楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

白河の関(芭蕉の道を歩く 35)

2014年05月29日 09時00分23秒 | ひとり歩き旅

(奥の細道【八】白河の関2)


(白河関2)
「境の明神」を過ぎて少し行くと右折の道があり、
新緑のまばゆい山中を進む。
道なりにかなりの距離を進むと突き当たる。
目の前が、白河の関跡である。

奥の細道には、
(やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白川の関こえんと、・・・)とあり、
曽良旅日記には、
(これより白坂へ十町ほどあり。
古関を訪ねて白坂の町の入口より右に切れて旗宿へ行く。)とある。
白河の関は、この記述と変わりない。
(白河神社鳥居)


目の前に「史跡 白河関跡」の石柱があり、
中央に鳥居と階段が見える。
鳥居の下の階段を登ると白河神社がある。
鳥居右横に「古関蹟の碑」と書かれた石碑が、
石垣に囲まれて建っている。

説明によると、
(白河藩主松平定信が寛政十二年(1800)八月、
ここが白河関跡であることを断定し、建立した碑である。)とある。
碑の裏面には、漢文で次のようにあるらしい。
(筆者の勝手な訳、漢文は「奥の細道の旅」ハンドブックより)
(白河の関は境明神のあるあたりとか言っているが、
あまり古い話で、どこにあるか定かではない。
旗宿にある小山とその麓に白川が流れて、
頂上に小さな祠があるここが、
白河の関跡だと、村の古老も言っているし、
昔の和歌にも詠われている様子から、
ここが白河の関跡だと確信したので、
ここに石柱を建て「白河の関跡」とする。
寛政十二年八月一日
白河城主 従四位下 左近衛権少将 兼
越中守 源朝臣 定信これを記す。)とある。

源朝臣 定信とは、ボクは歴史に疎いからよくわからないが、
三大改革「寛政の改革」を成し遂げた松平定信のことである。
(白河関跡碑)

(松平定信が建てた古関蹟の碑)


話を進めて、鳥居をくぐり階段を上る。
足に自信のない方は、古関碑を右に回るのが良い。
階段途中には、「矢立の松」の関碑がる。

説明によると、
(治承四年(1180)源の義経が平家追討のため平泉を発し、
この社前に戦闘を祈願、この松に矢を射たてたと伝えられる。)
が、その松は見当たらない。枯れて切り株だけが残っていると、
案内板にある。
(鳥居の中を階段で登る)

(矢立の松の石碑)

(白河神社本殿)


頂上には白河神社の本殿があり、左側に三首の歌碑が建っている。
古歌碑にある三首は、
・たよりあらバいかで都へつげやらむ
       けふしら河のせきはこえぬと    平兼盛
・みやこをバ霞とともにたちしかど
        あきかぜぞふくしら河の関   能因法師
・秋風に草木のつゆをはらハせて
きミがこゆれば関守もなし   梶原景季
である。

説明板によれば、
(一首目は、
「便りあらば いかで都へ告げやらむ
       今日白河の関は越えぬと  平兼盛(拾遺和歌集)」であり、
「三十六歌仙の一人、平兼盛が奥州に下り歌枕の白河の関を越えた感激を
都の知人にどうやって知らせようかと詠んでいる」
二首目は
「都をば 霞とともに立ちしかど
         秋風ぞふく白河の関  能因法師(御拾遺和歌集)」であり、
「風狂数奇の歌人、能因法師が羽州に旅した際、白河の関で詠んだ歌、
都と白河の関の距離・時間を詠みこんだ著名な歌である。」
三首目は、
「秋風に 草木の露をはらわせて
      君が越えゆれば関守もなし  梶原景季(吾妻鏡)」であり、
「源頼朝が、文治五年(1189)七月二十九日、奥州平泉の藤原氏を攻める途上、
側近の梶原景季が、白河の関の社殿で詠んだもの。」)と解説がついている。

神殿を右へ行くと、関所跡と思われる空堀跡があり、土塁も見受けられる。
(白河神社左の古歌碑)

(関所跡を思わせる空堀)

(関所跡を思わせる空堀2)

(関所跡を思わせる土塁)

(奥の細道文学碑)


さらに進むと、(奥の細道白河の関)の文学碑があり、
ここには奥の細道「白河の関」の項を、

・卯の花をかざしに関の晴れ着かな  曽良

の曽良の一句までが記されている。

少し下がると、右手に大きな杉の木があり、
{従二位の杉}と題して、
(鎌倉前期の歌人、従二位藤原宮内卿家隆が手植し、
奉納したと伝えられる老木で、推定樹齢約八百年、周囲5m)という。
(従二位の杉)


ここまで歩いてきた小山には(カタクリの自生地)の看板があり、
時期には可憐な赤い花が首を垂れるのを見ることができるようだ。

白河の関の先に、白河関の森公園があり、
ビジュアルハウスや食事ができるところもあるが、
五月のゴールデンウイークの後であり、
木曜日であるのにお疲れ休みか、お店は閉まっていた。
それでも曽良と芭蕉の旅姿はボクたち訪問者を出迎えてくれた。
芭蕉と曽良の銅像の台石には、二人の俳句が刻まれている。
・風流の初めやおくの田植えうた 芭蕉
・卯の花をかざしに関の晴着かな 曽良


(白河関の森公園)

(松尾芭蕉と曽良の旅姿銅像)

(台石の俳句)


・汗ぬぐい 白河の関 歌枕  hide-san



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境の明神(芭蕉の道を歩く 34)

2014年05月25日 09時00分27秒 | ひとり歩き旅

(奥の細道【八】白河の関1)
遊行柳を見て、次は有名な「白河の関」を芭蕉一行は訪ねている。
ボクもその後を追って訪ねていくのだが、芭蕉のように歩くわけではない。
カミサンと同行二人だから車でその足跡を追う。

曾良の旅日記によると、
(関東の方に一社、奥州の方に一社、間二十間ばかりあり。
両方の門前に茶屋あり。小坂也。)
とあるので、
ボクは奥州街道に面して、両社向かい合って在るものと想像していた。

国道294号線(旧奥州街道)を進むと、
左側の栃木県側に「境の明神」玉津島神社があり、
道路向かい側にもう一つの「境の明神」が見当たらない。
道路はやや上り坂になっている。
曾良の言う「小坂なり」である。

(栃木県側の「境の明神」)


那須町教育委員会の説明板によると、
栃木県側の「境の明神」は、
(玉津島神社とよばれ、奥州側の住吉神社と並立している。
創立は古く、天喜元年(1053)四月十四日に、
紀州和歌の浦の玉津島神社の分霊勧請と伝える。-後略―)とある。

何のことはない、福島県側の「境の明神」とは並立していることが分かった。
道路の坂の上を覗くと、(福島県)の案内看板がめる。
坂の上が県境なのだ。坂を登って上を見ると、もう一つの鳥居が見える。
福島県側の「境の明神」なのだ。

(福島県側の「境の明神」)


福島県側の「境の明神」については、白河市教育委員会が、
(旧奥州街道に面して、
陸奥(福島県側)と下野(栃木県側)の国境を挟んで境の明神が、
二社並立している。
陸奥側の「境の明神」は、玉津島神社を祀り、
下野側の「境の明神」は住吉神社を祀っている。

-中略―

境内には越後新発田藩溝口家や南部藩士などが寄進した灯籠が並び、
松尾芭蕉の「風流のはじめや奥の田植え唄」などの句碑や
歌碑も多く建立されている。)とある。

つまり福島県側も栃木県側も、自分の所は玉津島神社であり、
県境を挟んで相手側を住吉神社だといっている。
話がややこしいのはここにある。

答は、白河市教育委員会の解説板にあった。

玉津島神社と住吉神社と題して、次のように記載されている。
(玉津島明神(女神、衣通姫(そとおりひめ)と
住吉明神(男神、中筒男(なかつうおのみこと)は、
国境の神・和歌の神として知られ、女神は内(国を守る)、
男神は外(外敵を防ぐ)という信仰に基づき祀られている。
このため、陸奥・下野ともに自らの側を「玉津島を祀る」とし、
反対側の明神を「住吉明神を祀る」としている。)としている。

道路を挟んで二社が向かい合っていると勝手に思い込んでいた自分が悪い。
福島県側の「境の明神」と栃木県側のそれとは旧奥州街道に面して、
二社並立していることが分かった。

また、双方とも玉津島神社であり、
反対側は住吉神社と呼んでいることも解かった。

そこでボクは栃木県側から来たので、栃木県側を玉津島神社、
福島県側を住吉神社と呼ぶことにした。

(福島県側の「境の明神」の門)

(福島県側の「境の明神」本殿と奉納された灯籠)

(芭蕉の「風流のはじめや奥の田植え唄」の句碑)


他に、大江丸の「能因にくさめさせたる関はここ」の句碑、
思案の「卯の花や清水のすえの里つづき」の句碑もあったので、
掲載しておきますが、写真を見て読めるでしょうか?
(大江丸の句碑)

(思案の句碑)


陸奥(福島県側)の境の明神の前の道路を挟んで向かい側に
「白河二所ノ関址」の看板がある。
白河の関はここにあったとする跡である。
陸奥と下野の二か所の明神があったところに白河の関はあったとされ、
それで「白河二所ノ関」と呼ばれたという。
(白河二所ノ関址の看板)



・若葉には 二所の境は 見当たらず   hide-san



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二円の買い物

2014年05月18日 09時18分48秒 | つれづれなるままに考えること
今日、二円の買い物をした。

いくらなんでも一つというわけにも行かないので、

五個買うことにした。

五個でも十円。

今時、十円でものを買うことも珍しいのに二円だ。

ボクは一体何を買ったのでしょうか?


この時、昔使った一銭のことを思い出した。

戦前のことですが、一銭持って駄菓子屋へ行き、

飴玉を二個買うことが出来た。



戦争に負けて、物価はうなぎ登りに上がって、

一銭が十銭、五十銭、一円そして十円になった。

十円でものを買うことさえ最近はままならない。

もやし一パック6円、馬鈴薯一個25円、大根一本113円。

安い物でも、なかなか十円のものは少ないのに・・・



成長するに及んで、大学は出たけれど、就職先がない。

無いことはなくて、大学を出た高学歴の人は高給であるから必要ない、

と言うのが企業の本音であったようにおもう。

トヨタ自動車や大手銀行、大手商社の学卒初任給18500円。

十八万ではありません、一万八千五百円です。

こんな所へ入るには、それこそ40人にひとりの難関でした。


こんな所には入れなくて、初任給13500円の会社に入った。

下宿代、一日二食付きで一ヶ月8千円でした。

給料は、税込みですから、所得税、住民税、年金保険等引かれて、

手取り12200円。

下宿代を払って、残りで昼弁当とタバコを買って、一ヶ月ぎりぎり。

給料日に、アンミツを食べるのが唯一の楽しみでした。

夏のボーナスは、寸志3000円也。

しかし冬のボーナスは、六万円もあったのには、

本当に驚きました。

しかも、一年目は60%しか支給されないが、二年目は80%。

60%で六万円、80%なら八万円、

三年目には100%で10万円ではないか。

しかも夏冬あわせると、ボーナスだけで二年目は16万円、月給X2倍X12月=年収となる。

つまり年収を単純に12ヶ月で割れば、月給は27000円になる。

年収では大手企業に引けを取らない。そんな会社でした。



その後、時の総理、池田勇人首相が、所得倍増論を唱えて、

国民もずいぶん働いて、本当に給料は倍になりました。

昔話はこれくらいにして、話を元へ戻しましょう。



二円で買ったものは何だったのか、賢明な皆さんのこと、見当付いたでしょう。

安倍総理が消費税を3%上げて、都合8%になりました。

日本人の給料は、世界から見ても遜色ない金額になってきました。

消費税は世界では、20%程度が当たり前なのに、日本はまだ8%。


えっ!余計なことを言わずに何を買ったかって?


ハイ!答えは切手でした。


葉書きを出すのに、切手は今まで50円だったのが、

52円になりました。

50円の葉書きに2円足して52円にする必要があって、

郵便局で二円の切手を五枚買いました。

都合、十円です。





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顕正寺,深廣寺と静御前の墓(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 34)

2014年05月14日 09時13分05秒 | ひとり歩き旅

(顕正寺の石柱)


(栗橋宿2)

道路を挟んで顕正寺(けんしょうじ)がある。
ここには久喜市指定有形文化財の
木造阿弥陀如来立像があることで知られる。
久喜市に拠れば、寄木つくり阿弥陀如来立像は、
像高79cm、鎌倉時代の作と言われる。
本堂右横に(池田鴨之介の墓→)の大きな案内があるのでそちらに向う。

(池田鴨之介の墓の案内)


久喜市教育委員会の説明によれば、
(池田鴨之介は「新編武蔵風土記稿」によると、
並木五郎兵衛と共に、幕府に願い出て、
慶長年間(1596~1614)に、下総国栗橋村(現茨城県五霞町元栗橋)より、
村民を引き連れ、後の栗橋宿となる上河辺新田を開墾しました。
また下総の国中田新宿村藤の森(現茨城県古河市中田)より、
顕正寺を移したといわれています。
慶安元年(1648)12月9日に没し、
法名「光明院釈常薫」と言います。(中略)
代々栗橋宿の本陣役を務め、
子孫は明治22年私立淑徳女学館を設立し、
早くから女子教育に力を入れ、旧栗橋町の第三代町長として、
町政のために尽くした。久喜市教育委員会)とある。

(池田鴨之介のお墓、法名「光明院常薫」とあった)


顕正寺を出て、旧日光街道を行くと左手に(深廣寺)の案内がある。
左に進むと深廣寺(じんこうじ)の石柱があり、
正面に本堂があり、寄木造の単信上人の椅子に腰を掛けた座像が、
厨子に納められているとのことで、
深廣寺の第二代住職になった。
本堂左手に、樹齢300年の松の大木と21基の六角名号塔が目を引く。
この名号塔を造ったのが、単信上人であると言う。

(深廣寺の案内杭)

(深廣寺の石柱)

(深廣寺の本堂)

(本堂の無涯山の扁額)

(大きな松と21基の名号塔)


久喜市指定文化財(歴史資料)となっている「六角名号塔」について、
(高さ約360cm、一面の巾約50cm、
六角からなる石塔で、「南無阿弥陀仏」の名号が刻まれている。
この塔は、深廣寺二代住職 単信上人が伊豆より大石を船で持ち帰り、
承応3年(1654)~明暦二年(1656)の間に供養塔を20基建立、
その後明和三年(1766)に九代住職 法信上人が一基建立したもの。
基礎部右側面の地名の表記が、右から①~④番目までと、⑬~⑳番目までが、
「武州栗橋」となっており、⑤~⑫番目までは「武蔵野国新栗橋となっている。

(石柱の基礎部分)

(武州栗橋 深廣寺と書いた基礎部分)

(武蔵国新栗橋 深廣寺とかいた基礎)

(21番目には「現世安穏 後生浄土」とある)


深廣寺を出て、旧日光街道を進むが、時間が17時近くなったので、
(栗橋駅入り口)の信号を左折、帰宅の用意をする。
栗橋駅までは、歩いて歩いて、疲れた身にはかなり遠く感じられたが、
街の雰囲気が駅に近く感じられたので、
T字路に指しかかったところで、左右どちらが駅か分からず、
右折した所に、車が停車していたので、近寄って道を訊ねると、
栗橋駅は左折するのが正しいとのこと、
「真直ぐですよ」と大声で念を押され、
内心ホッとして、駅に向った。

(「栗橋駅入り口」の信号機)


前方右手に駅らしき建物が見え、タクシーが待っているのが見え、
栗橋駅であることが分かった。JRと東武の栗橋駅が一箇所にあった。

(栗橋駅の建物)


駅が見えたところで、左手に小公園が見える。
入り口に「静御前の墓」と書いた石塔が建っている。

(静御前の墓と書いてある小公園)


静御前の墓がこんな所にあるとは、全く予想すらしなかった。
しかし、調べて見ると、日本全国に数箇所、静御前の墓があり、
伝説多き源義経が平泉から北海道に渡って、
さらに蒙古でジンギスカンになったと言われることから考えれば、
その妾の静御前の墓が、あっちこっちにあっても可笑しくはない。

静御前の墓として、久喜市教育委員会の説明をご覧ください。
(静御前は、磯の禅師(ぜんに)の一人娘として仁安3年(1168)に
生まれたといわれ、白拍子と呼ばれる美しい舞姫に成長いたしました。
干ばつが三年も続き、加えてその年も長い日照りで、
農民が大変困っておりました。
そこで、後鳥羽上皇が寿永元年(1182)、京都神泉苑に舞姫100人を選び、
「雨乞いの舞」を命ぜられました。
最後に静が舞い始めると空がにわかに曇り、激しく雨が降り出し、
三日三晩、雨が降り続いたといいます。
後鳥羽上皇は、静が15歳でありながら類稀な才能を賞嘆され、
褒美に「蝦蟇龍」の錦の舞衣を賜りました。
この衣は現在、古河市中田町の光了寺に保存されています。
平氏追討に功績のあった義経の寵愛を受けた静が、
初めて義経に出会ったのもその頃のことでした。
その後義経は兄頼朝の不興を蒙り、
奥州平泉の藤原氏を頼って京都を落ち延びました。
静は義経を慕って京都を発ち、平泉へ向いましたが、
途中下総の国下辺見付近で「義経討ち死」の報を耳にして、
悲しみにくれ仏門に入り、義経の菩提を弔いたいと再び京へ戻ろうとしました。
しかし、重なる悲しみと馴れぬ長旅の疲れから病気となり、
文治5年(1189)9月15日、この地で死去したと伝えられています。
侍女琴柱(ことじ)はこの地にあった高柳寺に遺骸を葬りましたが、
墓のしるしの無いのを哀れみ、
享和3年(1803)5月、関東郡代中川飛騨守忠英が
「静女之墳(はか)」の墓碑を建立したものと考えられています。
また境内にある「舞う蝶の 果てや夢みる 塚の蔭」と言う歌碑は、
江戸の歌人坐泉の作を村人が、
文化3年(1806)3月に建立したものであります。久喜市教育委員会)とある。

(静御前のお墓、遠景)

(静御前之墳とある)

墓石の右側にある歌碑、

 「   静や志づ
  しづのおだまき 
 くり返し昔を
  いまになすよしも
       がな」
 

墓石左側にある歌碑には、

 「   吉野山
 みねのしらゆき
     ふみわけて
 いりに志ひとの
  あとぞ恋し
      き」


(左手に旧墓石がガラス張りになって保存されている)

(旧墓石がガラス張りになって保存されている2)

(栗橋駅舎)


本日の歩行数4、5万歩、約28kmの歩行であった。



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権現堂調整池と焙烙地蔵(旧日光・奥州道中ひとり歩る記 33)

2014年05月09日 09時03分24秒 | ひとり歩き旅

(栗橋宿)
小右衛門の一里塚跡を過ぎて、
旧日光街道を進むと前方に高速道路の橋脚が見える。
(見える高速道路の橋脚)


地図に拠れば、この高架の下を抜けて右側にある国道四号線にぶつかり、
国道四号線の下をくぐって反対側に出なければならない。
旧日光街道は今まで右に国道四号線、
さらに国道の右手を権現堂調節池(行幸湖)がつながっているはずである。
(突き当たりは国道四号線)

(国道四号線をガードでくぐる案内図)

(ガードが見える)

(ガード)

(ガードを出たところ)


ガードをくぐって出ると見晴らしが良く、
正面に権現堂調節池(行幸湖)が見える。
(ガードを出ると見晴らしの良い桜と権現堂行幸湖の調節池)

(えんえんと続く桜並木と権現堂調節池)


日光街道はこの権現堂調節池(行幸湖)と左手の国道四号線との間の、
見晴らしの良い桜並木の道を何処までも歩く。
まもなく大きなビルに突き当たり、ビルを避けるように迂回すると、
東北新幹線の高架が見え、高架をくぐると車道で、
車は左へ国道四号線に入っていくが、
歩道は脇道に下りここでまた国道下を通り、国道四号線の反対側に出る。
(大きなビルを迂回する)

(東北新幹線の高架)

(高架を過ぎると左へは車道)

(歩道は脇道を下る)

(国道四号線をガードで反対側に出る)

(国道四号線のガード)


反対側に出たら右へ、国道四号線の方へ坂を登り、
国道四号線の左脇に「栗橋大一劇場」のところを、
旧街道は左の脇道に下っていく。
下り道は右へ曲がっていくが、曲がりきった所に神社がある。
鳥居の扁額に(香取宮 八幡宮)とある。
さらに進んで、左手に「会津見送り稲荷右」の案内杭があり、
進むと右手にお稲荷さんの赤い鳥居があり、近づくとお宮にでかでかと
「会津見送り稲荷」と書いてある。
(国道四号線に昇る)

(栗橋大一劇場)

(下りきった八幡神社)

(香取宮 八幡宮の扁額)

(会津見送り稲荷の案内杭)

(お稲荷さんの赤い鳥居)

(会津見送り稲荷と墨書してある)


説明板によると、
(江戸時代、徳川幕府が参勤交代制をとっていたころ、
会津藩の武士が藩主が江戸参向に先立ち、
先遣隊として江戸へ書面を届けるため、
この街道を栗橋宿下河原まで来た所、地水のため通行できず、
街道がどこかわからず大変困っていると、
突然白髪の老人が現れて道案内をしてくれました。
お蔭で武士は無事面目を果たすことが出来たという。-中略。
のちになって、この老人が狐の化身であることが判り、
お稲荷様として祀ったものである。久喜市教育委員会)とある。

久喜市の教育委員会も大変苦労なさっていると思える。
これはボクの感想。

このあと旧日光道中は、また国道四号線に上がり、
すぐ下ってガードを潜り抜け、出たところを右折する。
旧街道らしく初めての草道で、これで正しいのかと思ったが、
草道はすぐ終り、ぐるっと左へ曲がると、
案内にある通り、三河屋衣裳店がある。
(二回目国道四号線への上り道)

(下ったところ)

(ガードをくぐる)

(草道)

(左へ曲がる草道)

(三河屋衣裳店)


ここから栗崎宿のようで、
街道は鉤の手になって道路は右に急回転している。
言い伝えでは、ここに関所があったという。
この衣裳店の真裏に当る所に、焙烙(ほうろく)地蔵はあった。
ほうろくとは、戦時中金属は、大砲や鉄砲のために全てが供出したために、
フライパン代わりに土で出来たフライパンと思っていただきたい。
豆を炒ったり、米を炒ったりした。
焙烙地蔵堂は、関所破りを火あぶりの刑にした人のを哀れんで作られた。
(焙烙地蔵堂)

(焙烙地蔵尊)

(焙烙(ほうろく)


この焙烙地蔵について、
(むかし、現在の利根川に関所が設けられ、
人の通行をきびしく取り締まっていた時代、
関所を通らないで川を渡った者、
あるいは渡ろうとくわだて事前に発見された者は、
関所破りの銃罪人として、火あぶりの刑に処せられたと伝えられている。
処刑場も地蔵尊のある現在の場所であったと言う。
こうした沢山の処刑者をあわれみ、
火あぶりになぞらえて、
その後土地の人が供養のため焙烙地蔵として祀ったものである。
今も焙烙に名前を書き入れ奉納されているのが見受けられる。
またエボ地蔵(エボ=イボのこと)とも言われ、
あげた線香の灰をエボにつけると治る、
と言い伝えられている。久喜市教育委員会)とある。

旧街道を進むが、目当ての浄信寺が見当たらないので、
杖代わりに乳母車を押して歩いて居るおばあちゃんがいたので、
お訊ねする。

「浄信寺へ行きたいのですが、ご存知ですか?」と訊くと、
「そこに鏡(カーブミラーのこと)があるだろう、
その先に旗がひらめいている所があるからそこだよ。
あんたは檀家さんかよ?」と逆に訊かれた。
「いえ、違います。ボクは旧日光街道を歩いて日光まで行く所です。
昔の人は、どんな気持ちで歩いたのかと思って」と答えると、
「どっから来ただ。」と言うから、
「今日は(幸手)からきて、(栗橋)まで歩きます。」と言ったら、
「大変だなあ,これ持ってけ」と飴をポケットから沢山取り出した。
折角出されたものを、いりませんとは言えず、
「では遠慮なく」と言ってひとつまみ上げたら、
「もっともってけ」と手のひらに、どっさり飴を乗せられた。
「ありがとう」と言って頂戴したが、遠慮すべきだったのか、
今でもよく判らないが、疲れていることも手伝って、美味しく戴いた。
(旧日光街道)

(紅白ののぼり旗)


しばらく歩くと、
紅白の幟旗がひらめいている所がある。
その下に案内杭が建っており、
浄信寺、顕正寺、深広寺、焙烙地蔵の案内がある。
浄信寺はこの紅白ののぼり旗がある場所にあり、
その正面、道路反対側に顕正寺はある。
(案内杭)


浄信寺にはご近所の婦人会の方か、沢山集まっていて、
明日始まる「呑龍上人」のお祭りの準備をしていた。
毎年4月に呑龍上人の祭礼が行われるが、
これは呑龍上人が貧しい子供を手厚く保護したことから、
「子育て呑龍」と尊敬された上人を浄信寺が、
大正時代から祀ったことから始まっているという。
(浄信寺でお祭りの準備をする婦人会の人たち)

(浄信寺本堂)





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