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「A級戦犯は戦争犠牲者といえるのか④」

2015-05-27 08:10:22 | 日本

◎サンフランシスコ講和条約と「法務死」

1951年9月8日、サンフランシスコのオペラハウスに世界の52ヵ国の代表が集って日本が独立するための対日講和会議が催されたのだが、すでに厳しい冷戦状況で中国は招聘されず、インドはそれに反対して参加を拒み、ソ連やポーランド、チェコスロバキアは参加はしたが署名はしなかった。いわゆる片面講和となったのである。

なお、47年当時の条約案は、日本の軍国主義の復活を阻止するために、連合国の無制限の統制下に置く、あるいは、戦争責任を明記し、加えて戦犯容疑者をさがし出して処罰するなどときわめて厳しかったのだが、冷戦が強まって、米、英などが共産主義勢力に対して日本を橋頭堡にするために緩やかな条約となった。

そして東京裁判については、講和条約第11条で「裁判を受諾する」とはっきり謳った。

占領下から独立する当時の国際事情に詳しい波多野澄雄氏は、「英文ではjudgementなのだが、外務省は、裁判全体が正当な手続きによる裁判であると同時に、少数意見にも配慮したことを示すために、『判決』ではなく『裁判』ということにしたのだろう」と説明した。手続法など、東京裁判への疑問、さらに否定論などが少なからず生じているのを考慮したのだろうか。

なお、第11条では「刑を宣告した者については、この権限〔赦免や減刑の権限〕は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない」と明記していて、一見厳しいようだが、波多野氏は次のように解説する。

「講和後、つまり独立した後は、刑の執行は日本政府に委任する一方、赦免、減刑などの恩典については、関係国の了解があればできるということです」

なお、とくに国外の中国やアジア諸国でBC級戦犯に問われたケースでは事実誤認が少なくないので、あらためて日本で再審するべきだという意見もあったのだが、第11条は"再審"を否定し、あくまで日本政府が勧告し、関係国の了解を得て赦免、減刑を選択するということになったのである。

日本が独立した段階で拘禁されている戦犯は1860人もいた。そのために、ただちに議員立法で戦犯者の留守家族を対象にした戦傷病者戦没者遺族等援護法(援護法)が国会に提出された。そしてこれがきっかけとなって、戦犯釈放に関する4000万人分に及ぶ請願や陳情が国会になされ、戦犯釈放に関する国会決議が4度におよんだ。

「政府による関係国への赦免勧告は、まずBC級からはじまりました。いちはやく検討に応じたのはアメリカですが実際の釈放は最も遅く、岸内閣のときの58年です。関係国では中華民国(台湾)が一番早く、フィリピン、フランス、イギリス、そしてオランダがつづきました。オーストラリアも57年7月に全員を釈放しました」

波多野氏が説明した。

A級戦犯の仮釈放は、BC級戦犯にくらべると難航したがスターリンの死後フルシチョフ首相の平和攻勢もあって、日本の比重が増し、58年末には全てのBC級、さらにA級戦犯の釈放が実現した。そしてBC級、A級を問わず死刑を執行された戦犯も「法務死」とされ、戦死の場合と同様に援護法や恩給法の対象となった。

それにしても、戦死の場合はあきらかに戦争犠牲者であり、BC級戦犯として処刑された人物も犠牲者といえなくないのかもしれないが、A級戦犯は戦争犠牲者とはいえないのではないか。それにA級戦犯も「法務死」ということになると靖国神社に合祀されてもなんら問題はない、ということになる。

『東京裁判の国際関係』(木鐸社)という700頁近い大著の著者である日暮吉延氏(帝京大学法学部教授)に問うた。日暮氏は牛村圭氏と『東京裁判を正しく読む』(文春新書)という著書も出している。

「恩給の問題は残された遺族が気の毒で、遺族には責任がないということでしょうが、戦犯で処刑された人々を靖国に合祀するのは無理筋ではないですか。A級戦犯を合祀した宮司は、合祀しないと東京裁判を認めたことになるといっていますね」

日暮氏は慎重な口調で話した。歴史家で昭和史に詳しい秦郁彦氏にも問うた。

あきらかに戦死ではないA級戦犯をなぜ靖国に合祀するのか、松平永芳宮司は『講和発効までは戦争が継続していたわけで、だから処刑されたA級戦犯は戦死だと見なし、東京裁判を否定するためにその手段として合祀したのだ』と言っている」

 こうなると、そもそも靖国神社とはどういう存在なのか、根本的に考え直さざるを得ないことになる。




<了>