楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

③身辺の整理

2004年07月20日 08時10分00秒 | つれづれなるままに考えること
(身のまわりの整理)
「悪性リンパ腫(血液のガン)」の治療が上手くいっても、
「三年生存率 30%」(私の場合)。
上手くいかなければ、一年生きられる保証はない、
という医師の告知。

治療して 「三年生存率 30%」に賭けることにした。
その後は、医学の進歩に賭ける。

治療開始まで身辺整理と心の整理をするために、
与えられた時間は5日間。
 
一時帰休。(この言葉はこんな時につかうのだろうか?)

勤務先に連絡して退職の依頼をする。
必要書類を郵送でお願いする。
事情を話すと、やむを得ないと気持ちよく了承してくれた。

親戚には、余計な心配をかけたくないので、
息子の妻、娘の夫限りにしてもらい、
それ以外への波及を断った。

パソコンのニュースグループやメールをやり取りしていた人で、
返事を書く必要がある人には、しばらくの間
メールのやり取りができないことを伝え、
ゴルフ仲間には、事実を話し
惨めな姿を晒したくないからと、見舞いを断りながら、
約束はキャンセルして貰った。

自分自身の中では、最悪の「あと一年の生命」と考えていたし、
この一時帰休の時に、長くない命の覚悟は決めていたので、
遺書もしたため妻に渡しておいた。
後は長期治療に備えて、どこからでもメールができるように、
フリーメール・アドレスにすべてのメールが転送されるように、
セットした。

経済的な心配は(僕が死んだ後でも)、
現役時代と同じ生活レベルを続けても、
全く問題ないと妻に教えてあった。
現金、有価証券、預金通帳、暗証番号、印鑑も
すべて妻は知っている。

残るは、自動車の処分だけで、
これだけは如何するか妻と相談した。
自分自身では、もう使うこともないと考えて、

「これは、娘夫婦にプレゼントしようとおもう」と妻に話すと、
「もう 病院から帰ってこないつもりか?」と
追求され、黙ってしまった。

仕方なく、入院が7ヶ月を越え、年をまたぐ様であれば、
車は年内に処分するよう話をして、駐車場もその時
賃貸の解約をすることにした。
もし、年をまたぐようであれば、私自身もう病院から帰れないし、
生命も残り一年と、覚悟は決まった。






コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

②心の整理

2004年07月14日 08時48分00秒 | つれづれなるままに考えること
日はまた昇る(The sun also rises.)

旧約聖書の伝導の書から引用されたこの一文は
アーネスト・へミングウイが、最初に出版した
長編小説の題名です。

聖書を引用すると、
----世は去り 世は来る 地は永久なり 
日は出で日は入り またその出でし所に
喘(あえ)ぎ行くなり 風は南に行き 
またまわりて 北に向かい 
めぐりに巡(めぐ)りて行き 風まためぐる所に帰る 
河はみな海に流れ入る 流れいる海は盈(みつる)こと無し 
河はいできたれる処に 復(また)帰り行くなり----とある。

世の中は巡り巡っていくけれど、大地は永久に変わらない。
太陽は毎日同じように昇り、同じように沈み、
また同じ処から昇る。
風は吹いている方向にぐるぐる回りとまる所が無い。
河の水はみな海に流れ蒸発して また河へもどる。

人の世は生まれ死に、生まれ死にして人は替われど、
また、同じことが繰り返される。
この現象は変わらない。
----行く川の流れは絶えずして しかももとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたはかつ消え かつ結びて----
の方丈記の冒頭と同じように、
人の世は無常で 何をどんなに 一所懸命やっても 
無意味ではないのか。といっているようです。

ヘミングウエイの「日はまた昇る」や「老人と海」に見るように、
へミングウエイのこの虚無思想が 彼をして
「自殺」なのか「事故」なのか
解らない「死」の結末に追いやったようです.

もともと、文学は、人生哲学を志すものであります。
だから、谷崎にしても、志賀直哉、「金閣寺」の三島にしても
人生の終着点はわかった上での最後であったと思われます。
しかし何時の時代でも、過去の歴史が
人生の終着点を教えているのに
その終着点を絶えず意識して生活を送る人の
少ないことに驚きさえ感じます。

「老人と海」は、最も典型的に、人生の「無常」「虚無」
「空しさ」を表しています。
一人の老人が長い不漁の果てに、努力して努力して
釣り上げたカジキを、
苦労して苦労して 港へ運ぶ途中 さめの大群に遭遇し
獲物を全て食べられてしまう。
岸にたどり着いた時、獲物は骨だけが残っていた。

ヘミングウエイは語る….どんなに努力をしても何も残らない。
残るのは空しさだけである。
人が 生まれ 死んでいく、その間にどんなことがあっても、
それは 単に生きている間だけのこと でしかない。
何をしても 全く無意味なのです。

そして、死は 「何時来るか解らない」明日なのか、
今日の午後なのか、あるいは、次の一時間以内なのか、
そんなことは誰にもわからない。

だからこそ、(これこそが 私の人生哲学なのですが)
人は、今現在 この瞬間に 本当にやらなければならないことに、
全神経を集中してやることをやらなければならない。
そして、次の瞬間に死んでも「悔い」が残らないほど….と 
ヘミング・ウエイは 言いたかったに違いない と解釈したい。
(事故なのか、自殺なのか、解らない死に方をして、
本当の所はどうも人生を捨てたとしか思えないが)

しかし得てして人はああなるのではないか、
こうなるのではないか先のことを考えて、
しかも悪いほうへ、悪いほうへと考えを巡らせて行く。
そこが又人間なのだが・・・
現実は良いほうへ、良いほうへ 展開していくかもしれないのに。

 明日のことは、誰にもわかりません。
だから神は言う
「明日を思い悩むはおろかなり明日は明日のみが知ればなり。」と。
だから 今を悔いの無いように、この瞬間に本当になさねばならぬことをしたいものです。

このように、自分に言い聞かせ、心の整理をつけましたが、
まだすっきりしません。
時間が迫り 病院へ帰らねばならぬ時間がきました。
もしかすると 生きて この家には帰れないかもしれません。
部屋の隅においてあるゴルフバッグも、
もう使うことが無いかもしれません。
この部屋でカミさんと会うことも無いかもしれません。
しかし、色んな後ろ髪を引かれるものを、
家に置いたまま出発することにしました。
生きようとする意欲が充実していればいるほど、
この家に帰れる公算が強いからです。

「じゃあ 行くよ!」そう言って、後ろも見ないで家を出ました。
カミさんは息を呑んで一言も話すことが出来ません。
家を出て数十歩、外から振り返ってみました。
家の見納めかもしれません。

カミさんが窓越しにそっと見送っていました。

そうだ! 
今日も、明日も、明後日も、日はまた昇る!
もっと先まで、太陽が昇るのをボクは見続けよう!

それでこそ、ボクが在り、そこにこそカミさんの
喜びがあるに違いない。

そう思って病院へ向かいました。




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

①「三年間生存率 30%」の意味!

2004年07月04日 19時34分00秒 | つれづれなるままに考えること
(真面目でたのしいガン闘病生活)
ついこの間、ガンに罹っていることが判った。
しかも 十万人に一人の発病という。
約一ヶ月にわたる検査の結果、
「病状と今後の治療方針」について
家族を呼び寄せての告知をするという。
私にとっては晴天の霹靂。
2001年6月27日の事である。
 
 告知は、我が家の家族、私たち夫婦と
子供二人の総勢四名(長男、長女の配偶者を除く)と
総勢五名の医師団(?)が集まって行われた。
これは私も初体験であった。
五名の医師は、内科助教授S氏、他にHi氏、
中堅のHa氏、担当医のF氏、医学生のT君以上の五人。
 担当のF氏が病状を説明する。

病名は「悪性リンパ腫(血液のガン)」
腹部、胸部、骨髄に転移していて、病期(ステージ)は第Ⅳ期。
病期(ステージ)はⅠ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ期と分かれる。
「これをわかり易く、日本語にするとどうなりますか?」
と聞いてみたが、「それはありません」とのこと。
私が勝手に、日本語に直すと、Ⅰ期(初期)、Ⅱ、Ⅲ期(中期)、
Ⅳ期(末期)。言葉の後ろにガンをつけると「末期がん」
「末期がん」イコール「死を待つだけで、回復の余地なし」

 最近、遺伝子治療のニュースが盛んで、
「ガン治療」のニュースが沢山記事になる。
見ていると、確かに「末期がん」は
「不治の病」と同等語。
ところが、病期のⅣ期は私の場合「三年間生存率 30%」で

「不治の病期」ではない。

すると、私の日本語訳が、間違っていることになる。
日本語訳を訂正することにした。
「Ⅳ期」は、「末期」ではなく、「後期」で無ければならない。
「末期がん」と比べ、「後期ガン」―― がん患者にとって、
なんと響きのよい言葉であろうか?
これで、殆ど生き返ったようなものである。

さて、F医師は続いて治療方法を述べていく。
「治療期間はおよそ14週間」
と説明したところで、S助教授から「18週間」の訂正が入った。
ああでもない、こうでもないと、変な理屈をこねる私に
警戒したのだろうか?
「がん治療は、つらくて、途中挫折する人が多く、
あるいは、最初から治療を拒む人が居ると聞きますが、
もし、治療をしないときはどうなりますか?」と私。

S助教授「一年生存の保証はありません」穏やかな表情の中に、
冷静で毅然とした物言いでの回答である。
「治療した場合、国立がんセンターの資料によれば、
五年間生存率 40%~60%とありますが、
そう考えてよいでしょうか?」の質問には、
「そんなに無いでしょう。
いいところ三年間生存率 30%」の回答。
これは、私の場合である。

なるほど、国立がんセンターの誰でも閲覧できる資料では、
がん治療中の患者も見るから、
あまり悲観的になってはいけないという
配慮もあるかもしれないし、
なんといっても病状は、個人一人一人違うのだから、
大まかにしか表現できない。
だから、私の場合「三年間生存率 30%」で
当然当たり前のことに違いない。
後で判ったことであるが、私の病は、
十万人に一~二名の病気であるから、
実は、過去の治療例、治療統計資料は少なくて、
少ない資料からの判定であったようである。
それなら「判りません」と言ってもらったほうが、
よかったのだが....


「三年間生存率 30%」は、
「あなたは、三年間しか生きられませんよ。
生きられる確率は、30%しかありませんよ。」という
意味であるが、
これは、裏を返せば、生き長らえることが出来るのは、
「三年間に 30%」の確率で存在します。ということになる。

しかし...
くどい様だが、生存率は30%と低いけれど三年間は、
生存できると折り紙を頂いたようなものである?!

普通、人の命は明日をも知れぬという。

人は生まれた時より、いつくるか判らない
死に向かって歩き始める。
言い換えれば、その生命は誰もが「明日をも知れない」のである。

ところがだ、
私の場合、計らずも「三年間は生きられる」と保証されたのだ。
三年間は保証され、そのほかの時間は、
誰とも同じ「明日をも知れぬ命」ということになる。
つまり、「誰よりも三年間は、余計に生きられる」ことになった。
まったく、喜ばしいことではある?!

こんなにめでたい事は一年に二回とはない。
これで私の人生はバラ色に輝いてきた!!


告知の会合の終わり際に、S助教授は言う、

「治療は5日後から始めます。
その間に、身辺の整理と心の整理をしてきてください」と。
                 




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Potora!  NTTグループ運営!