楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

軒の栗(芭蕉の道を歩く 37)

2014年06月06日 09時03分14秒 | ひとり歩き旅
(おくのほそ道本町)


(奥の細道【九】須賀川1)
白河から翌々日には須賀川に至り、
相楽等躬(さがらとうきゅう)を訪ね、
芭蕉は一週間も滞在している。

曽良の旅日記には、
「・二十二日 須賀川、乍単斎宿、俳有。
 ・二十三日 同所滞留。晩方へ可伸二遊、帰に寺々八幡を拝。」
とある。
これは、
(二十二日は須賀川の相良等躬(乍単斎)宅に泊まる。
そこで「風流の初めやおくの田植えうた」を発句とする、
芭蕉、等躬、曽良の三人で歌仙を吟じた。)
(二十三日は同じく等躬宅に滞留する。夕方には栗の木陰に世を厭う僧 
可伸の庵を訪ね、その後、お寺を二、三か所回り、八幡神社もお参りした。) 
と言うことのようです。

そこでボクは須賀川市役所を目指して、国道四号線を進む。
須賀川市役所には、庁舎のほかに芭蕉記念館があるはずだからだ。
しかし、芭蕉記念館は看板があるだけで、記念館は影も形もない。
その奥にあるはずの体育館は、屋根が見るからに崩れそうで、
養生シートが覆われて残っているだけだ。
市庁舎は跡形もなく、その跡に土埃が立つ駐車場があり、
その隣に公民館が残っているだけだ。
3・11の大地震でなくなってしまったのであろうか?
あるいはどこかに移転したのであろう。
無くては市民生活が成り立たない。

地図を頼りに、軒の栗がありそうな場所を探して歩く。
公民館から南に延びる道路を進むと、(本町軒の栗通り)の看板が目につく。
よくよく注意してみると、商店の軒先に置いてある常夜灯に
(江戸や 本町 軒の栗通り)の文字が入っている。
(本町軒の栗通りの看板)

(江戸や本町 軒の栗通りの常夜灯)


その道を進むとすぐ十字路に出る。
出た右手に小公園があって、(軒の栗庭園)の看板があり、
可伸庵跡の地図も描いてある。
その横の木の下に、相良等躬の坐像が置かれている。
本町々内会が作った説明板では、この辺りは等躬の住まい跡であったらしい。
そこでここに軒の栗庭園を残したという。
(軒の栗庭園)


本町々内会の説明によると、
(-前略―
等躬は本名相楽伊左衛門といい問屋の仕事をしながら、
その商業活動のために江戸へ度々出かけていました。
その間に江戸での俳諧活動も持たれ、芭蕉との関係が生まれました。
等躬は奥州俳壇の宗匠としてその地位にあり、
芭蕉に多くの情報を提供し、「みちのく歌枕の地」探訪の旅を助けました。
・風流の初めや奥の田植哥(うた)     芭蕉
・覆盆子(いちご)を折て我もうけ草    等躬
・水せきて昼寝の石やなをすらん      曽良
ここ「軒の栗庭園」は等躬の住む本町に芭蕉が逗留し、
・世の人が見つけぬ花や軒の栗  芭蕉
と詠まれたことから名づけられました。)とある。
(等躬の石の坐像)

軒の栗庭園にあるベンチにはKeep outの黄色のテープがしてあり、
座って休憩することが出来ないのは何故だろう。
後ろの植え込みにある芭蕉と曽良らしき石像が、
恨めしそうに立っているのが印象的であった。
何ミリシーベルトなのか知らないが、
基準を超える放射線量が残っているに違いない。
この小公園を見渡すと、周りにある家というか、
真新しい土蔵つくりの建物が何軒も建っている。
不審に思って家に近づくと、表札があって、
どうやら住まいのようだ。
イタリヤのアルベロベッロにある三角帽子の家を思い出すが、
こちらの土蔵造りの家は、地震に備えた作りであるに違いない。
(Keep Outのテープが張られたベンチ)

(土蔵の家)


軒の栗庭園の看板にある、可伸庵跡やNTTの地図をたよりに、
可伸庵跡を訪ねる。
今来た道を戻ると、軒の栗・可伸庵跡左と長松院右の案内看板があるので、
案内に沿って左折する。
少し狭い道を行くと左側に可伸庵跡はあった。
(軒の栗・可伸庵跡の案内看板、裏側から見た写真)

(可伸庵跡の碑)

(小さな可伸庵)

(軒の栗の木)

(栗のイガ)


可伸庵は思ったより小さな所であった。
と言うのも、

「おくのほそ道」で芭蕉は、
(おおきなる栗の木陰をたのみて、世をいとう僧有。
橡(とち)ひろふ太山(みやま)もかくやと静に覚えられて・・・)

とあるからだ。

その可伸庵は、一寸した休憩所と栗の木と芭蕉の句碑があり、

・世の人が見つけぬ花や軒の栗

が刻まれている。
(可伸庵にある芭蕉の句碑)


・西方の 浄土をさすか 栗のいが  hide-san

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唇に笑顔が

2014年06月04日 17時23分17秒 | ひとり歩き旅
(五輪のマーク)


自然観察公園に行くと、いつ造られたのか五輪のマークが、
公園の木と木の間にぶら下がっている。
園丁さんが暇に明かせて造ったに相違ない。
フジの枝で造ったものだ。
国立競技場も新しく生まれ変わり、
2020年には二度目の東京オリンピックが開催されるのを
記念して造ったものだろう。
(木と木の間にぶら下がっているオリンピックのマーク)


木といえば、この公園には桜と桑の木が沢山生えている。
最近お年寄りたちが、その木の下に群がっている。
木の実が熟れ始めているからだ。

一番最初に咲いた桜の木には、サクランボが黒く色づいた。
皆さんが採って食べているので、
「おいしいですか? 」と聴くと、
「食べてみてください」という。

なるほど美味しい。
よく分からないがサクランボで知っているのは、
「佐藤錦」しかないので、「佐藤錦ですか?」と問うても、
唇に笑顔をたたえて、返事も無く、
もくもくと獲って食べるだけで教えてくれない。
(きっとこの人も知らないんだ)と勝手に決めて立ち去る。

翌日、その木を見たら、サクランボは一個もなくなっていた。
鳥が先に獲って食べたというのだ。
高い木の先になっていたのも無くなっている。
さすが、鳥たちは良く知っている。
(たった一つ残っていたサクランボ)


少し離れた、次の木には、桑の実がびっしりなっている。
もう少し熟れれば美味しくなるのに、
気の早い人は少し色づいたら採って食べる。
(すこし酸っぱい)くらいのほうが美味しいというのだ。
人それぞれで、結構なことだが、
「もう少し経ってからの方が美味しいですよ。」と言っているうちに、
桑の実もなくなるに違いない。
(桑の実)


子供の頃、疎開して採って食べた桑の実は、黒くなってからだった。
とても美味しく感じられた。
唇を青くして家に帰って、行儀が悪いと叱られたものだ。
そんなにひもじい思いをさせているのか、思われても仕方がない。

何処の家のものか分からない桑の木に、
実っているからといって食べるのは、
泥棒と同じだと叱られた。その通り。

今や飽食の時代で、年寄り意外にこれが食べられると知っている人も少なくなった。
だから高い先のほうに実っている黒い熟した実は、
ぽろぽろ地面に落ちて、木の下が黒くなっている。
鳥たちも見向きもしないのだろうか?
不思議である。
(桑の実2)

コメント (4)
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庄司(しょうじ)戻しと宗祇(そうぎ)戻し(芭蕉の道を歩く 36)

2014年06月02日 09時00分02秒 | ひとり歩き旅
(奥の細道【八】白河の関3)


(白河関3)
白河関を後に白河市街に向かうと、道路左に桜の木に囲まれた碑がある。
(庄司戻しの桜)といわれ、
通称「霊桜碑(れいおうひ)」と呼ばれる碑が中央にある。

白河市教育委員会によれば、
(治承四年(1180)、源頼朝の挙兵を知り、
奥州平泉から鎌倉に馳せる源義経に対し、
信夫の庄司佐藤基治は自子継信・忠信を従わせ、
決別するにあたり「汝ら忠義の士たらば、
この桜の杖が生きづくであろう。」と諭して、
携えていた一本の桜の杖をこの地に突き立てた。
この後、戦いに臨み兄弟ともに勇敢に戦い、
義経の身代わりになって討ち死にした。
桜はその忠節に感じて活着し繁茂したという。
後の天保年間(1830~44)野火によって焼失した後も、
新しい芽が次々と出て、美しい花を咲かせるという。)とある。

忠節を敬う話ではあるが、現代の誰のためにできる話であろうか?
楠正成の「桜井の別れ」を思い出させる話であった。
(霊桜碑)


白河の市街地は白河の宿場町で、
町に入る手前に道路が鉤の手になっており、
宿場らしい建物もたくさん見受けられたが、
市街地に入る一画に宗祇戻しの碑がある。
(宗祇戻しの碑)


一番左側に道標、次にお地蔵様、白河城羅郭岐路碑、宗祇戻しの碑、
一番右側の道路側に「名物だんご」旗の横に芭蕉句碑がある。

白河城羅郭岐路碑の岐路は道標にある、
石川・棚倉街道の分岐点を指しており、

道標には、右 たなくら 
     左 いしかハ道
とある。
(石川・棚倉道の道標)


宗祇戻しの碑にある説明板によると、
(文明十三年(1481)白河城主結城政朝が鹿島神社の神前で、
一日一万句の連歌興行を催した。
これを伝え聞いた都で名高い連歌の宗匠 宗祇法師が、
はるばる奥州に下り、三十三間堂の前を通り、
ある女性から鹿島興行の終了を告げられた。
その時宗祇は女が背負っていた綿を見て、
「売るか」と問うたところ、女はすぐに、
「阿武隈の川瀬に住める鮎にこそ
      うるかといへるわたはありけり」と和歌で答えた。
これを聞いて宗祇は東奥の風流に感じ、ここから都へ引き返した、
と言い伝えられています。)とある。

(筆者注)鮎のはらわたを「うるか」という。
「うるか」と「売るか」、はら「わた」と「綿」をかけた歌。

しかし、曽良の旅日記には、
この後、尋ねる須賀川の相良等躬(さがらとうきゅう)に聞いた話として、
説明板とは違うことが書かれているが、
勉強不足で意味がとれない。
どなたかお分かりの方、教えていただけると有難いのですが。

芭蕉の句碑には、

・早苗にも 我色くろき 日数かな はせお翁

とあり、
これは芭蕉が白河の関を越えた折の句で、
須賀川から白河の俳人何云(かうん)に当てた手紙の中にある。
この句碑は、天保十四年(1843)芭蕉の150回忌に建立されたとある。
(芭蕉句碑)


・晴天の 暑さにたえて 石地蔵   hide-san



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