にある鎌倉時代創建の「六體地蔵菩薩」。ここは、「北の端の地蔵さん」と呼ばれ、伊勢参りの旅人にも人気が高かったそうだ。
 すく向かいに「役行者神変大菩薩」の社があった。役行者は修験の開祖だが、まさに神仏混交の象徴のような名前だ。

     
     「江島陣屋跡」の説明板。
 
     
 2つ目の宿場である白子には、古くて立派な商家や民家が多い。

     
 寺家地区の立派な山門を持つ「子安観音寺」。この境内には、松尾芭蕉や山口誓士ほか有名人の句碑が多い。

     
 すぐ近くに立っていた「右さんぐう道 左くあんおん道」の道標。

     
 昼食は、東千里ですぐそばを並行する国道23号で見つけた中華料理店の日替わりランチ(680円)。連日朝と夕はコンビニりようだったので、このようなメニューがうれしい。

     
 3つ目の宿場である上野で目にした、しっくい壁、虫食い窓、連子格子の3拍子の揃った立派な古い民家。

     
 上野は城下町で、いろいろな役所が多かったようである。

     
 上野の「道路元標跡」。当時、村の中心地に建てられたらしい。

     
 津市中瀬地区を行く街道

     
 同じ中瀬の国道23号で見つけた「痔神大明神」の看板。全国の痔主に霊験あらたかな神社として信仰を集めているそうだ。しかし、もともとの地神が痔神に変わっただけらしい。それにしても、なぜこの字になったのか?

     
 常夜灯と道標が立つ巡礼道(古伊勢街道)との追分

     
 楽しみにしていた木製の「江戸橋」は、河川改修工事に伴う架け替え工事が行われていた。名前の由来は、江戸へ発つ藩主を見送ったことによる。

     
 4つ目の宿場である津に入っていくと、たくさんの蔵が固まった屋敷を目にする。

 14:15、約8時間で、今日のゴールとなる街道沿いのホテルエコノ津駅前(朝食付き5000円)に到着。今回初めて交通機関を使わないで済むホテルだった。
 コインランドリーもあったので、洗濯もできた。

     
 夕食は、ホテルで「津の名物は?」と聞いたら、「うなぎです」とのこと。「そんな高いもの食べれないですよ。他には?」「津餃子です」とのことで、お勧めの駅のレストラン街の天ぷら屋へ。
 手前が直径15cmの津餃子、あとは野菜天ぷら定食、生ビールとハイボール飲んで、わずか1800円…安い!おまけに、4日目にして初めてコンビニ食でない夕食がうれしかった。

 一昨夜寝るときに、横浜ベイスターズが勝っていたので、日本シリーズ最終戦を楽しみにしていたら、寝たあとに逆転負けしたらしい。ガックリ!

東海道最終日へ   伊勢街道2日目へ
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東海道第2弾 2日目・加佐登駅~45庄野宿~46亀山宿~47関宿~48坂下宿~49土山宿~50水口宿〈40.5km 〉

2017年11月04日 | 登山・旅行
 当初の計画では49土山宿までだった。ところが、明日の「あいの土山マラソン」のために、近くの宿が全然取れない。そこで、鉄道のある50水口宿まで歩くことにした。40km越えなので10時間は覚悟しなくてはならない。

 宿を5:30に出て、JR南四日市発6:03の1列番列車に乗る。加佐登駅で降りて、6:30、東海道へ。

     
 まもなく庄野宿へ入っていく。45番目の宿場となる庄野宿は宿場時代の面影が比較的よく残されている。

     
 本陣跡の石柱があり、新しい案内板も設置されている。格子窓のある旅籠風の民家が残る。

     
 庄野宿を抜けて国道を横断し、鈴鹿川を渡り、川に沿って進む。川の上流にこの後で終える鈴鹿の山並みが見えている。

     
 46番目の亀山宿は、昔は亀山城の城下町だったが、近代以降はろうそくの生産で発展した。東海道も大きな工場の横を通っていた。

     
 城下町特有の枡形に折れるの道が続く。アーケード商店街から旧道に入ると、その枡形の道の下に公園があり、その上に古い家並みがみえる。

     
 現在でも古い町並みが良く残されている。この町並みを見ながら歩いていたら、亀山城址への分岐をはるかに過ぎていた。戻るのも大儀なのでそのまま進んだ。

     
 次の関宿へ向かう途中に、今回のコースで初めての、昔のままの野村の一里塚が片方だけだが残っていた。

     
 いよいよ楽しみにしていた関宿である。東の追分(伊勢別街道との追分)の鳥居の先から、突然まるでタイムスリップなのような家並みがつづく。
 それもそのはず、伝統的建造物保存地区に指定され、町ぐるみで歴史的景観の保存の努力が続けられている。東海道では1番の見所である。

     
 関宿の由来は、古代の鈴鹿の関に由来する。東方の攻撃から京都を守る古代3関の1つである。
 東西1.8kmに渡って、びっしり家並みが続く。しかし、中山道の奈良井宿、妻籠宿、馬籠宿のように観光化していない。民家が多く人々が今でも日常的な生活をしているのが興味深い。
 たばこ屋、薬屋、足袋屋などの当時のままの雰囲気を残している。郵便局も銀行も新しい建物だが、町並みにマッチした造りになってゆかりのいて、ちょっと見では新しい建物に見えない。
 関宿まちなみ資料館や旅館玉屋資料館などには、宿場時代や町並み保存運動に関する資料が充実している。

     
 宿場に残る一休禅師の平安時代創建の古刹地蔵院。
30分してようやく関宿を抜けると、ゆったりとした上り坂となり、国道1号歩きとと旧道歩きを繰り返しながら坂下宿を目指す。途中の鈴鹿馬子唄会館に寄る。


     
 坂下宿は、「東の箱根、西の鈴鹿」と言われた難所鈴鹿峠を控え、戸数300を越え、本陣、脇本陣などは街道一の規模を誇る宿場だった。しかし、今ではひっそりとたたずむ山あいの集落に過ぎない。
 3本もある本陣跡の石柱も広い空き地にぽつんぽつんと立つだけである。中山道でもこれまでの東海道でも、格式ある建物の前ではなく空き地に立っているのは初めてかもしれない。
 
 昼近くになったので、鈴鹿峠越えに備えて腹ごしらえをしようと思ったが店すらない。ようやく小さな店を見つけて入ったら、そのまま食べれるものはチップスターしかない。それを買って食べながら歩いた。旧道沿いには峠を越えてもしばらくは店や食堂はないという。

     
 国道へ出てまもなく、こんな所から?と思うような峠道の入口。しかも、大名行列や人馬が登ったとは思えない急な登りである。

     
 急なアップダウンタウンの続く、昔の面影を残す山道がうれしい。

     
 峠道の途中にある片山神社の前辺りから八町二十七曲りと言われた急な登りが続く。当時の石畳や石垣がくねくねと続く。

     
 平な杉木立の中の鈴鹿峠。ここから近江の国となる。しかし、急な登りはこちらがわだけで、反対側は民家が並ぶゆったりした下りである。

     
 延々と国道1号の下りが続く。旧道に入り、坂上田村麿を祀った田村神社に寄り、国道を跨ぐと土山の道の駅だった。

     
 平安時代から続く土山名物のかにが坂飴を買う。当然だが無添加で丸く平べったい素朴な飴だった。
 14時近かったが、道の駅で休憩がてら、山菜ご飯とうどんのセットの昼食とする。

 時折小雨がパラついて非常に寒くなったので、カッパの上を着て、手袋をはめてスタート。道の駅の後ろから土山宿の市街地となる。

     
 近江の国に入って最初の土山宿は、昔なからの連子格子の家が多く残る。

     
 街道には地元の有志が設置した本陣跡、旅籠の名前などの石柱がたくさん並び、往時の佇まいを想起させてくれる。

     
 宿場の面影を残す市街地を抜けると、松並木が現れ、街道歩きの雰囲気造りにひとやく買っている。

     
 お茶畑にお茶の花が咲いている。初めて目にした。
 国道1号と旧道歩きを繰り返して、やがて水口宿へ入っていく。

     
 街道沿いには祭りの山車の格納庫がたくさん目に付く。

     
 しばらく行くと道は三筋となり、その出口で振り返ると、真ん中の道が東海道だった。
 この先で関宿以来の鉄道にぶつかる。16:45、直ぐそばの水口石橋駅をゴールとする。実に10時間15分の東海道歩きだった。

 このあと、電車を2回乗り継ぎ、1時間ほども要して野洲駅前のセントラルホテル野洲に到着。遅いので、コンビニでビールと惣菜を買ってホテルに入った。素泊まり5800円だがじゃらんの貯まっていたポイントを利用したので3200円だった。

 まず風呂に入り、飲みながらブログを打った。今日は多くの宿場を通り、鈴鹿峠もあり、書くことが多く、打ち終わったら20:45だった。さすが疲れた。

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東海道第2弾1日目・42桑名~43四日市~44石薬師~加佐登駅<27.6km>

2017年11月03日 | 登山・旅行
     
 七里の渡しの一の鳥居

 東京からの夜行バスで名古屋に6:10到着。JRに乗り換えて桑名へ。桑名駅から歩いて、前回の佐屋街道終点で、東海道の再出発点となる七里の渡しへ到着。

     
 そばにある本陣跡の船津屋。現在は高級料亭。

 42番目の桑名宿は、七里の渡しの船着き場として栄えた宿場である。桑名と言えば「焼きはまぐり」である。しかし、今では桑名産のものは、船津屋などの高級料亭でしか食べられなくなったそうだ。

 いよいよ8:00出発と張り切ってスタートしたは良いが、見たことのある景色だなと思った。なんと、前回歩いてきた佐屋街道を逆に歩いたようだ。慌てて戻って、8:20仕切り直し。

 後で気づいたのだが、ガイドブックの方角表示が90度間違っていた。北が東になっていたことも方向を間違えた原因かも? おまけにGPSの地図の佐屋街道にも東海道と同じ色が付いていた。

 さらに、桑名の市街地を歩いていたら、T字路でガイドブックと反対側に東海道の道標があり、GPSの東海道もその道標と同じ方向だった。結局、GPSの方を進んだ。途中で地元の人に聞いたら、旧道は先で合流するまで2本あったらしい。

     
 桑名城址の石垣。堀が船溜まりになっていた。桑名城址は九華公園になっている。

     
「左江戸江 左京いせ江」の標石。

     
     桑名宿の端の大きな常夜灯
 国道1号に並行してひたすら狭い旧道を歩くと四日市宿に入っていく。

 四日市宿は、今では工業都市だが、かつては浜辺の美しいところで、諸国の物産が集散する港町として栄えた宿場である。
     
 三滝川を渡ったところに名物の「なが餅」を売る笹井屋がある。創業天文19年(1550年)という老舗。実はその手前にも新しい大きな店があり、そこで先に買ってしまった。

     
 文字通り、長い餅に餡が入っている。バラ売りはしていないので、7個入りで680円を買った。加佐登駅で列車を待つ間に食べた。

     
 「すぐ江戸」とは、まっすぐ進むと江戸という意味らしい。裏には京いせと彫られていた。この辺りが宿場の中心地だったらしいが、面影は全くない。本陣跡の標識すらなかった。

     
 諏訪神社の前から、アーケードの商店街になっていた。

     
 昼になったので、その中のうどん専門店へ。なんと「はまぐりうどん」が500円だった。他のメニューもほとんど500円。汁が抜群に旨く、全部飲み干してしまった。

     
 町外れに来ると、古い民家が並ぶところがあった。

     
 伊勢街道と東海道の分岐となる日永追分の立派な道標。「左いせ参宮道 右京大坂道」と彫られている。
 弥次さん喜多さんは、ここから伊勢参りにいった。自分も4日後には、ここから伊勢街道へ進むことになる。

     
 急坂の難所杖衝坂。日本武尊が剣を杖の代わりにしたと伝えられる。芭蕉は、馬で越えようとしたが落馬したらしく、そのことを詠んだ句が残っている。

     
 峠を登り切ったところに建つ日本武尊の血塚社

     
 峠を越えて、国道1号から離れると、石薬師宿へ入っていく。

     
     明治期に建て替えられた小澤本陣跡。
 この宿場は、四日市宿から亀山宿までの間が長かったのでわざわざ設けられた宿場である。宿場の入口に古い家がわずかに残っているだけで、当時の面影はない。

     
 この宿場の名前のもとになった古刹石薬師寺

 石薬師宿を抜けて、しばらくすると、庄野宿へ入っていくが、庄野には宿がないので、1kmほど手前のJR加佐登駅を今日のゴールにした。

 15:55、加佐登駅到着。16:38の列車で南四日市駅まで戻り、17:10、素泊まり2700円の旅館みやま荘に到着。早速風呂に入る。疲れが抜けていくようだった。
 ブログをアップし終えたら、外に出て夕食の予定。 

 春以来の歩き旅の初日は、スタート時にもたついた感もあり、前半は辛い感じだった。しかし、午後からはペースを上げて快調に歩くことができた。

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