20階の窓辺から

児童文学作家 加藤純子のblog
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『園芸少年』(魚住直子・講談社)

2010年01月24日 | Weblog
 先日の「Beー子どもと本」研究会のとき、作家のAさんから突然「カトーさん、『園芸少年』どう読みました?」と、感想を振られました。
 雑談のなかでの話ですが。
『反撃』(草野たき・講談社)と『園芸少年』(魚住直子・講談社)をたて続けに読んでいた私は、すっかり『反撃』の草野たきの、問題をつかみ出す切り口の鋭さにやられていたようで、『園芸少年』については読み飛ばしていたことに気づき、あらためて読み直してみました。
「園芸部」なんて、また流行の部活もの?という先入観があったからかも知れません。
 
 けれど『フラワー オブ ライフ』(よしながふみ・白泉社文庫)とセットで読んで考えていたら突然、わかったのです。
「そうだ!そういうことだったのか!」と。
 この『園芸少年』の印象の薄さ、いえ、ひりひり感のなさというのは、もしかしたらすごく新しいのかも、と。
 いまの時代の関係性を作り上げるための方法のひとつだったのかもしれないと。
 ここ数年、魚住直子もそうですが、YAというと、まずは日常ありえないような設定を作り、さまざまな手法を駆使し思春期のひりひりした感情や自分で処理しずらい持てあました自我を、危うさを秘めて描いてきたという印象があります。
(それくらいたいへんなところに思春期の少年や少女たちはいるから、共感されて読まれてきたわけですが)

 まずは『フラワー オブ ライフ』を読みながら、その感覚にストップをかけられた気がしたのです。
 フツーなのです。
 このフツーさと同じ感覚を抱かしてくれるのが『園芸少年』です。
『園芸少年』はYAっぽい自意識をセンシティブに語るのではなく、どうコミットするか、その関係性をつきぬけ、フツーの少年たちを描いています。
 段ボールを背負って、みんなの前に絶対顔を見せない「箱男」は、かつて安部公房が描いた『箱男』の重たさやシュールさなど微塵もありません。
(段ボールに生息するための、彼の事情というのは書かれていますが)
 なにしろ、実は彼は「ドラえもん」の出木杉くんのように、くっきりした顔立ちの、いわば出来すぎた顔をみんなにかまわれ、それから段ボールの箱にこもるようになったというのです。
 どうです、見事なコミックでしょ。
 その切実さに、笑えました。
 そういったコミックのようにデフォルメしたキャラクターたちは、園芸を通してゆるやかに日常をつながりあって生きていきます。
 そのなにげない、けれど豊かで、笑える関係性。
 魚住直子、YAの縛りから一歩、抜け出したなと思いました。

 ひりひりぎりぎりして身動きできなくなってしまった思春期の感情をふっとばした、その先でのゆるやかなつながり合い。
 こうしたゆるやかなつながりは、永久性はないこともわかっています。彼ら自らが。
 先日、ご紹介した宇野常寛の言葉を借りるなら、
「「終わり」を,見つめながら一瞬のつながりの中に超越性を見いだし、複数の物語を移動する。次の時代を担う想像力は、たぶんここからはじまっていくのだろう」
 と、いうあたりでしょうか。
 
 そのための、ゆるやかなつながり。
 そういった意味で『反撃』と比べ、『園芸少年』は、これからのYAへのひとつの大きな試みを示した新しい作品だと思いました。

 こんな感想です。
 Aさん、いかがでしょうか?
コメント (4)
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