龍の声

龍の声は、天の声

「薩長同盟の真の立役者たち」

2017-05-11 06:08:28 | 日本

「薩長同盟」の本当の立役者は坂本龍馬ではない!月形洗蔵と筑前勤王派
薩長同盟の最大の功労者と問うと、ほとんどの人が坂本龍馬と答えると思う。
しかし、月形洗蔵という人物をご存知か?

月形洗蔵とは江戸末期の福岡藩士であり、薩長同盟の起草文を考案した人物である。
そして大正時代の新国劇『月形半平太』のモデルの一人ともされている。

文久3年(1863年)、5月10日。幕府は攘夷決行を奏上。長州藩は外国船を砲撃。そして八月十八日の政変が発生。長州勢は京都から追放される。そしてこの時、尊攘派の7人の公卿(のち5人)も亡命し、長州に保護される。

元治元年(1864年)7月、禁門の変勃発、長州藩は幕府軍に大敗。第一次長州征討開始に加えて、四カ国連合艦隊が下関を占拠します。そこで幕府軍は、長州藩に対して五卿を藩外に移すよう強行に要求してくる。

そこで月形ら筑前勤王派は長州征討阻止と五卿問題解決のために活動を開始する。
12月、月形は長府功山寺を訪ね、五卿に拝謁して説得。さらに移転に強硬に反対していた長州藩士をも説き伏せる。
この時五卿に随行していた土佐藩の土方久元の証言が残っている。
「秘密に薩長連合の端を開いたのは長府に三条さんが御在になつて居る所へ筑前の月形洗蔵が来て、言ひ出したが初だ。薩長和解の話は筑前が元です。」(明治38年『史談会速記録』)

慶応元年(1865年)2月13日、五卿は太宰府の延寿王院に入る。以来、太宰府は勤王派の策源地と化していく。秘密の会合場所は、薩摩藩定宿「松屋」(この松屋は現在、太宰府の名物である梅ケ枝餅屋となって残っている)。この松屋で月形は西郷隆盛と会談をする。この頃、薩摩の大山格之助と長州の小田村素太郎が太宰府でたまたま面会し、親しく語り合うほどの関係となっている。

そして、この年の5月に松屋にやって来たのが坂本龍馬なのである!これは『七卿在西日誌』にも5月25日に「土州藩坂本龍馬来宰、面会之事」と記されている。ここで龍馬は月形の考える薩長同盟の考案に賛同する。

しかし、6月。台頭した福岡藩の俗倫党による勤王派への弾圧が始まる。所謂、乙丑の獄です。勤王派の藩士、月形洗蔵ら40名、他に女流歌人の野村望東尼が謹慎を命じられる。

そして10月、勤王派の処罰を断行。切腹は勤王派で家老の加藤司書ら7名。斬首は月形ら14名。流刑その他を含めて140名に上り、野村望東尼は姫島へ投獄。

薩長同盟実現という志半ば、月形洗蔵は処刑された。長州藩周旋に傾注することで、薩長同盟の路線を築いた筑前勤王派はここに壊滅してしまう。
 しかしまだ月形洗蔵に教えを受けていた人物が残っていた。そう、坂本龍馬である。龍馬は月形の意志を引き継ぎ、なんとしても薩長同盟を実現させようと最後の仕事を行う。
慶応2年(1866年)1月11日、長州藩士・桂小五郎と薩摩藩士・西郷隆盛、大久保利通らが京都の薩摩藩邸で会談。龍馬立ち会いのもと、薩長連合が盟約された。

東久世通禧が勤王派の生存者林元武に送った書が現在も下関長府博物館に所蔵されている。
そこにはこう書かれている。

「連衡薩長 北筑功 總是 王政開基業」

つまり「薩長同盟は 福岡藩の功績である すべてこれが 王政の基盤となった」と。
 なぜ月形洗蔵ら筑前勤王派は忘れ去られてしまったのか
戦前までは月形らは維新の英雄として知られていた。

『維新史』全6巻(昭和16年)には
「薩州藩論の転換は、やがて薩長融和の機運を醸成するに至つた。その先貌とも称すべきは、第一回征長の役後五卿移転問題に関連し筑前藩士月形洗蔵、早川養敬、喜田岡勇平、筑紫衛等の斡旋により薩長両藩士の交渉の道が拓かれたことである。此等筑前藩士は薩長接近の最初の功労者といふことが出来る」
と、薩長同盟の先駆者として記されている。

 ではなぜ忘れ去られたのか。

 一番の理由は司馬遼太郎の長編時代小説『竜馬がゆく』の大ヒットによると言われている。
大河ドラマにもなり、現在の龍馬像はこの小説の影響と言われている。
 国民的にも人気で保守派の間でも人気の高い坂本龍馬。

僕は決して龍馬を批判しているわけではない。
しかし薩長同盟締結の功績を龍馬以外の月形洗蔵ら筑前勤王派の藩士にも求めるべきである。