楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

東大の赤門

2017年04月29日 05時19分38秒 | 日記
東京大学本郷キャンパスの大半は加賀百万石、前田家本郷邸と重なっている。

「数々の加賀前田家ゆかりの歴史的遺構が本郷キャンパスの景観を彩っている。
中でも有名なのが、旧加賀屋敷御守殿門の赤門であろう。」(東京大学総合研究博物館による)

(東大の赤門=御守殿門)


そもそも加賀藩江戸上屋敷は、和田倉門外の辰口の屋敷を拝領したのが始まりで、
その後、八百屋お七の大火で上屋敷を焼失したので、

本郷邸(現在の東京大学)を上屋敷、
駒込邸(現在の六義園)を中屋敷、
平尾邸(現在の板橋区の23万坪)が下屋敷となった。

(本郷邸の上屋敷内溶姫御殿)


赤い矢印が現在の赤門の場所。
すぐ上の(御住居御奥)が溶姫の居所であった。

~5月28日まで
東京大学総合研究博物館で、
「赤門ー溶姫御殿から東京大学へ」と題して


展示会が行われているので行ってきました。

(赤門のポスター)


赤門は、今では、日本の最高学府の東京大学の入退出門として、
東大の代名詞になっているが、
本来は、加賀藩上屋敷に徳川家の御姫様 溶姫を奥方として迎えるに当たり、
建てられた門で、別名 御守殿門と言われ、
加賀藩主のもとに、徳川家から輿入れされた奥方 溶姫が出入りする門であった。

(1877年(明治10年)の東京大学創立から赤門は東京大学の門となった。
関東大震災の被災など幾多の苦難を乗り越えて、
教職員、学生の思いに支えられて、
東京大学の象徴として今日まで守られてきた。)(東京大学総合研究博物館)

出土された中に、赤門の鬼瓦に「學」(=学)の文字が入っていた時代がある。

(赤門の鬼瓦)



この展示で面白いものを見つけた。

説明によると、

加賀藩前田家に輿入れされた、
(溶姫の食事は、敷地内を発掘した所、
貝殻と魚の骨がほとんどで、鳥の骨はわずかであった。
貝殻はシジミ類とハマグリが主体で、この2種で全体の8割、
魚の骨はマダイやコイ、キス類が目立つ。
鳥の骨はカモ類が多く、チドリ類(シギ類など)も多い。
傾向としてアワビ類、マダイ、カモ類などの上物とされるものが目立つ。
一方で、アサリやマグロなど下物が含まれている点、
マダイのサイズにバライティがある点、魚類の切断の仕方に規格性がない事は、
溶姫の食事だけでなく、
女中などが日常的に食していたことなどが推察される。ー後略)
とある。(東京大学総合研究博物館)

魚介類としては、ハマグリ、アワビ、マダイ、キス。
鳥類としてはカモで、鶏ではないことだ。
またアサリやマグロは下女の食すものだった。

魚類、鳥類の骨の展示があったが、撮ることが出来なかった。

また、
(便所の遺構の土を分析した所、
土中に鉛が多く含まれていた。
これは溶姫御殿の奥女中が使用していた白粉(おしろい)に含まれていた鉛分が、
便と一緒に排出されていたことが解った。)とある。

トイレにまで及ぶとは、さすが東大の研究と思った。

コメント (13)
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志村一里塚ー板橋十景(その四)

2017年04月26日 05時36分19秒 | ひとり歩き旅
四番目の板橋十景は、中山道上にある「志村の一里塚」である

(志村一里塚と右隣の竹細工店)


この一里塚は、中山道上に残る一里塚としては道路の両側にある。
東京都内に残る一里塚としては、北区西ヶ原の一里塚と板橋区の志村の一里塚の二つ。

中山道上では国の指定史跡に残る一里塚は、この志村の一里塚と岐阜県の垂井宿にある一里塚であるが、
一里塚が左右両側に残っているのは志村の一里塚だ。

一里塚は縦横およそ9メートル、高さ1.7メートルで、
街道の両側に一里ごとに設置された。

徳川家康が一里塚の設置担当者 大久保長安に、
「目印としてええ木を植えろ」と方言丸出しで言ったのが、
「エノキを植えろ」と聞こえたのでエノキが植えられたと言うエピソードが残る。

現在残っている一里塚には松の木、桜の木、エノキなどいろいろあるが、
これはエノキが枯れて、なお明治になって一里塚廃止になったのがきっかけで、
他の木が植えられたものと思われる。

一里塚右隣に見えるのは、古くからの竹細工店で、
志村一里塚と共に板橋の家並み景観賞を受賞しているので、
建て替えるに建て替えられないようです。

いつ売れるか解らない竹細工の笊や竹箒など店内に並べ販売されている、
生け垣なども扱っているようです。

読者の皆さんいかがですか?
コメント (9)
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南蔵院ー板橋十景(その三)

2017年04月22日 06時20分51秒 | ひとり歩き旅
板橋十景を二カ所紹介した。にりん草群生地の赤塚溜池公園、板橋が架かる石神井川の桜だ。

今回で三ヵ所目になる「板橋十景」は南蔵院の枝垂れ桜。

枝垂れ桜が咲く頃になると、桜祭りが催されて、
本堂では、御座敷寄席や元気象大学の宗教学者(ひろ さちやさん)の講演があったりする。

門前では幔幕が張られて、恒例のピンクの桜あんの入ったお団子が売り出される。

(幕が張られた南蔵院入り口)

(正面に本堂が見える参道)

(枝垂れ桜と本堂)


参道を進むと南蔵院石造り出羽三山供養塔があり、その台座には、
蓮沼村・前野村・小豆沢村の講員70名の氏名と屋号が刻まれており、
同時代の出羽三山講の様子を知る貴重な資料となっている。(板橋区有形文化財)

(参道右横の出羽三山供養塔)


その先右手に地蔵堂があり、地蔵堂前では赤いから傘の下、
南蔵院枝垂れ桜まつりの団子とお抹茶の提供を案内している。

(地蔵堂と赤いから傘と案内嬢)

地蔵堂の中には地蔵菩薩が鎮座され、笑みを浮かべて参拝者をご覧になっている。

(地蔵堂)

案内によれば、

(地蔵の名の起こりは、ひとびとの苦しみや悩みを取り除き、
大地に巻いた種が生育し収穫できるように、また地中にいろいろのたからものを蔵し、
ひとびとの役にたち、繁栄させるように、
そして死んでいった後の世までも慈悲の手を垂れて下さると言う。
ひとびとをいつくしむ心を無限に持っておられるところから、
地蔵菩薩と言う名がつけられました。-後略)

本堂手前左には観音堂があり、人々は家内安全、健康第一を願ってお参りします。
(観音堂1)

(観音堂2)


その先に南蔵院の本堂が階段の上にあり、枝垂れ桜が手を差し伸べるように咲きます。

(南蔵院本堂1)

(南蔵院本堂2)

(枝垂れ桜)
(ひろさちやさんの講演会ポスター)


現在の境内は狭いのですが、以前は志村坂下の荒川低地に建っていて、
広い寺領を誇っていましたが、
度重なる荒川の洪水によって現在地に移転した由緒あるお寺で、
開基を蓮沼村名主の先祖 新井三郎盛久と伝えられている。
なお、墓地の一角に新井氏で占められ、南蔵院と道路を挟んで隣には、
ご子孫の方がお住まいの東京では珍しくなった黒板塀の家がある。

(本堂から見た境内)

(黒板塀の元名主宅)


また境内にある庚申地蔵は、承応三年(1654)に庚申待講中が造立したもので、
庚申塔として地蔵の形をしているのも珍しい。

(庚申塔の地蔵さん)

(優しいお顔のお地蔵さん)




帰り道小豆沢公園のソメイヨシノが綺麗で、ついシャッターを切ってしまった。

(桜の咲く小豆沢公園1)

(桜の咲く小豆沢公園2)
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春たけなわ

2017年04月19日 05時38分30秒 | 日記
芝生も青くなった。

節句も終わったところで、桃の花が懸命に咲いている。


(桃の花1)


(桃の花2)

(桃の花3)


森も緑を取り戻し、若葉が萌えいずる季節になった。

(自然観察公園の青葉)

(出てきたばかりの新芽)

(農家の庭先の新緑)


ソメイヨシノも見事に花を咲かせ、枝垂れ桜が満開だ。
レンギョウの黄色が鮮やかに目に映える。

(ソメイヨシノ1)

(ソメイヨシノ2)

(芝生の中央にある枝垂れ桜)

(レンギョウ)


春たけなわとは、こんな季節を言うのだろうか、気温も初夏に向かって上昇しつつある。




東京は4/19日で気温25℃以上の夏日がもう三日続いている。

花は季節の察知が早いのだろうか、八重桜もツツジも、
驚いたことに富士の花まで咲き始めた。

春たけなわどころかもう夏だ。

(八重桜)

(ツツジ)

(これを下り藤と言うのだろうか)
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板橋宿に残る二つの遺構ー板橋十景(その二)

2017年04月15日 07時01分06秒 | ひとり歩き旅

板橋宿は、旧中山道の上では、江戸から京都に向かって第一番の宿場であった。
日本橋がスタート地点ではあるが、江戸在住の人たちがスタートする時は、
ほとんどの人が、板橋宿で集まって出発の壮行会を開いた。

どうしてこんなに物々しかったかと言うと、
昔の人の殆どが、生まれた土地で結婚し、出産し子育てをして、
生涯を送り、同じ土地の中で埋もれて行ったからである。

だから江戸から京都へと言えば、
生まれて初めて見知らぬ土地を行くことになる。
言い換えれば、明日をも知れぬ未知の世界へ向かうことになるから命がけである。
だから餞別(=はなむけ)を贈り、勇気づける必要があった。
そう言う意味で、どの街道も第一の宿場町は何処も、
先行きの不安を払い除ける必要があり、
華やかさが必要であった。

(板橋宿)


旧中山道を歩いて各地の宿へ立ち寄り、案内書やら説明書を頂くのであるが、
「東京の板橋から来ました」と質問に答えると、
必ず訊かれることが二つあった。

一つは板橋区の地名の由来となった「板橋」(いたのはし)は、
まだ残っているのですか?と言うことと、

(旧中山道を歩くと見えてくる「板橋」)


(板の橋に似せたコンクリート製の橋)


もう一つは、板橋宿にある「縁切り榎」は残っていますか?
の二つであった。

(縁切り榎)

(縁切り榎2)


「石神井川に架かる板橋は、木に見せかけたコンクリート製になっていますが、
今も残っております。
春の桜の頃は板橋の下を流れる川岸の両側に植えられた桜が満開になり、
大変な人手になります。

(板橋の桜)


もう一つの「縁切り榎」三代目になって居りますが、
現在もまだ健在ですよ。」と答えていた。

その板橋の桜は、ここから王子に抜ける石神井川の両岸に、
ソメイヨシノがびっしり植わっており、
時期には見物客でごった返すほどで、
「板橋十景」の内に数えられている。

(板橋十景)

(板橋の桜1)

(板橋の桜2)

(板橋の桜3)

(板橋の桜4)


さて、板橋を渡って進むと右手に交番があり、
その先の右手に話題の「縁切り榎」はある。

(縁切り榎2)

(縁切り榎の説明)


そもそも縁切り榎は、旗本近藤登之丞の抱え屋敷内にあったもであるが、
榎とケヤキの古木が二本樹っていた。
いつの頃からか縁切り榎と呼ばれるようになった。
この木の前は、岩の坂と言い、ケヤキの事を槻木(つきのき)と昔は読んだらしい。

岩の坂の前の榎(えのき)と槻木(つきのき)を並び読んで、
「エノキ、ツキノキ、いやな坂」と呼び、「縁つきいやな坂」と忌んだという。

縁切り榎の奥には「第六天神」が祀られており、悪縁を絶ちたい人がお参りに来る人が絶えない。
神社手前の絵馬に願いを込めて掛けてあるが、
その数の多いこと、こんなに悪縁に悩ませれている人が多いのかと考えさせられる。

(縁切り願いの絵馬)


幕末に攘夷開国で天皇の政府と幕府とで、険悪な状態になったのを、
取りまとめようと、徳川将軍と天皇の妹「皇女和宮」の婚姻を結び、
もめ事を解決しようとしたご婚礼に際し、
「和宮」が江戸に下る折は「良縁がめでたく結ばれるよう」
この縁切り榎の前を通らなかったと記録に残っている。

(三代目の縁切り榎)


当の三代目縁切り榎は、鳥居に並んで立っているが、
木の皮を煎じて飲ませると縁が切れるとの言い伝えで、
今なお、木の皮を剥ぐ不埒者がいるらしい。
エノキの幹周りを削らないよう竹で囲んでいるが、それでもまだ削る人が後を絶たない。

(相変わらず皮を削りとられるエノキ)


最近は悪縁を絶ち、良縁を得たい人たちの御参りが多いと聞くが、
それにしても木の皮を剥ぐのはやめてもらいたいものだ。
コメント (13)
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