蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

快適な方向にスライド

2024-03-24 | 老い
認知症は、なにも致命的な病気ではない。
誰もが関わりのあることだろう。
認知症専門医が、認知症になることもある。
大国の元大統領や首相であっても同じこと。
多くの家族には経験がある。
問題は、他人のことだと捉えていて、対岸の火事であり、決して自分とは関係がないと思っていること。
65歳以上の5人に1人は認知症と言われる現実を、全く、どこか他所の国のことと見ていること。

夫婦で2人共に認知症だったとしても、家庭内での暮らしは社会に出ていないので外からは把握しにくい。
現に、ご近所のご夫婦が認知症だったが、夫さんは妻さんを認知症ではないと言っておられた。
元教師の夫さんのほうが妻さんより後から遅れて認知症になった。
ご夫婦ともに明るい快活な方々だった。

認知症にも、軽度と重度があると思う。
かく言うわたしも、認知機能の衰えを認知症の入り口と思っているフシがある。
認知機能も多岐にわたり、老化していない正常な人でも、注意力、集中力、理解力、決断力、段取り、など、認知機能レベルが高い人も低い人もいる。
それをなんでもかんでも「老化による認知機能の低下」を「認知症」と位置付けると、尊厳やプライドを傷つけられるだろう。
わたしは、若い時から相当な天然だったため、老化で追い討ちがかかって天然に磨きがかかっているものの、自分のミスには慣れている。
老化なのか、生まれつきなのか、境界がわかりにくい。ボーダーレスとなっている。
(反省を促すには良くないことだが)

だがしかし、自覚はある。
困るのは、自覚がない人である。
自分はちゃんとしている!!と、ミスを認めず否定するだけならまだしも、怒り出したりする。
それが老化のせいなのか、そういう性格なのかが、わかりにくい。
挨拶する程度のお付き合いや、ウォーキングやハイキングでご一緒するだけなら、問題ない。
(迷子になられては主催者には支障があるが)
少し高めの能力を必要とする場合は、困る。
しかも、仲間だったりペアだったりすると、チームワークを乱す。
特に一般的な日帰り登山のような、日が落ちる前までに帰還しなければならないと、一人の人のペースが遅くなると全員の足を引っ張り、引いては全員の生命の危機に及ぶ場合がある。
レベルを合わさなければならない。
ある人が病気で足を悪くされたのだが、「速度が遅くなり皆さんに迷惑をかけるかも知れませんがよろしく」と登山参加希望をされた。
が、冷徹と取られるかも知れないが参加を断られた。
1人の欲求のために、全員が命のリスクに晒されるのは回避したいところだ。

断られたことによってプライドは傷ついたことだろう。
が、仕方ない。しがみついて、周りに迷惑をかけることがある。

ある団体旅行。
旅の大ベテランのご夫婦が、集合場所に現れない。
添乗員さんが走り回ってことなきを得た。
そのご夫婦の妻さんが、場所によっては歩行に困難があり、別の参加者の人たちに抱えられてその場を回った。
添乗員さんは気を使って、他の参加者の皆さんにお礼の品を配っていた。
夫さんは全然知らん顔。
足の悪い人をみんなでサポートするのは美談ではあるが、決してお安くない旅行代金だった。
そこそこの費用を払っているので、自分が手厚くサポートしてもらえると思って参加した人もいるだろう。
自分のことばかり自己主義だと非難されると思うが。
一生懸命貯めたお金で時間をやりくりして参加できた有料ツアーに、自由参加の全くの他人のお世話まで引き受ける、素晴らしい人格が備わっている人は立派だ。

だが、思い遣りのこころが足りない場合もある。
自分もいっぱいいっぱい、苦しいアップアップの状況では、他人を思い遣る余裕がない。

日本人は、気を使い過ぎると言われる。
他人に迷惑にならないように我慢しすぎて悲劇を生むケースが見られる。
自分を追い込み過ぎず、適度に他人に甘えよ、他人に助けを求めよ、寄りかかれ、という声を最近耳にする。
ギリギリのところで我慢し過ぎると自分が壊れる。


話がまたまた脱線している。行ったり来たり。
生きて行く限界の話はさておき。 

避難先の団体行動とはまた違う、
(次元が違う)自由参加の団体旅行のケースに話は戻る。
団体行動になると、また別の感覚が生まれる。
わたしは団体旅行が苦手。
足並み揃えて集合場所、時間が気になって、ゆっくり観て回ることが出来ない。
特にトイレタイムは苦痛。
想定外に混んでいたりすると、自分ではどうしようもない。
なので、ゆっくり行程の少人数設定、または個人旅行にする。

いろんな経験をして、自分に適したものが快適だと感じる。
命をつないで行くギリギリのところで、自分が周りに迷惑をかけるのとは別の、
遊びの要素がある場合は、気を遣わなくてよいものを選びたい。

そうやって段々、自分の行動範囲を狭めて行っている。
あるいは、自分が快適な居場所を求めて、別の行動内容に徐々に移って行っているような気がする。