楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生  ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」 山本有三

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浅草見附の石碑(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 6)

2013年04月29日 | ひとり歩き旅
(浅草橋交差点)

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(浅草橋 2)
浅草橋の交差点を、左に行けば靖国通りで、
神田神保町から靖国神社に向かい、
右に行けば両国橋で、
奉納相撲が興行された回向院、
回向院の裏手の先に進むと、
忠臣蔵で有名な本所松坂町の吉良上野介のお邸、
いずれも両国橋の先、右手にある。
左手は両国駅で、その裏側は江戸東京博物館と、
春場所が終わったばかりの両国国技館で、
東京見物をするなら浅草をみて、
次に江戸東京博物館がお勧めである。

国技館の先に旧安田庭園が解放されており、
その手前に、下総屋食堂があり、
なるほど下総と云う国であったと判る。
下総と云うのは千葉県と頭にこびり付いていて、おやっと思った。

ここは千葉県で無く、回向院があり、本所の鬼平こと、
火付け盗賊改め方の長谷川平蔵が若い頃遊び歩いた場所で、
江戸のうちだからである。
両国橋は、武蔵の国と下総の国の両国を結ぶから、
両国橋と云うというらしいが、
江戸の浅草と同じく江戸の本所を結んでおり、
千葉県と結んでいる訳ではない。

調べたら、下総は千葉県だけで無く、
埼玉県、茨城県にまたがっている事がわかった。
これが葛飾郡である、と言う。
それで赤富士で有名な浮世絵画家が住んでいたので、
これを葛飾北斎と言ったのだなと納得した。

(両国橋)

(回向院)


(本所松坂町跡の碑)

(吉良上野介邸跡)

(左手はJR両国駅)

(江戸東京博物館)

(国技館の呼び出し太鼓櫓)

(旧安田庭園入り口)

(旧安田庭園)

(旧安田庭園2上に見えるのが国技館の屋根)

(下総食堂)


(*)両国とは、武蔵の国(江戸)と下総の国(江戸)の両国を言い、
隅田川でこれを分けて、その両国にまたがる橋を両国橋といった。
下総の国は、下総の葛飾郡から利根川(現在の江戸川下流)以西の地域を割き、
武蔵国の葛飾郡(現在は東京都・埼玉県に属する部分の大部分)とした。

今は浅草橋交差点を直進、道なりに進むと、
本来の浅草橋がある。
小さな橋で、下を流れる川には釣り船、屋形船が何艘も舫ってあり、
東京湾や隅田川を花見や、花火見物をする舟は、
ここが起点になっていることが分かる。

(浅草橋2)

(舫ってある川船)

(船宿)


浅草橋を渡って左手に、「浅草見附跡」の石碑が、
小さな緑地に囲まれて建っている。
(余計な事であるが、さらに左手に公衆トイレがあるので、
御用の方はこれを利用しておきたい。)

(浅草橋3)

(橋の袂のトイレと浅草見附の碑)


見附とは、「見つける」からつながる、「見張りをする」ことで、
城門の外側に置いた見張り番所で、
江戸城には36箇所の見附があったといわれる。
赤坂見附、四谷見附などが現在も残っている。

この浅草見附は、奥州地方から攻め込まれないように、
見張り番を置いた所であるように思われる。
浅草橋の外側で、見張るのには、
都合が良かったのではないだろうか。
(浅草見附の碑)

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浅草橋と言う町名は、神田川に架かる橋の名にちなんで出来た。
昭和九年に名づけられた町名の浅草橋は、
以前は茅町、上、下平右衛門町、榊町、須賀町、新福井町、瓦町、猿屋町、
向柳原町が一つになって出来た。
この浅草橋が造られたのは、寛永13年(1636)のことで、
浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたが、
いつしか浅草橋になった。

(おなじみの人形屋)

(おなじみの人形屋2)


浅草橋の先は、有名な人形の街である。
歩いたのが2月4日であるから、
丁度、桃の節句のお雛様の時期に当っており、
町にはご両親や、じいちゃん、ばあちゃんが、
人形の品定めに沢山集まっていた。
今も昔も、子供の健やかな成長を祈る親の思いは同じだなあ、
と思いながら、ウインドウの中の雛人形を眺めて歩いた。
(本当のことを言うと、人形を眺めるご夫婦やじじばばの顔を、
眺めて通り過ぎた。)

(人形)

(人形2)

(人形3)


ウインドウの人形の姿や顔を眺めていると、
いくら時間があっても足りない。
少し歩くと浅草蔵前である。

左に行けば秋葉原の電気街に、右に行けば蔵前橋にでる。

(蔵前橋)

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馬喰横山(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 5)

2013年04月26日 | ひとり歩き旅
(旧日光街道本通りの標柱右側面)

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(浅草橋)
旧日光街道の標柱の右側面には、次のように書かれた文字がある。

(徳川家康公江戸開府に際し御伝馬役支配であった馬込勘解由が名主として
この地に住し以後大伝馬町と称された。)

左側面には、

(江戸名所図絵や広重の錦絵に画かれて著名なこの地は将軍御成道として繁華な本街道であり木綿問屋が軒を連ねて殷賑を極めた。)とあり、
この大伝馬本通りを進むと、交叉点に出る。
都営地下鉄の「馬喰横山駅」入り口がある。

(歩いてきた通りの名、大伝馬本町通りの標識)


(都営地下鉄馬喰横山駅)


(横山町四丁目の住居表示)


(横山町問屋街)


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この先は「横山町問屋街」の看板が建っており、
木綿街ならぬ衣料品の卸問屋が軒を連ねている。

住居表示には「日本橋横山町4」とあり、
卸問屋街が立ち並ぶ、お店の前にはマネキンが、
真新しい衣料を着て立っているが、
ウインドウには(小売いたしません)と、
どのお店も張り紙がしてある。
付いている値段標を見る限り、
そこらのスーパーマーケットで売っている値段と変わりなさそうである。
(衣料品の問屋店先から見る問屋街)


話は変わるが、家に帰って今日は「馬喰横山駅」前を通って歩いたら、
衣料品の問屋街だったよと話すと、
以前、ブランドのバーゲンセールに良く行った場所だと、
カミサンが話してくれた。
何処何処に美味しいカレー屋さんがあって、
何処のコーヒーショップは美味しくて安いという話であったが、
ボクにはチンプンカンプンであった。

この衣料品卸問屋街を進むと、浅草橋の信号に出る。
(浅草橋交差点)

(浅草橋の信号)

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旧日光街道の標柱(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 4)

2013年04月22日 | ひとり歩き旅
(日本橋魚市場発祥の地の乙姫像)


(昔の魚市場の様子、説明板の写真より)

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(日本橋 3)
日本橋東詰めに「日本橋魚市場発祥の地」の石碑と乙姫像があることを、
前回紹介した。

東京都中央区教育委員会の説明板に、
当時の鮮魚を満載した船が接岸した様子が写真に残っているし、
当時の様子が説明されているのでその要約を紹介したい。

(日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、
幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする、
「魚河岸」が在りました。
ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが、
将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まります。
この魚市は日本橋川沿いの魚河岸中心として、
今の室町一丁目、本町一丁目一帯の広い範囲で開かれ大変な賑わいを見せていました。
この魚河岸へは近海諸地方から鮮魚を満載した舟が数多く集まり、
江戸っ子たちの威勢の良い取引が行われ、
一日に千両の取引があったと言われます。-中略。
関東大震災を期に、現在の築地の魚河岸へ移るまで、魚河岸は続けられました。
魚河岸の人たちが、昭和29年(1954)ここに石碑を建立しました。)とある。

道路を東へ進むと、左側は老舗デパート「三越」のライオン像が、
入り口でお客様を出迎えており、
右手には、日本橋の老舗が並んでいる。
鰹節やつゆのもとの「にんべん」とか、
山本山の海苔店、カステラの文明堂などが目に付く。
(三越のライオン)

(老舗にんべん)

(山本山の海苔店)


(文明堂)

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少し歩くと右手に、「むろまち小路」の標柱があり、
一歩はいると、近所のビル街に勤めるサラリーマンの仕事帰りの一杯飲み屋や昼食街がある。
東京都の中心街という場所柄か、表通りの飲食店では、
昼食代は千円以下では難しそうである。
その先にCOREDO室町があり、レストランが中に入っているが、
表通りにあるメニューには、千円以下の昼食は無さそうである。

(COREDO室町)


しかし道路を一歩はいると、信じられない価格の看板に驚かされる。
「六文そば」のお店、(そばうどん220円)の看板が堂々と建っている。
「六文」は現代の価格で、220円なのだろうか、よく分からないが、
そばうどんにしても220円では安すぎなる。
確かに本気になれば220円でも採算は取れるであろうが、
商売にするのであれば、どう考えても500円以下は考えられない。
あるいは江戸っ子の心意気が売り物なのであろうか。
そのほかいっぱい飲み屋が目に付く。

(むろまち小路の看板)


(六文そばの220円の看板)
(そのほかの店)


やがて交差点「室町三丁目南」信号を右折する。
これが旧日光・奥州道中である。
しばらくすると、「昭和通り」にぶつかり、上下が道路になっていて、
横断道路が無く、信号もなく、向こう側に渡るには、
左右どちらかに廻り、信号で渡るより仕方が無いと、
思案して見回すと、右側に地下道の入り口が見えた。
地下横断道路が出来ているようである。

(室町三丁目の信号)


(昭和通りの上下の道路)


地下へ階段を降りると、地下道は綺麗なタイル張りになっているが、
人があまり通る事がないらしく、
片隅に一列にダンボール箱が順序良く一定の間隔をあけて並んでいる。
考えてみればこの寒さの中、ホームレスは何処にねぐらを置いているのか、
時折気になったが、この地下道が彼らのねぐらになっていた。
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(地下横断歩道の入り口)


(地下道のホームレスのねぐら?)


地下道を抜けると、周りはビル群に囲まれており、やがて大通りと交差する。
左に行けば小伝馬町の交差点となる。
この信号を超えて進むと右側に有料駐車場があって、
「旧日光街道の案内」が建っている。
日光・奥州道中の案内書によれば、もとはホテルのあった場所である。
懸命にホテルを探したのに、見当たらないわけだ。
取り壊されて今は有料駐車場になっている。

「旧日光街道本通り」

標識の前面には、そのように刻んである。
旧日光街道の案内があるということは、
ここが元日光街道であった証拠である。

(地下道を抜けるとビル群に囲まれる)


(左に行けば小伝馬町の信号)


(駐車場が見える)


「旧日光街道本通り」

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乙姫様と日本橋魚市場発祥の地(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 3)

2013年04月18日 | ひとり歩き旅
(乙姫像と日本橋魚市場発祥の地の碑)

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(日本橋 2)
日本橋を渡ると、
東側の橋の袂に、「日本橋魚市場発祥の地」の石碑と乙姫(?)像が安置されている。
この乙姫像の並びの川岸に、江戸時代には沢山の舟が寄り集まり、
新鮮な魚を卸してていた。
今は築地に移ってしまったが、この頃は魚河岸があったところである。
(昔はこの川岸に舟が集まり魚を卸した)


(昔の魚市場の写真)


日本橋の上には高速道路が伸びており、
高速道路を支えるコンクリートの柱には、いろはカルタが描かれていて、
「いつの世も 道の基点は 日本橋」とあり、
ここ日本橋が道路の基点であることを示している。

高速道路の別の橋脚には、
「双六は 日本橋から 京上がり」とあり、
日本橋はスタート地点で、双六では京都が上がりで終点だといっている。
いろはカルタとは言え、上手く表現している。
(いろはカルタ1)

(いろはカルタ2)


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以前にも触れたが、五街道の基点は日本橋ではあるが、
旅立つ人は、わざわざ日本橋まで来て、そこからスタートした訳ではない。
田町(日本橋と品川の間にある)からスタートして、
東海道を京に向って歩く人は、
東海道第一の宿場町、品川宿が起点になるはずである。
わざわざ日本橋まで戻って、
♪お江戸日本橋 七つ立ち・・・♪なんて、
朝四時までに日本橋まで戻って出発するような無駄な事はしない。

品川宿で親族が集まり、お見送りをしたであろうことは容易に考えられる。
だから、各街道の第一番の宿場町は拓けており、
旅籠や宿場女郎なども沢山いたであろうと想像に難くない。
中山道の板橋宿、甲州道中の内藤新宿、日光・奥州道中の千住宿、
いずれも旅行のスタート地点として、賑わいを見せたであろうことは、
お分かりいただける。

そもそも昔は今と違って、
旅に出るということは殆んど無かった。
せいぜい隣村からお嫁入りしたとか、
大山詣で、伊勢詣で、森の石松ではないが金毘羅代参、
あるいは、お殿様のお国替えで、行列のお供をしたとか、
そんなことでもない限り、一生を同じ村で過ごした時代である。
何かの用事で、上方まで旅をするとなると、
歩いての旅になり、わが村から先の道はどうなっているのかさえ、
分からない時代であった。

だから旅に出るということは、
あるいは生きて帰ることが出来ないかもしれない、
というほどのものであったように思われる。
江戸から庶民の楽しみの一つ“大山参り”なども、
落語にあるように、出かける前には餞別を渡し、
前途を祈ったということは充分考えられる。

だから第一番の宿場町で、出発前夜ドンちゃん騒ぎをしたに相違ない。
翌朝、4時頃、手甲脚絆(てっこうきゃはん)に三度笠で草鞋を履いて、
凛々しく出立して行ったに違いない。
(乙姫像)

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日本橋(日光・奥州道中ひとり歩る記 2)

2013年04月14日 | ひとり歩き旅
(COREDO日本橋)

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(日本橋)
東京駅から歩いて、日本橋にやってきたら、
日本橋の東側に出た。

(日本橋)の信号の向こう左角に、COREDO日本橋がある。
ここは昔、白木屋デパートがあった所。
東急デパートの五島慶太が白木屋を買収したが、
売れ行き不振のため閉店、300年に及ぶデパート業から退いて、
今はCOREDO日本橋になっていて、
テナントが沢山入っている。
ビルディングを見ると船の帆のようで、横浜ミナトミライのホテルや、
ドバイのホテルに良く似た建物だ。

話はさかのぼるが、あまりにも強引な手口で、白木屋を買収したので、
当時、五島慶太のことを、もじって強盗慶太といったくらいである。
現在のCOREDO日本橋も、中に入っているテナントは、
儲かっているのか儲かっていないのか、解からないくらい、
普段の日のせいかもしれないが、お客様が入っていなかった。

しかし外界は、普段の日だというのに、人が沢山出ている。
さすが江戸の中心地と言う感じがする。
日本橋と言うだけで、観光に来ているのだろうか?
そう言うボクも東京見物をしているのだから・・・

(普段の日だと言うのに人出が多い、左手は日本橋三越)


そのCOREDO日本橋のビルの手前の信号を左折すると、
目指す「日本橋」がある。

写真では、「日本橋」の文字が二階の高速道路にかかっていて、
川のうえに架かっている本物の「日本橋」の橋は、この道路の下にある。
なんだか奇妙な感じもするが、これが東京という所だ。

ボクが東京へ始めてきた時、下宿先が世田谷であった。
友人が前もって探しておいてくれたもので、
ボクは何しろ東京は始めて。

(渋谷から「上町」方面行きの玉電に乗って、「松陰神社前」駅で降りろ。
そこから公衆電話で連絡をくれ。)
友人が言ったことを頼りに、渋谷で電車を探した。

電車は確かハチ公前から乗ったように思うが、
路面電車であるはずなのに、
乗車場所が二階にあったのには驚いた。

それから思えば日本橋の文字が、二階部分の高速道路にあるのは、
別におかしくも何でもない。
この「日本橋」の文字は、徳川幕府最後の将軍、
徳川慶喜が書いたものだそうだ。

(二階の高速道路に日本橋の文字はある)


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「日本橋」の橋から西に向かい(日本橋)の信号までは、
国道一号線、つまり、東海道と甲州道中につながっている。
近づくと、日本橋の文字の向こう側が、目指す日光・奥州道中である。
詳しく言えば、奥州道中、日光道中、中山道が日本橋を基点に、
並んで進む。

三本の道があるような言い方になったが、
道路は一つで、中山道は直進であるが、
日光道中と奥州道中は約100m先、
(室町三丁目)信号を右折する事になる。
日光道中と奥州道中は、宇都宮まで同じ道を進み、
宇都宮で分岐して、左へ行けば日光へ、右へ行くと奥州白河へ行く。
今回、こうしてボクは奥州へ向っていくことになる。
(室町三丁目の信号)


さて、日本橋であるが、欄干の両側には奇妙な彫刻が置いてある。
西側の欄干には、「うん」と口をつぐんだ獅子が妙なマークを足で押さえ、
東側には「あ」と口を開いた獅子が、
これまた同じ妙なマークを足で押さえつけている。
東西の欄干にある獅子像は、神社やお寺の本堂前にある「阿吽」の狛犬像で、
足で押さえているのは、東京都になる前の東京市のシンボルマークである。
(「阿吽」の獅子像 東側、東京市のシンボル・マークを持っている)

(西側の獅子像)


つまり、東京に入るということは、
世間のあらゆる森羅万象の間を潜り抜けて入る場所、
寺院で言えば本堂、神社で言えば神殿、
人間社会で言えば超金持ちから超貧乏人がいる東京、
政治家が言う極楽社会に入るという事のようだ。

狛犬が足で押さえている元東京市マークは、
現在、東京都水道局が使用しているらしく、
マンホールの蓋にデザインされているのを、よく見かける。
(東京市マーク)

(水道局のマーク)

(水道局のマーク2)

(水道局のマーク3)

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