龍の声

龍の声は、天の声

「いろは歌とは、」

2017-02-05 06:40:24 | 日本

いろは歌(いろはうた)とは、すべての仮名を重複させずに使って作られた誦文(ずもん)のこと。七五調の今様の形式となっている。のちに手習いの手本として広く受容され、近代にいたるまで用いられた。また、その仮名の配列は「いろは順」として中世から近世の辞書類や番号付け等に広く利用された。ここから「いろは」は初歩の初歩として、あるいは仮名を重複させないもの、すなわち仮名尽しの代名詞としての意味も持つ。


◎概要

現代に伝わるいろは歌の内容は、以下の通りである。

いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす

色はにほへど 散りぬるを
我が世たれぞ 常ならむ
有為の奥山  今日越えて
浅き夢見じ  酔ひもせず
 (中学教科書) 

古くから「いろは四十七字」として知られるが最後に「京」の字を加えて四十八字としたものも多く、現代では「ん」を加えることがある。四十七文字の最後に「京」の字を加えるのは、弘安10年(1287年)成立の了尊の著『悉曇輪略図抄』に「末後に京の字有り」とあって、当時既に行われていたようである。「京」の字が加えられた理由については、仮名文字の直音に対して「京」の字で拗音の発音を覚えさせるためだという説がある。いろは順には「京」を伴うのが広く受け入れられ、いろはかるたの最後においても「京の夢大坂の夢」となっている。


◎文脈の解釈

文中の「有為」は仏教用語で、因縁によって起きる一切の事物。転じて有為の奥山とは、無常の現世を、どこまでも続く深山に喩えたものである。
中世から現代にいたるまで各種の解釈がなされてきたが、多くは「匂いたつような色の花も散ってしまう。この世で誰が不変でいられよう。いま現世を超越し、はかない夢をみたり、酔いにふけったりすまい」などと、仏教的な無常を歌った歌と解釈してきた。12世紀の僧侶で新義真言宗の祖である覚鑁は『密厳諸秘釈』(みつごんしょひしゃく)の中でいろは歌の注釈を記し、いろは歌は『涅槃経』の中の無常偈(むじょうげ)「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」(諸行は無常であってこれは生滅の法である。この生と滅とを超えたところに、真の大楽がある)の意訳であると説明した。
しかし語句の具体的な意味については諸説ある。前述の『悉曇輪略図抄』においては「いろは」は「色は」ではなく「色葉」であり、春の桜と秋の紅葉を指すとする。また清音か濁音かにより文の意味は異なるが、悉曇輪略図抄は「あさきゆめみし」の「し」は「じ」と濁音に読み、すなわち「夢見じ」という打消しの意であるとする。一方『密厳諸秘釈』はこの「し」を清音に読み、助動詞「き」の連体形「し」としている。17世紀の僧観応の『補忘記』(ぶもうき)では最後の「ず」以外すべて清音とするなど、この歌は古文献においても清濁の表記が確定していない。「夢」や「酔」が何を意味するかも多様な解釈があり、結局のところ文脈についての確定した説明は、現時点では存在しない。


◎作者

作者は諸説あるが、確定した説はなく、現時点では不明である。
院政期以来卜部兼方の『釈日本紀』などには、いろは歌は空海の作であるとしている。しかしそれが史実である可能性はほとんどない。空海の活躍していた時代に今様形式の歌謡が存在しなかったということもあるが、何より最大の理由は、空海の時代にはまだ存在したと考えられている上代特殊仮名遣における「こ」の甲乙の区別はもとより、「え(e)」と「や行え(je)」の区別もなされていないことである。ただし破格となっている「わかよたれそ」に注目し、「あ行のえ」があった可能性(わがよたれそえ つねならむ)を指摘する説も出されている。

『いろはうた』の著者、小松英雄はなぜ空海が創作者とされたかについて、

・書の三筆のひとりである。
・用字上の制約のもとに、これほどすぐれた仏教的な内容をよみこめるのは空海のような天才にちがいない。
・さらに、いろは歌はもともと真言宗系統の学僧のあいだで学問的用途に使われており、それが世間に流布したが、真言宗においてまず有名な僧侶といえば空海であることから。

といった理由をあげ、いろは歌の作者は真言宗系の学僧であると推定している。また後述の暗号説を根拠に、空海よりさらに古い時代の柿本人麻呂を作者とする説や 、讒言で大宰府に左遷された源高明が作ったなどの説も一部に存在するが、いずれも付会の域を出ない。


◎歴史

文献上に最初に見出されるのは承暦3年(1079年)成立の『金光明最勝王経音義』(こんこうみょうさいしょうおうぎょうおんぎ)であり、大為爾の歌を収録する天禄元年(970年)成立の源為憲の著『口遊』には、同じく仮名を重複させない誦文であるあめつちの詞については言及していても、いろは歌のことはまったく触れられていないことから、10世紀末~11世紀中葉に成ったものとみられる。


◎金光明最勝王経音義のいろは歌

文献上の初出である『金光明最勝王経音義』とは、『金光明最勝王経』についての音義である。音義とは経典に記される漢字の字義や発音を解説するもので、いろは歌は音訓の読みとして使われる仮名の一覧として使われている。ここでの仮名は借字であり、7字区切りで大きく書かれた各字の下に小さく書
かれた同音の借字一つ乃至二つが添えられている(ただし「於」〈お〉の借字には小字は無い)。

以呂波耳本へ止
千利奴流乎和加
餘多連曽津祢那
良牟有為能於久
耶万計不己衣天
阿佐伎喩女美之
恵比毛勢須

 『金光明最勝王經音義』

それぞれの文字には声点が朱で記されており、それぞれの字のアクセントが分かるようになっている。小松英雄は各文字のアクセントの高低の配置を分析し、このいろは歌が漢語の声調を訓練するための目的に使われたのではないかと考察している。


◎出土品

三重県明和町の斎宮跡で、平成22年(2010年)に平仮名でいろは歌が書かれた4片の土器が発見された。これは平安時代の11世紀末から12世紀前半の皿型の土師器であり、出土物でひらがなで記されたいろは歌としては国内最古となる。4個の破片をつなぎあわせると 縦6.7センチ、横4.3センチほどになり、内側に「ぬるをわか」、外側に「つねなら」と墨書で書かれている。繊細な筆跡と土器両面に書かれていることから斎宮歴史博物館では斎王の女官が文字の勉強のために記したと推定している。
また木簡では、岩手県磐井郡平泉町の志羅山遺跡で出土した「らむうゐの」「おく」と書かれた12世紀後半のものなどが存在する。

◎暗号説

巷間の一部に、いろは歌の作者が折句で暗号を埋め込んでいるとする俗説が古くから流布している。暗号とからめて表面上の文意にも二重三重の異なった意味なども指摘される。『金光明最勝王経音義』など古文献の一部では、七五調の区切りではなく、下のように七文字ごとに区切って書かれていることがある。この書き方で区切りの最後の文字を縦読みすると「とか(が)なくてしす(咎無くて死す)」となる。これをもっていろは歌には作者の遺恨が込められており、源高明を作者とする説が出た。しかし大矢透はこれを「付会」としている。また作者は高明ではなく柿本人麻呂であるとし、同じく五文字目を続けて読むと「ほをつのこめ(本を津の小女)」となる(本を津の己女、大津の小女といった読み方もある)。つまり、「私は無実の罪で殺される。この本を津の妻へ届けてくれ」といった解釈もある。

いろはにほへと
ちりぬるをわか
よたれそつねな
らむうゐのおく
やまけふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす

義太夫浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』の「仮名手本」とは、赤穂浪士四十七士をいろは仮名四十七文字になぞらえたものだとされているが、じつはこの「とがなくてしす」の暗号が当時広く知られていることを前提として「仮名手本」と付けられたのだともいう。すなわち赤穂浪士たちが「咎無くして死んだ」ことを意味するというものである。江戸時代はこの読みは偶然という見方が主流だったが、縁起が悪いので教育に用いるべきではないという意見もあった。


◎現代語訳

大乗仏教の「空」の悟りを表したもの。

1.いろはにほへど ちりぬるを (色は匂へど散りぬるを)
A.色(しき)(=物資的現象)の花は匂うけれども散ってしまうのに
B.世の中に、楽しいこと悲しいこと、悔しいことむなしいこと、幸せな人も不幸な人も、金持ちも貧乏人も、いい思いをしている人も恵まれない人も、得するやつも損するやつも、美しいものも醜いものも、様々なものや現象や出来事があるが、これらの目に見える現象はすべて、夢のまた夢、いずれ変化し消えてなくなってしまう、むなしいものである。

2.わがよたれぞ つねならむ (我が世誰ぞ常ならむ)
A.私の人生も誰も永遠でありえようか。
B.私自身もこの世の中も誰もかれもが、どんなに華やかな人生でも、どんなに悲惨な人生でも、いつかは変貌し、破壊され、消滅してしまう。すべてがもともとこの世に存在しない一瞬の幻想なのだから、

3.うゐのおくやま けふこえて (有為の奥山今日越えて)
A.有為(人間の所行)の深い山を今日越えて。
B.怒りや妬み、愛も憎しみも、願望も欲望も希望も、幸福も不幸も、これらはすべて実体のない幻想にすぎない。心の奥にある、実体のないものにとらわれた煩悩を今日克服して空(くう)を悟り。

4.あさきゆめみじ ゑひもせず (浅き夢見じ酔ひもせず)
A.浅はかな夢など見るまい、酔ったりもしない。
B.この人生も、この世界も、すべてが実体がない。そのようなものに夢を抱くのは愚かな煩悩である。そんな夢など見ないようにしたい。幸福や希望に酔ったりもしない。

大乗仏教では、夢や愛はよくないものとされます。それは絶望と憎しみと同じ、煩悩に過ぎません。すべての現象(色)は実体のない幻想(空)なのです。つまり、色即是空。すべては、自分も世界も、存在しないのです。存在するように見えているのは、縁起(現象と現象の関係からなる差異)が作り出した錯覚です。愛と憎しみ、幸福と不幸、そんな対立など初めから実体がないことを悟って、対立を超越したとき、その奥、その実相に超入した時は、すべてが完全円満妙有の世界が開かれる。

「今、此処、吾れ、実相完全円満である。」
人は菩薩となり仏陀となって、自分のまわりを慈悲で満たし、心と世界が極楽になります。

この大乗仏教の悟りを表した歌が、いろは歌です。つまり、盛者必衰、寂滅為楽。涅槃教だけでなく、大乗仏教の初期の姿である般若経の基本思想です。