龍の声

龍の声は、天の声

「伝習録②」

2014-05-15 08:58:23 | 日本

◎徐愛聞く
「今の人は父には孝行、兄には弟(よく従う)ということを知っているけれど、孝たりえず、弟たりえません。とすれば、知と行ははっきりと二つのものです。」


先生答え
「これは、もう私欲によって分け隔てられているのであって、知行の本来的なさまではない。知っていて行わないなんてことは今までない。知っていながら行わないのは、ただ知っていないだけである。聖賢が知行を教えようとしたのは、まさに本来的なさまに戻そうとしたからだ。人にこうさせればそれで済むというものではない。それゆえ『大学』は真の知行を人に見せて、『よい色を好むように』とか『悪臭をいやがるように』と言う。よい色を見るのは知に属し、よい色を好むというのは行に属する。ただそのよい色を見た時にはもう自ずと好んでいる。見た後に、さらに心を替えて好もうとするのではない。悪臭をかぐのは知に属し、悪臭をいやがるは行に属する。ただその悪臭をかいだ時にはもうおのずといやがっている。かいだ後でさらに心を替えていやがろうとするのではない。

鼻づまりの人は悪臭が目の前にあっても、かぐことができないから、またそれほどいやがらない。またただ臭いを知らなかっただけだ。たとえば、ある人が孝を知り、弟を知っていると称する場合、必ずその人がすでに孝・弟を行ったということがあって、やっと彼は孝を知り、弟を知っていると称せるはずだ。まさか孝・弟についていささか話せるほど理解しているから、孝・弟を知っていると称せるわけではなかろう。さらに痛みを知るという場合、必ずもう自ら痛がったことがあって、やっと痛みを知るわけだ。寒さを知るとは、必ずもう自ら寒がったことがあり、空腹を知るとは、必ずもう自ら空腹だったことがあったわけだ。知行はどうして分けられようか。これが知行の本来的な様であり、私意が分け隔てたことはないものだ。聖人が人に教示するのは、必ずこのようであってこそ、やっと知と言え、そうでなければ、ただもう知っていないだけということなのだ。これは、実になんとも緊要切実な工夫(実際的な研究・修養)なのだろう。ほかの者が今ひたすら知行を二つにして説こうとするのは、どういう意図か。それがしが、一つのものとして説いたのは、どういう意図か。もし主張の根本理念を分からなければ、ただただ一個二個と説いても、意味がない。」


・徐愛聞く
「古人が知行を二つにして説いたのは、やはりはっきり分からせようとしたからでしょう。一方で知の功夫をして、一方で行の功夫をして、功夫はそこで落ち着きます。」


先生答え
「これでは、かえって古人の根本理念を失っている。それがしは、嘗てこう言った。知は、行の方針で、行は知の工夫だ。知は行の起点で、行は知の成就だ、と。もし、これが分かったなら、ただ知と言った場合、もう自ずと行はそこにあり、ただ行と言った場合、もう自ずと知はそこにあるのだ。

古人が、知を説き、さらに行を説いたのは、ただ世間ではある種の人がいて、何も考えず勝手に振る舞い、全く思惟反省できなかったからだ。ただのやみくもな行為だった。だから、知を説いて、やっと行がよくなったわけだ。さらにある種の人がいて、とめどなく広いものを対象にして、地に足をつけずに(=現実から離れ)思索にふけり、全く確実に身をもって行おうとしなかった。ただ古人ののこした消息・痕跡で推測しているにすぎない。だから行を説いて、やっと知が確実なものになったのだ。これは古人がやむを得ず偏向を正し弊害をなくそうとした言い方なのだ。もしこの意味が分かったなら、多くの言葉は必要ないだろう。今の人は、なぜだか知行を二つに分けようとする。先に知ってから、行うことができると考えている。今しばらく講習討論して知の工夫して、知が確実なものになるのを待って、やっと行の工夫をしようとする。だから、そのまま終身行わず知らないということになる。これは小さな欠点ではなく、その由来は、もう一日どころではなくかなり古くからあるのだ。それがしが、知行合一を説くのは、まさに病に対しての薬なのだ。何もそれがしが、こじつけて、でっちあげたのではない。知行の本来の様は、もともとこの通りなのだ。今もし、根本理念が分かったら、二つと言ってもかまわない。やはりただ一つのものだからだ。もし根本理念が分からず、一つと言ったなら、やはり何の役にもたたない。ただの無駄ばなしだ。」
 

◎徐愛聞く
「以前、先生の至善に止まるの教えをお聞きして、もう工夫で努力すべき点が分かりました。ただ朱子の格物の読み方と結局符合できないものかと思います。」


先生答え
「格物は、至善の工夫だ。至善が分かったなら、格物は分かる。」


・徐愛聞く
「以前、先生の教えで格物の説を推論して、また大略は分かったような気がします。ただ朱子の読み方は、『書経』の精一、『論語』の博約、『孟子』の尽心・知性などに、みな証拠があります。こういうわけで胸が晴れません。」


先生答え
「朱子の注に『子夏は厚く聖人を信じ、曾子は自分自身を反省した。』というが、篤く信じるのは、もともとよい。しかし、自分自身を反省した切実さには及ばない。どうして旧聞にとらわれて、適切なものを求めないのだ。たとえば朱子は程子を尊信したが、納得がいかないところになると、やはり軽々しく従わなかったものだ。精一・博約・尽心は、もともと私の説と符合している。君がただ思考していないだけだ。朱子の格物の読み方は、牽強付会を免れない。本旨ではない。精は一のための工夫であり、博は約のための工夫だ。曰仁くん(=愛のあざな)は、知行合一の説に明るいわけだから、わずかな言葉で悟れよう。『孟子』の尽心・知性・知天は、『中庸』にある生知安行のことだ。『孟子』の存心・養性・事天は、『中庸』にある学知利行のことだ。夭壽不貳(=早死にか長寿かをかまわない)、修身以俟(=身を正しくして天命を待つ)は、『中庸』にある困知勉行のことだ。朱子は、間違って格物を解釈し、ただここの意味を逆さまに見てしまい、尽心と知性とを、知至(知は完成した)・物格(物の理に通じた)として、初学者に生知安行の事をするように要求する。どうしてできようか。」


・徐愛聞く
「尽心・知性は、どうして生知安行なのですか。」


先生答え
「性は心の本体だ。天は性の本源だ。尽心は、とりもなおさず尽性だ。ただ天下の至誠のみが性を尽くすことができ、天地の万物生成に関わるのだ。存心は、心が尽くされていない段階だ。知天とは、知州(州知事)・知県(県知事)のような知で、自身の本分上の事だ。自身と天とを一体とする。事天とは、子が事父(父につかえる)、臣下が事君(君につかえる)ようなものだ。うやうやしくつかえて、やっと過失のないようになるが、まだ、天と二つで別々の段階だ。これが、聖人・賢人の違いだ。夭壽(早死にか・長生きか)のどっちだろうと心を二つにして気にかけることをしない云々になると、学者にひたすら善をなさせる段階だ。困窮・栄達・早死に・長寿などによって、善をなす心を動かしてはならず、ただ修身をして天命を待ち、困窮・栄達・長寿・早死になどには天命があることを悟り、やはりこのような事情によって心を動かすことがなくなるのだ。前の事天は天と二つで別々なのだが、もう天は目の前に見えている。俟命(命を待つ)は、まだ会っていないが、ここで待っているようなものだ。これは、初学が心を決めるはじめの段階で、苦労してつとめる意味合いがある。今はというと、なんとも逆さまにしている。だから学者に着手するところをなくさせているのだ。」


・徐愛聞く
「以前先生の教えをうかがって、また、かすかに功夫はかくあるべしというのが分かりました。今この説をうかがって、ますます疑いのないものとなりました。愛は昨日の朝、次のように考えました。格物の物の字は、とりもなおさず事の字であり、すべて心との絡みから言ったものだ、と。」


先生答え
「そのとおりだ。一身を主宰(統括)するのが、心だ。心が発したものが、意だ。意の本体が、知だ。意があるところが、物だ。意が事親(親につかえる)にあれば、事親が一つの物だ。意が事君(君につかえる)にあれば、事君が一つの物だ。意が仁民愛物(民をいつくしみ物を愛する)にあれば、仁民愛物が一つの物だ。意が視聴言動にあれば、視聴言動が一つの物だ。だからそれがしは、心外の理はなく、心外の物はないと言うのだ。『中庸』に誠でなければ物はないと言うが、『大学』の明徳を明らかにする功夫は、ただ誠意(意をいつわりのないものにするだけだ。誠意の功夫は、ただ格物(物を正す)だけなのだ。」
 

⇒先生
「格物は、『孟子』の大人が君主の心を格(ただ)すと言った場合の「格」だ。およそ意念のあるところで、不正を取り去り、正を十全にするのだ。そうすれば、いかなる時と場所でも天理を存することになろう。これがとりもなおさず、窮理だ。天理とは、とりもなおさず明徳のことだ。窮理とは、とりもなおさず明明徳(明徳を明らかにする)ことなのだ。」
 
 
⇒先生
「知は、心の本体だ。心はおのずと知の能力があるのだ。父を見れば、おのずと孝を知るし、兄を見れば弟を知り、乳飲み子が井戸に落ちそうになるのを見ると、惻隠(いたわしく感じること)を知る。これが、良知だ。外に求める必要はない。良知が発せられたら、もはや私意の妨げはないのだ。それはとりもなおさず、いわゆる惻隠の心を満たせば、仁は止めどもなく用いられるということなのだ。しかし、常人は、私意の妨げをなくすことができないので、必ず致知格物の功夫をして、私意・私欲に勝って理を取り戻せば、心の良知に何らの妨げがなくなり、心の中に良知が充ち満ちて行き渡ることができるのだ。これが『大学』にいう致知(知を発揮すること)であり、知致(知が発揮され)、意がいつわりのないものになるということだ。」