龍の声

龍の声は、天の声

「河原操子と蒙古土産」

2014-11-23 08:45:01 | 日本

◎国際的な事業に従事するには西洋人に負けぬとの自信力が必要

「かゝる国際的事業に従事する以上、西洋人に対する時卑屈にならざるだけの自信力が必要」(『蒙古土産』)

操子がシナ人の女子教育に初めて携わったのは、横浜の大同学校である。大同学校は、横浜在住のシナ人婦女子の為に設けられた学校であり、風俗習慣の全く違う外国人に教育を施す事の難しさを操子は痛感し、大変な努力によって壁を乗り越えて行った。操子は記す。「しかし、そこに到るまでには、かなりの忍耐と努力とが必要だった。風俗習慣共に著しく相違する外国人に教育を施すことであれば、日本風の普通の考えでは誤解を招く恐れがあることが少なくなかった。時には屈辱に類する様な事もあったが、すべて耐え忍んで、ひたすら職分の為に励んだ。その様な場合、これは私の務めなのだと信じることによって、忍耐も苦痛には感じないようになる事が解って嬉しかった。」

操子は、シナ人生徒との意思疎通を図る為に、放課後に北京語を学んだ。更には、この様な国際的な事業に従事するに当っては、西洋人に対して卑屈にならないだけの自信力が必要と思い、西洋語の一つ位は出来る様になろうと考え、フランス人が創設した紅蘭女学校の寄宿舎に入って夜にはフランス語の学習に精を出した。操子は「大同学校在職中に感じたのは、清国人を教育するには、悠々迫らざる寛裕の態度が必要だという事である。又一般清国人に対しては、圧抑することなく、だからといって寛大に過ぎず、中庸を得ることが、万事に成功する秘訣だという事も悟った。」と記している。

海外に雄飛する操子にとって、この横浜での体験は自信を与えるものとなった。異文化との接触に対し、忍耐と努力で乗り越え、更には「これこそが自分の務めである」と信じ、歯を食いしばって頑張り抜いたのである。しかも、北京語だけでなくフランス語まで学ぶ操子の姿勢には、西欧列強に対等に対峙せんとの明治の日本人の志の高さを感じる。明治の女性は将に誇り高き「武士の娘」であった。

後に操子は上海から北京へと赴く船で、揺れて波しぶきが立つ甲板の上を闊歩する西洋人の姿を見て、彼らに負けてなるものかと自らも甲板上を散歩し、ある西洋婦人に挑まれて徒競走をして勝った事があった。その事を決意させたものが「海国日本の婦人が、かばかりの浪にひるみては国辱にもなりなん」との思いであった、と記している。


◎シナ人の教育に従事する以上、彼らと同じ場で生活をすべきである

「上海着後まもなく城内に住むべく決心しぬ。」(『蒙古土産』)

下田歌子女史は、大同学校で励む河原操子を頼もしく思い、上海に住む呉懐疚氏から「支那の女子教育は是非東洋人の手で行いたいので、貴国婦人の中から適良な教師を周旋して戴きたいとの依頼」があったのを受けて、河原操子にその白羽の矢を当てた。

下田女史は日本を発つ操子に「あなたは日本から行く最初の女教習ですから、しっかりやって下さらないと日本婦人の名誉に関わります」と述べた。操子は記す。

「私はあたかも日本婦人を代表して、外国に使するものの様に、又戦争に赴く勇士の様に送り出されて、こんなはずではなかったのにと思ったが、もはやどうしようもない。この上はただ自分の力の限りを尽し、斃れて後已まんのみと覚悟して、師友や近親に別れて清国の土を踏んだが、この覚悟は爾来夢の中でも忘れる事はなかった。」と。そして、ある決意を固めたのだった。

「深夜夢から覚めた時や、暁早く目が覚めた折など、最初の日本女教習として成功するにはどのようにすべきか、真に清国人に信頼されるには如何にすべきかと、小さな胸を痛めた。そして私は、上海に着いてまもなく城内に住もうと決心した。」

シナ人の不潔さは、現代でも問題となっているが、この当時の上海城内のシナ人居住区の不潔さは想像を絶するものであったという。外国人は城外に居住して通うのが通例であり、まして外国人女性が城内に住むという事は常識では考えられなかった。だが、河原操子は、城内での居住を決意したのである。

「学堂は城内にあり、生徒の過半は寄宿生である、彼女等と生活を共にする事こそ、真に彼女等の愛導者となり、同情者となる事が出来るはずだと考えた。唯一人の女性教師である私が、不潔を厭って独り城外に居住したなら、どんなに熱心に授業しても、どんなに誠心を以て訓育しても、彼女等を心の底から信頼させる事は不可能であろう。私が生徒達から信頼されない女教師になったなら、日本婦人の不名誉になる、と師友が言われた送別の言葉を思い起こすと、不潔も悪臭も気にするものかと、私は決然として城内居住の勇気を奮い起こしたのだった。」

操子は、全生活を通して子弟と交わりその絶大な信頼を得る事となる。素晴らしき女性教育家であった。


◎日本女性の私には大和魂があるのだ。気弱になっては情けない

「女なりとて我も亦、大和魂は有てるものを、かく心弱くてはかなはじ」(『蒙古土産』)

日清戦争後の三国干渉によって日本を譲歩させたロシアは、満州に軍事力を展開し、更には朝鮮半島に触手を伸ばし始めていた。それに対しわが国は、ロシアのライバル大英帝国との日英同盟締結に成功してロシアに備え、遂には日露戦争を決意するに至る。その様な中で内蒙古の地にもロシアの手が伸びて来ていた。だが、日本を訪れた事のあるカラチン王だけは日本を高く評価し、好意的であった。カラチンには日本の軍事顧問も派遣されていた。だが、日露戦争が勃発すれば武官の滞在は認められない。

その様な時、カラチン王から女子教育の為の日本人教師の派遣を求められたわが国政府は、喜んでその申し出を受けると共に、日露戦争時の情報収集、特殊作戦(シベリア鉄道爆破工作隊)支援を託するに足る一人の女性教師をカラチンに派遣する事とした。その任を任されたのが当時28歳の河原操子であった。操子は明治三十六年十二月に、内蒙古・カラチン王府教育顧問として招かれ、毓正女学堂を創設して蒙古子女の教育に当った。

内蒙古のカラチン王府は、北京の東北に位置し、万里の長城を越えて、旅程九日の奥地にあった。「喀喇沁はいづこ」と聞いても、日本人の中で殆ど知る者は居なかった。その地に操子は単身で赴くのである。カラチン王府からの迎えの者と共に、日本政府は警護と沿道の視察を兼ねて一士官と兵士を派遣してくれてはいた。

操子は父からの励ましの手紙をもらい、勇気を奮って出発した。北上するにつれ氷点下の厳寒となって来る。故郷を想い父の事を思うと心細さに涙が溢れて来る。

しかし、操子は「女であっても私には大和魂が宿っているのだ。こんなに心弱くなってはならない」と自分に鞭打ち、自分を励ました。その上、こんな事で体を壊してしまったなら、私を信じてこの様な重い任務を与えて下さった方々に申し訳が立たないと気を入れ替え強く持った。交通の要衝の地である熱河では、電信設備や街の様子などを手帳に書き付けて有事に備えた。宿は蜘蛛の巣が張り薄気味悪い部屋ばかりであった。操子は、心地よい旅であったならかえって気がくじけ弱気になっていたかもしれない。「憂き宿はうき旅の鞭撻者よなど、戯れ言ふ」とユーモアを交えて書き記している。

心細さの極みの中、操子は落ち着きを取り戻していた。


◎いざという時には自分で生命を絶つ

「人の手などにかゝりて最後を遂げんこと口惜しければ、見事自刃せん覚悟にて」(蒙古土産)

操子には、内蒙古の地の利を活かした日露戦争の支援という、もう一つの国家的な使命があった。

明治三十七年二月、日露開戦となるや、カラチンにもロシア側のスパイが多数出没し情報収集に当る様になる。それを操子は出来るだけ委しく調べて本国に報告した。奥地から来る通信は操子自ら区分けして、熱河から電報をすべきものはその手配をし、北京まで直送すべきものは特使を発した。特別任務班の入蒙の際は、秘密裏に連絡をとって任務遂行を助けた。

操子は記す。「とにかくこの地には私一人しか居ないので、女ながらも双肩に母国の安危を担っている心地がして、躊躇していては彼等(ロシア側)に機先を制せられる事もあるかも知れないと、心も心ならずに、時には王、王妃に請うて、特に飛脚を出して戴いた事もあり。自分でその大胆さに驚くほどの事も行なった。この様な重大事に関しては、微力な自分では何のお役にも立つ事は出来ないかもしれないが、至誠の祈り心を以て、日本と朝鮮との関係などを王に説明申し上げ、王様もうなずいてお聞き頂いた。」と。

周りにはロシアの手の者も多く、操子を罵り排撃せんとする者も居たが、操子は王室教育顧問の待遇の為、安易には手を出せなかった。操子はその時の覚悟の程を次の様に記している。

「そうはあっても私は、ロシアに好意を寄せる王府内の多数の人々に憎悪されているので、いついかなるどのような危難が私の身に迫るか予測も出来ない。その様な場合、他人の手にかかって最期を遂げる様な事があったら口惜しいので、その時は見事に自刃しようと覚悟し、入蒙の際に父から送られた懐剣を寸時も放さず持ち、又護身用のピストルも常に側に備えて置いた。更に、何時変事が生じても差しさわりの無い様に、常に荷物の整理をして、表裏両面の事業に心を砕いた。」と。

操子の父忠は手紙で、操子の入蒙を喜び励ますと共に、武士らしくわが娘に万一の時の覚悟を諭していた。

忠は「昔烈女木蘭は、男装して戦地へ出発した。お前も祖国の為に大切な任務を帯びて入蒙するのだから、千危万難は覚悟の前であろうが、万一の時は此懐剣を以て処決し、日本女子の名を汚すな」と書いて、一口の懐剣を贈った。その懐剣を操子は肌身離さず持っていた。


◎決死の勇士達への優しい心づくし

「生命をかけて御国の為に特別の任務を果さんとせらるゝ、雄々しくも頼もしき方々を、明日は御慰めいたさん」(蒙古土産)

ロシア軍の後方を攪乱すべくシベリア鉄道破壊の任務を帯びた「特別任務班」の中の三班は二月から三月にかけてカラチンに入り、装備を調達し最終調整して任地へと旅立って行った。その中には、後にロシアに捕われて処刑される際に、自らの所持金をロシア赤十字に寄付する事を申し出て、欧米人に感動を与えた横川省三や沖禎介も居た。彼等の最終のお世話に操子は当ったのである。

操子は、国の為に決死の覚悟で困難な任務に当ろうとしている方々の心の慰めにでもなればと思い、花瓶を飾って草花を活け、江戸土産の錦絵を掲げ、部屋の飾りを総て純然たる日本風に仕立てて彼らとの面会に臨んだ。烈士の中には恩師の子であり、旧知の脇光三も居た。死を覚悟して任に当る彼等の心中を思い、心からの無事を祈るのだった。