龍の声

龍の声は、天の声

「拈華微笑」

2017-11-02 05:59:54 | 日本

「拈華微笑」(ねんげみしょう)『無門関』について学ぶ。



「世尊、昔、霊山会上に在って、花を拈じて衆に示す。是の時、衆皆な黙然たり。惟(ただ)迦葉尊者のみ、破顔微笑(はがんみしょう)す。世尊云く、「吾に正法眼蔵(しょうぼうげんぞう) 涅槃妙心(ねはんみょうしん) 実相無相(じっそうむそう)微妙法門(みみょうのほうもん)あり。不立文字(ふりゅうもんじ)教外別伝(きょうげべつでん)摩訶迦葉(まかかしょう)に付嘱(ふしょく)す」と。


ある日のこと世尊は霊鷲山での説法において大衆にむかって静かに金波羅華〈こんぱらげ〉という花を高くかざして示された。このとき大衆はその意味が分からず、ただ黙ったまま何の言葉も出せなかった。このとき一番弟子の迦葉尊者だけが破顔し微笑したのである。この微笑に世尊は迦葉こそわが真意を解したると、これを受けがい「吾に、正しき智慧の眼(法眼)をおさめる蔵があり、涅槃〈悟り〉に導く真実絶対なる法門がある。
この法門は言葉によらず、文字によっても教えられない微妙の法門である。この我が真実の法の一切を摩訶迦葉に伝授する」と釈尊の悟りのすべてが伝授されたのだという故事によって生まれた拈華微笑である。

 ところでこの拈華微笑の話は中国で創作されたものだといわれているが、真理を伝えるということのおいては何時、どこで作られれた話であるかとか、史実は如何にという問題ではなく、この話頭に釈尊の心、禅の心が息づいていることこそ肝心なのである。このように、本当に大切なことは文字や言葉で説明することも、教えることも出来ないことなのだ。

仏法の伝播とはそういうもので、釈尊より歴代の仏祖に大法は相続される嗣法され伝灯の相承が行われてきたことである。これを嫡々相承(てきてきそうじょう)というが、特に禅門ではこの不立文字 教外別伝を大事にし、家風とする。よって文字や言葉によらず心から心に伝わる以心伝心、阿吽の呼吸にも似て禅の法門の奥義も師から弟子へ師資相承され、的々確実鮮明に継承されるさまを強調して的々相承(てきてきそうじょう)といったりもする。

世尊が拈華すれば、迦葉の微笑(みみょう)ということから仏法の継承がなされたことであるが、俗世間に染まるわれわれとて似たような言葉によらない阿吽の呼吸や以心伝心がある。親しいもの同士、心通い合うもの同士、或は親子においても恋人同士においても深い心の通いあう間柄においては言葉以上に一つのしぐさやサインでツーカーの心の伝え合いだってある。
それはまさに拈華微笑の関係だといえば道人たちに叱られるだろうか。

金波羅華がどんな花なのかは分からない。蓮の花だという説もあるが私的にはインドで普通に咲いていた椿の花に似た火炎樹の花がふさわしい気がする。だが、ここで言う拈華の花そのものに深い意味はなく拈華に対する微笑にこそ深い意味があるのである。

百万本のバラを贈らなくても、たった一本のバラの花をかざして彼女のハートを掴む安上がりの求愛の話も聞いたが、一本のバラは単にきっかけであって、既に二人の間には言葉によらなくても、文字によらなくても通じ合う阿吽の呼吸、以心伝心が合ってのことだろう。

我が禅門の同窓生に微笑(みみょう)とは言わないが微笑(びしょう)という姓の友がいる。学寮で同室になり初めて姓を聞いたときなんて変な名なんだという印象であったが、彼の先祖が深い仏教者でこの「拈華微笑」の微笑を姓にされたのかもしれないと思うと、ただそれだけで今もなお微笑君を尊敬しているし、これからも禅門の布教師として益々の活躍を期待している。