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「後藤新平とは、①」

2014-10-04 07:05:46 | 日本

大風呂敷と揶揄されるほどスケールの大きい政治家 後藤新平。

明治から昭和初期にかけて幅広い分野にわたって活躍した政治家。医師として出発し、内務官僚や南満州鉄道株式会社(満鉄)総裁、東京市長などを務め、1923年の関東大震災直後には被災した東京の復興のための「帝都復興院」を創設し、リーダーシップを発揮した後藤新平とは如何なる人物なのか、以下、3回にわたり学ぶ。



◎医者時代  ~36歳

安政4年6月4日(1857年7月24日)に生まれる。明治維新の“賊軍”の地、東北・水沢で、質素ながら学識高い武家に生まれた後藤新平は、遠縁の高野長英の存在を心に抱きながら、幼少時から漢学を学ぶ。1869年、胆沢県大参事に赴任した安場保和に才能を見出され、安場と部下・阿川光裕の支援のもと郷里を離れて須賀川医学校に学び、科学的な思考法をわがものとする。

1876年、愛知に転任した安場・阿川を追うように、新平は愛知県病院に赴任する。しかし後藤の目は、個人を対象とした医学を超えて、社会全体の「衛生」(生を衛ること)に向けられていた。一時は病院を離れ西南戦争凱旋兵の検疫に従事、復帰後は次々と建白書を提出、私立衛生会の前身・愛衆社の創設に着手するなど、後藤の存在は、いつしか中央政府の内務省衛生局長・長与専斎の目にも止まるようになっていた。1882年、岐阜で暴漢に襲われた板垣退助の治療のため県境を超えて急行した後藤に、板垣は「医者にしておくには惜しい」と呟く。以後、板垣の予言をなぞるように後藤の活躍は続く。

1883年、長与専斎の命で衛生局に採用、また同年、安場の次女・和子と結婚する。公私ともに足場を固めた新平は、代表作『国家衛生原理』(1889)をまとめ、さらに念願のドイツ留学を果たす。コッホ、北里柴三郎らと共に最新の医学に接し、ビスマルクの社会政策を目の当たりにして92年帰国した後藤を待っていたのは、内務省衛生局長のポストであった。


◎衛生局長時代 37~41歳

内務省衛生局長となった後藤新平は、明治中葉の世を騒がせた相馬事件に法医学の立場から関与する。持ち前の情の深さから関わりを深め、やがて自由党首領で相馬家の弁護士星亨や外相陸奥宗光の圧力により拘留、職を解かれる。裁判を闘いぬき無罪を勝ち取ったが、この人生の挫折への反省と「不倒翁」の精神は以後の人生を支える原点となった。

1894年、牢を出た後藤を待っていたのは、日清戦争からの大量の凱旋兵の検疫事業だった。瀬戸内海の三つの島に巨大な検疫所を短期日に建設し、コレラの侵入と戦うという、空前の難事業だったが、後藤は文字通り不眠不休の取り組みの末、遂に成功させる。その背景には、後藤の力を見抜いて任せた上司・児玉源太郎少将の絶大な信頼があった。かくして後藤は内務省衛生局長に復帰し、児玉と後藤との間には深い友情の絆が結ばれる。

復帰後の後藤は、ビスマルクに学んだ社会政策の実現に邁進する。北里柴三郎の伝染病研究所の国有化、恤救基金案・法案、救貧法案、監獄衛生制度意見書など、立て続けに元勲伊藤博文への建白や議案を提出したが実現に至らない。しかし、時代は後藤新平を求めていた。日本政府は、日清戦役で台湾を獲得したものの、阿片の習癖、島民の叛乱、群賊の横行に手を焼いていた。ここに斬新な阿片政策を建白したのが後藤だった。これが取り上げられ、後藤は桂太郎・伊藤博文とともに台湾を視察、台湾統治法を建議し、台湾島という波乱万丈の舞台のとば口に立つ。


◎台湾時代 41~48歳

総督児玉源太郎に抜擢された後藤新平は、1898年から足かけ9年間、民政局長として台湾に上陸した(のち民政長官)。炎熱と熱帯病の貧しい地、複雑な人種と種々の異言語、土匪の横行する“水滸伝”的世界において、後藤の“無方針の方針”による統治とはいかなるものだったのか。

まず、総督の絶大な信頼の下に、総督府のリストラと組織改革を断行、後藤は若い人材を抜擢した。そして財政を緊縮しようとする本国との悪戦苦闘の末、台湾事業公債発行と台湾銀行創設に成功、その資金により土地調査、縦貫鉄道敷設、築港、さらに阿片・樟脳・食塩の専売事業を立ち上げる。その間、匪賊を投降させて鉄道・道路・郵便事業に従事させ、日本軍部との葛藤のなか、水力発電の確保、市街地整備、上下水道・衛生制度・学制の確立など近代化を強力に推し進めた。台湾のインフラストラクチャーとして、今日に引き継がれ発展している面も大きい。

台湾は、対岸の清国領土福州・厦門の経済圏に含まれたが、そこは列強の跳梁する地域、したがって台湾統治はすなわち対岸政策であった。義和団の乱の波及もあって一時は台湾から陸兵派遣寸前という事件もあったが、後藤は樟脳事業や鉄道敷設という経済中心の対岸政策を進めた。

土匪問題が一段落して、新渡戸稲造を伴った六ヵ月間の外遊の後、日露戦争を経て、満洲が新たな新天地として浮び上がった。そして、日露戦争で参謀次長として活躍した盟友児玉大将の思いがけない急逝が、後藤を満洲の荒野へと押し出すことになる。


◎満鉄時代 48~50歳

日露戦後のポーツマス条約で、日本は東清鉄道や撫順炭鉱など満洲(清朝東三省)の権益を獲得、その運用のため南満洲鉄道株式会社(満鉄)を設立する。1906年、その初代総裁に任命されたのが後藤新平であった。しかし満洲の地は、日本の外務省や関東州都督府、満鉄と、清国の東三省総督や巡撫とがせめぎあい、ロシアの影響も色濃く残り、列強の強い注視にさらされていた。

国内外の勢力が拮抗するなか、後藤は、東亜経済調査局、中央試験所、そして世界水準のシンクタンクとされる満鉄調査部を設立し、総合的調査に根ざした満洲経営を遂行する。外債政策により捻出した経営資金を元手に、優秀な「午前八時の人間」を抜擢、副総裁中村是公以下八人の理事を縦横に使い、満鉄軌道の広軌化を一年で実現、鉄道駅を中心とした長春などの広大な都市群やヤマト・ホテルの建設、巨大な大連築港、旅順工科学堂・南満医学堂といった教育機関の創設など、八面六臂の活躍をする。

その中でも、後藤の眼は常に世界情勢に向けられていた。「文装的武備」を旗印に満洲ひいては清国・アジアの安定を模索する一方、勃興著しい新大陸アメリカを、ユーラシアの連繋により牽制する「新旧大陸対峙論」を打ち出す。その実現への熱意は、当時韓国統監であった元勲伊藤博文を動かすことになる。1909年10月、ロシア蔵相との会談にハルビンを訪れた伊藤は、会談を終えた後、凶弾に倒れるのであった。