楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生  ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」 山本有三

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本陣として要求されるもの(中山道番外記 16)

2008年08月22日 | つれづれなるままに考えること

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URL:http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2008/08/post_7532.html



(小説「夜明け前」を読んで)

前回、下諏訪宿の本陣について記述しましたが、
「夜明け前」の主人公青山半蔵が父吉佐衛門から家業を受け継ぐ時に、
本陣の必要事項について述べている。(「夜明け前」第一部第八章参照) 

(その要件は、
1.諸大名の乗り物をかつぎ入れる広い玄関
2.長い槍を架けるところ
3.厩(うまや)
4.消防用の水桶
5.夜間警備の高張りの用意
6.いざというとき裏口へ逃げられる厳重な後方の設備
などなどである。)「夜明け前」より

最後の6番は、要件としては滑稽に見えるが、
重大事であったに違いない。
たとえば、寺田屋事件(これは本陣での出来事で無いが)など、
裏口にスムースに逃れる設備があったら、
見事に裏口から逃げおおせたかもしれない。

(「本陣」とは、その言葉が示すとおり、戦時における「陣屋」の意匠である。
諸大名は、食器から寝具まで携帯する大名はむかしの武人の行軍を意味する。
したがって宿には、必ず陣中の幕が張りまわされる。
大名以外には、公家、公役、武士のみが宿泊できる。

畳を新しくする、障子を張り替える、
時には壁も塗り替えるなどして、権威ある人を迎え入れる。

さらに屏風何双、手燭何艇、火鉢何個、タバコ盆何個、幕何張り、
それに供衆何十人前の膳飯の用意をする。)「夜明け前」より。

参勤交代などあるときは、おおわらわの忙しさであったろう。
時には、畳表も替える必要があったようだ。
現に、皇女和宮がご休憩のあった小田井宿では、小用所、大用所の
畳を取り替えたと記録されている。
《本陣家の厠(かわや)(旧中山道を歩く 117)参照
http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2007/09/post_ff12.html 》

なんだか忠臣蔵の浅野匠頭が吉良上野介に意地悪されて、
畳表100畳分を一晩で換える場面が思い出される。
高貴な人が来ると畳どころか壁まで塗り替えなければならないとは・・・
これが宿泊する宿場の本陣全てに当てはまることなるのだから、
その費用の額は窺い知る事が出来ないほどであろう。
自分より前に宿泊した大名と同じ畳に寝させるわけには行かないと
家臣が考え畳を取り替えさせるのであろうか?

もっとも、現代でもすぐに替わる総理大臣の車も総理が代わるたびに、
新しい車と替えなければならないのに良く似ている。
ガラスはもちろんの事、周りの鉄板をも銃弾が通り抜けないように、
加工してあるから、優に数千万円は掛かると言う。

前の総理が短命内閣だったからとか、
主義主張が違う総理だったからとか、
理由はいくらでもあるらしいが、
同じ車には乗りたくないらしい。

自動車を納入するお店はホクホクモノだし、
総理の気持ちは解らないではないが、なんか無駄で、
もったいないと思うのはボクだけだろうか?


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水戸藩の尊皇派「天狗党」(旧中山道番外記 15)

2008年08月11日 | つれづれなるままに考えること


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URL:http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2008/08/post_91c2.html


(水戸天狗党)

和田峠を越えて、
下諏訪宿に入る手前に「浪人塚」なるものがある。
水戸浪士のお墓である。
(旧中山道を歩く 143)で述べた。
(http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2008/08/post_df14.html参照)

水戸徳川家の侍は、二つに分かれた。
一つは王室尊崇の尊皇攘夷派を誠党、
他方の徳川将軍家擁立派を奸党と呼んだ。
誠党を天狗連と呼ぶ。

水戸浪士天狗連は、軍馬150頭、兵糧方、賄い方、雑兵、歩人等
千人越えの人数であった。

これが幕府へ意見すべしと、
京都方面に向かって中山道を進軍し始めたことが幕府方を狼狽せしめた(慌てさせた)。

和田宿から下諏訪宿の間の木曽街道の一部を戦闘区域と定め、
峠にある東餅屋と西餅屋に住む住民を退去させた。
ここ和田峠で水戸浪人千有余人と諏訪藩と松本藩が迎え撃つ段取りを取る。

幕府から援軍を要請された上田藩、松代藩、小諸藩は、
要請に応じたが間に合うように発進しなかった。
また、水戸よりの追討軍は発信していたが接触を避け、
一定の距離を置いて追尾したので援軍とはならなかった。
それほど幕府の権威は地に落ちていた。

水戸浪士組と接触した諏訪藩と松本藩は、
水戸浪士の奇襲に遭って退却、
この戦で水戸浪士隊戦死者17名、
諏訪・松本藩戦死者十名という。

浪士隊が西下すると言うので、
住民は、女子供はもちろん、
家財は戸障子まで土蔵にしまいこんだ。
浪士隊の面々は、幕府のいう賊徒・不忠者で、脱走者・浮浪の徒と噂されたが、
下諏訪宿で一夜を過ごした時、
宿場で定められた旅籠銭一人当たり 弁当用ともに250文ずつ支払い、
規律正しく通行した。

時に元治元年(1864)11月19日であった。

下諏訪からは斡旋するものがあり、伊那へ抜ける間道を通り、
在来の各藩、高遠藩・飯田藩その他の藩との無用な接触を避けた。
最後は徳川将軍に意見を申し入れること叶わず、
金沢藩に囚われの身となり、
その殆どは水戸に送られ、処分される憂き目に遭った。

後に高島藩(*)はここに塚を造り浪士軍の戦死者を祀った。

それが浪人塚である。

(*)高島藩とは、近江高島藩のことで、諏訪に飛び地として領地を持っていた。

以上水戸天狗党について「夜明け前」第一部第八章を読んでの要約です。
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藤村の「夜明け前」(旧中山道番外記 14)

2008年08月08日 | つれづれなるままに考えること


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http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2008/08/post_318c.html


(夜明け前)
三人の姉たちが藤村の詩集に熱を上げて、
しきりに暗唱をしていたのを思い出す、
ボクが高校生のころのことであるから、もう55年も前のことである。

その詩が載っている全集は島崎藤村とあって、
赤い厚紙の表紙でずいぶん分厚い本であった。
一部詩集になっており、ほかに「夜明け前」「破戒」、
今は記憶がないが、そのほかに数編の小説が掲載されていたように思う。

姉たちが暗唱して口ずさみ、ボクの記憶に残った詩は、
「まだあげ染めし前髪の・・・」であり、また別の詩は
「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ」であった。
ページをぱらぱらめくっていくと詩集があり、
ボクが聞き覚えた詩は、「初恋」であり「千曲川旅情の歌」であることを知った。

さらにページを繰ると「夜明け前」と言う名の小説があり、
そうとうな長編であったという記憶が残っている。
姉たちが口ずさんだ詩の内容から、
高校生のボクには「夜明け前」は、かなり難しそうな小説に思えたので、
いつかは読もうと思っていたが、長いこと忘れていて読む機会を逸していた。

中山道を一人で歩いて長久保宿まで来て、
いよいよこの先は木曾街道と思うと、
有名な一節「木曾はすべて山の中である」が思い起こされて、
藤村の「夜明け前」を避けては進むことができなくなった。
図書館で本を借りて読んでみると、
高校生時代に勝手に難解と思い込んでいた「夜明け前」は、
実は非常に解りやすいやさしい文章で書かれている。

こんなことなら
高校生時代の暇がたくさんある時に読破していれば、
中山道を歩くのにいろんな参考になることが書かれていて、
当時を理解するうえで参考になったのにと悔やまれる。
なぜなら、今は残された時間を思うと、
一刻も無駄にしたく無いと思うからである。

さて「夜明け前」であるが、何を意味しているかというと、
「文明開化の夜明け前」をさしている。
ペリーの黒船来航から始まる日本の動揺、安政の大獄、
寺田屋事件、尊皇攘夷、薩摩と長州、会津と水戸、桜田門外の変、
水戸浪士組、新撰組など。

徳川幕府の崩壊から江戸城無血開城、天障院篤姫、
皇女和宮の話など、激動の時代について、
木曾から美濃までは「夜明け前」を読めば
歩くこともなさそう思えるようになってきた。

昔から、ベストセラーになる小説は時代を背景にしたものが多い。
群雄割拠時代の「太閤記」、古くは「太平記」「平家物語」など。
「夜明け前」が幕末から明治の開化までの歴史小説として、
民間人を主題にしてベストセラーになった小説であることは十分うなずける。

太平洋戦争の時代を背景にした長編小説の傑作はどれであろうか?
どなたか手を挙げて創作されてはいかがであろうか?

ベストセラーになるのを請合います。
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