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手話朗読3.11あの時を忘れない

2014-09-14 01:20:55 | 日記・エッセイ・コラム

 今日から3連休。連休初日の9月13日土曜日、NHK手話キャスターたちが東日本大震災の復興に自分は何かできるか、模索したところ被災地の苦しみを風化させないように、手話で語り継いでいこうということになったそうです。
 国王様から招待され、チケットを頂戴しました。親も一緒なので、1番前のシルバー席。親を東京に連れて行くのに電車は絶対に使いません。ボロ房線から乗り換えなしで東京駅に直通する快速電車、深い地下ホームからテクテクと歩き、中央線の電車に乗り換えて新宿、階段をおりて、違うホームの山手線に乗り換えて高田馬場。西武新宿線の野方駅とは車内の混み具合により座れないときもあるので、かなり大変。芸能人かVIPみたいにドア・ツー・ドア (door to door) が基本。今日は連休初日だから、渋滞時間も見積もり、早めに出発。断続的な渋滞個所もたくさんあり、幡ヶ谷で降りて、環七道路の「都道318号線」。数が多ければ多いほど秘境な道路になるはずなのに、青ヶ島は還七より若い「都道236号線」。236号線はアップダウンの激しい秘境道路、318号線は3車線とはいえ激混み。
 公演開始時刻は19時から。その前に夕食を済ませようと道路沿いの看板を見ながら通過。しかし、なかなか見つかりません。環七沿いではなく、駅前の密着したところのほうが見つけやすい。やっと安楽亭の看板を見つけたので、店舗下の駐車場へ。駐車スペースの枠がかなり狭く驚いた。土地代もかなり高い東京だから仕方がない。田舎暮らしに慣れるとめまぐるしい都会はもう勘弁です。山口県の何もない小さな漁村に暮らしていたころ、夜でも明るい光の街に身を置きたいとか憧れ続けていましたが、これも数年で挫折し、千葉の田舎暮らしに逆戻り(笑)。東京までの話が長くなってしまいました。首都高速を使うとしたら、素通りして目的地が檜原村など自然豊かななところなら得意けど、正直に言うと都心周辺の道を運転するのは苦手なんです。
 さて、本題に入ります。「3.11あの時を忘れない」は今回だけではなく、被災地の宮城県・岩手県・福島県公演もあるので、ネタバレにならないような範囲で書こうと思います。
 手話朗読といっても、手話の吹き替えとして、聞こえる人が台本を読みながら朗読。音声のアクセントにより感情移入しながら読み上げ、ろう者は顔の表情や手の動きで表現。手話ニュースキャスターはNHKが用意した日本語で書かれたニュースの内容や日本語の難しい言い回しも手話に翻訳して全国に放映されるわけなので、日本語を手話に変換する能力もすごく高い方なんです。
 宮城県の海岸沿いに住む、ろう者。3月9日、大きな地震があっても津波は来なかった。2日後の11日も大きな揺れがあっても、津波は来ないとタカをくくっていた人が多かった。海岸沿いに目を向けると、黒い壁のようなものが次第に目の前に迫ってくる様子。それでも九死に一生を得た。
 納棺師さんの話はどこかで聞いたような話かと思ったら・・・東日本大震災の翌年、2012(平成24)年に出版された「おもかげ復元師」「おもかげ復元師の震災絵日記」(笹原留似子著)。勤務先で本を選定するときにかなりインパクトに残る本でした。それで購入した記憶はあります。本の内容を手話で表現するなんて、相当な技術を要します。さすがに国王様の同僚。
 出身が福島県のキャスターは原発のせいで避難を余儀なくされた、ろう者被災者の話。
 陸前高田市は津波が来るとわかっていれば、自動的に水門を閉じるはずなのに、閉じることはなく停電。消防団の運命は・・・。
 今度は国王様です。手話通訳者養成が本職なので、被災地における手話通訳者の苦悩。
 明晴学園の先生2人も石巻市立大川小学校のお話。津波が来る40分間、学校の先生たちが避難を決断するのにもたついたため、多くの子供たちを失ってしまった。
 ゴールのないすごろくのお話。キャスターも、小学生の息子がいるため、実際にあった被災地の息子の話。普段は共働きのため、あまり息子の遊び相手にしなかったお母さん。「あれ?スタートがあって、ゴールはないよ?」と息子に話しかけると、「ゴールがなければ、永久的に遊べるからでしょう」そのときに目覚めてしまいました。それは夢でした。息子は震災で失ってしまったけど、どこかで生きているに違いないと切ない気持ち・・。
 教育関係者のキャスターも釜石市の小学校、中学校の子供たちの話です。釜石市は明治三陸地震、昭和三陸地震、チリ地震で多くの犠牲が出たため、大きな地震が起きたら、すぐに自分の命を守るために一人で高台へと逃げろという、「津波てんでんこ」を制定。たとえ、小さな子供が1人で留守番しても、親が帰ってくるまで待つのではなく、すぐ高台へ。自分の命さえ助かっていれば、大きな混乱が収まり、必ずばらばらになった家族と出会える。釜石市の犠牲者は他の市町村に比べると非常に少なかった。「奇跡の釜石」と言われています。お話は2時間でしたが、あっという間でした。
コメント
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