楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

乙女不動尊と寝起こし不動尊(旧日光街道・奥州街道を歩く 45)

2016年05月28日 05時45分43秒 | ひとり歩き旅
乙女不動尊・御滝山明王院 泉龍寺には、
その名に相応しい乙女の不動像が門前にあった。


(乙女不動尊・御滝山 泉龍寺)


右手の門柱の陰に見える乙女の不動像を拡大すると、下の写真になる。

(乙女の不動像)


こんなお寺には普通、赤い涎(よだれ)掛けをかけた地蔵様があるものだが、
ここには乙女の像がある。さすが乙女不動尊である、
若い乙女の像が燦然と輝いている。

赤い涎(よだれ)掛けの代わりに赤いマフラー、
墨染めの衣となる筈がロングスカートになっている。
しかも半袖で、ブルースカイに見事に屹立している。
思わず一礼して、先に進むと、鐘楼門があり、
その先に赤い太鼓橋があって、
橋の下の不動池には緋鯉の稚魚か、金魚か、が列をなして泳いでいる。
そしてその先に不動堂があります。

(鐘楼門)

(赤い太鼓橋と不動堂)


不動堂脇には、よくよく注意しないと見落としそうな芭蕉句碑があり、

・川上と この川しもや 月の友  はせを

と刻まれているようである。
岩波文庫の「芭蕉俳句集」の注意書きを見ると、
この句は、芭蕉がよく散歩した深川の小名木沢の地で作られたものらしい。

その句碑の前にブラシの木が赤い花を見事に咲かせている。

(芭蕉句碑)

(ブラシの花の木)

(ブラシの花)


不動堂の左に本堂があり、案内によると、
(北関東三十六不動尊霊場第十三番札所
通称 乙女不動尊
本尊秘宝大聖不動明王は、今を去る千百有余年前、
日光山中禅寺湖水より示現ご本尊に奉祀し給う。
当時疫病に悩む庶民の苦しみを救うため、
本尊に祈ったところ、この地に清らかな泉が湧き出でて、
病がたちどころに平癒したところから泉龍寺と言うようになった。
――後略――)とある。

(泉龍寺本堂)

(本堂の変額「泉龍寺」)


泉龍寺から日光街道の4号線に戻り進むと、
右手に「逢乃榎」の石碑がある。

(逢乃榎の石碑)

(逢乃榎の石碑と後ろの榎)


この場所は、江戸から18里、日光へ18里で、
ちょうど中間に位置していた榎であったため
「間の榎」(あいのえのき)と呼ばれ、
いつしか「逢の榎」の変わり、
祖師堂が建てられ縁結びの地として、
お参りする男女が多かったと言われる。

さらに進むと左手に龍昌寺が見える。

(天恵山龍昌寺)

(天恵山龍昌寺の山門と鐘楼)

(左は寝起き不動堂と右は本堂)

(寝起こし不動堂の変額)


寝起不動尊縁起(ねおこしふどうそんえんぎ)によると、
(当山の寝起こし不動明王は、むかし水戸城内龍江院に祀られていましたが、
元亀(1570~1572)の頃、模庵和尚が明王の示現によって、
尊像を背負い杖に縋って行雲流水の旅に出られた。
しかし、和尚は老弱であり日ごとに衰弱がひどく、
当地にたどり着くと足も動かなくなり、死ぬ苦しみで、
一夜が明けようとする時、明王が枕辺に現れて申すには、
「この地こそ済度化縁(さいどけえん)の地なり、
人々の病難諸難を救って無量の福徳を与えよう」と、
和尚は寝起こされ、思わず尊像を拝むと、
疲労と病が一時に消えて杖を使わずに立ち上がることができたと言う。
そこで人々は寝起こし不動尊と呼んで、万難消滅、万福将来を祈願して、
お堂を建て尊像をお祭りしたと言われる。)とある。
この不動堂は延享二年(1745)に建てられたものと言う。
(*)済度化縁=「済度」は迷う衆生を悟りの境地に導くこと。
  「化縁」は人々を仏道に教え導くきっかけ。  

また、この龍昌寺は慶安四年(1651)
徳川家光の遺骸を日光廟(大猷院)に葬送の途中で
この寺に遺骸の安置所が設けられた。
現在、その御霊屋はないが、そばに由来碑が建てられ、
位牌は今に伝えられるという。

(ご一泊の由来碑)

(大猷院殿贈正一位大相国公尊儀霊棺御一泊乃碑とある)



コメント (12)
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旧古河庭園―都立庭園へ行こう(その5)

2016年05月25日 06時08分09秒 | 東京の庭園
春のバラフェスティバルに釣られて、バラが満開の旧古河庭園に行ってきました。

今回訪ねる旧古河庭園は都立庭園を訪ね初めて五つ目で、
都立庭園は全部で九つの庭園があります。

(旧古河邸とバラ)


交通の案内:JR京浜東北「上十条」駅
      地下鉄:東京メトロ南北線「西ヶ原」駅下車徒歩7分
      JR山手線「駒込」駅下車徒歩12分
開園年月:1956年4月
開園面積:約3万㎡
無料公開日:みどりの日(5月4日)、都民の日(10月1日)
休園日:年末年始(12月29日~1月1日)の4日間
庭園ガイド(無料):土、日曜日、祝日
入園料:一般150円(65歳以上70円)、
    小学生以下及び都内在住・在学の中学生(無料)

JR京浜東北で「赤羽」駅から「上十条」駅で下車して、
進行方向に向かって右に降りる。
改札口は、線路より1階下にあって、出た所の道路を右に坂を上る。
すぐに、神社か寺院らしき石垣が右手にあり、
石垣に沿って進むと広い道路「本郷通り」に出る。

(本郷通り)

(平塚神社前の信号)

(平塚神社)

(平塚神社の石柱)


右側の石垣の内側は、平塚神社境内である。
平塚神社はとても大きな神社で、時々TVドラマなどに出て来る。
本郷通りの(平塚神社前)の信号を左折すると、
右側に国指定名勝 都立「旧古河庭園」の入口になる。

(旧古河庭園入り口)


東京都の説明によれば、
(この庭園は、面積30.780㎡、
英国風古典様式の本館を中心として、
その前庭を欧風花壇及び池泉回遊式日本庭園よりなっています。
もと古河氏の所有であったが、
昭和30年(1955)東京都の管理するところとなりました。
本館及び前庭欧風花壇は、ジョサイア・コンドル博士の設計によって、
大正6年(1917)竣工したもので、
また心字池を中心とする池泉回遊式日本庭園は、
京都の庭師植治―小川治兵衛の作庭によるもので、
共に和洋の様式が調和したまれに見る設計と言うべく・・・―後略)とある。

(旧古河庭園本館側面)

(ジョサイア・コンドルによる本館正面)

(前庭欧風花壇)

(京都の庭師による池泉回遊式庭園)


大正初期の庭園の原形を留める貴重な存在で、
平成18年(2006)に「旧古河氏庭園」(文化財指定名称)として国の名勝に指定された。

入園料を払って、入って来たところに古河邸の車寄せのある玄関があり、
庭園を囲むように、馬車道と言っている道路がつながっていて、
その先に裏門がある。

(本館車寄せのある玄関)


ここは車寄せを東側から見たところであるが、
この玄関の西側の車寄せに続く馬車道が庭園全体を取り囲んでいて、
その先に裏門がある。
見取り図をご覧いただければ、馬車道が日本庭園を取り囲んでいることがよく分かる。

(旧古河庭園の見取り図)


(洋風建物の設計者は、英国人ジョサイア・コンドル氏で、25歳で来日し、
鹿鳴館やニコライ聖堂の設計、旧岩崎邸洋館の設計者で、
後に東京大学の建築工学の教授になった方で、
日本の建築界の発展に多大な貢献をした。

建物は英国の古典洋式にならって天然スレートぶきレンガ造り、
外壁は真鶴産の赤みを帯びた安山岩で仕上げられており、
雨にぬれると落ち着いた色調を醸し出す。)(東京都)と案内がある。

(玄関)

(古河家の家紋)

(建物床下の通気口にも家紋が)

(通気口の家紋)


古河家の家紋を入れるなど、当時の英国人として、
ジョサイア・コンドルはずいぶん細かいところに気配りしている。

(西側から見た車寄せの玄関口)

(車寄せにつながる馬車道)

(裏門につながる馬車道)

(裏門)


考えてみると、裏門と称するところは本来表門だったように思える。
この門から馬車で長い坂道を進み右折し、
右手に見事な日本庭園を観ながら、
更にもう一度右折して古河邸に入って行くのが、
本来の入り口からの通路のように思えてならない。

わざわざ裏門から長い坂道を上って、
右手に日本庭園を観ながら馬車を格納するなんてことをするのだろうか、
不思議に思えて仕方がないので、思わずガイドさんに、

「裏門と言っているけど、本当は表門だったのでは?」と質問すると、
「表門だったという証拠が残っていないのです」と言う。

裏門から入って、すぐ右手に回遊式池泉庭園の枯滝があったり、
兜門と称する枝折り戸があったりするだろうか?
とても不思議である。

(枯滝)

(兜門)

(兜らしい形をした門の屋根)

(通路から見える日本庭園)

(通路の新緑)


日本庭園は心字池に水をそそぐ滝をあしらった枯滝と、
滝の流れを受け止める州浜があり、
その州浜に立つ雪見灯篭が興趣を添えている。

(枯滝と州浜)

(州浜の雪見灯篭)

(雪見灯篭と白鷲)


日本庭園は京都から呼び寄せた植木職人―植治こと小川治兵衛と言われるが、
京都の平安神宮や無鄰菴(むりんあん)を作庭したことで知られる。

(*)無鄰菴=明治・大正の元老 山県有朋の別荘 名勝 無鄰菴(京都市)

その美しい日本庭園を一周したところにひなびたお茶室があり、
希望者にお抹茶を振る舞っている。英語で言えば(Tea Ceremony)だ。
もちろんお茶は有料であるが、お茶室で静かにお茶を頂いて、
庭をご覧いただくと、茶席に相応しい灯篭が露地に置かれているのが目に入る。
茶人で有名な古田織部作と言われる「織部灯篭」またの名を「キリシタン灯篭」と言われるものである。
日本全国に百数十基しか無いという代物で、
竿の上に火袋が乗れば灯篭、手水鉢が乗ればつくばい、
わび・さびの世界に欠かせない。
どうぞお茶をご堪能あれ。

(茶室)

茶室右脇に見える織部灯篭は、お茶を頂く方が近くで見ることができる。

最後にせっかくの「古河庭園とバラのフェスティバル」であったので、
バラの数々を紹介をして置きたい。

(バラ)

(丹頂)

(アンネフランク)

(アンネフランク2)

(ブルーライト)

(ピアッチェ)

(デザートピース)

(愛子様だったかダイアナだったか)

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乙女不動原瓦窯跡(旧日光街道・奥州街道を歩く 44)

2016年05月18日 06時46分04秒 | ひとり歩き旅
乙女河岸を後に、小学生が下校する一団を追い越して、
小山市乙女の陸橋がある交差点まで戻り左折する。
これが日光街道だ。

(日光街道の小山市乙女の信号)


先に進むと間もなく間々田駅は右方向の案内看板が目に付く。
交差点に近づくと「小山博物館は左」の案内看板があるので寄ってみることにした。
博物館の近くに「乙女不動原瓦窯跡」があるはずだからである。

博物館までの道案内は、
かゆいところに手が届くほど丁寧に案内看板がある。
しかし、肝心の博物館近くまで来たらぱったり案内が無くなってしまう。
カーナビの案内とよく似ている。
「目的地に着きましたので案内を終了します。」では解らない。
ここから先が知りたいのだ。
真っ直ぐ行くのか、左折した方がよのか・・・

ちょうど散歩中のお兄さんがいたので、お尋ねすると、
「博物館はその建物です。」と目の前の建物を指さす。
「乙女瓦窯跡は?」とお聞きすると、
「その藁葺き屋根の小屋がそうですから、屋根を目指していってください」とのこと。
博物館は目の前の建物であったが、道路が無い。手前は畑のような広場になっている。
「ここを通り抜けてよいでしょうか?」と、例のオジサンに聞くと、
「そこを抜けて行くのです。」と返事。
畑のような広場が通路になっているのだ。

博物館へ入ると、がらんとして左手に鎧兜が五体並んでいるだけ。
有料なのか、無料なのか、さっぱり解らない。
後ろの事務所に人の気配がするので、大声で
「入場無料ですか?」と声をかけると、
「ハイ無料です」返事があった。
(順路に従って自由にご覧ください。)くらい返答して欲しいものである。
さもなければ、人が入口に来たら
(いらっしゃいませ、ご自由にご覧ください)程度の挨拶は欲しいものだ。

(五体の甲冑武者人形)


左から、山之内一豊、徳川家康、井伊直政、細川忠興、本田忠勝の甲冑である。
この人物が小山市にどんな関連があるのか解らずに説明もなかった。
もともとこの博物館には乙女河岸の模型があるのを見たかっただけなので、
二階の展示室へ行くと一団の小学生が数班に分かれて先生から説明を受けていた。
ちょうど乙女河岸の模型の前で先生が説明をされている最中だったので、
終わるのを待って、写真を一枚撮った。

(乙女河岸の模型、博物館から)


外に出て、すぐ隣にある「乙女不動原瓦窯跡」に向かう。

(史跡乙女不動原瓦窯跡)


説明によれば、
(国家的事業であった下野薬師寺や下野国分寺の再建の一端を担った、
各種の瓦、丸瓦、平瓦、均正唐草文平瓦、八葉複弁蓮華文軒丸瓦、
文字の書かれた文字瓦が発掘されており、
ここで焼かれたものと思われます。)

(乙女不動原瓦生成跡と丸い粘土採掘場)


手前の丸い穴から粘土を掘り起こし、藁ぶき屋根のある処で製作された工房跡と思われる。

(粘土採掘跡)

(窯跡)

(瓦窯前の広場)


窯跡の前の広場は生瓦の焼成から製品の保管・選別などに至る作業空間と思われている。

(瓦窯の構造模型)


この不動原瓦窯跡の東側に御滝山 泉龍寺・乙女不動尊がある。

(御滝山 泉龍寺・乙女不動尊)


ここには芭蕉句碑があると言うが、見落としたのか、見当たらなかった。

コメント (10)
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乙女河岸(旧日光街道・奥州街道を歩く 43)

2016年05月14日 05時41分17秒 | ひとり歩き旅
(乙女流量観測所)


乙女八幡宮で地元のご婦人に出会い、

「乙女河岸に行きたいのですが」と場所をお訪ねすると、
「私はこの土地の者でないので良く解りませんが」との答え。
「乙女小学校の近くにあると資料に乗っているのですが」
「ああ、これからその小学校へ子供を迎えに行くところですから、
途中まで一緒に行きましょう」とのこと。
「その小学校に乙女河岸で川から引き揚げられた
石の鳥居の柱が校庭にあると書いてありますが、
ご存知ですか?」
「いえ聞いたことがありません」と言う。

日光街道から行くには、
国道4号線の小山市乙女の歩道橋のある信号を左折して、
県道50号線を乙女大橋を渡る手前に乙女小学校はある。
橋を渡れば、小山市網戸へ、その先は藤岡から佐野への道になる。

(日光街道小山市乙女の信号)


日光街道に戻るには結構な道のりがあるので、
近道をしますと言って、参道を左へ折れて少し行くと、
県道50号線に出て左折した。

途中で、
「乙女河岸って私聞いたことが無いのですが」いう。
「実はボクは日光街道を歩いていて、
その土地にある名所や旧跡を訪ねているのです。
先ほど乙女八幡宮へ行って、貴女にお会いしたのです。」

間もなくすると、道路は下り坂になり、
先で登坂になっている。
また、道はY字路となり、地図によると乙女河岸は左方向となっている。
「ボクは左へ行きます。」
「私は右へ行きますが、
あの先の土手の上の車がある処に乙女大橋があります。」
と教えてくれて別れた。

Y字路を左方面へ行くと土手に突き当り、
すぐ右手に土手へ上る通路が出来ている。
土手を見上げると、若木の桜がはるか先まで植えられている。

(下流部分桜並木)


土手に登ると、右手に乙女大橋が新緑の中に美しい姿を見せている。
乙女河岸がその左手下のようだ。
目の前に「乙女流量観測所」の白い杭が立っており、
土手の上には「乙女河岸」の案内看板が立っている。
どうやら乙女河岸はこの下の河岸を指しているようだ。

(乙女大橋)

(乙女流量観測所)

(乙女河岸の案内)

(乙女河岸)


乙女河岸から右手の乙女大橋に向かう。
橋から上流にかけても土手には桜がたくさん植えられている。
橋のたもとの土手が少し広くなっており、
石の柱と千石船のようなものが展示されている。
どうもこれが先ほどのご婦人に話した鳥居の柱に違いない。
校庭にあるはずの柱が、こんなところに展示されているのでは、
ご婦人がご存じないのも仕方がない。

(石柱)
(高瀬舟)

(土手に咲く桜の若木、上流部分)

(思川の橋脚)


ここで初めて川が、「思川」であることを知った。

小山市教育委員会によると、
(この石柱はかって思川の乙女河岸付近の河道に埋まっていたもので、
昭和54年(1979)河川改修の際引き揚げられたものです。
古くから地元の人々の間では、
筑前藩主、黒田長政(1568~1623)が日光東照宮へ寄進した大鳥居の一部と伝えられ、
高瀬舟で運ばれたものが落下したものと言われてきた。
石質の白御影石は、色調がきれいなことに加え、
大変硬質で耐久性に優れており、
鳥居をはじめ建築用材として古くから用いられてきました。
乙女河岸の歴史から、日光東照宮とのつながりが想定されるが、
詳しいことは不明です。―後略)とある。

(乙女河岸の模型=小山市博物館より)


乙女河岸の歴史を物語る川舟からの落下物であるようだ。
沢山の資材などが行き来した様子がうかがえる。








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間々田宿へ(旧日光街道・奥州街道を歩く 42)

2016年05月11日 05時10分40秒 | ひとり歩き旅
(小山市の案内看板)


友沼の八幡神社を後に旧日光街道を進むと小山市間々田に入って行く。
しばらくして左手路傍に小さな馬頭観世音の石塔がある。
歩いていては見落としがちの石塔だ。

(馬頭観世音の石塔)

(馬頭観世音とその台座)


表面には、中央に「馬頭観世音」
台座に「これより左 乙女河岸 あじと さのみち」と、
書いてあるらしいが、
土中に埋まっているのかボクには読めない。

その資料によれば
(文化十年(1813)に造られた道標を兼ねた馬頭観世音で、
乙女河岸、網戸(あじと)渡船場方面に向かう道標を兼ねている。)

この文章がボクには解りにくい。川に沿って乙女河岸と網戸渡船場が、
並んであるように思える。

実際には思川の東側に「乙女河岸」(現小山市乙女があり)、
網戸渡船場(現、小山市網戸)は思川の西側にある。
思川を挟んで、乙女河岸があり、対岸の網戸河岸を結ぶ渡しへの道標だ。

(思川に架かる橋)

(思川の橋脚)


この先の小山市乙女から思川を舟で対岸の小山市網戸へ渡り、
厄除大師で有名な佐野へ抜ける道の道標であった。
馬頭観世音の石碑を後に少しすると「乙女の一里塚」があることなっている。
それらしいのは一本のケヤキの木とその前にある鳥居と祠、
ここに「乙女の一里塚跡」と書いてあったと思われる白い杭があるが、
風化して何も見えない。

(乙女の一里塚跡?)


少し先の民家のおばさんに聞くと、
日本橋から18里日光まで18里の一里塚だと言う。
他にもっと先に「間の宿」のエノキがあって、
ここが江戸から18里日光から18里のエノキだと言う。
「間の宿の榎」が訛って「逢いの榎」になり、
今でも縁結びの榎として地元の人に慕われていると言う。

乙女の一里塚を過ぎて、少しすると左に「若宮八幡宮」がある。

小山市教育委員会によれば、
(この境内には大日如来坐像が大切に安置されている。
武州江戸湯島の渡部九兵衛が施主となり、
父母の供養のため生国の下野国都賀郡に安置、
以前は野晒しのため「濡れ仏様」と呼ばれ親しまれていた。)とある。

(若宮八幡宮の鳥居)

(本殿)


本殿手前の左手に見える屋根の下に「大日如来坐像」が置かれている。

(大日如来坐像と覆い屋)

(大日如来坐像)

(大日如来坐像の台座)


大日如来坐像の台座には
(施主 武州江戸湯島 
    渡部九兵衛 
 法名 峯月道明居士 )と刻まれている。

ここからおよそ1kmほどの間に梨畑が広がり、
ちょうど満開に開いた花が歩く足を元気づけてくれた。

(綺麗に咲いた梨の花)

その先の右側に「仏光寺」の真新しい門柱が見える。
繪唐山 仏光寺と言い、二代将軍秀忠から十石の寺領を与えられた、
格式あるお寺である。
山門が無いためか仁王様が門柱の前にいるのも珍しい。

(佛光寺門柱)


そのすぐ左手に乙女八幡宮がある。
今は小山市乙女であるが、往時は乙女村の鎮守であったらしく、
石碑には「村社 八幡宮」とある。

(村社八幡宮の石柱と少し奥の鳥居)


(石の鳥居)


この鳥居について小山市教育委員会の説明を要約すると、
(乙女八幡宮は、鎌倉時代に創祀されたと伝えられる。
元禄十六年(1703)に当宮別当寺だった光明寺の住僧が願主になって
建立されたこの鳥居には銘文が刻まれており、
それには乙女村船問屋、下館大町(茨城県)の商人、
栃木市の石屋の名が刻まれていることから、
乙女河岸にかかわる人達から崇敬されていたことが分かる。
―以下省略)(小山市指定文化財)

参道を進むと二の鳥居があり本殿が見える。
そして別当寺であった光明寺は、
明治の神仏分離により廃されその跡には土俵が造られ、
子供たちの元気な取り組みを待っているが、
普段は青いシートで覆われて神社の東側にある。

(二の鳥居)

(本殿)

(別当寺の跡のブルーシートの土俵)


陽だまりで目をつむると、子供たちの元気な掛け声が聞こえてきそうである。


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