楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生  ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」 山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

世界遺産 醍醐寺

2015年06月26日 | ひとり歩き旅
太閤秀吉が盛大な桜の宴「醍醐の花見」で有名な醍醐寺。
「醍醐寺」は今や世界遺産に。(平成6年12月)

それくらいしか予備知識はなかった。
だから桜の名所に違いないと、楽しみにしていた。

(醍醐寺の仁王門を入った所)


旅行社は、よもや吉野山→吉水神社→後醍醐天皇→醍醐寺を、
連想させる方向で計画したのかしら、と思わせる。
或いは、桜がヒントで、世界遺産に繋がる観光にしたのか・・・

いずれにしろボクには初めての訪問場所「醍醐寺」である。
醍醐寺は密教の真言宗醍醐派の総本山。

仏教寺院なのに密教と言うのはと、疑問を持ち始めたら、
これが解るまでに仏教の勉強に数年かかる。
定年後、鎌倉のシルバー・ボランティア・ガイドを目指して、
勉強を始めた。
鎌倉時代の歴史をおさらいするために、
読みはじめた本を15ページまで進んだ所で、鎌倉時代を理解するには、
仏教を知らずして前に進めなくなった。
そこで仏教を知るためには、最初に仏教を持ち込んだ偉人、
空海、最澄、二人が学んだ密教が解り難く、
庶民に分かり易くするために法然が説いた仏教の教え、
さらに解りやすくした親鸞、そして歎異抄を現わした蓮如、
こうして仏教を知る作業を続けて行くと話は延々と続いて、
西遊記に出てくる「玄奘三蔵法師」までさかのぼり、
鎌倉のガイドになることをあきらめた。
こんな話を続けていると、
醍醐寺の紹介が始まらない。

脱線してしまった。話を戻そう。
醍醐寺は、いろんな方向から眺める寺院のようであるが、
創建は貞観16年(874)と古く、その後焼失し、
天歴5年(951)に五重塔が完成し、山上山下にまたがる大伽藍が整った。
秀吉の花見の後、金堂や三宝院など伽藍が400年前に復興されたと言う。
京都に残された古い木造建築としての寺院群としてボクには興味がある。

(醍醐寺を代表する五重塔)

(醍醐三宝院門跡)


まず三宝院の前に来ると修行僧が一列になって通って行った。
その前の通路に秀吉の花見で名を成した「太閤のしだれ桜」が、
今は花も過ぎて、青葉が目に染みる。

(太閤のしだれ桜)


三宝院の門をくぐって玄関に、靴を脱いで入場料を払い中へ。
今やどこの寺院も、地獄の沙汰も金次第である。

それでも中に入ると撮影禁止は如何なることでしょうか?

三宝院の庭園には、極楽浄土の阿弥陀三尊を現わす石が置かれた場所があり、
池には500年以上と言われる五葉松が亀を表現した亀島が、
その西隣に鶴島が置かれ、こうした作庭を蓬莱池と言うが、
古来作庭には極楽浄土を現わす蓬莱池と心をかたどった心字池を中心にする、
二通りの方法があった。

話はそれるが、水戸黄門が隠居して大日本正史を編纂するために籠った西山荘には、
心字池があるが、心をかたどった池は、逆方向を向いている。
領内を漫遊した黄門様が、人の心は素直に見るのではなく、
裏側から見ることを心がけたから、と言われる。
だから西山荘に有る心字池は、裏側から見るようにできている。

残念ながら心字池も西山荘も写真はない。


2020年に東京オリンピックが開催されると、
沢山の外国人が押し寄せるに違いないが、
フラッシュ禁止ならともかく、カメラ禁止は外国人には解り難い。
低開発国ならいざ知らず、世界経済大国第三位の国にしてはお恥ずかしい。

(世界遺産醍醐三宝院の玄関)

(そっと撮った書院の襖画の間)

(中庭)

(修行僧が一列になって通る三宝院門前)


修行僧が進む先には、醍醐寺の西大門が見える。
その手前左側に三宝院の唐門が金色に燦然と輝いている。
これは三宝院の勅使門で、五年前に当時の姿に復元された。
門全体が黒で、菊と桐の四つの大きな紋は金箔が施されていると言う。
慶長四年(1599)三間一戸の平唐門として建立されたもの。
菊は勅使が通るから、桐の紋は太閤秀吉が通るから、
中央に画かれているのでしょうか。

(菊と桐の勅使門)


勅使門の前を通り、真っ直ぐ進むと西大門がある。
ここには二体の仁王が睨んでいるが、
長承3年(1134)仏師勢増・仁増の二仏師が造ったものと言われ、
またの名を「仁王門」と言われる。

(西大門)

(西大門の仁王門)

(睨みつけてる仁王様)


仁王門を入ると、桜は終わったのに「桜まつり」のぼんぼりと紅白の幕が長く伸びて、
祭りの名残がある。
その先の左手に、世界遺産の金堂があり、ここに安置される薬師如来座像が醍醐寺の本尊になる。
右手に五重塔があるが、これについては前述した。。

(桜まつりのぼんぼり)

(金堂)

(五重塔)


さらに進むと不動堂があり、お堂の前には、
舟形光背をつけた不動明王が大きな目で睨みつけている。
その先に、苔むしたと言おうか、古びた門があり、
ここを通り抜けると左手に観音堂が見える。
西国三十三番観音霊場の第十一番札所、上醍醐准胝堂の遙拝所として、
准胝観音菩薩が祀られている。

(不動堂と不動明王)

(古く苔むした中門)

(観音堂)




「 たった一度の人生!
                   楽しんで終わりたいものです!」 hide-san




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京都 清水の舞台

2015年06月23日 | ひとり歩き旅
清水寺は、京都の観光では必ず訪ねる場所だ。
行く度に、この舞台はこんなに高かったかとか、
清水寺に、こんな楼門があったのだろうかとか、
いつも新しい発見がある。

(清水寺の門)


今年の発見は、人が多いのはいつもと変わらないが、
外国人の多さに驚かされる。
京都の人かと思って、トイレどこに有るのでしょうと訊いたら、
仲間に、ボクの分からない言葉で訊いているのだ。
どうも、この日本人何か聞いているようだけれど、
誰か分かる人いる?
とでも言っているようだ。

ボクは手を振って、間違いましたと赤面してしまう。
日本人と間違う訳である、皆さん和服を着て、写真撮ってもらって、
「サンキュウ」と言っているからだ。

(和服の外国人)


聞くところによれば、和服を着て京都で買い物をすると、
幾らかお値段が安くなると言うのだ。
カフェに入っても、八つ橋を買っても、・・・・
しかも和服は着付けをしてもらって、レンタル料は無料と言う。
京都の商人もよくやりますね。
これでペイできるのかしらと心配します。
大阪商人顔負けの商魂を感じます。

(清水寺の舞台からの雨の風景)

(清水の舞台で、和服姿は全部外国人)

(清水の舞台で2)

(花散るしだれ桜の下で)


清水寺までの道路は狭く、旅行客でごった返す。
そんな道路脇で、これまた商魂たくましい(?)托鉢僧。

商売成るの?(笑)

そんな雑踏も忘れて昼食にありついたボクの神経も見上げたもの。

(ごったがえす狭い道路)

(商魂たくましい托鉢僧)

(昼食)


・たった一度の人生!
         楽しんで終わりたいものです!hide-san




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世界遺産 銀閣寺と近くの哲学の道を歩く

2015年06月20日 | ひとり歩き旅
京都の銀閣寺に寄った。

何回か京都を訪れているのに、
あまり歴史に興味がないせいか、
記憶に残っているものは少ない。

中学生の時、銀閣寺の砂饅頭も銀でできているのかしらとか、
哲学の道を歩いて、
どうしてこんな有り触れた所を歩くのだろうと、
思いながら歩いた、そんな記憶が残っている。

今や世界遺産に登録された銀閣寺、本来の名は、東山 慈照寺と言う。

銀閣寺の説明では、
(臨済宗相国寺派に属する禅寺で、
建立は文明14年(1482)室町幕府八代将軍足利義政公による。
義政公は、祖父の三代将軍足利義満公の北山殿金閣(鹿苑寺)にならい、
隠棲生活を過ごすため、山荘東山殿を造営、
これが銀閣寺の発祥である。正しくは東山慈照寺。)

(史跡慈照寺(銀閣寺)の石柱)


この入口は記憶に残っている。
突き当りを左へ。すぐ銀閣寺のこれなんだろう?と思う建物。
お寺の本堂でもなさそうだし。

その疑問は、銀閣寺のパンフレットに書かれているが、
説明が堅くるしく、それを要約すると、
(この建物は「銀閣」で、一階は心空殿と言って、書院風に造られており、
二階は、潮音閣といって、壁に花頭窓(かとうまど)と言う窓があり、
唐様仏殿の様式で屋根の上の青銅の鳳凰は東を向いて、
観音菩薩を祀る銀閣を守っている。)とある。

一つの文で沢山を説明しようとするから解り難い。
観音菩薩を祀る銀閣であると言う事だ。
銀閣の建物の前に広がる砂は海の様でこれは銀でできた灘、
つまり銀沙灘(ぎんしゃだん)と言うそうだ。
そしてその中にある富士山に見立てた砂饅頭を向月台(こうげつだい)と言う。

(銀閣と銀沙灘と向月台)

(銀沙灘)


二階には花頭窓(かとうまど)があるらしいが、
一階にあったものがどうやら同じ花頭窓のようだ。
説明より、百聞は一見に如かずでご覧いただきたい。

(花頭窓)


銀沙灘の左に見えるのが、パンフレットによると本堂であるが、
京都見学の学生も素通りしているから、
きっと銀閣寺の本堂ではなく、東山慈照寺の本堂に違いない。(笑)

(銀沙灘の左横が本堂か)

(庭園から眺める銀閣はさすが世界文化遺産)

(屋根の上の鳳凰)

(銀閣を守る屋根の青銅の鳳凰)


今や修学旅行は、一昔前とは違って、
五人一組になって観光タクシーでの京都見物である。
これなら、迷子になる心配をして、大勢の生徒を数える暇もいらず、
ガイドの運転手さん任せで過ごせる。
引率先生の手間も省けて、先生は先生で別メニュウの観光が出来る、
修学旅行も、気楽な旅行になった。
どうも公務員が考えそうな企画だ。

大変なのは費用が馬鹿にならない親御さんたちである。

銀閣寺を出ると、「哲学の道」なる石標がある。

(「哲学の道」の石標」)


哲学者 西田幾太郎(にしだきたろう:京大哲学教授)が思索にふけり歩いた路。
春の小雨の中、琵琶湖疎水の脇を、
いとあわれを感じながら、徒然を想いつないで歩く。

(哲学の道)

(哲学の道2)

(哲学の道3)


・春の雨 そっと歩いた 疎水わき hide-san



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十文字の漢詩

2015年06月16日 | ひとり歩き旅
5/29付けで、次のようなブログを書いた。


《(吉水院門前と「天莫空勾践時非無范蠡」の十文字)


門前右手に「天莫空勾践時非無范蠡」と、
児島高徳の有名な十文字の漢詩がある。
この十文字は、
「天(てん) 勾践(こうせん)を空(むな)しゅうすること莫(なか)れ、
時に范蠡(はんれい)無きにしも非ず」と読む。

これは後醍醐天皇が元弘の変に敗れ、隠岐の島に流される途中、
忠臣 児島高徳が桜の木に刻んだ十文字の漢詩。
後醍醐天皇と忠義の家来 児島高徳の間にこそ理解が出来る漢詩で、
これを伝え聞いた後醍醐天皇は、感動に莞爾として微笑まれたと言われる。
このいきさつは、「太平記」に詳しいと思われる。

また。十文字の漢詩は、中国の春秋時代、
越の国王・勾践と忠臣范蠡の臥薪嘗胆の故事になぞらえて作った詩で、
その史実は、中国春秋の時代(紀元前405年から約370年間)の事らしい。》


話が少し長くなるが、悠久の中国歴史の事、我慢頂きたい。

中国の春秋時代、呉の国と越の国が争い最初は呉が負けた。
呉の国は越の国に破れ呉王は殺された。
息を引き取る前に、息子の夫差を呼んで、
(夫差よ、お前の父は越王・勾践に殺されたことを忘れるな。)
と言い残して果てた。その時王子の夫差は、
(三年以内に、越の国に勝ってみせます。)と答えている。
その気持ちを忘れないように、柔らかい蒲団の上で寝ないで、
薪(たきぎ)の上に起き臥しをした、と言う。
これが臥薪嘗胆(がしんしょうたん)の「臥薪」の意味だ。

月日が経ち、
内政を整へ呉の国は富国強兵に努めた。
これを見た越王・勾践は、呉国を完膚無きまでに叩こうと、
兵を進めたが、強兵の呉にかなうはずもなく、
越王・勾践は、雲霞のような呉の大軍に囲まれ
惨敗し捕虜となった。

今度は越王・勾践の首が飛ぶ時である。
勝者は敗者の首を刎ねるのが決まりになっていた。
しかし勝者の呉王・夫差は敗者の越王・勾践の首を刎ねなかった。
それは越の忠臣・范蠡が手を回しておいた絶世の美人・西施が、
呉王・夫差に進言して、勾践の命だけは助けられた。
実は、この美人・西施は越王・勾践の家来・范蠡が
呉国に送り込んだ内通者(=スパイ)であった。

こうして今度は越王が呉に復讐する番である。
越王・勾践は部屋に肝(きも)を吊るし、坐臥するするたびに、
必ずこの肝を舐めた。
呉の国を破る復讐心を忘れないためである。

肝は苦い。
その苦味が復讐心をあおったのである。
これを臥薪嘗胆の「嘗胆(しょうたん)」という。

しかし呉王・夫差は、越王・勾践を許す代わりに、
越の忠臣・范蠡を人質に取った。
こうすれば越の国は立ち上がれまいと考えたからだ。

所が、范蠡は越王・勾践に自分のいない間の内政や軍事について、
事細かく王に進言して、人質となった。
越王は呉王の臣下のように振る舞いながら、
越国を治め強国へと導いた。

やがて、范蠡の内通者西施が呉王に進言して、
范蠡を越国に生還させた。

呉王・夫差は覇者を気どり、あっちこっちに出兵し、
国力が衰えた時、越国から戦火が上がり、
呉国が敗戦し越王は呉王の首を刎ねた。

ここまでは中国の歴史書「史記」に書かれている。
児島高徳が書いた十字の漢詩は、
(范蠡は呉に敗れた越王・勾践を助け、呉を滅した忠臣で、
天は勾践を見捨てない、時がくれば范蠡のような忠臣が出て助けてくれる。
南北朝時代、児島高徳(こじまたかのり)が捕らわれの後醍醐天皇に、
自分の志を示すため桜の幹に書いたもの)である。


十文字の漢詩は、
「天莫空勾践時非無范蠡」で、
「天 勾践を空しゅうするなかれ、時に范蠡無きにしも非ず」と読む。

後醍醐天皇を「越王・勾践(こうせん)」になぞらえ、
児島高徳自らを「勾践」の家来「范蠡(はんれい)」に例えた詩である。

「後醍醐天皇、もはやこれまでと諦めることはありませんよ、
范蠡のような忠義の士が居ないとも限りません」の意味であろうか。






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吉野山 観て歩る記 4(竹林院)

2015年06月12日 | ひとり歩き旅
(竹林院)
吉水神社の一目千本で吉野山の青葉を堪能して、
更に上の方に進む。
ここから上り坂はかなり急で、
この坂の先へは、次回来た時にしようかと思ったほどであった。

しかし、大勢の人たちが坂上から降りて来るところを見ると、
この坂の上に、もっと素晴らしい何かがあると勝手に決めて、
重い足を運んだ。
(喜蔵院)

(桜本坊)


坂の途中左手に曰くありげな「喜蔵院」、
もう一つ先に「天武天皇、持統天皇勅願所 桜本坊」がある。

さらに先の右手に目指す「竹林院」があった。

(竹林院の門)

(宿坊玄関の扁額)

(護摩堂)


竹林院縁起によると、
(聖徳太子が開創して椿山寺と称する。その後義経が逃げてきたとき、
頼朝より追討の書が当院に送られてきた。
南北朝対立の後、後小松天皇の勅命により竹林院と改称さる。
庭園は群芳園と言い豊太閤吉野観桜の時、千利休が築造したもので、
桃山中期の名園で大和三庭園の一つと言われる。(後略)
竹林院の「護摩堂」には、本尊の木造彩色不動明王像を中心に、
同じ造りの役行者像、蔵王権現の3尊が安置されていると言う。

現在は、吉野山 名園の宿坊「竹林院群芳園」として知られる。
早い話、由緒ある旅館ですね。
(*)大和三庭園は当麻寺「中の坊」、大和小泉 「慈光院」の庭、竹林院群芳園。

(竹林院群芳園)

(群芳園宿坊)

(その玄関と庭園入口)

(庭園入口)

(庭園)

(山上の借景庭園)

(天人の桜)

(奥から見た庭園)

(山上への登り口にある苔むした東屋)


山上には、お堂やら、新古今和歌集にある 藤原雅経の歌碑があり、
上から見渡す景色もまた格別であった。
藤原雅経の和歌は、

・み吉野の 山の秋風 さ夜ふけて
           古郷寒く 衣うつなり
と読める。

(山上の藤原雅経の歌碑)

(山上のお堂)

(山上から見た宿坊)


山から下りてきたところに、西行法師の歌碑があった。

・吉野山 こぞのしをりの 道かへて
       まだ見ぬかたの 花をたづねむ

と読むようだ。

(西行法師の歌碑)


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